異世界で媚薬を飲まされるだけの簡単なお仕事

 「そーろそろ元気になったかなっ」

 そう言ってアドニスがおれのところにきたとき、もう彼を警戒しなかった。

 ぐあいを悪くしてから三日がたち、おれはすっかり体調がよくなっていた。気候にも慣れつつあった。ダークエルフたちの顔と名前もだんだん一致するようになってきていた。

 なかでも、アドニスは感じがよくて、いちばん頻繁に様子を見にきてくれたのが彼だった。だから、彼を疑いつづけるにはおれはどうもお人好しすぎた。

 「珍しいお菓子があるんだ。部屋に遊びに来ない?」

 「ああ、いいね」

 「それで……。他の人には黙っておいてくれないかな」

 「どうして?」

 「外国のお菓子だからだよ。ここは輸入品にいろいろ制限があってね。異種族の文化をあまり帝国の中に入れないように……」

 「禁止なの?」

 「建前上はね」

 アドニスはいたずらっぽく笑う。

 「ま、褒められたことじゃないってことさ。いい?」

 「いいよ」

 アドニスは白いシャツに似た服を着て、水色の貴石でできたカフスボタンをつけていた。シャツはえりの大きくあいた、腰まわりが細くなる仕立てだ。

 彼らの、ほとんど女の子に見える外見も、違和感はずいぶん軽くなっていた。別の種族に慣れるのは、けっきょく外国人に慣れるようなもので、その種の柔軟性はあった。

 アドニスはおれのベッドに座って話していたが、ダークエルフのもつ独特の距離感にも慣れつつあったので、それもあまり気にならなかった。やたらと肩に手を置いたりしてくるが、体育会系だと思えば人間でもいる。

 おれはおれなりに、なるべく彼らに溶けこもうとして、そういう文化の違いみたいなものは気にしないようにしていたのかもしれない。

 「ルカには絶対言わないで。彼はそういうのキライだから。じゃあ、夕方に迎えにくるから……」

 そう言って彼が立ち去ったときも、夕方が待ち遠しく感じられるほどだったから、もちろん、彼の話をルカにするつもりはなかったし、ほかにも黙っていた。

 おれはアドニスをすっかり信用しきっていた。

 彼は品がよくて、あどけない感じだった。

 新興の商家の家柄らしく、他のダークエルフのような気取りがなかった。ウィルなどの使用人たちへの態度もやわらかで、むしろ使用人たちは優しくあつかわれることに困惑しているように見えた。

 しかし何よりうれしかったのは、おれをやたらと異世界人あつかいしなかったことだ。彼は、回りと同じようにしろとおれに求めなかった。おれになにも押しつけないダークエルフは彼がはじめてだった。

 だから、おれが友情を望んでも無理はあるまい。

 彼を信用しないのは無理だった。



 言われたとおり、夕方にアドニスが迎えにきた。

 彼について部屋に行くと、キオが現れたので、びくりとした。

 「体調はよろしいのか」

 「あ、ああ……」

 「それは何より」

 キオはちょっと気の許せる相手ではない。彼は初対面でおれをいきなりベッドに押したおした人物なのである。ただし本人は善意。

 部屋に入ると、マルコがソファでくつろいでいた。

 マルコは大人しそうだから安心できる。メガネっこだし。そう思ったおれは彼のとなりに座ることにした。キオは小さなテーブルをはさんで向かいに座っている。キオからなるべく離れたかったのだ。

 だが、この位置どりが、実際には最悪だった。

 「きみにとって珍しいものだったらいいんだけど」

 アドニスが戸棚の奥のほうから、ふたのついた磁器をいくつか出してきた。彼はそれをテーブルに並べる。中には菓子が入っていた。

 クッキーや菓子パンに似たケーキ、ナッツの粉を練った菓子があった。驚いたのはチョコレートがあったことだ。木箱におさまっていて、熱で変形しているが、間違いなく型どりしたチョコレートである。

