6 楽園城郭都市エウリュメテス――内郭

 ヴァージニアが真っ先に感じたのは、生きているということへの疑問だった。

 手足には痺れのような鈍痛が残っているが、それにしたってあれほどの高所から落下した負傷にしては破格の軽傷といえる。重石を設えられたような瞼を押し開くと、まず目に飛び込んできたのは、人体を象った穴だった。そこから空が見える。

「つぅ……」

 痛がる身体に無理をさせないよう、たっぷりと時間を掛けて上半身を起こし、辺りを見渡すヴァージニア。

 一際目を引いたのは、暖炉のようで暖炉でない大きな機具だった。

(加熱炉……?)

 その周りには、無造作に打ち捨てられた刀剣やハンマーがあって、またそれらとは別に鍬や鍬などの農耕具も並べて立て掛けられていた。あと分かるのは、全体的に金属独特の据えた臭いがこびり付いて、目に見えない膜を作っていること。

 部屋自体が薄暗く、明かりは自分が開けたと思しき天井のそれだけ。あれさえもなければ、ここは完全に閉ざされた場所なのだろう。

「やあ、無事かい?」

 イスカリオットの声は、真後ろからだった。

「アンタ……」

 振り返りながら、ヴァージニアの脳裏に最後の瞬間が蘇る。

 自分が置かれた状況を忘れ、落ちていくところをイスカリオットに助けられた。最後の最後までは覚えていないけれど、概ねそんな感じだったはずだ。

「ごめん。あたしのせいで……」

 刀身が曲がっている出来損ないの剣を拾い上げ、二度三度振りかぶりながら、何が? という表情を浮かべるイスカリオット。

「落下の衝撃はなかったと思うんだけど、あの屋根を突き破るところまではフォローできなかった。もしかしたら打ち付けた痛みが残ってるかもしれないけど、大丈夫?」

「う、うん。大丈夫……」

「そう。良かった」

 本当はそれなりに痛むけれど、口にするだけでもバチが当たるような気がして、ヴァージニアが選んだのはやせ我慢だった。そんなことよりも先にお礼を言わなければと、再び口を開いたところ、イスカリオットの続けざまの言葉に遮られる。

「しかし、偶然ってのは怖いねぇ……なんでここに落ちるかな」

「え、知ってるの? ここ」

 見るからに作業場だった。もっと言えば、鍛冶屋だ。それ以外の何物でもない。

「ここはねぇ。今日周ろうと思っていた武器屋のほとんどに品を卸しているエウリュメテスでも指折りの鍛冶屋、ファーマメント工房だよ」

「へぇぇ」

 今一度、暗い部屋の中を見渡す。けして無造作に散らかっているわけではないが、試作品や失敗品なども含め、物が多いから乱雑に見えてしまうのだろう。

「屋根……穴、開けちゃったね。謝りに行かないと」

 見上げる。ふたりが折り重なり合っている見事な穴だ。薄い石質の屋根なのだろう。仮に板金だったら穴が開くことはなかったかもしれない。

「んんー。まぁ、その必要はないんじゃないかな?」

「は?」

「もうすぐ――」

 そんなイスカリオットの言葉を裏付けるように、ふたりの左手にあった工房の金属製の扉が物々しく開かれていく。

「まぶし」

 暗闇に慣れきったせいか、網膜を刺すような光に当てられ、まともに見ることが出来ない。けれど、細めた視界の中でひとりの男性の姿を確認する。

「お前……ジルか!」

 な? と肩を竦め、同意を求めてくるイスカリオット。

 酷くしゃがれた声音から、相手は結構な老齢であることが窺えた。

 それよりも、

(ジル……?)

 誰のことだろうというヴァージニアの胸中をまるで読み取るかのように、

「あ、本名。俺の」

「は? え……えぇ?」

 事も何気に言い捨てるイスカリオット。

「素直に帰って来れんのか、馬鹿者が。工房に落雷でもあったのかと思ったぞ!」

「はいはい。悪かったよ、オヤジ」

 邪険というほどのものでもないが、ヴァージニアとパメラの前では温和な態度を貫いてきた【魔王】らしからぬぶっきらぼうな口振りだった。

(オヤジ……?)

