8 魔界――煉獄の間

 ヴァージニアにとっては、まだ腑に落ちない部分だった。

 土の中から救出した魔族の少女――リリィはパメラの膝枕の上で、時折苦しそうな呻きを上げながら、未だ目覚めることなく眠っていた。被っていた土は概ね掃ったけれど、全てが取り切れたわけではない。浮かぶ汗は細かい汚れを巻き込み、やや濁っている。

(服が……お揃いだから?)

 そうしていると、なんだか本当の姉妹にも見えなくもない。

「ねぇ、パメラ」

「ん?」

「その子とは、その……」

 聞きたいことがまとまっていないため、しどろもどろになるヴァージニア。

 でも、言葉にすることで、より鮮明に感じることが出来た。これは俗に言う嫉妬という奴だ。仲の良い友達が、自分の知らない他の子と仲良くしているところに遭遇するという、そんな場面。

「リリィは違うって言うでしょうけれど――結果的には、青い魔族から助けてもらったのよ」

「そうだったんだ……ごめん。助けに行けなくて」

「ジニーは何も悪くないじゃない。ひとりで行動したいって言ったのは、私なんだし」

「でも……」

 真っ直ぐで綺麗な人差し指がヴァージニアの額を優しく弾く。

「そんな顔しないで。ジニーはちゃんとここまで来てくれたでしょ。嬉しかった」

「う、うん」

「あの魔族は私の勇者の力が必要だったから殺すつもりはなかったと思うんだけれど、正直なところ、覚悟しちゃったね」

「勇者の力……」

「そう。もう、聞いちゃったんでしょ? 叔父さんから。黙ってて、ごめんね」

 小さい頃は、私にも色々あってねー。なんて、軽々しく言い放ってくるパメラはどことなく別世界の人間のようにも思えた。いつ如何なるときでも心を中性に保ち続けようとする。それこそがヴァージニアが感じ続けたパメラの強さ、勇者としての本質なのだろう。

「多分ね。そういう意味で、私とリリィは同じなのよ」

「同じ……?」

「そう。勇者と魔王――本人はそこまで力や家に縛られていると思ってなくても、他人から見れば、すごく歪で、根深いところまで食い込んでいるように見える。でも、自分で気付く方法はないんだよね。誰かに教えてもらったりするまでは」

「分かるような気は、する……」

「私はミュニスで貴女に出会ってから、随分と変われた気がする。だから、本当に感謝しているのよ。ジニー」

「あたし。何にもしてないけど」

「あら、そんなことないわ。村の男の子と派手に喧嘩してるジニーを見たのが最初。私の中で、何かがプツンと来ちゃったのよ?」

「え、ちょっと。よりにもよって、そこなのッ!」

 そうやって、肩を揺らし笑うふたりに対し、

「――暢気な人たちですね」

 いつの間にか、目を覚ましていたリリィがじっと見上げていた。その表情は平坦ではあったものの、憑き物が落ちたかのように、どこか清々しく感じられるものだった。

「大丈夫? リリィ」

 パメラの声に応え、身体を起こそうとした彼女だったが、どこか痛んだのか、すぐに顔を顰めて元の体勢に戻る。

「ほら、無理しないで」

「イスカ、様は……?」

「アンタが眠ってる間にヤヌシュに会って来るって。ついさっき、城の中に入っていったけど」

 ヴァージニアがそう言った瞬間、別人のように険しい表情を宿らせるリリィ。

「それでイスカ様をひとりで行かせたの?」

「え。う、うん……来るな、って言われたから……」

 ヴァージニアもそれには反対し、付いて行くことを主張したのだが、頑として譲らないイスカリオットを前に、最終的には折れてしまったのだ。

 それを見て、可憐な外見に似合わない舌打ちを打つリリィ。

「白き紋章の【勇者】は脳みそすっからかんなのかしら。今、そのふたりが会ったらどうなるか、想像もしなかったと仰るの? 穏便に話し合いが行われ、良い落としどころに収まるだなんて思っている?」

「そんなことは……」

「思ってないのだとしたら何故ひとりで行かせたのかしら! これから先、とても恐ろしいことがむごっ」

 良い淀むヴァージニアを見て、更に畳みかけようとしたリリィの口にパメラの両手が覆い被さる。

「ジニー。今から叔父さんを追いかけて。フォローをお願い」

「う、うん。分かった」

「私もリリィの様子が落ち着いたら追い掛けるから」

「お願いね!」


   ◆◇◆◇◆


「派手にやりやがったな……」

 リリィとアザゼルの戦闘の爪跡だ。

 穴ぼこだらけになった煉獄の間に続く最後の通路を見て、イスカリオットは独りごちた。普段から悪趣味としてしか見てなかったが、こうなってしまうと寂寥感というものに見舞われる。

 イスカリオットの見上げた先、割れた天井から覗く空は明るく、これはこれで酷く場違いだ。

「最終的に誰といえば、ヤヌシュが買い取った城ってわけで。まぁ、俺の腹は別に痛まないんだが」

 自身の住居を半壊させられて怒らない者はいないと思うが、しかし、ヤヌシュに限って言えば、そうでもないかもしれない。なにせ全てに対して興味を示さないと思われてる男だ。