 「チョコだ……」

 「食べたことある?」

 「もといた場所で」

 「そう、驚くと思ったのに」

 アドニスは少し残念そうだった。

 おれはチョコを口にふくむ。おれの世界のものより食感はざらざらしている。なるほど、マイクログラインド製法がまだないのだ。

 「絶対黙っててよ」

 マルコが口に指をそえる。

 「禁制品だから。チョコレートは」

 「そうなの?」

 「耽溺性があって身体に悪いって、中毒になるって」

 「しょせん菓子だ。ハイエルフとの交易があまりさかんになると都合が悪いから、禁止されてるだけである。材料や製法はわれわれにはよく分からんが……」

 キオが多少言い訳めいた調子で言う。

 「そう毒でもなかろう。たぶん」

 「お茶入れるね」

 マルコがお茶を用意してくれた。紅茶だった。

 お茶のためのティーセットは、これまたおれのいた世界のものによく似ていた。白い磁器の下半分に、青でびっしりとつる草のような模様が描かれて、ふちは金彩で彩られている。糸で描いたような精密さであった。

 「これもハイエルフの作ったやつ」

 マルコはそう解説する。

 ダークエルフはハイエルフを忌み嫌っているようだが、実際には文化はこうやって入ってきているらしい。本音と建前というやつである。

 「表向き使わないけど、みんな実は持ってる。ハイエルフの製品」

 「工芸に関しては向こうのものはいい、仕方ない」

 「ダークエルフの品より、ハイエルフの品のほうがハクがつく」

 アドニスはそう言って笑い、紅茶を注いでくれる。

 紅茶は最初から甘かった。砂糖か、別の甘味料がすでに入っていた。

 いくらか味に違和感はあった。

 少し苦いかな。と思ったが、熱かったから、これも疑わなかった。



 「ウッドエルフとコボルトが密輸してくる」

 アドニスがチョコを指さす。

 「ハイエルフとウッドエルフはけっこう取引しているから、チョコレートはこの国以外では問題ない。それをコボルトが持ちこんでくる。彼らのちょっとした副業」

 「ふーん」

 「コボルトは労働者としてどこにでも出入りするし、旅してても怪しくない。だいたいのコボルトはかなり真面目だから、番兵も信用する」

 おれはチョコレートをモグモグ食いながらあいづちを打つ。

 「だいたい同じ重さの金ぐらいの値段かな、チョコレート……」

 「ウッ」

 チョコがのどにつまる。

 おれがさっき食った分だけで、金のネックレスが何本か作れる量である。

 「末端価格だとそうなる」

 キオがくつくつ笑う。

 「もとはそんなに高くもないはずなのだが」

 「大事に食べないと。貴重だし」

 マルコがおれをじーっと見ている。

 はい、すいません。

 食い過ぎました。

 おれは紅茶をぐびぐび飲んだ。

 「おいしい?」

 マルコがおれの顔をのぞきこむ。

 「そう、よかった。もうちょっと飲んだ方がいいかもね」

 マルコはおれに紅茶をぐびぐび飲ませる。



 「ねえねえ」

 アドニスがニヤニヤ笑いながら、おれに肩を寄せてくる。

 「キオから聞いたけど、やったことないんだって?」

 「ウッ」

 おれにとっては避けたい話題だった。

 「どーてー」

 マルコがおれを指さす。

 やめろやめろ!

 「なんで?」

 「なんでといわれましても」

 「性欲がないの?」

 アドニスは不思議そうだ。

 「くっ……」

 おれは唇をかむ。

 性体験がない理由が、性欲がないから、ぐらいしか考えられないその状況がどれだけ恵まれたものか、彼らにインターネットを見せて教えてやりたい。そんな衝動に駆られた。もちろんネットはないのだが。