 オヤジ。つまり、父親。

 イスカリオット――本名ジルの生みの親。だが。

 ヴァージニアの違和感はほんの些細なことではあるが、看過するには少し難しいものだった。

 ようやく目が外の光に慣れて来て、改めて見たイスカリオットの父親の第一印象は非常に小さかった。腰がやや曲がっているせいもあるのだろうが、もしかしたらヴァージニアよりも小さいかもしれない。

 加えて、苦労を思わせる真っ白な髪。顔全体に深く刻まれた皺。声音から想像した結構な老齢には違いないのだが、それだとあまりにもイスカリオットとの年齢差が

 お爺ちゃんと孫。

 そう言ったほうがしっくり来るぐらいに。

「母さんは?」

「アァ? 放蕩息子の身を案じながら三年前に逝きおったわ。貴様が連絡ひとつ寄越さんからなッ!」

「そう、か……それは、悪かったな……」

「フン、あとで墓を教えてやるからせめて顔見せしてから行け! それはそうと――」

 激しい気性が鳴りを潜め、その視線がヴァージニアのほうへ向く。

 突然のことで畏まってしまったヴァージニアはその場で小さく飛び上がり、正座にて着地。深々と頭を下げる。

「お前の嫁か、ジル」

「は、はぁ?」

「いやー。それだったら良かったんだけどねぇ」

「な、ちょっと、おいッ!」

「フン。お前には若すぎるな」

 ヴァージニアが首を傾げざるを得ないことを吐き捨て、彼は踵を返した。背中越しに「飯でも食っていけ」と言い残し、母屋のほうへ戻っていく。作業場で取り残されたふたりはしばらく固まっていたが、

「行くか。言い出したら頑固だしなー」

 と、イスカリオットが苦笑交じりに呟いたので、ヴァージニアもそれに従うことにした。



「ちょ……本気……?」

「あんま端っこ行くと落ちるぞー」

 現実味のないあまりにもな光景に絶句するヴァージニアに対し、慣れたものだといわんばかりのイスカリオットが暢気な声を上げる。

 イスカリオットの母親が眠っているのは、エウリュメテスの内郭と呼ばれる地域の更に奥――グレイトホールに隣接する切り立った崖の上の墓地にあった。不意に風に煽られただけでも足を滑らせてしまいそうな、そんな所にある。

「ここって、天気が悪い日だと雨が下から上に昇っていくんだよな」

「どうでもいいわよそんなこと!」

 イスカリオット曰く、不謹慎ながらこの墓地は子供の頃の遊び場だったらしい。

 こんな常識外れの光景に子供心がくすぐられる――そんな話も分からないでもないが、足を滑らせたら一巻の終わりとしか言いようのない巨大なこれを前にしては、男の子は馬鹿じゃないのかの一言しかない。

「まぁ、落ちても運が良ければ生きて魔界に辿り着けると思うよ」

「聞いてないわよそんなことも!」

 墓地の奥に進むにつれて、足が竦んでいく。ヴァージニアはもう横に目を向けないことにした。

「故人の寝床で大声張り上げるもんじゃないよ」

「くッ……」

 確かにご指摘の通りなのだが、そういう風にしか出来ていないと思わせる造りだ。第一、子供の頃の遊び場だったという奴に言われたくない。

「ここか」

 比較的奥地にあった白い墓石の前で立ち止まるイスカリオット。

 刻まされた名前は、アゼリア・ファーマメント。

 縦長の墓石に刻まされた逆さ松明の意匠は、旅立った向こうの世界でも魂は健在であることを示していると、昔父親か母親に教わった気がする。

 墓地の入り口近くにあった花屋で見繕ってもらった花束を置き、頭を垂れるイスカリオットに倣ってヴァージニアも目を閉じる。

 ややあって。

「……悪いことしたな」

 ぽつりと、イスカリオット。

 何と言えばいいのか分からなくて、ヴァージニアは無言を貫く。

 所在なさげに指が泳いだ先は、腰にぶら下がった新しい剣の柄だった。事情を知ったイスカリオットの父親が持たせてくれたものだった。口は悪いし、態度は横柄だったけれど、この剣で息子を守ってやってくれと言われたときには、思わず頷くしかなかった。

「三年前、か……ちょうどヤヌシュと出会った頃だな」

「……【魔王】イスカリオット軍の旗揚げですか」

「そんなとこだ」

「あの、さ」

 違和感。

 そう、ヴァージニアの胸を占めているのは、違和感の一言だった。

 それを口にすべく、一呼吸置いて、溜める。

「間違ってたら悪いんだけど。アンタって、この時代の人間じゃないの?」

「はい?」

「ん……いや、この時代ってことはないか。なんかね、、奇妙な違和感がある」

「なるほど、鋭いね。まぁ、俺と親父を見比べれば察しは付くか」

 行こう。と、来た道を顎でしゃくるイスカリオット。故人に聞かせる話でもないようだ。またあの崖っぷちの道を戻るのかと辟易もするが、帰るにはそうするしかない。

「白だろうが黒だろうが紋章を持った人間は身を危険に晒す羽目になり、なんだかんだで短命なんだろうね。だからあんまり知られていないんだろうけど――」

 そこで言葉が止まる。

 後から考えれば、それはヴァージニアの覚悟を促す間だったのだろう。イスカリオットは白だろうが黒だろうがと言った。つまり、色は関係なく忌まわしき紋章持つ者全てに関係する話なのだ。

