7 魔界――城門前
一言で表すと、綺麗だった。
それがあまりにもあんまりな光景だったので、身体を起こしたヴァージニアは真っ先に自分の頬を抓ってみた。しっとりと、痛い。夢ではないらしい。だとしたら、これはいったいどういうことだ。
「なに、ここ……」
白、黄、赤、ピンク――様々な彩りの草花が緩やかな丘陵に、ヴァージニアの視界一面に広がっている。
イスカリオットに手を引かれ、グレイトホールに飛び込んだその先は魔界。そう何度も聞かされていたはずだが、気がついたらこんなランドヴァースでも滅多に見られないような花畑だ。
「やぁ。起きたかい」
ヴァージニアの右隣、やや後方に胡坐をかいて座り込んでいたイスカリオット。
その表情が、まんまと思惑通り驚いてくれたようで嬉しい。と物語っていたので、悔しいからとりあえずその脇腹にぼすっと一発、拳を埋め込んでやる。
「ここが、魔界、なの?」
魔界。人間の仇敵、魔族たちが住まう場所。
大地は枯れ果て、瘴気が吹き出し、マグマが煮え滾る暗黒の世界――
典型的と言えば典型的だが、そんなイメージを根底から覆してくれる、まさにここはお花畑な世界。
「そう。魔界。といってもその表層だけどね。魔界緑化計画なんてものをぶち立てて、精力的に取り組んでいる原初の魔王一派がいるんだよ。争いや世界征服にはもう飽きたと言ってね。地上が手に入らないなら、自分たちで創ってしまえばいいじゃない――的な?」
「そんな、馬鹿な……」
ふと思い当たるところがあって、空を見上げてみる。
エウリュメテスの上空で感じたような鮮やかさはないが、しかしパステル調のくすんだ水色の空はこれはこれでアリと思わせるもので、しっかりと太陽と思しき物まで確認できる。
「ああ、言うまでもなく、あれらは魔法による人工物……いや、えっと、魔族物? とにかく、魔界緑化計画の際に造られた物だよ。だから、昼も夜もない。情緒もない。ただ明るいだけの代物」
「荒涼としていた大陸北部より緑が豊富って、どういうことなのよ……」
「ま、人間たちもいつか自分たちの行いを振り返るときが必要になるかもね」
自分もその人間の一員であることを忘れているかのように、イスカリオット。
「さて、と――」
掛け声と共に勢いよく立ち上がったイスカリオットは付着した泥を払い飛ばしながら、ヴァージニアの左前方、延々と花畑が続いた先の丘の上、淡い風景に全く溶け込まない黒い城を指し示した。
「あれがいちおう俺の城」
「……いかにもって感じの魔族のお城なのに、それこそ場違いで残念ね」
「しょうがないだろ。エウリュメテスが中世時代、人間種族最後の砦であったように、同じ時代、あの城も魔族の前線基地だったんだから。それをヤヌシュの奴が買い取った年代物なんだよ」
「なんかさぁ……」
「なんだい」
「魔族も人間と一緒なんですね」
「当たり前だよ。いや、俺は人間だから詳しいことまでは知らないけど」
緑化を進める魔族や魔王というのは、どうにも違和感が拭い切れない。だが、それを埋め合わせしている間もさほどない。歩き出したイスカリオットのすぐ後ろ、随伴するようにヴァージニアが続く。
「地上が手に入らないなら――って言ってたけど、魔族はみんな地上を諦めたってこと?」
「さぁ、どうだろうね。ヴァージニアが想像しているような地獄の風景だって、ここより更に地下に潜ればいくらでもある。その辺に潜伏している連中は虎視眈々と機会を窺っているのかもしれないし」
「うえぇ……」
そうなったらヴァージニアたち、白き紋章の【勇者】は真っ先に駆り出されることになるのだろう。
(めんどくさいなぁ。そんなの嫌だなぁ)
と、何気なく思った自分に驚いて足を止めてしまった。
(今、めんどくさいって思った? あたし……)
そう、めんどくさいとか、嫌だとか、何事だろうか。
ほんの半月ほど前だ。
三人目の白き紋章の同胞、名前も知らない【勇者】の遺体を葬ったときには、セントヘレナ村の討伐レベル十八の依頼を蹴り、こんな世界、滅びてしまえばいいとさえ思っていたのに。
めんどうくさいと思うということは、魔族が攻め込んできたら多少なり戦う意思があるということだろう。我ながら、どういった心変わりか。