「さて――」

 煉獄の間と俗世を区切る最後の扉でさえも壊されていた。役目を果たさなくなって床に転がっている戸板を跨ぐ。

 ぞっとする静けさの中、自室から持ち込んだのであろう真新しい椅子に腰掛け、肘を突いたまま、視線と姿勢を固まらせているヤヌシュがいた。

「待たせたな」

「いいえ、それほどでも」

 部屋を包む静寂と同質の声音。有無を言わさぬ迫力がある。

「リリィはどうしましたか」

「城門で看護させてるよ」

「そうですか。その様子では大した脅威でもなかったようですね。所詮は半人半妖の混血。血統に強くこだわるのは、自身のコンプレックスの裏返し――役に立たない女です」

「お前……ッ!」

「自分で言うのもなんですが、安い挑発ですよ。イスカ様」

 組んでいた足を解き、のそりと立ち上がるヤヌシュ。

 重苦しそうな灰色のローブが衣擦れの音を立て、乳白色の髪が僅かに揺れる。ガラス玉のような青い瞳は美しくもあるが何者も映していない――

「しかし、貴方ひとりで来るとは、少々想定外でした」

「いい大人が女の子の力を借りなきゃならんって、やっぱり沽券に関わるんでね」

「なるほど、それがイスカ様の矜持ですか。しかし、貴方ひとりで済む話であれば、これまでに機会はいくらでもあったと思うのですが」

「そうだな。でも、これまでの俺には理由がなかったからだ」

「理由ですか」

「お前を倒す理由だな。今まで、これはこれでアリかと思ってる自分がいた。それだけのことだよ」

「今は違うと?」

「ああ。日常生活を取り戻させてやりたいと思う子がいる。だから、こうしてやって来た」

 一笑に伏したヤヌシュは冷厳たる瞳でイスカリオットを射抜く。イスカリオットもその視線には慣れたものだった。

 空間に一際強く響く溜め息。

 そして、

「朱に交われば赤くなる……とは、よく言ったものですね」

 嘲りと共に解き放たれたヤヌシュの魔法は地を這う衝撃波として、がりがりと床を削り取りながらイスカリオットに急接近する。踵で床を踏み鳴らし、それらを防ぐ盾を作り上げ、相殺。

 ヤヌシュが次の行動に移るより早く床を蹴り付け、肉薄するイスカリオットだったが、渾身の力を込めた拳は標的がその場から消失することで盛大に空を切った。

「青いですよ」

 背後からの声。

 と同時に、空気を押し付けられる感覚。

 ヤヌシュが座っていた椅子を巻き込み、壁に叩き付けられるイスカリオット。

「つあ……」

「口当たりの良いことを並べても、その程度ですか――いいえ、そんなはずがありませんよね。イスカ様? この私の【魔王】最高傑作が」

「なんだろうな。今それを聞くと、非常に寒気がするよ」

 頭に掛かる椅子の破片を投げ捨てながら、イスカリオット。

「いや……今更そう思うってことは【魔王】となってからこっち、人としてズレていた証拠なんだろうな。それをジニーやパメラの何気ない一言一言が俺を正常に戻してくれたんだ」

「くだらないですね」

「断っておくが……そうは言っても、俺は最初からお前ら魔族の意向に賛同したつもりだけはなかったぞ?」

「そうですね。いつ【魔王】としての宿命に目覚めて頂けるのか、私は内心やきもきしながら過ごしておりましたよ」

「へぇ。お前にしては珍しい冗談だな。というより、饒舌じゃねぇか」

「いえ。新たな客がお目見えのようですので」

「なに……?」

 ヤヌシュの言葉を裏付けるように、息せき切らせながら煉獄の間に飛び込んでくる人影があった。それはなんだかんだ嬉しいものであると言えど、胸中では半分以上、罵倒にしかならないヴァージニアだった。

「――イスカッ!」

「来るなっつってんのに……どうして最近の若い子は言うことを聞いてくれないのかね」

「はぁ? なによ、早速ぼろぼろのくせにッ!」

 とはいえ、ヴァージニアはヤヌシュを挟んで、その向こう。立ち位置としては、あまりよろしくない状態だ。

「ようこそ、ジニーさん。我が城へ。イスカ様はこのように、貴女を普通の人間に戻したくて私に戦いを挑んできたわけですが――貴女はどうされますか?」

 まるで、推し量るような口振りだった。

 最初から戦いを挑むつもりで来たイスカリオットに対し、ヴァージニアはどうするのか。ヤヌシュは身体を開き、【勇者】と【魔王】、それぞれに少しずつ向き合う姿勢をとる。

「……あたし。ここに来るまでよくよく考えたのだけれど」

「はい?」

「イスカがそう考えてくれるのは嬉しいけれど。あたしには、アンタと戦う理由がそんなに無いの」

 一瞬。ほんの一瞬だけ、ヤヌシュは目を見開いた。

 何か、物珍しいものでも見るかのように。

「やれやれ……火付きの悪いお嬢さんだ。ジニーさん。世界共鳴機関――貴方がたが持つ紋章を、世界中に、無作為にばら撒いた装置を製造したのはこの私ですよ?」

「そうだね。それには苦労させられてる。無いなら無いほうがいい。でも――きっと、あたしは恵まれてるの。パメラやイスカに助けられて、少なくとも野宿しなくて済む街まで辿り着けたから」

「楽園城郭都市エウリュメテス――気骨のあるものは好きですが、あの街の住人には気骨がありすぎて、私の望むものが得られない」

「何故? アンタはどうしてこんなことをするの?」

「好きだからですよ」

「え?」

「戦いが。競りが。争いが。摩擦が。軋轢が。衝突が。戦闘が。闘争が。抗争が。相剋が。そういったものが生み出す見境のない混沌が好きだから、ですよ」

「アンタ、いったい……」

「へぇ……魔族の端くれなら不思議でもないが、お前に限って言えば、その口からそんなことが聞けるとは思わなかった」

「そう。私も魔族なのですよ。イスカ様」

 刹那、ヤヌシュの姿が消え、あのときと同じようにヴァージニアの横へと瞬時に移動していた。

「ジニー!」

 ヴァージニアには、奴のローブの下、水平に投げ出されたヤヌシュの足を見えたのが最後、その強烈な蹴りを受けて身体が吹き飛ぶ。

「貴方たちは……いいえ。この世界――ランドヴァースは月の使途たるこの私の実験場なのですよ」

「……じっ、けん……?」

 詰まった息を吐き出すように、ヴァージニア。

「火付きの悪いジニーさんのために少し話でもしましょうか」

 上半身を起こそうとする彼女を虫けらでも見るかのような目で、ヤヌシュが吐き捨てる。つまり、その向きだと、イスカリオットに背を向ける形になる。

 機会に備えて、息を潜める――

「私が世界共鳴機関で世界中にばら撒いた白と黒の紋章は併せて千に上ります。その内訳は半々。紋章は同色を取り込むことで強化、同じ強さの色違いを取り込むことで消滅させることが出来る。そうして統廃合を繰り返し、現在確認しているのは貴方がたを含め世界中に六百余り」

