々々

 十数年ぶりの札幌は相変わらずどこか余所余所しい寒さに包まれていて、妙に冷える。


 もう、秋だ。


 ただでさえ短いこの秋が過ぎれば、あたり一面、白く冷たく沈む冬が来る。

 内地の観光客にとっては珍しい幻想的な銀世界に映るのかもしれないけれど、この土地に住んでいる人間にとっては、邪魔な存在にすぎない。

 頼まなくても勝手に積もってくれる雪たちは揃いも揃ってベタ雪で、水分を吸ったソイツは重たく、ずしん、ずしんと、頭に、肩に、道端に、等しく降り積もるのだろう。

 そうしてああでもないこうでもないと愚痴をこぼしながら、雪かきに励むのだ。

 ざまあみろ。


 なんて、すっかり観光客の側になってみて思う。

 自分に降りかからない雪ほど、軽いモノは無いのだ。地球温暖化、万歳。


 羽田から新千歳空港まで飛んで一時間半。

 そこから快速電車に乗ったところで思いつき、札幌駅で下車してみたものの、相変わらず見て回る店も無い。

 駅中の店たちはどいつもこいつも若者向きで、ああ、そういえば自分が若かったころもそういう店が苦手だったなぁ。とひとりごちる。

 かといって、今から紀伊國屋書店に寄るのも馬鹿馬鹿しい。

 別に本を買いにわざわざここに戻ってきたわけではない。


 二度とこの地を踏むまい。そう決めたのはいつだったろう。

 少なくとも中学生のころには北海道を出ていくことを決めていたし、本州の大学を卒業してからは、一度も戻ってきたことは無かった。

 仕事が忙しかった。なんて言い訳をするつもりは毛頭ない。

 ただ単純に、戻るつもりがなかっただけだ。


 なるべく親から離れたかった。

 なるべく親の手の届かない所へ行きたかった。

 お互いに存在を忘れてしまい、どこか街角ですれ違ってもお互いに気がつかないような、そんなところへ行きたかった。


 そして実際、それは成されていたのだ。

 お互いに連絡を取り合うことも無く、顔を合わせることも無く、それが当たり前のようにこれまで生活を続けてきたのだ。


 そんな折、唐突に電話がかかってきた。

 携帯電話のディスプレイに表示される『実家』の文字を目にした時、それは既に予感ではなく確信に変わっていた。


 そして電話を受け取った三日後、こうして俺は再びこの地に立ったのだ。


 明日は、父の通夜だ。



     ◆◇◆





 殴られると、熱い。

 蹴られても、熱い。

 叫べば喉が熱いし、泣けば目も熱い。


 痛いは、熱い。


 そんな知りたくも無いことを子供心に植え付けてくれたのは、赤ら顔で怒鳴り散らす、若き日の父だ。


 弱い大人だった。

 弱いくせに、自分が正しいと思いこむ大人だった。

 酒に強いわけでもないのに自分は酒に強いのだと思いこみ、自分に気に食わないことがあればすぐ手を上げ、当然の権利だと怒鳴り散らす大人だった。


 もしそれが、酒を飲むたびに必ず訪れる現象であったなら、対処の方法はいくらでもあったのだと思う。

 けれど彼の場合は、いつも唐突だった。

 だからこちらもいつ噴火するかわからない父に怯えながら、けれど理不尽には理不尽と叫ぶような嫌な子供だった。


 今思えば反抗期だったのだろう。

 けれど、少なくとも当時の自分は、大人の理不尽な欲求に、理想の押し付けに、大人が正義であり子供は従わねばならないという常識に、我慢がならなかった。

 ここで何も言い返さずに頷いていては駄目なんだと、どこか使命感のようなものまで持って、応戦をやめなかった。

 けれど悲しいかな。弱い大人の息子が強いはずも無く、まして大人に子供が勝てるはずも無く、何年も、何年も、体に熱さを覚えながら生き続けてきたのである。


 加えて、母はヒステリー気味であった。

 夫婦喧嘩に包丁が持ち出されたことも少なくない。

 真冬にも関わらず叱られて、外に閉め出しを食らったことすら、数えきれない。


 そうやって酒を飲み、互いの主張を譲らず、大声で叫び、暴力をふるい、暴れる。

 そんな環境にいたものだから、小学生にして親は『恥ずかしい存在』であり、中学生になった頃には、この家を。北海道を出てやる。と誓ったのだった。


 ついでに、酒を飲まないと決めたのもこの頃だ。

 自分にはあの血が半分ずつ流れているのだ。

 そう考えると、吐き気すら催した。


 何度、自分は血の繋がらない息子なのだと願ったことか。

 けれど、年を重ねるにつれ父の面影をなぞるようになり、ああ、自分は紛れも無くコイツ達の子供なのだ。紛れも無く自分には、あの血が半分ずつ流れているのだ。

 と確信するより他なく、自然、酒を飲めるはずなど無くなっていったのだ。


 本州の大学へ入学してからは、自由だった。


 束縛を愛だと勘違いする母の手から逃れ、いつ殴られるやもしれぬと怯えていた父の手から逃れ。

 それは、紛れもなく、人生で初めて手にした自由であった。


 少なくともあの頃の自分は、それを自由だと確信していた。

 バイトをし、授業をサボり、夜中にコンビニへ行く。

 それすら自分にとっては画期的で得難い自由に違いなかったのだ。


 けれど、酒だけは飲まなかった。

 仲間内で飲み会を行おうが、二十歳の誕生日を迎えようが、周りにどれだけ勧められようが、決して酒だけは飲まなかった。


 いや、飲まなかったのではない。

 飲めなかったのだ。

 自分にはあの血が半分ずつ流れているのだ。という呪いはもはや心の奥底に住み着き、静かに呼吸をし、今か今かと牙をむく瞬間を狙っているのだ。


 それは、純粋な恐怖に他ならなかった。

 酒を飲むことで、自分の嫌悪する存在になり果ててしまうのではないかという恐怖は、どうしようもなく大きなものだ。

 だから、ふと鏡を見てそこに父の面影を見つけると吐き気がするし、アル中の父親に暴力を振るわれていたと大声で叫ぶ女が当たり前のように酒を飲んでいる姿を見ると、ああ、彼女にとっては酒とはその程度の恐怖でしかなかったのだ。と、冷めた目で見ることしかできなかった。


 少なくとも父は『アル中』ではなかったため、なおさら。


 社会人になってからは、それなりに忙しかった。

 大学時代まではちょくちょく実家にも帰って来いと連絡を入れてきていた母だったが、社会人にもなると特に何も言ってこなくなった。

 連絡がないことをこれ幸いとこちらからも連絡を取ることも無く、年に一度、年賀状のやり取りがある以外は互いに何を言うでもなく、より疎遠な。けれど、今までで一番穏やかで平和な関係が、そこにはあった。