 「なんでミフネについていこうと思ったの?」

 「褐色の乳にひかれたからです」

 「なんだ、なら性欲はあるんだ」

 「よかったよかった」

 マルコは笑顔だ。

 「ね。よかったね」

 「ねー」

 「そうそう」

 彼ら三人は、にこにこと互いに同意しあう。

 「薬も効いてきてるみたいだしね」

 「は?」

 「この紅茶に入れたやつ」

 マルコは小瓶をとりだす。

 中には緑色のどろっとした液体が入っていた。

 「これも……ウッドエルフから輸入」

 「非公式にな」

 キオはにやにや笑う。

 「毒じゃないからさ」

 アドニスは手をぱたぱた振る。



 なんだ……これは。

 身体の感覚が急に変わっていた。

 熱かったし、それもみょうな熱さで、風邪を引いてるときに似ていたが、気分はそう悪くなかった。

 胸がくーっと締めつけられたようになってくる。手を当ててみると、心臓がバクバクいっている。

 舌がしびれて、のどがつまったような感覚があった。身体がカラ回りしているような感じ。

 「な、何を飲ませたんですかッ」

 「なんて言うの? あれ」

 マルコがアドニスの顔を見る。

 「媚薬かな」

 「そう。それ」

 マルコがおれの脚に手を乗せる。

 「ひっ……!」

 おれは反射的にはねのけた。

 そのときの感覚をうまく言葉にすることは難しい。

 ただ、感触をものすごく強く感じたのだ。

 全身の皮膚を集めて合計したよりも、もっと強い感触を、ひざに手を置かれただけで感じたのである。

 「あはは」

 マルコはとても楽しそうだった。

 「あ、ちょっと効きすぎかな……」

 「人間、拙者らより薬に弱いのかもな」

 「いいじゃん、これぐらいで」

 マルコは、んふー、と、これまで見せなかったような笑顔をうかべる。

 おれは動けなかった。

 身体に力が入らない。

 「まだはじめる前だよ」

 マルコはおれの頭をだきかかえると、耳を口にふくんで、舐めはじめた。

 「あー! ちょっと! やめ! やめて!」

 大声を出したかったが、声が裏返っていた。

 舌がしびれてろれつが回らないのである。

 「やめ……ろ!」

 声を出し続けるのが難しいぐらい強烈な感触だった。

 しばらくそれが続いてから、彼はおれの耳からふいに口をはなす。

 「あっ」

 思わず声が出た。

 それから、彼はおれの耳に息をふうっと長く吹きかけた。頭に金属をさし込まれたような感じがして、背骨がぞくぞくした。

 感覚が強烈すぎる。正気を保つのがむずかしい。そう感じた。

 「薬のせいだって、全部、薬のせいにしちゃえばいいんだ」



 「くそっ……強い」

 マルコはおれをやすやすとねじ伏せていた。

 「……力強い」

 おれは彼に抵抗し、力比べのような状態に持ちこんだが、まるで巨木を押しているようなむなしさがあるだけだった。

 「もっと力出して……」

 マルコの腕はおれのそれよりずっと細い。なのに鉄の塊のようだった。

 「人間、腕力なさすぎ……」

 マルコはおれを見おろし、ゆっくり重い息をしている。

 彼は紅茶のカップを手にとり、小ビンの薬をボタボタ垂らして、それを自分で飲んだ。

 「ぼくらより外見ごついのに、簡単にねじ伏せられる。……いい」

 「よくないですよ!」

 「きみ、マルコの趣味にぴったりだ」

 ねじ伏せられたおれを涼しげに眺めながら、アドニスが言う。

 「カレね、自分よりごつい男が好みなんだ。それを薬づけにして強引にねじ伏せるのが……いいんだよね?」

 「そうそう。最高」

 マルコは舌なめずりしている。

 「だから、アドニスに頼んで、こうしてもらった」

 「いやああああ!」

 「大丈夫、クスリ、いろいろあるから」

 「何が大丈夫なのかわかりませんッ!」

 マルコはそわそわした動作で、小瓶のいっぱい入った布張りの箱をとりだす。

 「はあはあ……」

 マルコは初めて会った時の雰囲気とまるでちがっていた。メガネの奥の瞳が、興奮でらんらんと輝いている。コワイ!