「統廃合……ですって?」

「そうです。ジニーさん。貴方に刻まれた紋章の槍の数、徐々に増えてますよね。それは所持資格が喪失された紋章が貴方の紋章に統合された証です。具体的に言えば、白き紋章を持った【勇者】の遺体に近付いた、とかね」

「……ッ!」

 弾かれたように顔を上げるヴァージニア。

「お心当たりがあるようですね。それは貴女の力がそれだけ強まったことも意味します。今は、二本ですか? 三本ですか? いずれにせよ、世界中探しても二本以上の【勇者】や【魔王】はなかなかいないのではないでしょうか。誇っていいですよ」

「大きな……お世話だわ……」

「紋章の目的はただひとつ。身体能力の強化、向上――ただそれだけです」

「魔物を引き付けたり従えたりするのは、なんなのよ」

「それは効率よく争ってもらうために付け加えた後付けの機能です。ああ、もうひとつ。イスカ様から聞いたでしょうが、不老の能力も得ます」

 やや沈黙。

 だが、ヤヌシュはすぐに言葉を続ける。

「――が、これは身体能力強化の副産物。身体の細胞の欠損を高速で補うが故にそうなってしまいました」

「それが、実験……? いったい、なんのために」

「将来、私の手駒となり、月へ攻め込む最強の尖兵となってもらうためです」

「月へ……?」

 ここからはつまらぬ昔話ですが。と前置きし、ヤヌシュは軽く両手を広げ、話を続ける。

「今から数百年前の出来事です。我ら魔族――いいえ、月世界人は滅びの危機に直面していました。苦慮した月世界はこのランドヴァースへの移民団を結成したのです。その第一陣がベルゼビュート家を始めとした、後に七大公爵、魔王と呼ばれる者たちを筆頭にした集団で、私もそこに含まれていました。貴方がたランドヴァース人の間で、月に神々が住むという御伽噺はこうしたところから生まれたのかもしれませんね」

「なにを、言ってるの……? それは、それこそ、御伽噺?」

「いいえ、史実です。さて、意気揚々とランドヴァースに乗り込んだ七大公爵たちでしたが、現地民――つまり、貴方がたの祖先とは折り合いがつかず、激しい戦闘へと発展してしまいました。原初の勇者フルブライトの伝説をご存知ですか。彼は魔王ベルゼブブの血を取り込み、魔族と同質になることで対抗手段を得た――となっていますが、それは誤り」

 息を潜めていたイスカリオットもそこは初耳だった。

 原初の勇者の伝説はそれそのままリリィの家系、ベルゼビュート家の汚点ともされ、彼女を苦しませているひとつの要因だったはず。

「月世界が第一次移民団を裏切ったのです。第一次移民団の振る舞いを横暴とみなし、人間の代表であるフルブライトにその力を授けた。業腹ですよ」

「いや……それが本当なら、ベルゼビュート家の汚名を雪いでやれよ。冷たい奴だな」

「どうでもいいですね。そのことが原因で彼女が強くなるならそれはそれで歓迎すべきでしょう」

「吐き気がする」

「まぁ、そのようにして、第一次移民団はほぼ壊滅。月の道も閉ざされ、生き残った者たちはこうしてランドヴァースの地下に篭もることになりました。これが今日の魔族と魔界の始まりです」

「月の世界は、どうなったの……?」

「さぁ。向こうから連絡を絶ったのですから、今どうなってるかなんて私には分かりませんね。とにかく――これで分かって頂けたかと思いますが。私が紋章を開発するに至った理由が」

「月への、復讐……」

「その通りです」

 ヴァージニアの理解が得られたと、若干顔を緩ませたヤヌシュだったが、その次の彼女の言葉ですぐに暗転させた。

「わざわざ私たち人間じゃなくたって、お仲間の魔族がいるんでしょうに」

「……外の様子を見たでしょう。度重なる人間との争いで疲弊し、もはや住めば都を体現するだけ腑抜けた、まさにお花畑な連中などアテにもならない。その点、腕は未熟でもリリィには気骨を感じますね」

「寂しい人ね。そうやって、ずっと生きてきたの……?」

「はっ」

 一笑に伏したヤヌシュは立ち上がろうとしていたヴァージニアにつかつかと歩み寄り、その足を払って再び転倒させる。そして、流れるようにそのまま彼女の太股を踏み抜いた。

「あぅっ」

「至極真っ当なことを言うようになりましたね、ジニーさん。半年前、紋章に汚染されたばかりの貴女ならきっと私の考えに賛同してくれたのでしょうが」

「止めろ、ヤヌシュッ!」

 ヴァージニアの嬲りに傾倒するヤヌシュの背後、最初の一撃からようやく回復したイスカリオットが襲い掛かる――が、ヤヌシュの手の中には、既にあの月の銀箱が握られていた。

「ダメよ、イスカッ!」

 イスカリオットの拳がヤヌシュに到達するよりも遥かに前、その小箱が光り輝き、紋章の力が制限される。そうすると、ただの人間と成り果てたふたりには、魔族であるヤヌシュを一切傷付けられなくなってしまう。