「ヴァージニア?」
名前を呼ばれて、ふと我に返る。
少し距離が離れたところでイスカリオットが不思議な表情をしていた。
いつもはのんびりとした人畜無害の顔だ。洗練された間抜け面だ。定期的に構ってやらないとすぐ消沈する奴だ。しかし、そのうちに油断ならない剣呑とした眼光を潜ませていることに気付く。立場は違えど、自分と同じ人間。
(コイツのせいか)
もう認めるべきだろう。
半年の間、自分のことを気に掛けてくれて、そして自分が気に掛ける人間はパメラだけだった。それが、そうじゃなくなった。
それだけではなくなったのは――
「ごめん。なんでもないよ」
小走りでイスカリオットに追いつく。
どこまでも続きそうな花畑の道をふたり並んで歩く。
(楽しいのね、あたしは)
今から助けに行くパメラの手前、それを口に出して言うことは憚れたが、そう思ってしまう自分がいるのだからもう仕方ない。
この道の終端に、あの無骨な黒い城が無愛想に鎮座していなければ言うことないのだろうけれど。
「よしッ!」
すっと息を吸い込んで、気持ちを切り替える。
いきなり大声を上げたヴァージニアに対して、何事かとイスカリオットが一歩引いていた。
「まずはパメラの救出! そのあとのことは、そこから考える!」
「お、おう……なんか上機嫌かい。ヴァージニア」
「それね」
「ん?」
「ジニーでいいわ。アンタにも解禁してあげる」
「え、まじで。ていうか、なに。ちょっと気持ち悪い」
「気持ち悪いって何よ。失礼ね」
「グレイトホールに飛び込んだ際、どっか打ち付けたとか」
「打ってないし」
「じゃあ、シンプルに風邪を引いたとか」
「引いてないし」
嬉しいのか何なのか、微妙な表情をない交ぜにイスカリオットは躊躇していて。
「ほら、早く行くよ。イスカ」
「ちょ、ちょい待ち、ヴァー……えぇと、ジニー!」
ヴァージニアが彼の名前をちゃんと呼んだのもまた初めてのことだった。
かくして。
遠目から見ても、その黒い城は異質の一言だ。
近付くにつれ、その全容が、詳細が目に見えるようになるにつれ、違和感は増大していく。それは周りの風景に溶け込まないというのが一番の理由であろうが、それを言ってしまえば、淡くて美しい花畑は後から植え付けられたものであり、中世の時代から先に存在していたのは城のほうだから心外というものであろう。
物々しい黒の壁によって囲まれているその姿は、城というより要塞と呼ぶほうが相応しいかもしれない。
そして、その前。
人の背丈の何倍もある城門の前にポツンと、ひとりの少女が佇んでいる。
ブロンドの髪を飾る白のヘッドドレスに、小柄な身を包む黒のエプロンドレス。
「お、リリィじゃないか」
その少女に気付いたイスカリオットはやや歩調を強めるが、当然ヴァージニアには警戒の意識しかない。【魔王】に心酔するという彼女のことだ。まだ【勇者】を目の敵にしているだろうし、また不意打ちを考えているかもしれない。
(ん、待って)
また、違和感。
それと同時、背筋に悪寒が走り抜けたのは、イスカリオットの目の前にしても眉ひとつ動かさない彼女を見たからだった。エウリュメテス入場前に遭遇した彼女のイスカリオットに対する印象とはまるで異なる。
「イスカ、待――ッ!」
ヴァージニアの言葉は途中で途切れた。最後まで言い切ることが出来なかったのは、城壁の上からリリィとは別の誰かが降下して来たためだ。
「危ない、ジニー!」
振り返っていたイスカリオットの叫び。鈍色に輝く刃物を手に、ふたりの間に割って入るように何者かが襲い掛かってくる。
「くうっ!」
間一髪、引き抜いた剣を上段に構え、相手の獲物を受け止めた。刀身同士が噛み合い、ぎちぎちと甲高い金属音を響かせる。
「こンのォ!」
腰に力を溜めて横一文字に斬り払うも、位置的に上の奇襲の相手はヴァージニアの肩を軽く蹴って、間合いの外に脱していた。身軽にも空中で一回転。いくつかの草花をへし折りながら華麗に降り立つ。
――が。
「え、なんで……」
それ以上、ヴァージニアは何も言えなくなった。
表情から察するにイスカリオットも同じ気持ちだろう。