 話が再開したのは、相変わらず眩暈がするような崖の淵を歩き切り、石造りのアーチが掛かった墓地の入り口まで戻ってきたときだった。

「俺も驚いたんだけどね。この紋章、不老の効果もあるみたい」

「え――」

「寿命が飛躍的に延びるのか、それとも見た目の老化を防ぐだけで、あるときパタリと逝ってしまうのかは分からないけれど。どうやらそういうことらしい」

「そういうこと、って……」

「ヴァージニアが紋章を発現させたのは、半年前だっけ」

「うん」

「じゃあまだ気付かないだろうけれど。このまま生き延びることが出来れば、ずっと今のまま、かな」

「え……えええ、えええぇぇぇぇぇ――ッ!」

 あまりの大声に驚いた花屋の店主が何事かと顔を覗かせる。イスカリオットが会釈して何でもないように見せてくれるが、ヴァージニアにはそんな余裕さえなかった。

 目も眩む大穴の横を通り抜けて、ようやく墓地の入り口に戻ってきたというのに、また足元の地面が失われるような感覚に立ち眩みを覚える。

 まだ人生の岐路にも立っていないヴァージニアのような小娘が何を言うのかという話だが、若いのはいいと思う。若さは武器であるとも思う。だが、いつまでも変わらないままそれがいいという話ではない。

 ヴァージニア自身、いつまでも若くありたいと思っているわけではない。然るべき年月の経過と共に、然るべき大人へと成長していく。そして、然るべき出会いを経て、然るべき暖かな家庭――

(は、この紋章のせいで無理かもって思ってたけどッ!)

 とにかく。

 人並みに考えていたことが全て覆された瞬間だった。

「うそ……でしょ……」

 今度こそ、本当にへたり込むヴァージニア。

 居た堪れない表情のイスカリオットを焦点定まらないまま見上げ、

「じゃ、じゃあ……アンタって、実はかなり年上? オッサン?」

「人にいきなり年齢尋ねるなんて無粋と思わない?」

「アンタには思わない」

「ひっど。見ろ、この若々しい少年を掴まえてオッサンとは失礼な」

「――そう言っちゃうときが来るんだ。あたしにも」

「キミは俺が何言われても傷付かないとでも思っているのか?」

「はは、ははは……」

 乾いた笑いしか出ない。

 茫然自失というのはこういうことを言うのか――と考えられる辺り、自失とは言い切れないんじゃないかとか、全く意味のないことが頭の中をぐるぐる回る。

「もし――」

 そんなヴァージニアだったから、イスカリオットの次の一言が殊更響いた。

「紋章を消す方法がある、と言ったら……どうする?」

「へ?」

 紋章を消す方法がある。

 彼は今、そう言ったのか。

 本当にそんな方法があるのだとしたら――

「どうするも何もないよ! あるの、そんな方法?」

 今し方知ったばかりの不老の件はさて置いたとしても、ヴァージニアにとってこの白き紋章は日常生活を脅かされた象徴である。取り払えるものなら取り払いたい。そんなの、当然だ。

 だが、そこから先、イスカリオットは口を噤み、なかなか喋ろうとしなかった。

 方法は、あるにはある。が、その道のりはとても困難であることを彼の表情がまざまざと語っていた。

「やはり、そういうお話ですか」

「――ッ!」

 いつの間にか、もうそんな時間だった。

 茜色に染まり始めている空と雲。美しく繊細なそれらの中にたった一点。黒点の染みの如く、その人物は中空で静止していた。重苦しい灰色のローブを身に纏う乳白色の髪の男。

 イスカリオットに代わって声を発したのは、セントヘレナ地方の森で気性の荒いアザゼルという魔族と共にやってきたあの男。不思議な小箱を使ってヴァージニアの剣を折り、イスカリオットに「勝てない」と言わしめる優男だった。

「……どういう話ならお前の好みだったんだろうな?」

 いつまで経っても夕暮れの黒点から動こうとしないヤヌシュに向かって、イスカリオットが問う。

 次の瞬間、溜め息と共に漏れた言葉は、

「先に報告だけしておきましょうか。単独行動を起こしたアザゼルがパメラ・エウリカを拘束したようです」

「なん……ですって……ッ!」

 何よりもヴァージニアを金縛りにせしめた。

「どういうことだ、ヤヌシュ。お前がいながらアザゼルに好き勝手させた――そういうことか?」

 詰問口調のイスカリオットだったが、対してヤヌシュも動じることなく淡々と言葉を紡ぐ。

「元々私にはそういった仕事が割り振られておりませんので。アザゼルの動向に注意しろという貴方の命を受けていたリリィは出し抜かれたことに地団太踏みながら魔界へとんぼ返りしましたが」

「なら、今の俺の胸中を慮って、リリィのフォローに向かってくれてもいいもんだが?」

「そこまで気を利かせて取り組むつもりなど毛頭ありませんよ。ましてや、人間如きのためにアザゼルの面倒など。それは本来であれば、貴方の仕事と言えるでしょう――ねぇ、イスカ様。【魔王】ともあろうお方が何故、その女性と行動を共にしているのですか?」

 その女性のところで、ヴァージニアを顎で指し示すヤヌシュ。

(なに……?)