「く、あ……ッ!」

 そうして、無力な拳を真っ向から受け止めたヤヌシュは涼しい顔のままイスカリオットを叩き伏せた。

「ほうら、弱い」

 そのまま連続して蹴りを加えるヤヌシュの声音が愉悦に染まり始める。

「弱い者は弱い者同士、適度に争っていればよいものを。何をどうしたら黒と白が手を組もうなどという発想に繋がるんです?」

「止めて!」

 無駄だとは分かっていても剣を振りかぶらずにはいられなかったヴァージニアも、いとも容易くあっさりと弾き飛ばされてしまう。再び背中を打ち付けるヴァージニアと、床に転がる剣。

 それを見て満足したヤヌシュはイスカリオットへの原始的な蹴りを再開する。ややあって、そのことに満足したのか、ヤヌシュはイスカリオットの髪を掴み、外見には似合わない怪力で持ち上げた。

「ねぇ、ジルさん」

 そして、唐突に本名で呼ぶ。

「イスカリオット――【魔王】としての貴方にこの名前を贈ったのには、訳があるんですよ」

「……はは、なんだよ。今更」

「恥ずかしながら、こんな私でもランドヴァース人の女性に惹かれたことがありました。魔王ベルゼブブと同じようにね――あのときはさすがに自分で自分が信じられない気分でしたが」

「なんだ。本当、やけに饒舌、だな……」

 傷だらけのやせ我慢で笑うイスカリオット。

「まぁ、私たちの場合は周囲の反対に遭い、結果、彼女――クーデリカの心も離れていってしまったのですがね。イスカリオットとは、クーデリカを奪っていったランドヴァース人の名前です」

「はぁ? 歴代の魔王の誰かとか、そういった由来じゃねぇのかよ」

「フフ、ハハハハ。そんなわけないじゃないですか。クーデリカはその男と結ばれ、子を成し、子孫を残していった。その何世代か後に現れたのが貴方です。私が作った黒の紋章に貴方が汚染されたのは全くの偶然ですが、私は運命を感じずにはいられなかった」

「んだと……」

「だって、そうでしょう? 私を裏切った女性が繋いだ子孫が、私が作った枠の中に捕らわれる。私から彼女を奪った男の名を冠した者が【魔王】の力に翻弄され、来る日も来る日もすたぼろになって帰ってくる。この上ない愉悦でしたよ。紋章に汚染された者は私の手駒として覚醒することを期待しますが、貴方だけは別だ――苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、最後に自ら死にたいと言いたくなるまで苦しめて、然る後、私自らが一思いに葬って差し上げます」

「お前……相当、歪んでんな……」

「なんとでも」

 ついに満足したのか、イスカリオットの身体をゴミのように投げ捨て、ヤヌシュはヴァージニアのほうに向き直る。

「さて――」


   ◆◇◆◇◆


「――話は長くなりましたが、火付きのほうはいかがですか?」

 ヴァージニアには何も言うことが出来なかった。

 ヤヌシュに対して、どう応えればいいのか。思案というか、戸惑いを感じている面が多かった。

「意外に湿り気の多い方なんですね――とはいえ、イスカ様以外は私にとって必要になるであろう貴重な原石。無闇にこの手で砕くことは避けたいのも事実。特に、既に複数の紋章を統合したジニーさんのような方は。ですので」

 一拍。言葉は淡々と続く。

「イスカ様とは今日ここでお別れ頂き、魔界での出来事は一切忘れ、地上に戻られるというのでしたら、私のほうはこれ以上、何もいたしません」

「……イスカは、どうするつもり?」

「さて、どうしましょうか。とりあえずは【魔王】としての再調整が先決でしょうかね」

「再調整……?」

「結果、再びジニーさんと邂逅を果たし、今度こそ血で血を洗う抗争へと繋がるかもしれませんが、そこは紋章を持つ者の運命、【勇者】と【魔王】の必定を受け入れてくだされば幸いです」

 そう言って。

 ヤヌシュは穴だらけの床に転がったまま動かないイスカリオットの横腹に爪先を捩じ込む。何度も何度もそうやって、特に意味があるようにも見えず、執拗にそれだけを繰り返す。

 イスカリオットは浅い痛苦の息を漏らしながらぐっと堪えており、ヴァージニアの位置から見えるヤヌシュの横顔は、いつの間にか執着心の塊だけで構成されていた。

「止めて」

 転がっていた剣を手に取り、立ち上がるヴァージニア。その姿を見て、ヤヌシュは面白くもなさそうに吐き捨てる。

「おや、とうとう点きましたか? ですが、元より私と貴女では勝負にすらならないことぐらいお分かりですよね」

 そっと、目の前に掲げられる月の銀箱――紋章の力を任意で有効化、無効化できるあの装置がある限り、イスカリオットやヴァージニアには勝ち目すら見当たらない。

「ただの人間には、私に掠り傷ひとつ負わせることはできない。それが魔族――正確には、月の民がより高次元の存在であるが故の特性です。上位は下位に干渉できても、下位は上位に干渉できない」

「そんなの……やってみなきゃ、分からないじゃないの」

「ほう……? 理に適わない無茶なことを言い出すのはイスカ様の役目かと思ってましたが、まさかジニーさんからそんな言葉が聞けるとは」

「買い被りすぎよ。ていうか、それなら逆ね。イスカは中身オッサンだからもう無茶はしないのよ」

 床に這い蹲っているイスカリオットが何とも言えぬ小さな呻きを上げた。ヴァージニアは胸中で謝っておく。

「確認だけれど。その銀箱自体は、今の私でも破壊できるのよね?」

「試してみてはいかがですか? 試せるものなら」

 紋章の力がないせいか、身体が信じられないぐらいに重く感じられる。

 その力の影響は良くも悪くも過大で、人里を追われたり、魔物を呼び寄せるようになったりと、デメリットは山ほどあるけれど、ヤヌシュが語ったように身体能力の向上という点においては、まさに翼が生えたかのような心地だった。