身に纏っていた衣服は城門の前に立つリリィとお揃いのエプロンドレスだったが、鮮やかな夕日の色をしたセミロングの髪は見間違うこともない。ヴァージニアとイスカリオットが助けようとしていたはずのパメラ・エウリカ、その人だったのだから。
「私を助けに来てくれたの? 嬉しいわ、ジニー」
ヴァージニアを切り裂こうとしたナイフを手の中で弄びながら、笑顔のパメラがそう言った。
ただそれだけで、視界が、世界が暗転する。
真っ先に脳裏を過ぎったのは、洗脳という言葉だった。何者かが――といっても、自分たちに関わりのある者に限定してしまえば、さほど心当たりはないが、とにかくパメラをヴァージニアたちの敵として立ち塞がるように囁き、仕立て上げる。あるいは、その意識を丸ごと奪って別の人格を植え付ける。そんな非人道的なことを平気で行う奴らだ。魔族というのは。
「ジニー、良い剣を手に入れたじゃない。ファーマメント工房のブランド品コントレイルよね、それ。イスカ君の実家に行ったんだ」
パメラの口調はいつも通りでも、喉の奥に言い表しようのない黒いものが渦巻いている。
(そんな、嘘だよ)
幼い頃から共に育って来たパメラ。
紋章が発現して村を追われたときも付いて来てくれたパメラ。
世の中の無情さに打ちひしがれて、絶望に染まりきったときもずっと彼女は傍にいてくれた。慰め、励まし続けてくれた。
そんなかけがえのない友人のような、姉妹のようなパメラが敵に。
そんなパメラと、戦う。
これから、殺し合う。
なんて。
(そんな……嘘、イヤよ……)
途端にガタガタと足が震え始め、剣を構えていられなくなる。
頭の中は信じたくない嘘という言葉と、拒否したい嫌という言葉だけで埋め尽くされ、視野狭窄に陥るヴァージニア。
「んふふふ……」
やけに色香のある妖艶な笑みを浮かべ、ナイフを握る右手を持ち上げたパメラは時折品のない者がそうするように刀身を嘗め回そうと――
(……ん?)
嘗め回そうと――しているのだろうか。その右手と刀身と、申し訳なさ程度に口から覗かせている舌が、見るからにプルプルと可愛く震えている。
「パム。慣れないことはしなくていいですわ」
表情の一角さえ崩さず、だが、呆れたようにリリィが呟いた。
その瞬間、癇癪でも起こしたかのようにパメラはナイフを地面に投げ捨て、勢いよくしゃがみ込み、ついでに膝の中に顔を埋めてしまった。
「なん、なの……?」
身体半分、花畑に埋もれているパメラに近付くヴァージニア。
顔を上げたパメラはもういつもの通りだったけれど、むすっと逆ギレでも起こしているような顔だった。
「ナイフ舐めるって怖いじゃない! 唇切ったりとか、舌切ったりしたらどうしようとか思っちゃったのよ」
頬を紅潮させ、涙目ながらに羞恥に打ち震える彼女。
「えぇと……?」
「いえ、ごめんなさいジニー。ちょっとした悪戯のつもりだったのだけど」
「……は」
脱力。
それと共に口から全ての空気が抜け出し、あとに残ったのは、つまらないそれに対する怒りだった。
「……んなの……なんなのよ。あたし。パメラと戦うのって思っただけで、手が震えて、頭の中わけ分かんなくなって」
「ジニー……?」
「そんな服着て、ナイフ振り回して、敵になっちゃったんだって。それで、それなのに――ひどいよ」
「こ、この服はね。私のローブ、青い奴にぼろぼろにされてね。リリィに貰ったのよ。ちょっと、胸元サイズきついんだけど」
軽く当てこすられていることに、遠巻きながら睨み付けて来るリリィ。
「えぇと。ご、ごめんねジニー。泣かないで!」
「パメラの、馬鹿」
と、口にするか否か。半年間、いつもそうされてきたように頭から抱き締められ、もう何も文句を言えなくなってしまうヴァージニア。
この姉は、ズルイ。
「本当にごめんなさい、ジニー。あのね、私は冗談なのだけれど――あちらは、冗談じゃなくて。先にジニーを引き離しておきたかったのよ」
妙な単語がヴァージニアを掠める。
「あちら?」
それを指し示すものは、そう多くはない。
「イスカ君――いいえ、ジル叔父さんには、ちゃんと女の子と向き合って頂かないと。さすがにちょっといい加減すぎると思う。私は憤慨しています」