 或いは、実家に残った弟の存在が大きかったのかもしれない。

 少なくとも弟は理不尽な暴力に怯えたことも、過保護な束縛を嫌った様子を見せたことも無く、実に仲の良い親子関係を築けていた。


 両親も、末っ子は可愛かったのだろう。

 そのことに特別何かを感じたことも無いし、むしろ同じ立場であったらと考えるとそれはそれで寒気がするため、羨んだことも無い。

 社会人になり理不尽な他人と付き合う機会も増え、むしろ感謝を感じることすらあった。

 少なくとも自分はあの頃より大人になっていたし、親を許せる気にもなっていた。


 たくさん殴られ、蹴られ、泣かされはしたが、そのおかげで今ここに立っているのだと、皮肉の一つも言いながら笑えるくらいには大人になった。


 ただ一つ、酒を飲めないことを除いては。




     ◆◇◆





 通夜は滞りなく進んだ。 


 本来喪主は長男の役割らしいことはきいていたが、何もかもが今さらな気がし、弟へと一任した。


 幸運なことに、この年になるまで身内の葬式というものに縁がなかったこともあり、通夜というのはひどく新鮮な心地がした。

 後日に告別式を行うため、足を運んできたのは身内ばかりで、どれも見知った、懐かしい顔ぶればかりであった。


 彼らからは一様に、父の若いころに似ている。と、言われた。

 そうなのだろうなぁ。と、遺影を見て思う。


 もう何年も会っていなかった父であったが、遺影の中の姿はやはり、自分と重なる何かがあった。

 これは、どこか街角ですれ違ってもお互いに気がつかない。なんてことは端から無理だったのだなぁ。と、しみじみ感じ、どうしようもない笑いが沸々とこみあげてきた。


 どうしようもなく、自分はあの父の息子なのだ。




     ◆◇◆




 通夜が無事に閉式し、通夜ぶるまいの場へと移った。


 こんな時にしか食べないであろう質素な食事が並び、しめやかな、けれどどこか晴々とした独特の空気が、場を満たしている。

 あちらこちらで父の話が細々と話され、静かに時間が過ぎていく。


 子にしてみれば理不尽極まりなかった父も、語る人によっては良い人間にも愉快な人間にもなるらしい。

 多分に世辞も含まれているとは思うが、それにしたって人に歴史ありなのだなぁと、感じさせられる。


 それと同時に、自分の通夜でも、このような光景は見られるのだろうか。などと思い、頭を振る。

 結局それが、自分の弱いところなのだ。

 何を言ったって、自分を父と重ねて物事を判断してしまう。

 自分に流れた血の呪いは、どうしたって薄まってはくれないのだ。


 隣では、同じ血をひく弟が、ちびちびと酒を飲んでいる。

 おそらく奴には、酒を飲むことの恐怖心が無いのだろう。

 或いはそんなもの、既に克服して久しいのかもしれない。

 血なんて、呪いなんてそんなもの、あるはずがない。と、笑って言えてしまう人間なのだ。


 いや、きっとその方が正しいのだと思う。

 結局、囚われ過ぎなのだ。

 ありもしない父の幻想に未だに取り憑かれ、あの拳に怯えていた頃と何も変わらず、自分は今でも怯え続けているのだろう。


 こっちが見ていることに気がついたのか、弟は手を上げると立ち上がり、手招きをしながら部屋の外へと誘ってくる。

 断る理由も無いのでついていくと、開口一番、変わらないね。と言われた。

 そんな簡単に変わってたまるか。と返すと、ほんと、そういうところが変わらない。と、苦笑。

 お前もな。と笑い返し、椅子に腰を下ろす。


 てっきり積もる話でもあるのだろうと思ったのだが、話の内容はこれから先の夜伽についてだった。

 初めて知ったのだが、通夜の夜は親族が交代で一晩中線香の火を絶やさぬように起きて、見守らなければならないらしい。

 だから、最初はよろしく。との話だった。


 面倒くさいと断ろうかと思ったが、そういうもんだからと先手を打たれて黙る。

 よく考えなくても、ここまですべて弟に任せてきたのだ。

 これくらいはやってやるのが筋というものだろう。