 背筋がぞっと凍えた。

 空からヴァージニアを見下ろすヤヌシュの瞳には、深い憎しみの情念さえ篭もっている――そんな風に見えたからだ。

 少々意外だったのは、その気配を敏感に感じ取ったイスカリオットが奴の視線からヴァージニアを隠すように一歩前に出たことだった。

「黒き紋章を持つ【魔王】とあろう者が、白き紋章を持つ【勇者】といつまで馴れ合っているのか――常に疑問視しておりましたが」

「聞いていたんだろ? なら、そういうことだ。別に俺個人、ヴァージニアに恨みがあるわけでもないし、たまにはそんな【魔王】が居てもいいんじゃねぇ?」

「お戯れを……その一際強い【魔王】の力を存分に振るえば、やがて訪れるであろう輝かしい覇道を放棄されると?」

「お前がどう思ってたのか知らんが、一際強いらしい【魔王】は同じく一際強い【勇者】を探し出すために頑張ってた。それだけのことだ」

「くだらない。非常に残念です」

 突然のことだった。

 若干、置いてけぼり感はあったけれど、それでもこの緊迫した状況の中、瞬きなどという油断をしたつもりはなかった――のだが、それでも瞬きをしてしまったかのように、そしてその間に宙に浮かんでいた黒点は消え失せていて。

「……ぐッ!」

 それもまた突然のことだった。

 ヴァージニアは背中から左腕を捻り上げられ、痛苦の呻きと共に息を漏らす。

「いつの、間に……!」

「下手な抵抗はおよしなさい。無防備な貴女の腕をもぎ取るぐらい、造作もないことですよ」

 肩越しに優男の声が絡み付く。

 背後を取られ、腕を極められたヴァージニアは言うに及ばず、イスカリオットも完全に不意を突かれた様子で振り返る。

「それで? 【魔王】イスカ様。これからどうなさるおつもりですか」

「どうなさるもなにも、まずはその手を離せ。ヴァージニアを解放しろ」

世界共鳴機関レゾナンスユニットは正常に稼動している……が、人が介在すると、こうも思い通りに事が進まなくなりますか」

「れぞ……ゆに?」

 全く聞き覚えのない類の単語を耳にし、ヴァージニアは腕を捻り上げられているのもしばし忘れ、目を丸くした。幾分、声のトーンを下げたイスカリオットが不満そうにその後を次ぐ。

「そりゃそうだろ。機能的に相対すモノをばら撒いただけで、自動的に争いに発展するなんて浅慮過ぎるだろ。あまり人間を舐めるな」

「それが人の心だと仰るわけですか。くだらない」

「いいから俺の話が聞こえなかったのか。ヴァージニアを放せ」

 そんな口頭のやり取りだけで「はい、どうぞ」といくわけがない。何とか自力での脱出を試みようとした矢先、ヴァージニアは突き飛ばされるようにして解放された。勢い余ってよろめいたところ、イスカリオットに抱き止められる。

「てめぇ……」

 それが更にイスカリオットの感情を逆撫でした。

「いいでしょう。貴方の思惑通りに事が運ぶのかどうか――その身を以って試されるがいい」

「へぇ、とうとうその優男の面も剥ぐってことか。面白いな、月の使徒さんよ」

「煉獄の間でお待ちしておりますよ、【魔王】イスカ様」

 そうして、ヤヌシュは夕闇の中、風景に溶け込むように消えていく。

 その姿が完全に見えなくなってもまだ視線を外さないイスカリオットを窘めようとしたヴァージニアに対し、【魔王】はある種の覚悟を強いる話を始めた。



「――この紋章を?」

「ああ。白き紋章と黒き紋章、人工の【勇者】と【魔王】というランドヴァースの仕組みを作ったのはあの男、ヤヌシュなんだよ」

「どういうことなの……あ、紋章を消す方法ってのもアイツを倒せばいいとか、そういう?」

「最終的にはそういう話になる。が、とりあえず、少し状況が変わってしまった。どこぞの馬鹿のせいでな」

「そうだ、パメラ――!」

 おもむろに頷いたイスカリオットは再び墓場への入り口――というよりは、その横、グレイトホールの断崖絶壁に立って、ヴァージニアを振り返る。

「アザゼルの狙いは明確だ。彼女の命を取るような真似はしないと断言はできるが、俺は一旦魔界へ戻る。キミはどうする?」

 問い掛け自体、他意のあるものではなかった。

 パメラはお前の友人なのだからという理由にかこつけて、ついて来いという強要を促すものでもなかった。煉獄の間とやらで待ってると告げたヤヌシュのこともあり、それには相応の危険が伴うということを暗に言いたいのかもしれないが、