「……気付いてたの?」
「薄々ね」
パメラはヴァージニアの両肩を持って半回転させ、イスカリオットとリリィが見えるように花畑に座らせる。その後ろ、ぴたりと身を寄せ、抱き付くようにパメラもまた腰を下ろすと、
「本当言うとね。お花畑を仲良さそうに歩いてくるふたりを見て、ちょっとだけ妬いちゃったってのもある」
ヴァージニアの耳元で囁くパメラ。
顔は笑っているのに、何故だかその声が一際恐ろしく響いた。
「ふんだ。パメラだってあの娘にパムとか呼ばれてたじゃないのさ」
「あ。それもそうね。じゃあ、おあいこか」
この姉は、本当にズルイ。
「――ていうか、そもそも敵じゃないの。あの娘」
「あら。悪い娘じゃないよ?」
「そりゃ、直接被害は被ってないけど。そうじゃなくって」
「うーん。今のジニーにとって、ジル叔父さんは敵なの? てのと同じ話かな」
それは、理解できなくもない話だった。
◆◇◆◇◆
どうやらあちらはパメラの行き過ぎたお茶目ということだったらしい。それが分かると同時、イスカリオットは胃を捩じ上げられるような痛みを感じた。というのは勿論精神的に、であるが。
城門前には変わらず、氷の表情を湛えたリリィが仁王立ちしている。まだ一言も口を利いていないが、それ相応の心変わりがあったのは確かのようだ。僅かながらに聞こえていたパメラの言葉から察するに、イスカリオットがリリィをぞんざいに扱っていたということへの不満なのだろうが。
(ちゃんと向き合え、か)
イスカリオットに全く心当たりがないわけではない。
それはリリィの真意を知りながら、そのようには行動していなかったことを言うのだろう。具体的には【魔王】イスカリオットが全くそれらしい活動をしていなかったこと。【魔王】は【勇者】を探し出すためだけに組織の力を利用したこと。その辺のことを帰還したヤヌシュから聞いたに違いない。
「イスカ様」
口火を切ったのは、リリィ。
「おう」
怒っている。間違いなく苛立っている。多少、気圧されそうになりながらも、表面上は何とか平静を保つイスカリオット。端から見れば、妹――的存在――に叱られようとしている兄のような構図だが、勿論、中身はそんな単純な話ではない。リリィが人間の年齢に換算していくつなのかは聞いたことさえない。
「先立って、ヤヌシュが戻りました」
「そうだろうな。煉獄の間で待つと言われたからな」
「その際、奇妙な話をされました」
「奇妙、ね」
「イスカ様が【勇者】と手を組んで、パム――あの娘を取り返しにくる、と」
「そうだな。アザゼルの阿呆が勝手な行動を起こした分はな」
「アザゼルは、私が――最終的には、パムが倒しました。遺体は葬りました」
「そうか。手を煩わせたな。ありがとう、と言うべきか」
「実際、対峙してみると想像以上に手強い相手でした。イスカ様が一目置かれていたのも分かったような気がします」
「だろう? 直情的な奴は御しやすくもあるしな」
「とはいえ、想像以上ではあったものの、想定以内ではありました。さほど目新しい驚きは無かったという意味では、やはりあの巨人に先々はなかったのでしょうね」
「ハハハ、リリィは手厳しいな」
「イスカ様――」
「おう」
一拍置かれる。
僅かな空隙が無限に積み上げられていくような錯覚を覚える。
「心変わり……とは、何のことでしょうか」
「突然そう言われても、それはこっちが何のことだと聞きたいぞ」
「ヤヌシュが言ってました。イスカ様は心変わりをなされた。元々その気はなかったのだ、と」
「なるほど。奴はそう言ったのか」
平穏で平坦だったリリィの表情にささくれが目立ち始める。多くの、余程のものを噛み殺していることは想像に難くない。
「……【魔王】はもう廃業ということでしょうか」
「そうだな……それは【魔王】をどういったものと考えるのか、によるんじゃないのか」
「言葉遊びはご遠慮願います」
「そんなつもりはないんだが――俺にとっちゃ黒き紋章は取り除けないものであって、これがあるが故に【魔王】と呼ばれる。つまり、廃業したくても出来ないってわけだ」