 夜は寒くなるから毛布だけ寄越すように言うと、どこか安心したような顔でわかった。と、一言つぶやく。

 どうせ二、三時間すれば交代に行くから、気楽にしといてくれていいよ。という言葉の後、ふと、思い出したかのように、そういえばお酒はまだ飲んでないの。と聞いてくる。

 飲んでないなぁ。とひとり言のように言うと、そっか。と、やはりひとり言のように返される。


 そのまま二、三分の沈黙が続き、ふと、父さんは飲みたがってたよ。と、ぽつりと言う。

 聞こえなかったふりをして反応も何もしないで、ぼんやりと明りの漏れてくる方に目を向ける。

 中からは食器の触れ合う音と、懐かしむような口調で語られる父の話がかすかに響いてくる。


 寒いな。

 寒いね。


 言葉少なに会話を交わし、元の部屋へと歩みを進める。

 もう、こんな時間かぁ。と、そろそろ解散の時間が迫っていることを誰ともなく弟が告げ、部屋へと先に戻っていく。


 一瞬、弟は泣きたかったのかもしれないと思い当った。

 少なくとも、大事にされていた弟だ。

 何年も顔すら見せようとしなかった出来の悪い息子とは感じるものも違うのだろう。

 にもかかわらず、全部押し付けてしまって、悪いことをしたかな。と、少し思う。


 けれど、いまさら自分が喪主なんて務めた所で、嘘くさいし、似合わない。

 適材適所というやつなのだ。


 俺は酒を飲まずに、親元を離れた。

 弟は酒を飲み、親元に残った。

 そういうことだ。


 部屋に戻ると既に片付けが始まっていて、特に何をするでもなくぼんやりと立ちつくしていると、弟が酒瓶を持ってこっちへ歩いてくる。

 曰く、夜伽の最中に飲んでもいいよ。と。

 そんなもん飲まないから代わりに烏龍茶でも用意しといてくれ。というと、弟は少し困ったような、けれど、どこか楽しそうにはにかみながら、言うのだった。


 だって、父さん、飲みたがるかもしれないし。





     ◆◇◆



 ――しん。


 と、世界が沈黙に沈んでいく。


 秋の夜は既に肌寒く、部屋に立ちこめる線香の香りと相まって独特の空気を生んでいる。


 結局弟は、酒だけを置いて部屋を出ていった。

 他の親族もとっくに帰路につき、今は一人、父の遺影の前で線香の火を絶やさぬように、じっとしている。


 退屈だった。

 紀伊國屋で本を買っておけばよかったと、後悔した。


 寝てしまわぬようにと部屋の明かりをつけてはいるが、このまま沈黙が数時間続くのでは、寝てしまいかねない。


 床から立ち上がり、部屋の中を歩く。

 ぎしぎしと床が鳴り、それ以外の音はしない。


 遺影の中の父は、笑顔だった。

 こんな顔でこの人は笑えたんだなぁ。と、しみじみ思う。

 自分の中では今も、酒で顔を赤らめ、こちらに手を上げる父の姿しか思い浮かばない。

 その時に、どんな表情をしていたのかも、普段はどんな顔をする人だったのかも思い出せない。

 ぼんやりと、父という呪いだけが、心に残り続けている。


 コツン。と、足が何かにぶつかる。


 酒瓶だった。


 ふと、これが最後の別れなのだ。と、あたりまえのことが浮かんだ。

 最後までこの父は、息子と酒を飲み明かすことは無かったのだ、と。


 自然と体が震えた。

 それが寒さなのか、恐怖なのか、悲しさなのかは分からない。

 けれど、今は、今だけは、自分を許していい気がした。

 呪いなんて無いのだと思える気がした。

 血は、もう、絶えたのだ。そんな嘘を、自分に吐ける気がした。


 最初で最後の酒だ。

 震える手で、酒瓶を手にする。


 父さん、飲みたがるかもしれないし。という声が、脳内で反響する。



 瓶の蓋をあける。手はまだ震えている。


 瓶に口をつける。喉が痛いほど渇いている。


 瓶が微かに傾き、液体が喉を潤す。


 喉に感じたのは、子供の頃と同じ、あの熱だった。


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