 彼はそわそわした手つきで、インク瓶のようなものをとりだす。中には油っぽい白いものが入っている。ワセリンとかヘアワックスみたいなものに似ている。イヤな予感がした。

 「な、なんですかそれ!」

 「お尻の筋肉マヒさせるやつ。初めてでも大丈夫」

 「はじめてって何がですかッ!」

 「肛門性交」

 「何でもするからやめてくださいッ!」

 「何でもするの?」

 マルコははあはあと胸を上下させて、うれしそうにおれを見る。

 「口で」

 「エロ以外でお願いしますッ」

 「キオ……押さえてて」

 「す、すまん。許してくれ」

 キオがおれに近づいて、おれの両手首をつかんで、バンザイの格好でソファに押しつける。

 アドニスは一歩離れて、おれを楽しそうに眺めている。

 「キオ! やめてくれよ!」

 「すまぬ。すまぬ。い、いろいろな……拙者らの間にも、なんというか。その。力関係というものがな…………」

 キオはマルコのほうをちらと見る。

 「ちゃんと押さえてて、キオ」

 「わ、わかってる」

 キオはおれを押さえつける力を強くした。

 「すまん。もうマルコには逆らえんのだ……」



 「あれだよ。ほら、骨抜きってヤツ」

 アドニスがにやにや解説する。

 「キオくん、完全にあれだから。人間にそういうのあるか知らないけど、いじめられるのがすっごく好きなんだ。知らない人と会うと気が強いんだけどね」

 「マゾなんですかこの人!」

 「あ、そういう言い方するんだ」

 「す、すまんな。逆らえぬようにもう拙者は色々と仕込まれていて」

 キオはにやけた顔で息も荒い。

 「犬も同然なのだな」

 キオは、情けなさと快感が一体になったような、かなりすごい顔をした。

 「マルコに命令されるだけで、気持ちいいというか」

 「完全に調教されちゃってるから、カレ」

 「性癖ッ! この人たち性癖おかしい!」

 「いやいや」

 キオはまっすぐな目でおれを見る。

 非常にピュアな視線だった。

 「一目見たときにわかった。貴君はまちがいなく拙者と同類」

 「おれはマゾじゃありません」

 「いや、絶対にまちがいない」

 「ヘンタイは同族がわかるからね」

 マルコはニヤニヤ笑って、キオのアゴを指でくいともちあげる。

 「あとでちゃんと、かまってやる」

 キオは媚びるような顔でマルコにうなずく。

 「前みたいにしてやる。泣いてもやめないからな、そのほうが好きだろ」

 「は、はい」

 「こんどは気絶するなよ」

 「……おおせのままに」

 キオは嬉しさを抑えきれないような顔をしている。

 あ、完全にダメだこの人。

 助けてくれない。

 ぜったい助けてくれないッ!