再びリリィが口を開こうとしていたので、それを制する形でイスカリオットは矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
「ただし――地上侵攻、人間種族殲滅、世界征服など、リリィがよく口にしていた魔界の未来に関する覇道とやらはやらない。それについては、廃業だ。というより、最初っから興味なかったし廃業というよりは、起業すらしていない状態だったというほうが正しいわけで」
刹那、ギリリという明確な、強烈な歯軋りが聞こえた。
無論、正面のリリィからだ。
(あ。これ、ダメな奴だ)
喋りながらイスカリオットには、今自分がとんでもなく酷いことを言っている自覚が生まれていた。同じ意味合いの内容を言うにしても、もう少し言葉を選ぶべきだろう。とにかく、どうにか言い直そうとして、その瞬間、後頭部にふたつの衝撃が走った。
「つぁッ!」
恨みがましく振り返ると、いつの間にか傍まで来ていたヴァージニアとパメラがそれぞれ腕を振り抜いた形で仁王立ちしていた。表情は明白な怒りと、ダメだコイツは、という一種の諦観のようなものを同居させて。
「叔父様? それはないわよ?」
「イスカ? もうちょっと考えて?」
「考えるも何も、これは俺が人間を滅ぼすかどうかって話だぞ!」
「そうじゃなくて。今の論点は元々その気がなかったのかって話でしょう」
「そうね。騙して誑かしてこの娘を良いように使ってたってことなんだと思うけど」
「ちょ、そこまで人聞きの悪い話かっていう――」
言いかけて。
イスカリオットは口を噤み、言葉を飲み込んだ。事の大小の問題ではないと気付いたからだ。
過去、アザゼルを問答無用でぶっ飛ばした辺りから、リリィが好意的な態度を示してくれるようになった。献身的に動いてくれるので、ついつい頼ってしまった面もある一方で、リリィの思いや希望については耳を傾けず、目を逸らしてきた。
話すべきかどうか。伝えるべきかどうか。
ちゃんと向き合ってこなかったことが、イスカリオットにはある。今のリリィを否定することにも繋がるからだ。
(ツケか……うん、ツケだな。これは)
いずれにしても、ていの良い言い訳でしかないし、頭を叩かれた女子ふたりの騙して誑かしてきた表現も過言ではない。
「もう、いいです。イスカ様、決闘しましょう」
落としどころを考えて唸り続けるイスカリオットに対し、リリィが溜め息交じりの提案を持ちかけた。
「はい?」
「決闘です。【魔王】と、魔王の」
「いや、ちょ……いったん落ち着こうリリィ」
などと、イスカリオットが言ってる間に、リリィは手の平を振ってヴァージニアとパメラを下がらせる。その意図を汲み取ったふたりが渋々と元いた花畑まで後退したところで、
「さぁ、始めましょう」
「だから待てって。こんなことでつまらん怪我を負ったり、最悪、命を落とすような結果になったら――」
「私は【魔王】イスカ様のため、何時如何なるときでも命を投げ出す覚悟でいましたが」
「じゃ、若干重い、かな。リリィはもうちょっと気楽に生きていい、と思う」
「イスカ様」
「はい」
「つまらない怪我を負ったり、最悪、命を落とす結果になるのは――どちらでしょうね?」
ぶわっ、と。
リリィを中心に広がった空気の皮膜がイスカリオットの頬を叩いた。同時に力ある言葉を彼女が紡いだことで、地面が盛り上がり、独りでに泥のゴーレムを形成していく。
「おいおい……」
そう、泥のゴーレムだ。リリィが得意とするいつもの人形だ。と思っていたら、それだけではなかった。あっという間に彼女の上背を越えたと思ったら、高速で横幅を増やし、イスカリオットとリリィを中心にして円形状に取り巻いていく。そして、最後には上部も塞がれ、ドーム型の密室と化してしまった。
とはいえ、所々に隙間があるので完全なものではないのだが、薄暗いその中でリリィは改めてゴーレムの召喚を行う。今度こそ、それなりの泥人形が現出した。
「イスカ様は私の力に干渉して、魔法生物を瞬時に、一斉に無効化してしまわれますからね。どうですか、これなら」
「なるほどな」
「ちなみに、内側からの物理攻撃程度では破れませんよ」
自信満々に吐き捨てるリリィに対し、イスカリオットは内心舌を巻いた。