 そのことを失ってから気付くなんて、あまりにありきたり過ぎる。

「はぁ――ッ!」

 ヤヌシュには無謀な特攻にも見えるヴァージニアの剣戟に合わせ、イスカリオットもまた行動を起こしていた。

 案の定というべきか、ヴァージニアの剣の切っ先はヤヌシュが突き出した拳に弾かれ、剣閃が横に流れる。その一瞬に忍び寄ったイスカリオットがヤヌシュの腕を取った。完全に捻り上げるまでには至らなかったが、踏ん張ったヴァージニアにとって好機といえる隙を生み出すには十分だった。

「――ッ!」

 手首を捻って、剣の柄をヤヌシュの腕に押し当てる。緩んだ手から月の銀箱を滑落させるのは、それだけで十分だった。

 ごとり、と。

 見た目に似合わず重苦しい音を立てて床に転がる箱。

「壊せ、ジニー!」

 イスカリオットが叫ぶか否か。

 ヴァージニアは狙いを定め、剣を振り下ろす。

 鉄琴を力いっぱい叩いたときのような、一際甲高い音が煉獄の間に響き渡って――

「う、そ……」

 ヴァージニアにその呻きを発した自覚は無かった。

 砕けたのは、ヴァージニアの剣のほうだった。息子を守ってくれと託されたその想いが粉々に砕け散る。

 月の銀箱はそのまま、傷ひとつなく床の上でその姿を湛えていた。

「――残念でしたね」

 最初から分かっていたことだと、そう言わんばかりのヤヌシュ。

 奴は半ば呆然と腕に取り付いたままだったイスカリオットを弾き飛ばし、砕けた剣を見下ろすヴァージニアを蹴り飛ばす。ふたりと一定の距離を保ちながら、転がった月の銀箱を回収するヤヌシュ。

「少なくとも反逆する実験体に遅れを取るような愚は犯しませんよ」

「希望を持たせるような言い方しやがって……同じことを言うが、本当歪んだ奴だな、お前」

「では、私も繰り返しましょうイスカ様。なんとでも、と」

「――それなら、ふたりの埋め合わせは私がしましょうか」

 突然の闖入者。

 ヤヌシュにはそう映ったことだろう。

 イスカリオットのちょうど頭上――煉獄の間の割れた天井、その上から飛び込んでくる人影があった。夕日色の髪と、黒いエプロンドレス。映えるそれらを靡かせて、その者はヤヌシュに躍り掛かる。

「パメラッ!」

 ヴァージニアの歓喜とは対照的に、どれだけ過小に表現したとしても、ヤヌシュの表情に焦りが滲んだ。

 今、この場において、ヤヌシュ自身と月の銀箱を傷付けることが出来るのは、同じ魔族であるか、もしくは月の民の加護を得た原初の勇者の血筋のみ。ただの人間に成り下がったイスカリオットとヴァージニアの攻撃は無視できても、パメラのそれに対しては無策ではいられない。

「貴女の存在をすっかり忘れていましたよ。原初の勇者の血を引く存在としては、あまりに未熟すぎてね」

「そう。私は【勇者】ヴァージニアの補佐に喜びを感じていたから、修行っぽいこと、何もしてこなかったの」

「何が言いたいのです」

「貴方と同じ。負けたときの言い訳よ?」

 パメラを中心に発生するナイフの軌道がヤヌシュに向かって収束する。ヤヌシュが箱を庇いながら攻撃を捌く反動を利用し、パメラは地に足を付けることなく、弾むようにその頭上で滞空を続ける。

 それは見る者をことごとく魅了する美しい剣舞だった。

「小賢しい」

 拳に纏わせた輝きを以って、パメラのナイフを弾いていたヤヌシュだったが、埒が明かないと悟ったのか、輝きを解放し、飛び道具の要領でパメラの胴を貫く。

「あぐっ」

 その光は電撃に似たもので、衣服を焼き焦がし、パメラの脇腹を黒ずませた。

「パメラ!」

 だが、それでも気丈に微笑んで見せた彼女は吹き飛ばされた先、壁に激突する寸前で身を捻り、身体の前後を入れ替える。両足で壁を蹴って、床と水平に飛び、再びヤヌシュに接近。

 だが、それに併せるように振り下ろされたヤヌシュの光を纏う腕がとうとうパメラを撃墜する。

 慣性に捕らわれ、床を滑るパメラを冷たく見下すヤヌシュ。

 そして、

「それで終わりと思ったら大間違いですね」

 滲んでいた焦りが、とうとう本格的になった。

 床に伏したパメラの前、守るようにして地面から湧き出てきた黒い影はブロンドの髪の少女へと変貌する。

「リリィ――ッ!」

 かつて、仲間だった少女の名を叫び、ヤヌシュは容赦なく爪先をその顔面へと突き立てた。ぼすっと異様な音を立て、蹴足が少女の頭部を貫通したが、その手応えのなさを不思議に思ったのだろう。ヤヌシュの表情に疑問符が浮かぶ中、その身体は土くれになって床の上に散乱する。

 そいつはただのゴーレムで、

「こちらですよ」

 本物は、更にその背後に。

 ヤヌシュが行動を起こすよりも早く、リリィの一閃。その手から弾かれた月の銀箱は再び宙を舞い、

「パムッ!」

 床の上で身を翻したパメラが光を纏ったナイフを投げ付けた。

 真っ直ぐな軌跡を描いて飛んだナイフは中空の小箱を真正面に捕らえる。接触時、ヴァージニアのときと同じように甲高い音が響き渡って、今度は小箱のほうが粉々に四散する番だった。

 それらは、まるでひらひらと散る粉雪に見えて。

 欠片のひとつひとつが意志あるもののように輝き、煉獄の間に舞い落ちる。

 その瞬間の、ヤヌシュの表情は見れなかったが――

 色々と思うところあっても、月の銀箱があるが故に手出しできなかったのであろうイスカリオットにとっては逃すことの出来ぬ千載一遇の好機だろう。箱の力による紋章の無効化が解除され、万能感ともいえる紋章の力が全身に行き渡るのをヴァージニアが感じる頃、イスカリオットは煉獄の間を駆け抜けていた。