「どうするも何もパメラは私の親友。だから、助けに行く」

「そうか。愚問だったか」

 断崖絶壁に映える夕日を背に微笑むイスカリオット。時折、この【魔王】は何を考えて行動しているのか、ヴァージニアには分からなくなるときがある。特に今日みたいな日には。

「これ、飛び降りるの……?」

 恐る恐るイスカリオットの横に立ち、改めて、規格外の漆黒の穴を覗き込んだヴァージニアは声を震わせる。

「なんだ。かっこよく決めても、やっぱ怖いのかい」

「た、たたた助けに行こうと思う気持ちと、この穴の得体の知れなさは別物よ!」

「グレイトホール――月から飛来せし隕石が地表を突き破り、この虚無の大穴を形成した。といわれてるけれど、真偽のほどは不明」

「アンタも、知らないの?」

「俺の知らないことなんて、この世界にいくらでもあるもんだよ」

 穴の中には光が届いておらず、当然のことながら底は見えない。それは光が届かないから暗くて見通せないというよりは、暗黒物質のようなものがこびり付くように鎮座していて光を拒んでいるというようにも窺える。

 エウリュメテスで暮らしている人々には、当然のようにそこにある景色なのかもしれないが、ヴァージニアには、けして自然界にあってはならない異質な存在で、いつまで経っても見慣れることはないだろうと思わせるものだった。

「――っと、そうだ。俺、ヴァージニアにお礼を言いたかったんだ」

 この期に及んで、やぶからぼうにイスカリオット。

「お礼?」

「そう、お礼。ヴァージニアもお察しの通り、俺にも色々と事情があって、この街は何というか、嫌いってわけじゃあないんだけれど……歩き辛いと感じることはあったんだよな。でも、今日は楽しかった」

「大変だった、の間違いじゃないの」

「そんなことはないさ。何年かぶりに親父と話す機会があって、母さんは……ちょっと親不孝なことをしてしまったかもしれないけれど、墓参りすることは出来た。感謝してる」

 それでさえ、ヴァージニアが逃げ出した空で勝手にやらかした偶発的なものでしかないのだけれど、本当に感謝されているみたいなので茶化すのは止めにした。

「実を言うとな。街中で追い掛けられてるとき、ほとんどがご近所の顔馴染みだったり、学生時代の同級生でさ。懐かしい連中だった。みんな年食ったなぁって」

「そうなんだ」

「だから、まぁ……やっぱり楽しかったよ」

 ぽんぽん、と。これも感謝の印なのだろうか。頭を撫でられながらヴァージニアはその【魔王】を横目で盗み見する。泣きそうな表情にも見えるのは、夕日が目に染みるせいだろうか。

 なんて、

「あぁ、見つけたぞ――ッ!」

「こんなところにいやがったかッ!」

「みんな、こっちだ!」

 すっかり撒いたと思い込んでいた追跡部隊がこんな街外れまでに現れた。どたどたと集まってくる人たちの中には、【魔王】に対するあからさまな興味本位の者までいる。また、視界の端に映った花屋の主人が顔を出してずっとこちらの様子を窺っていた。

(情報源はそこか!)

 断崖絶壁を背負ったまま、包囲されるヴァージニアとイスカリオット。元より飛び込むつもりだったとはいえ、逃げ道はもうそちらにしかない。

「な……んなのよアンタたち! ホントしつこいんだからッ!」

 確かに自分たちは忌諱されるべき紋章の持ち主だ。

 だからって、こんな風に街中挙げて全力で追い回すこともないだろう。それでも無理をして楽しかったと言ってくれたイスカリオットの気持ちを踏み躙られるぐらいなら、最初から門前払いされていたほうがよっぽどかマシだった。

 ――のだが。

「おい、ジルよ。お前、いつになったら帰ってきやがるんだよー」

 わいわいきゃっきゃと騒ぎ立てる連中――主に中年たちの言葉に耳を傾けてみると、そんな言葉がヴァージニアとイスカリオットの耳に届いた。

「え」

「えぇ?」

 きょとんとしたのはヴァージニアだけではなかった。有り体に言って、イスカリオットも同じ顔をしている。

「ちょっと、あれ。本当にジル君? 全然変わってないじゃない!」

「ヤバイ。昔、告白されてお断りしたんだけれど、今からでも間に合うかしら」

「それはさすがに旦那に言い付けるわよ」

 と、さり気なく本人の古傷を抉るような会話が女性たちの間で展開されていたり、

「ジル君、なんで若いままなの?」

「なんとかって紋章のせいらしいぜ」

「本当に? ちょっと、それってどこで手に入るんだよッ!」

 などなど。

 少し耳を澄ましてみると、さすがはエウリュメテスとしか言えなくなった。ヴァージニアの理解の範疇を超えた、イスカリオットの昔馴染みたちの会話が繰り広げられていたのだ。

