第2話

 取引先への連絡で、今日の業務を終えて、赤い電車に乗り込む。

 だいたい30分くらいの通勤時間は、車窓から住宅街を眺めているうちに、仕事優先の頭からプライベートの頭へとグラデーションが変わっていく。そして完全に切り替わるのが、いつものバー「霧島」で飲み始めるときだ。今日も一人暮らしの部屋に帰る前に、バーに寄ることにした。

「あ、ケンさん。いらっしゃいませ。だいぶ冷えるようになってきましたね」

 まだ先客がいないので、マスターと向かい合ってカウンターに座る。5人ならんで座れる程度の小さなカウンターだけれど、それ故に落ち着いて飲めるバーだ。

「まあ12月にも入りましたし。とりあえず、生で」

「かしこまりました」

 マスターはいつもの手つきで、ビアサーバーからグラスに生ビールを注いでいる。

 このバーがマスターの何件目のお店なのかは知らないが、マスターの今の理想の形なのだろう。このバーが並んでいる商店街では目を引く、和風の外観になっているのだが、表には看板も出していない。一見さんお断りの小料理屋のようだ。

 通りに面した窓には障子が入っていて、外からは中が見えない。ここに何も知らないで入るのは、さぞや勇気がいると思う。そういう自分は、マスターが前にやっていたお店からの付き合いなので、そういった苦労はなかった。

 店内も和風だ。カウンターテーブルには小さな畳が敷かれている。テーブル席もあって、囲炉裏がテーブルになっている。でも実際に使っているところは見たことがない。照明は暗い目で、カウンターに3つキャンドルが並んでいる。

 すっと目の前に、おしぼりとガラスの小さな灰皿が出てきて、コースターも置かれ、ビールの注がれた薄いビアグラスが置かれる。

「おつかれさまです」

マスターの落ち着いた声とともに、マスターと乾杯した。

 薄いグラスからは、小さくカチッという音しか鳴らない。グラスから生ビールを一口飲んで、一息ついて、たばこに火をつけた。

「何か食べてきました?」

「いや、まだですよ」

「パスタでもお作りましょうか?」

「じゃあ、お願いしようかな」

「かしこまりました」

 マスターがガスコンロに火をつけて、お湯を沸かし始める。

 マスターの年齢は何回か聞いたことがあったと思うが、年齢を人付き合いの基準にしないので、よく覚えてない。確か6、7歳上だったはず。

 真面目に仕事をしているマスターは、いわゆる細身で長身、中年太りもしていない。顔立ちは芸能人に似ていて、なんていう人だっけ。

 女性はBのつく3つの職業(バーテンダー、美容師、バンドマン)の男性に騙されてはいけないという話を聞いたことがあるが、マスターならどんな女性でも口説けてしまう気がする。

「今日はいいのが手に入ったんですよ。期待しててください」

 マスターは何かを冷蔵庫から出して、カウンターの影で見えないが、何かを包丁で切り始めたようだった。

 後ろでバーの引き戸を開ける音がした。

「あら、ケンさん。早いね」

 自分と同じく、このバーの常連の紫垣沙也加しがきさやかだった。

「さやさんも、今日は早いね」

「今日は、どこにも寄ってないからね」

コートを脱いでイスに掛けた紫垣が、隣の席に座った。 

 紫垣は、大手の丸大百貨店の高級ブランドを扱うショップ店員だ。いつも明るく元気で前向きな性格だし、常連さんの間でも好かれている。仕事でどのくらいお客さんが付いているのかは知らないが、きっと職場でもみんなに好かれているのだろう。

「何にしましょうか?」

 マスターが、おしぼりとコースターを出して、紫垣にたずねた。

「じゃあ、ウォッカトニックで」

「かしこまりました。ところでさやさん、何か食べてきました?今ケンさんにパスタ作ってるところなんですけど。さやさんの分も作りましょうか?」

「お、いいですね。私、おなか減ってます」

「期待していてください」

 マスターが、さっきよりニヤリとしながら返事した。

「ちなみに何のパスタなんです?」

 僕が疑問に思ってたずねた。

「期待していてください」

 マスターはニヤニヤしながら答えた。

「おいしいの作ってくださいね」

 と紫垣が付け加えると、

「期待していてください」

 ちょっとかしこまったマスターの返事。こうなってくると、マスターのおふざけが始まっている。作るお酒の味や、料理の味はふざけたことにならないので、期待して待つしかない。マスターはパスタの前に、ウォッカトニックを作り始めた。

「来年のイベントを、もう考えないといけないんだけどさぁ」

「そっか、何やるの?」

 紫垣がケロッと返事をした。

「いやそれを考えるんだけど、40周年だから新しいことを考えたいんだけど、何も思いつかなくて......」

「じゃあケンさんの趣味とかで考えれば?」

「うーん、釣りはまだ経験が浅いし、続いてるのは写真を撮ることだけど、カメラの催事販売は他でやってるとこあるし」

「私だったら、雑貨やるな。北欧の」

「お待たせしました」

 マスターがウォッカトニックを紫垣に差し出した。

「「「おつかれさまです」」」

 言葉が重なって、3人で乾杯した。間を置かずにマスターが言った。

「小さい頃に興味があったことを思い出してみるのも、いいかもしれませんよ。大人になると時間はなくなるけど、お金は使えるようになるわけで」

「小さい頃ですか?僕、あんまり小さい頃の記憶無いなぁ。そういうの覚えてるもんですか?」

「親に聞いてみるといいと思いますよ。親はね、そういうのすごく覚えているものです」

「さやさんは、小さい頃のこと覚えてる?」

 僕の質問に、紫垣がウォッカトニックを飲んでから答える。

「私はね、看護婦さんごっこしてた記憶がある」

「それは職業になるね。お客さん相手に商売しているのは、販売員と似たようなところが多そう」

「そういえば最近ね、道ばたで座り込んでいる人を介抱して、救急車呼んたら、「あなたは看護婦さんですか?」って聞かれちゃった。あたしって、白衣の天使に見える?」

「親切に介抱されたら、そう思うかもね」

「そうなんだ。ふふふ」

 紫垣は僕よりひとつ年上だが、二十代後半でも通用するくらい、若く見える。でもこうやって話をすると、年上の余裕を感じさせていたりするので、不思議な女性だ。

 マスターはいつの間にか、料理に戻っている。パスタ茹で上がって、フライパンで何かを炒めているようだ。炒めているのが、2、3メートル先なのに、換気扇が強いのか、炒めている香りはこちらまでやってこない。

「いいアイデアが出るといいね」

 紫垣がウォッカトニックを飲んで言った。

「まあでも、新しいアイデアじゃなくても、お客さんが喜んでくれるなら、これまでのアイデアでも良い気もしてきたなぁ」

「でも新しいアイデアで、新鮮に喜んでもらえたら、うれしいじゃない?」

「まあ、それはそうなんだけど、やっぱり新しいかぁ... 」

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