「ヤヌシュ――ッ!」

 まずは、イスカリオットの右手に質量のある光の剣。

 それを渾身の力を以って、ヤヌシュの背中に突き立てる。背中から胸にかけて、その刃が飛び出すが、ヤヌシュもまた魔族の端くれ。この程度では、大したダメージにもならないはずだ。

 それを見越していたのであろう。左手には、赤い炎熱の光。何本もの帯を引いて、集束を始めている。突き立てた剣はただの足止めだった。自然と集まってくる光を吸い込み、更に膨張を続けるそれが完了するまでの。

「イスカ――」

 しかし、炎熱の集束が完了する直前に。

「もう、いいんじゃないかな。もう、止めようよ」

 ヴァージニアはイスカリオットを止めに入った。

「何を言うんだ。ヤヌシュの世界共鳴機関――そいつがある限り、ジニーや、世界中で今も苦しんでる紋章持ちは助けられない。ずっとこのままなんだぞ」

「別にこの人を殺さなくたってさ。その装置だけ壊せばいいんでしょ?」

「それは、出来ない」

「なんで?」

 ヴァージニアの疑問に応えるように――いや、当人は応えるつもりはなかったのだろうが、煉獄の間にヤヌシュの哄笑が響き渡る。

「ク、ハハハ、ハハハハッ! 火付きの悪いお嬢さんだと思っていましたが、結局最後まで燻ったままでしたか」

「黙れヤヌシュ」

「別に隠すほどのことでもないですしね。教えてあげればいいじゃないですか、イスカ様。世界共鳴機関の在り処を」

「……装置なんてものはないんだ。紋章を生成する仕組みはこの男の体内にあって、この生命活動を止める以外に方法はないんだよ」

「そん、な……」

「貴女がそんなにもショックを受ける理由が、私には分かりかねますね。ただの良い人アピールならもう少し衆目がある場所のほうが」

「そんなんじゃないよ!」

 ヴァージニアの心からの叫びはこの場の全員をきょとんとさせた。

「そんなんじゃ、ない。あたし、思ったのよ。紋章に仕込まれた不老の話のくだり。ヤヌシュ――アンタは副産物だと、そう言ったよね。本当に?」

「……何が、言いたいんです」

「あたし、これは意図したものなんじゃないかって、話を聞いてるうちに思ったのよ」

「はは……面白い仮説ですね。私が何のためにそれを紋章の中に組み込んだのだと仰るのですか」

「あたし、言ったよ? 寂しい人ね、って」

 その瞬間、激昂したヤヌシュがヴァージニアに掴み掛かろうとしたが、咄嗟に割り込んできたパメラにその手を弾かれ、未だ胸板を貫いたままのイスカリオットが剣を持つ手を引く。

 物理的に無理と悟るや否や、語気荒々しく喚くヤヌシュ。

「これは面白い……いや、面白くない。不愉快ですね。不愉快極まりないですね。つまり、こう仰りたいのですか。この私が、仲間というものなどを求めた結果だと!」

「そんな大層なものじゃないと思うけど」

「なんですって……?」

「仲間だなんて大層なものじゃなくて。ううん、もちろん仲間でもいいんだけれど。欲しかったんじゃないの? 自分のことを理解してくれる人が。友達が」

 そう言って、ヴァージニアはパメラの手を取った。パメラもまた、その手を強く握り返してくれる。

「ハハハ……これは、ひどい……」

 力なく肩を落とすヤヌシュ。

 そうして、全てが丸くとまではいえないが、少なくともヤヌシュの敵意は失われたかと思われた瞬間――

「とんだ見込み違いですよ。ジニーさん」

 リリィの悲鳴が木霊する。

 いつの間にか忍び寄っていた黒装束によって彼女は床に押さえ付けられ、自由を奪われていた。誰何の前にイスカリオットもまた同じような装束の者によって拘束される。その時点でヤヌシュの自由を奪っていた光の剣が消失した。

「魔族にも寿命はあるんですよ? それぐらいはご存知ですよね」

 と言いつつ、自身を覆っていたローブを少し肌蹴てみせるヤヌシュ。

 次の瞬間、ヴァージニアとパメラが立て続けに息を呑んだ。

 その下にあったのは、深緑色をした骨と皮――枯れた枝のような、。少なくとも首から上の涼しい表情と、首から下のローブに隠された部分は全く一致しないものだった。

 事態はその間にも急変を遂げる。

 リリィとイスカリオットを押さえ付ける黒装束の男たち。それに似た連中が何人、何十人と、この煉獄の間になだれ込んで来るのだ。拘束具にも似た黒装束だけではなく、対照的な白装束たちも交じり始める。

 何よりも異常だったのは――

 黒装束も白装束も関係なく、みな一様に目を潰されていることだった。口は半開きで、低い唸り声を上げながら部屋を埋め尽くしていく。個々に意識があるのかどうかも分からない。

「リリィの魔法生物でもない……なに、なんなのこれはッ!」

 さすがのパメラも恐怖に駆られ、大声で問うもヤヌシュは黙殺。身を寄せ合っていたヴァージニアとパメラも引き剥がされ、それぞれ床に押し付けられてしまった。

(これが、リリィの言ってたとても恐ろしいこと、なの……?)