(えぇー……なんなのこの街、この人たち……)

 ややあって。

 ざわめく人垣が割れ、よいしょという掛け声と共に見覚えのある中年男性が前に歩み出てきた。酒場兼宿屋のご主人。髭面のナイスガイだった。

「いやぁ、悪いなジル。お前が久しぶりに帰ってきたって話をしたら、こんな大事になっちまった」

「リヴィ」

 それが主人の名前だと、後から知るヴァージニア。

「ったく。水くせぇんだよなぁ。名乗りもしねぇで。また黙ってどこかに行くんじゃないかって、追い掛け回す羽目になっただろうが」

「ああ。いや、悪い……」

 言葉でそんなことを言いつつ、なんとも気持ちの篭もっていない言い方だと、ヴァージニアは苦笑した。それは悪い意味ではなくて、イスカリオット自身、唖然としていて状況をよく飲み込めていないためだろう。ヴァージニアが当事者なら全く同じ反応を示すはずだ。

「またどこかに行くのか」

「あ、ああ……が魔族に攫われたんで取り返しに」

「本当か。まぁお前のことは心配はしてねぇけど、早く助けてやってくれ。ああ、それが終わったらまた店に寄れ。約束だぞ」

「……お、おお。分かった。約束するよ」

「連れのお嬢さんも」

「え、あ、はい。必ず!」

 一礼して、グレイトホールに向き直る。

 先に踵を返していたイスカリオットの表情は今までに見たことのない充足感に包まれていた。その胸に去来するものが何なのか手に取るように分かって、なんだかヴァージニアまで暖かい気持ちになった。

「よかったね」

「え……何か言った?」

「別に。なんでも」

 背中に受ける声援は自分のことでないにしても、ヴァージニアに一抹の希望を抱かせてくれるものだった。いつか自分もこんな風にしてミュニス村に帰れるといいなと淡く思いつつ。

「さて、行きますか。俺が魔法でサポートするから今度は暴れないでくれよ」

「分かってるよ」

 ――と。

「ちょっと待て」

 少し振り返ってみて、多大な違和感。

「ん?」

「さっき、親戚の女の子、って言った?」

「ああ、言ったな。パメラは俺の姪っ子だよ。そして、原初の血を引く現代の勇者が、アイツだ」

「……は?」

「そして、ここだけの話だが、俺はパメラのオムツを替えたこともある。あ、もちろん、本人には内緒な」

「え、ええええええええええぇぇぇぇぇ――ッ!」

 そんな、ある意味衝撃的な告白と共に、ヴァージニアの手を掴んだイスカリオットはグレイトホールに向かって身を躍らせる。

 泣きたくなるような赤い空から、ゴツゴツとした無骨な岸壁。そして、得体の知れない闇。視界は急速に入れ替わっていく。心の準備とか、飛び降りるまでの段取りとかを一切無視し、道連れのように引き込まれていく我が身を前にすると、崖の上の声援が途端に無責任なものに聞こえてくるヴァージニアだった。


   ◆◇◆◇◆


(クズがクズのくせにクズな振る舞いをッ!)

 ツギハギのぬいぐるみを絞め殺さんばかりに強く抱き締め、胸中で同じ言葉を何度も繰り返しながら、リリィは廊下を辿る。

 魔界。煉獄の間に続く最後の通路。左右均等に並べられた大理石の円筒の柱がどこまでも続くような錯覚を呼び起こさせるが、その終わりは近い。大量の血に浸したような真紅の扉まであと少し。

(イスカ様のご期待に応えられなかったなんて)

 ここに来るまでに再三クズだと罵り続けたアザゼルよりも、むしろイスカリオットの依頼を果たせなかった自分に一番苛立っている。

 アザゼルの動向を見張り、勝手なことをさせるな。

 それがイスカリオットから与えられたリリィの使命だった。そんなことよりも【勇者】の始末が先決ではと何度も思ったが、受諾した以上は忠実に履行すべき。それが【魔王】イスカリオットに忠誠を誓った者の矜持だ。

「クズが……ッ!」

 とうとう体外に漏れる。

 承った使命を十全にこなせなかった自分が憎い。

 そして、その原因となった、大した実力もないくせにイスカリオットの手を煩わせる堕天使も当然憎い。

 死ねば良いのに。

「絶対許さない」

 叫び、真紅の扉を蹴破る。

 あとで適当な誰かに修理させれば良いが、とにかく扉は派手な音を立てて部屋の中に倒れ込んだ。

 そして、そこで見た光景はリリィの感情を更に強く波立たせた。

「うるせぇなぁ……」

 部屋の中には、当然のように青い肌の巨人がいた。

 あちこち細かく傷付いているのは――おそらく、少し離れたところでうつ伏せになっているあの人間の女のせいだろう。そいつに関しては、ぴくりとも動かない。死んではいないだろうが――死んでしまえば、奴の目論みはご破算になるから――それでも相当アザゼルに痛めつけられたようだ。