単純な魔力の強さ比べでは、イスカリオットに圧倒的軍配が上がる。が、今この状態でゴーレムを無効化しようものなら、確実にふたりの頭上を覆うドームも巻き添えにしてしまうだろう。
すなわち、イスカリオットがリリィの力に干渉すれば、その制御を失った大量の土砂が覆い被さって、自身もろとも生き埋めにしてしまうという算段だ。
「よく考え付くねぇ……これじゃあつまらない怪我を負うのは、ふたりともじゃないか」
死にはしないかもしれない。が、ドームに大きな石が紛れ込んでいて、たまたま頭を直撃するような運の悪いこともないとは言えない。それでも魔族ならば、脳天直撃したところで死にはしないのかもしれないが。
「イスカ様。力を持つ者がその力を最大限に行使しないだなんて、持たざる者への冒涜ですよ」
泥のゴーレムが、はたまたカタカタと肉のない身体を掻き鳴らす白骨のスケルトンが、リリィを囲うようにその数を増やしていく。イスカリオットの間合いを犯そうとする者については、問答無用でぶん殴って土へと還す。それだけなら、魔力の干渉にはならない。
「そうか? 世界最強の勇者でも魔王でも、伴侶を貰って、家庭を築いて、慎ましやかに生涯を終えることを望んでもいいと思うぞ」
空気が明らかに変質した。
暗がりの中なので表情は良く見えないが、しかしそれはリリィから発せられるものだと分かり過ぎるほどに分かった。
(あ。これ、またダメな奴だ)
当て付けや、揶揄するつもりはなかったのだが、しかしそれは今のリリィにとって鬼門中の鬼門。逆鱗に抵触したといっても過言ではなかった。
「イスカ様――」
「はい」
「何故でしょうか。魔王は何故、世界を征服しなくなったのでしょうか」
「さぁね……俺は【魔王】だからその質問には答えてやれない――が、魔族だろうが魔王だろうが、自分の子らの無事を、安寧を願うことはさほど不自然じゃないと思うけれどな」
「私の父、魔王ベルゼブブは私の身を慮ってくれていたと?」
「父上だけじゃない。母上もだな」
かつて、イスカリオットは魔界の七大公爵家のひとつ、魔王ベルゼブブと謁見したことがある。その傍らにはベルゼブブの妻ニコールも寄り添っていた。
紋章持ちとはいえ、ただの人間であったイスカリオットにも敬意を忘れなかったふたりの願いは、娘であるリリィ・ベルゼビュートの息災、ただそれだけだった。それは魔界における公爵家の権威復興を目指し、【魔王】イスカリオットを心酔してきたリリィ本人の思惑とはまるで異なる。
そこにイスカリオットとリリィのズレが生じていた。
それが向き合ってこれなかった部分だ。
「やっぱり、あの女が……」
「ん?」
「あの女が父上を誑かしたのか!」
「なんでそうなる」
愛する女性に巡り合い、子を授かって、その結果、血気盛んな性格は鳴りを潜め穏やかに取って代わられた。それを誑かしたと表現するのなら間違いではないかもしれないが、少なくとも人間の中では良くある話だろう。老いてなお血気盛んという者もいれば、別人のように丸くなったという者もいる。
そのどちらもごく自然なこと。
「私は見返してやらなければならないのです。大した手柄もないくせに胡坐を掻き続ける他の公爵家を、いつまでも父上を見下し続ける腐敗した連中を――ッ!」
「ああ、いいんじゃないか。それは」
「なん……ッ!」
矛盾した物言いに言葉を詰まらせるリリィ。
「辛酸を舐めさせられた相手を見返してやりたい、そのために頑張る。それは大いに結構――その方法は何も世界征服だけに限ったことじゃないよな」
「戯言ですッ! 魔族として、魔王の眷属として生を受けた以上、世界を手中に収めることこそ至上命題!」
「リリィの主張は女のものとは思えないときがあるな。でも、だったらそれこそ矛盾しているぞ。【魔王】イスカリオットの配下リリィ・ベルゼビュートではなく、魔王リリィ・ベルゼビュートとして世界征服すべきだ」
「――ッ!」
「でもな。出来れば、世界征服のような物騒なこと以外でお願いしたいね。他の公爵家の連中を見返すために頑張る。そのために俺が力を貸せることなら貸そう」
「わ、私――わたし、は……」
「この際、家柄なんてどうでもいい。リリィ自身はどうしたいかだ!」