 「ま、まあ、貴殿もな。きついのは最初だけだ。すぐに」

 キオは熱っぽい目でマルコを見る。あるでしょう、エロ漫画とかで目の中にハートが描いてあるあれ、あの状態。

 もう説得不可能なのはおれにもわかった。



 「どーしよっかな、もっとキツいやつあるけど」

 マルコは何やら小ビンを選んでいる。

 「逆につまんないんだよね。使ったら一時間ぐらいイキっぱなしだから……」

 「ひっ」

 「お尻ゆるめるクスリは使わないでおこうかな。イヤみたいだし」

 マルコはにたにた笑っておれを見る。

 「たぶん超痛いと思うけどね。初めてだとぼくの、ふつう入らないし」

 目が怖かった。

 花火でアリを焼く小学生のような目だ。

 サービスでいじわるする目ではない。SMプレイじゃないほうのサドである。

 「いい声で泣いたらやめてやるよ」

 「ひっ……」

 「だめだよ」

 アドニスが言った。彼は手を小さく左右に振る。

 「死んじゃう死んじゃう」

 「ま、マルコどの。いかん、死んでしまう」

 「えー? ……いいじゃん」

 「よくないよ!」

 おれは抗議した。いちおう声はだせた。

 薬の効果が薄れているというより、身体がその状態に慣れたというほうが近い。口の中はからからで、声を出すたびに気持ち悪かった。

 「……死ぬの?」

 マルコはきょとんとした顔でアドニスとキオを見る。

 「裂けるよ」

 「そ、そうだな。ちょっと初心者向きではない」

 「血が出るくらいで済めばいいけど」

 「マルコどのに一晩中されたら死にかねん」

 「一晩中!」

 おれはビビる。

 「たぶん、貴殿が嫌がれば、彼はむしろ興奮して獣に」

 「獣に!」

 「マルコ、絶倫だからね」

 「絶倫!」

 「ものすっごい事平気でするから……しかも一晩中ばてないし。あとサイズがすごい。正直、ぼくでもしんどい。相当慣れてるんだけど。ぼく」

 アドニスがはーっとため息を吐く。

 「おまえら、おれをなんだと思って……ッ」

 「うーん、異世界から来たオモチャかな?」

 マルコがにこにこ言う。



 「あーあ、つまんない」

 マルコはちょっと興奮のおさまった顔で言う。

 おれはキオに拘束されたままだ。

 「戦争があったころとか、超楽しかったんだろうなぁ。捕虜とか、なにやっても怒られなさそうだし……殺すまでやっても尋問したとかいえばよさそうだし」

 マルコは嘆きながら身体をゆする。

 やばい。本物のサドだ。この人。

 SMプレイのサドじゃなくて、殺人鬼に近いほう。

 「なんでぼく、こんな時代に生まれたのかな~」

 しかも、頭がいい子に特有の倫理観のなさが混ざっている。

 やばい。

 コワイ!

 死にたくない!

 こうなったら……説得しかない!

 「あ、アドニス、なんでこんなことするの?」

 ほかのふたりは説得不能である。

 残る希望はアドニスしかない。

 「信じてたのに!」

 「んー、正直」

 アドニスは気まずそうにちょっとおれから視線をそらす。

 「ぼくはきみにそんなに強い興味ないんだけどさ……」

 よかった、アドニスはまだ多少はおれに同情する余地があるようだ。あまり強くないが、罪の意識は感じているようだ。

 「な、ならこんなことしなくてもいいだろ?」

 「でも……ルカが全部もってくなんて、むかつくからさ」

 アドニスの目の光がふっと消えた。

 「きみをボロボロにして……したら、ルカに泣きつくだろ?」

 一瞬で、彼は話の通じない人間の表情になる。

 「きみは絶対そうする。その時のルカの顔が見たい」

 微妙な変化だが、おれにはそれが分かった。薬のせいで共感能力が異様に上がっていたのかも知れない。

 「そ、そうか」

 とにかく、彼の感情に働きかける必要があった。

 「ルカのこと、好きなんだ?」

 「ぼくがルカのことを好き……?」

 アドニスの表情がぴくりと変化する。

 「むっかつくなあ……好きじゃないよ」

 彼の表情はビキビキと狂気じみた憎悪に変わっていく。

 あかん。

 説得、無理かも。

 「嫌いなんだ。昼も夜も、毎日、しょっちゅうルカのこと考えてむかむかしてるんだからさ。思い出すだけでもイライラする……」

 アドニスは顔をしかめてかぶりを振る。

 「き、禁句でござる」

 キオがおれに小声で言う。

 「ルカどのの話は、禁句! 絶対!」



 おれは、この世界にやってきてから、なんとか生き残ってきた。

 修羅場、ラッキースケベ、あるいはそのふたつが混ざったものを何度もくぐり抜けてきた。おもに運と他人の実力だけで。

 そういう異世界人にだけ働くカンがある。

 おれはここで、死ぬ。

 「ルカとは、もう90年ぐらい一緒にいるけどさ……」

 アドニスは顔をしかめて、爪をがじがじ噛みはじめた。

 上品な彼にはひどく似合わないしぐさだった。

 「ずっと毎日毎晩イライラしてるんだ」

 「そ、それ愛ですよ!」

 「はあ? ちがうよ。嫌いだもん……」

 アドニスはゆっくりと首を振る。自分に言い聞かせるように。

 「あー、むかつく。思い出してきた」

 彼の目は完全にすわっている。

 「やっぱ、ちょっとキツめにやろうか……マルコ、代われよ」

 「ええー?」

 「キオも、どけよ」

 ルカは押しのけて、おれの上からキオをどかした。ふだんの物腰の柔らかさは彼にはもうなかった。

 「ぼくが犯る。代われ。ぼろぼろにしないと気が晴れない」

 アドニスはおれの肩をつかんで、ふたたびソファに押しつけた。

 そしておれの顔をじいっとのぞきこむ。

 「やっぱり殺しちゃおっか? マルコ」

 その目にはたしかな憎悪が宿っていた。

 「ルカは相当恨むだろうな、ぼくを。でも、それもいいな。アリコワ家の面子を考えれば、異世界人を一人殺したぐらい、もみ消さざるを得ない。ルカはそう判断するはずだ。絶対」