 が、そんなことはどうでもいい。

「お前。何をしている」

「アァ?」

 そいつは分不相応にも煉獄の間の玉座に腰を下ろし、我が物顔で足を組んで頬杖を突いていた。

「何をしている、と聞いた」

「原初の勇者の血筋たるその女を黙らせたところだが?」

「そうじゃない。そんなことはどうでもいい。何故、貴様がその玉座に腰を下ろしている? それは【魔王】イスカ様のもの。汚れた血筋の貴様は本来触れることさえ許されない聖域よ」

「じきに俺のものとなる。多少早いか遅いかだけの話だ。問題ないだろう」

「とうとう馬脚を現したわね」

 【魔王】に対して対抗手段となり得る勇者の存在。しかも、人工的なものではなく、原初の純然たるその血筋。それを手中に収めたゆえの慢心か、アザゼルは慎重さを欠いている。そんな印象さえあった。

「血筋云々の話ならば、紋章が浮かび上がっただけのたかが人間に、この玉座は相応しくないんじゃねぇか」

「何を言うのかしら。そのたかが人間に負けたのは、誰?」

 リリィはたったその一言で、ニヤついたアザゼルの表情を破壊する手応えを得た。

 馬鹿な奴だ、と思うほかない。

 確かに血筋は重要だ。だが、それ以上に、敗者にあらゆる権利はない。敗者が言葉を語りたいのであれば、まずはその原因を払拭してからだ。それをしないまま、どれだけ大きな口を叩こうとも所詮それは負け犬の遠吠え。

 つまりは、大いに手順を損ねている。

「前々から得体の知れない女だとは思っていたが……ただ生意気なだけか」

「かつては我らが宿敵たる神々に仕え、それに反逆し、魔界に身をやつした堕天使アザゼル――リリィに言わせれば、お前が一番下賎で汚らわしい存在よ」

「一介の魔族がほざくなァッ!」

 頬杖突いていた腕を振り回し、空気の断裂を生み出すアザゼル。それはそのまま衝撃波となってリリィに襲い掛かるが、威嚇にも等しい、当てる気のない攻撃に慌てる理由もない。

「一介……? 神々から離反したばかりの新参者はご存じないのですね」

 半歩横に移動することで衝撃波をかわし、壊れた扉の向こう、廊下に飛び退っていく様を見送るリリィ。

 併せて、短絡的な物の見方しかしない、出来ない同僚への哀れみの言葉と、侮蔑の眼差し。

「なにを」

「始まりは五百年も昔、中世の時代に遡る。今でこそ魔界と呼ばれるこの領域に辿り着いた七つの流浪の民こそが全ての始まり。当時、ランドヴァース侵攻を敢行した暴食を司る原初の魔王ベルゼブブこそ、我がベルゼビュート家から輩出された者だった――といったら?」

 淡々と語りながら、リリィはぬいぐるみを放流する。

 あろうことか、そのぬいぐるみは床に落ちることもなく、中空をたゆたいながらアザゼルに近付いていく。

「黒き紋章の力に犯されし【魔王】は人工と言えど、それでも【魔王】。少なくともイスカ様はそう呼ばれるに相応しい、相応の力を秘めておられる。対して、お前はどうだ。大した実力もないくせに優良種ヅラだけは一人前。全く以って、クズと呼ぶに相応しい」

「貴様ァ……ッ!」

「お前はもうイスカ様に必要のない存在。お前の穴はリリィが埋める――といっても、さほど大きな穴ではないかしら。原初の魔王の力を目に焼き付けてクズはクズらしく死ねッ!」

 パチンと、指を弾くリリィ。

 刹那、浮遊していたぬいぐるみが閃光を撒き散らした。

 アザゼルの眼前にまで迫っていたそれは、煉獄の間の玉座をも巻き込んで、奴の肉体を燃え盛る火炎の渦の中に沈める。

「お前が汚した玉座も必要ないわ。イスカ様には新しいものを用意するから」

 周りの空気を取り込みながら延々と逆巻く業炎が天井にも届き、ちろちろと黒く焼き焦がしていく。煌々と勢いの衰えない炎を横目にしながら、勇者の女を一瞥するリリィ。

 と――

「酷いことするじゃねぇか……」

 火炎を散らしながらアザゼルが足音を響かせる。

「へぇ、それに耐えるのね。すごいわ。見直さないけど」

「小娘がッ!」

 煤けたアザゼルは何もない空間から愛用の双刃剣を取り出し、今度こそ当てるつもりの衝撃波を解き放つ。床を蹴ったリリィは身を捻りながら中空に逃れ、衝撃波が食い込み、大きな爪跡を残した壁の前に着地。