「私、自身……」
にじり寄って来るスケルトンを拳で力任せに叩き伏せ、やや呆然とイスカリオットの言葉を反芻するリリィに歩み寄る。
「簡単に……言ってくれますね。イスカ様」
「しがない家系の人間だからな。もちろん、家を大切に思うこと自体は間違ってないさ。でもな、それだけに捕らわれる必要はないはずだ」
「そうですか。でも――」
リリィの最後の言葉。
それが最後になると思ったのは、イスカリオットが干渉するのではなく、リリィ自身が魔力の維持を放棄することによるドーム崩壊の予兆が見て取れたからだ。
「いずれにしても、イスカ様をこの先に進ませるわけにはまいりません。ヤヌシュがとても恐ろしいことを企んでいるから」
「なに……?」
途端にゴーレムやスケルトンがばらばらと崩れ、ドーム状の天井が連鎖的に崩れ始める。
けたたましい轟音と共に。
「おい、乱暴過ぎだッ!」
道を塞ぐ崩れ掛けの魔法生物を蹴散らしながら、リリィの元まで走るイスカリオット。崩壊はまさに一瞬だった。崩れ去った魔法生物の上に、更に崩れた天井が覆い被さる。同じように土砂がリリィを飲み込むより一瞬早く、彼女の前に到達したイスカリオットは覆い被さるように彼女を押し倒す。
リリィ起点の突然のことだったので、防御を展開する間もなく。
(ジニー、パメラ頼む……ッ!)
外で見守っているはずのふたりをアテにするしかない。
無限の重みと鈍痛を背中越しに感じながら、柄にもなく祈った。
声が、聞こえる。
イスカ、イスカ、と。何度も名前を呼ぶ声だ。
だが、その声は何らかの膜を通したように不鮮明で、非常に聞き取り辛いものだった。
(ああ、土……土ん中か……)
ぼんやりと上手く思考が働かないが、気を失っていたのはどのくらいだろう。
おそらく土のドームが崩壊してその直後、幾らも経っていないとは思うが、なにぶん息苦しい。背中に覆い被さるものは固く重く冷たく、それ以上のものではなかったが、身体の下にはあるものは柔らかく暖かく、浅くはあるが呼吸も感じる。
(無事か……?)
四つん這いのような体勢ではあるが、手足ひとつ満足に動かすことが出来ない。どうにか土を押し返せないか、背中に力を込めてみるが、劇的に何かが変わる気配もない。どれほどの土が覆い被さっているのだろう。
「ぁぁー……あぁぁぁー……ぺっ」
最悪だ。口を開くと、細かい砂が雪崩れ込んで来た。仕方がないので、地表のふたりに気付いてもらえるよう、念波を送る作戦に切り替える。
さて。
しかし、だ――
どうにも自分には欠けているものが多いようだ。リリィとの対話は性急過ぎたのだろうか。彼女の気持ちを汲み取り切れなかった感は大きい。魔王の眷属だから世界支配を望むのは自然であるのと同じぐらいに、親が子供の平穏無事を願うのも自然だと思うのは、イスカリオットが魔族ではないからなのか。
と。
突然、背中の負荷がなくなり、何か巨大なものに胴を掴まれ、瞬時に中空へと吊り上げられるイスカリオットの身体。こんもりとした土の山の上で、ヴァージニアとパメラがこちらを見上げていた。
「おぉー」
「よかった、無事だった!」
女子ふたりの歓声を聞きながら、自身の胴体を掴んでいるものの正体を見る。リリィのゴーレムを流用した人の背丈の倍もある人形が全部で三体ほど、延々と土砂を掘り返しているようで、そのうちの一体に掘り当てられたらしい。
「……助かった。俺が埋まってた下にリリィもいる。頼む」
それを聞いた術者のパメラがゴーレムに命令を下すのを見て、ぐったりと両手両足を投げ出すイスカリオット。後回しにしてもらっても構わないといえば構わないのだが、地上に下ろされないまま作業は続行していた。
「どうしたの?」
と心配そうに、ヴァージニア。
「いや」
ふぅ、と。
泥だらけのまま、ひとつ大きな溜め息。
「どうやら俺には年頃の娘ひとり、言い包めることも出来ないらしい」
「意味分かんないけど……出来る男の人のほうが稀なんじゃない。それ」
「そうだろうか」
「……多分?」
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