 彼はおれに話しかけるでもなく、うわごとのように言っていた。

 「……彼の行動原理はよく知ってる」

 キオが横から口をはさむ。

 「アドニスどの……い、いくらなんでも、それは……」

 「黙れ」

 おれの肩をつかむ力はどんどん強くなっていた。骨が外れそうだった。

 「ルカがきみに優しくしてるの、気に入らないんだよね」

 彼は両手でおれのジャージをつかんで、指先だけで引き裂いた。

 怖かった。

 「あ、ちょっと泣いてる。ルカもこういう顔すればいいんだけどなあ…………」

 アドニスは遠くを見るように言う。

 九十年。彼はそう言った。

 おれに九十年という時間の実感はない。そのあいだにルカと彼のあいだに何があったのかもわからない。だが、一方通行の愛情が狂気じみた別のなにかに代わって、それが染みつくのに充分な時間なのだろう。たぶん

 その証拠に、アドニスはおれの服を引きちぎりながらも、おれを見てなかった。

 おれの向こうに彼が想像するルカを見ていた。

 対話、もはや不可能。

 「ぐっちゃぐっちゃに犯して、ルカの部屋に放り込んでやる。手加減しないけど、それまで生きてるといいね……」

 「ひっ……」

 「わくわく」

 マルコが楽しそうにおれの顔をのぞきこむ。

 順番待ちだ!

 殺される。そう確信した。

 こんな死に方はいやだ!

 


 ああ、そうだ! 指輪だ!

 おれはふいに思い出した。

 おれの指には、クムクムからもらった指輪がある。

 彼女は「やばいときに吹け」と言っていた。

 まだ助かる道はある!

 おれは指輪を口につけ、思いきり息を吹きこんだ。

 しかし。音は鳴らなかった。


 

 「何してる?」

 アドニスがおれの手首をつかむ。

 「なんで口に? ああ……笛になってるのか」

 彼はおれの指から力づくで指輪を奪いとった。指がちぎれるかと思った。

 「返せ!」

 「ふん」

 アドニスはそれを口につけて吹いた。

 「音、出ないな。なんだ」

 「返せよ」

 おれはアドニスに飛びかかった。

 「お、初めて怒ったね」

 あっさり払いのけられた。

 「大切なものなの? ほら……拾えば?」

 アドニスは指輪を床に投げすてた。おれは何も考えずに床に這いつくばってそれを拾い、彼を睨みつけた。

 「ずいぶん大切なんだな。だれからもらった? コボルトの細工だな……」

 アドニスはあざけるように言った。

 「ああ、そういえば、クムクムってコボルトが」

 おれはびくっと反応する。

 「きみに会わせろって毎日来てたよ。心配してたらしい」

 「それで?」

 「追い返したけどねー」

 「この野郎……絶対許さねえ」

 「ああ、ようやく怒ったな。そういう顔のほうが痛めつけがいがある。もしきみが死んじゃったら、指輪を形見として彼女に送ってやろう。どんな顔するかな?」



 地響きがした。

 ビルの解体現場みたいな音だ。

 「同族はどこだああ!」

 聞きおぼえのある声がする。

 ちょっと、期待していた声とちがったのだが、それでもうれしい。

 「あー、間に合った……」

 おれはだめ押しで、もう一回笛を吹いた。

 ごっ、と音を立てて、部屋の壁がふくれあがる。

 「っしゃおらあああああああああああ! 」

 壁が崩壊して、カタナを持ったコボルトが室内に飛びこんでくる。

 「シン!」

 「どうなってんだコラ! 弾圧かあああああああ……あれ?」

 シンはおれを見て動きを止める。

 「や、やあ。シン。なんか久しぶり」

 「ああ…………どうよ?」

 「いじめられてる……かな」

 おれは穴の開いた壁にもたれかかる。身体はまだうまく動かない。

 「助けてくんない?」

 「おまえ、ほんと平気で異種族に頼るよなー……」

 シンはおれの前にすっと立つ。

 「おれ、そこまで他人を信用して頼れんぜ、才能だわそれ」

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