 少なくとも彼女は何かを知っている様子だった。リリィは自由を奪われながら歯噛みし、颯爽と玉座に戻ろうとするヤヌシュを睨め付けている。

「言ってみれば――」

 言葉の再開は、何気ない雑談のようでもあった。

「私の世話係……というのが最も相応しいのでしょうか」

「世話係、だと?」

 異様な光景に全くそぐわない単語が飛び出す。

「私の身の周りの世話をさせるために雇った使用人。あるいは、最初から紋章の実験台として買い付けた奴隷――まぁ、どちらでも構わないのですがね。最終的には、同じ道を辿ったというだけで」

 黒装束も白装束も無作為に男女に分かれていたが、その中には、一目で人間ではないと分かるものまで紛れていた。性別も、種族さえも関係なく。ただ、全員が目を潰され、光を失っていたこと。それだけが等しい。

 そして、その当然の疑問にヤヌシュも気付いたようで、

「ああ。。この老いた、醜い身体をね」

 ただそれだけを、事も何気に吐き捨てた。

「え、それだけ……?」

「それだけですが」

 一口に潰されているといっても、太い糸で瞼を縫い付けられている者もいれば、眼球を奪われ落ち窪んでいる者も、見たこともない太い釘を打ち付けられている者さえいた。

 その手段は実に様々。自身の老いを見られたくないという程度の理由だけでは、常軌を逸していると言っても過言ではない。

「それに言ったでしょう? そもそもが紋章実験の依り代。そんな彼らに光なんて必要ありません」

「アンタ……ッ!」

 ヴァージニアの視界を、そして脳裏を、心を、この上なく赤く染めるのは、怒り以外の何物でもなかった。

「ジニーさん」

 それこそが狙いだったと言わんばかりに、大量の白と黒に囲まれて、ヤヌシュが唇の端を吊り上げる。

「ああ、ジニーさん。やはり私の思ったとおりだ」

「なにがッ!」

「セントヘレナ地方の森で最初にお見かけしたときから思っていたんです」

「だから、なにがッ!」

「一見、利発そうに見えて、本質は活発。秘めたる激情はクーデリカそっくりだとね。だから、先程の良い人アピールには心底がっかりしたものです」

「アンタの昔の想い人がどうだったかなんて知らないわよッ!」

 クーデリカの子孫がイスカリオットというならば、ヴァージニアには全く関係のない話だ。まだパメラのほうが血筋的にも近いはず。にも関わらず、この男は他人の空似を根拠に、それをヴァージニアに被せ、飲み込もうとしている。

「そう。貴女は知らない――なのに、こんなにも似ている。これはもはや運命としか言いようがありません。生まれ変わりというものがあるのなら、まさに」

「ヤヌシュ! 貴様、ジニーは何も関係ないだろうがッ!」

 イスカリオットが口を挟むと、ヤヌシュから一瞬、愉悦の笑みが消えた。

 それは想像でしかないが、あたかも、当時ヤヌシュからクーデリカを奪っていった男性の行動そのものだったのだろう。

「他人の心配をされるより、ご自身の心配をされたらどうですか。イスカ様」

「なんだと?」

「紋章実験の集大成。いずれ実施しようと考えていたのですが――ッ!」

 その始まりは、ヤヌシュの右手の指先から生まれた五つの光だった。

 それぞれにでたらめな放物線を描き、無作為に部屋の中の黒装束の胸を打ち抜く。勿論、打ち抜かれた彼ら彼女らは耳の奥底にこびり付くような断末魔の悲鳴を上げ、絶命した。

 それに何の意味があったのかも分からず。

「が、ぐぅ、あああぁぁ……ッ!」

 だが、その瞬間、床に伏した黒装束とは全くかけ離れた場所で押さえ付けられているイスカリオットが苦悶の叫びを上げた。

「イスカ……?」

 ヴァージニアにも、パメラにも、リリィにも、彼の身に何が起こったのか理解できず、戸惑いの声を上げるばかり。

「私の予想では、五つまで、なんですよ」

「何のことよッ!」

「統合によって吸収できる紋章の数――人間の身に宿せる限界は五つまで。そう、踏んでいます。イスカ様は既に三つお持ちでしたから、今絶命した実験体六号、十九号、二十一号、五十五号、百二号が所持していた黒き紋章を吸収し、その数は全部で八つ。当然、これは私の考える許容量を越えています」

「どうして、そんな都合よく……」

 紋章持ちが死を迎えることで、所持資格が失われた紋章は近くの紋章に統合されるという話だったが、それならばこの部屋中に散らばる他の黒装束に統合されるほうが自然だ。

「ジニーさん。既に生ける屍と化している彼らにそもそもの資格があるとお思いですか?」

 が、その一言で、ヴァージニアは全てを察する。

 その問い自体はとても頷けるものではなく、仮に他の黒装束に統合されたとしても、イスカリオットが最後のひとりになるまで全員を殺せば、全てが彼に向けられる――そういう算段なのだろう。

「人間の許容量を越えた紋章持ちがどう変異するのか。それは私自身にも想像が付きません。耐え切れずこの部屋の屍どもと同じ運命を辿るのか、それとも力を飼い慣らした先に真の魔王として覚醒するのか」

 喋りながら、ヤヌシュは新たに光弾を五つ射出し、再び黒装束を同じだけ絶命させる。その断末魔と、イスカリオットの苦悶が煉獄の間に木霊した。

「黒の始末が終われば、次は白の番――ジニーさん、貴女の番ですよ。ただ狂って朽ち果てるのか、それともイスカ様共々、真の存在へと覚醒されるのか」

「そんなことになったら、真っ先にアンタを捻り潰すわよ」

「それならそれで、結構」

 ただの強がりかと思われたが、それだけではなかった。

 ヤヌシュから放たれたひとつの光が、ヴァージニアを押さえていた白装束を打ち倒す。刹那、ヴァージニアの左手首の紋章の槍に五本目が追加された。

 ぞわりと、背筋が粟立つ。

「もし貴女が真の勇者として覚醒されるのであれば――それはかつて月世界がこの地に下ろした力に匹敵するということ。もう誰にも、偽物とも人工とも言わせない。それは最高の力です」

「何を言ってるの。アンタの復讐になんか、手を貸さないから」

 砕けた剣の柄を右手に握り締め、行く手を遮ろうとする集団を押し退けながら、ゆっくりと玉座に近付く。

「それに――」

 刀身はなくても、願えばそれは事足りた。

 光は、生み出せる。

「それが、そもそもの勘違いだよね」

 この人を助けたい。

 心の底からそう思っていたはずだった。

 世界のどこかにいる同じ紋章持ちに罵られようとも。

 でも。

「どちらかだけと言われたら迷えない。最悪なのは、時間切れだから」

 イスカリオットも。

 わざわざ助けに来てくれたパメラも、リリィも。

 こんなところで、こんなことで、死なせるぐらいなら――

「まだ、完全に燃え盛ってはいないようですね」

 ヤヌシュは両手を広げ、無数の光弾を展開させる。

 今度のそれらは黒装束、白装束関係なく、手近にいた彼らを容赦なくなぎ払っていった。

 結果、ヴァージニアの紋章に四本の槍が追加され、同時に身体の奥底からマグマのような高熱が吹き上がってくる感触を得た。細胞という細胞が蠢きだし、循環する血液が沸騰する感覚。大いなる苦痛。

 それは、世界を手中に収めるのと同義。完全なる万能感。

 純粋な力による精神の支配が始まる。

「ふざ、けないで……ッ!」

 視界の隅に映ったイスカリオットは、既に拘束からは解き放たれていたが、黒き紋章を多く重ねられたことにより、動けない様子だった。

 特にヴァージニアの目を惹き付けたのは、彼の右手――黒き紋章があった箇所。

 元々タトゥーだった紋章は今や黒水晶のように物質化、結晶化を果たし、彼の右腕を基点として徐々に飲み込まんとしている。

 それはどう見ても、イスカリオットという人間の終わりを示していた。

「さあ――」

 ヤヌシュは神妙にして、ヴァージニアを促す。

「クーデリカは決断の出来る女性でしたよ。だから、命を繋ぐことが出来ました。貴女はどうですか。ジニーさん」

「だから、知らない、って、言ってる、でしょうがッ!」

 一歩踏み出すごとに、体温が上昇する。

 覚束ない足元と、まとまらない思考。定まらない視界の向こうでヤヌシュは笑っていた。

「ああ。心配なさらずとも結構。どの道、近い将来、この身体は朽ち果てる予定でしたので」

「何の……話よ?」

「おや、分かりませんか? 魔族とはいえ、人の姿をした私ですから。罪の意識を軽減して差し上げようと思ったまでですよ」

「別に……今まで、お仲間の魔族を倒してきたことも、あったわ」

「そうですか」

 また、ひとつ。

 ヤヌシュの手から光が飛び出して、白装束を貫いていく。

「ジニー!」

 パメラの悲痛な叫びと共に、左手に違和感を覚えたヴァージニアは持ち上げてみようとして断念した。手を、視線の高さに持って来ようとしただけだ。でも、あまりの重さに阻まれた。仕方がなく見下ろした先に、結晶化した白き紋章がぶら下がっていた。

「箱が破壊された時点で勝敗は決していた。でも、それだけじゃあつまらないでしょう?」

「アンタの、面白いは、あたしらには、とっても迷惑だって、分からないのかしら」

「それを含めた面白さですから。さて、この身体には、貴女たちを屠るほどの力はない。制するのは簡単ですよ」

「くっ……」

「ですが、まだ火付きの悪いことを仰られるのでしたら、容赦はいたしません」

「死にたいなら……アンタひとりで、死ねばいいでしょうに」

 選ばなければならない道に対して、嫌悪感を催す。

「ジニーさん」

「なに」

「愛って、なんだと思います?」

「知らない」

 だいたい、まだ男性とお付き合いしたこともない。

「呪いだと、私は思うんですよね――」

「そう」

 ヴァージニアの放つ光がヤヌシュの顔を照らし出す。

 無愛想に、無感動に呟き返してみたけれど、その言葉は呪詛のようにヴァージニアの耳に強くこびり付く。

「どうしました……?」

「やっぱ、無理」

「そうですか」

 言われずともその一言には、心底侮蔑の意味合いが含まれていた。

 だが、

「勘違いしないで。アンタを殺せないって意味じゃない」

「どういう、意味ですか」

「クーデリカ? 知らない女を被せられた挙げ句、似てないからガッカリとか全く以って意味不明なのよ!」

「は……?」

「愛がどうとか呪いがどうとか、自分が好きだった人を勝手に亡霊に仕立て上げて、死んで勝ち逃げしようってその魂胆がね! それから――」

「まだ、あるんですか」

「あるわよ! 振られて悔しかったんならちゃんと泣け! 自分を偽ってイスカに八つ当たりなんて、男の風上にも置けないわッ!」

 白く染まり、文字通り肥大化していく左腕を庇いながら、言いたいことを全て吐き出し、ヴァージニアは身体の底から深く息を吐き出す。

 垣間見えたヤヌシュの表情はどう形容すればいいのだろうか。年端も行かぬ小娘に積年の恨み辛みを全否定されて、しかし、怒りに狂える様も見せず、どこか、何か憑き物でも落ちたようなすっきりした顔をしていた。

 が、

「――ッ!」

 すぐさま、それは苦痛に歪む。

 それは、ヴァージニアも同じだった。

 どす黒い光を宿した槍のようなものがヴァージニアの下腹部を貫き、そして、ヤヌシュの胸部を抉っていたのだ。

「な……」

 その一瞬で、背後ではとにかく様々なことが起こっていた。

「アザゼル――ッ!」

 パメラとリリィの怒号のような叫び。

 息を吹き返したアザゼルが土と瓦礫を押し退け、満身創痍の様相で仁王立ちしていた。だが、それと同様にもう動けないと思っていたイスカリオットが渾身の力で青い魔族を屠る。

 その断末魔を聞きながら、ヴァージニアは意識を飛ばしていった――

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