「夕闇の旋律よ――【ウムブラ】!」

 リリィの力ある言葉を起点とし、アザゼルの両脇の壁が生き物のように動き始める。壁に擬似的な生命を埋め込み、魔法生物を生成。歪な人型を形成したそれは壁を引き千切るようにして煉獄の間へと現出した。

「小癪な、石人形ストーンゴーレムかッ!」

「クズのお相手には丁度いいでしょう?」

「ハ――ッ!」

 リリィの向かって右側のゴーレムを一撃で粉砕し、アザゼルは射殺さんばかりの視線を投げ付けて来る。

「俺をクズだ汚れた血筋だと言うがなァ、本当に魔王ベルゼブブの血縁だというのなら、貴様は魔界に対して詫びなきゃならんことだらけのカスだろうが!」

「なにを」

「ランドヴァース侵攻を果敢に行った魔王ベルゼブブは魔族の中で英雄視される一方、致命的でありえないミスを犯したよなァ?」

 アザゼルの言わんとしていることが分かって、歯噛みするリリィ。

「ただの人間には魔族を傷つけること敵わない。つまり人間に対しては無敵を誇っていたはずの我らに天敵が現れた。そうだ、そこに転がっている女――パメラ・エウリカの先祖、原初の勇者フルブライトの存在だ」

「く……ッ!」

「狡猾な奴だったのだろうな。フルブライトはベルゼブブの血を取り込み、魔族への対抗手段を得た。貴様とあの女は――言ってみれば、貴様が主張する原初の魔王の血とやらを分け合った姉妹とも言える。傑作よなッ!」

 もう一体、左側の石人形も一撃で破壊するアザゼル。轟音を立てて崩れ去る石の中、双刃剣を床に突き刺し、両腕を大きく広げた奴は嘲り笑った。

「対抗手段を得たランドヴァースの人間どもも黙っちゃいない。原初の勇者を中心とし、幾度となく魔族の侵攻を跳ね付けて来た。本来であれば、一方的な蹂躙で済んだはずの事案が未だに成せないのは、その失態が原因だろうが。ベルゼビュート家ェ? 没落貴族が威張るんじゃねぇッ!」

「おまえぇェェ……ッ!」

 歯噛みだけでは済まなかった。

 結んでいたリリィの唇から朱の一筋が顎に伝い落ちる。

「リリィのことのみならまだしも、そこまでの愚弄は許さない。跡形なく消し炭にしてやるぞクズがッ!」

 リリィは自身のヘッドドレスを毟り取り、くしゃくしゃに丸めてアザゼルに向かって翳す。

「灰燼の紅蓮よ――【爆発エールプティオー】!」

 アザゼルの足元に向かって、独りでに滑空したそれは激しく回転しながら床の下に潜り込んで行く。ごりごりと音を立てて滑稽に掘削していくそれを見下していたアザゼルだが、次の瞬間には血相を変えて飛び退いていた。

「遅いッ!」

 地を這う大蛇の如く、ビシビシと走りのたくったひび割れの隙間からはみ出す閃光が天井へ到達し、一帯を埋め尽くすほどの巨大な火柱が立ち昇る。

「ぬいぐるみの比ではない威力よ。もがき苦しめ! それから死ね!」

「うごおおアアアァァァァ――」

 とは言いつつも、リリィは直感的に悟っていた。

 あのクズは火柱をも踏み越えてくる、と。

 そして、飛び出してきた。燻り続ける炎を全身に纏いながら。

「黄昏の冥暗よ――【オプスクーリタース】!」

 リリィの背後から頭上高く、覆い被さるようにして瓦礫や土砂が伸びる。先のものとは比較にならないほど、巨大なゴーレムが形成する。一瞬、たじろぎを見せたアザゼルだったが、双刃剣を振り抜いた。

 ぎぃん、と硬質の音が響き、その剣を受け止めるゴーレムの巨大な手。

 睨み合ったまま、訪れる静寂。

「ふと、思ったのだけれど」

「……あぁ?」

「【魔王】イスカ様の対抗手段としてあの人間を攫ったのよね。お前はどうやって勇者の力を利用するつもりなの?」

 たかが数日間のことではあったが、イスカリオットと原初の勇者たる少女は共に旅をした仲だ。腹立たしいことにその間の関係は良好と言って差し支えなく、アザゼルがいくら望んだところで、彼女がイスカリオットに刃を向けるとは考え難い。

「ははっ、何かと思えばつまらないことを。いくらでも方法はあるだろう。必要なのは、勇者の力だ。言うことを聞かせるだけなら意識を抹消してしまうのもな。結果、あの女がどうなろうが知ったことか」

「なるほどね――」

 救い難い思いがリリィの中で鎌首擡げる。

「お前は魔族としてクズというだけでなく、男としても最低の部類だったか。下衆め」

「どうとでも言え。本当の意味で力のねぇ奴は何をされても文句は言えんのだ!」

「ならば、後日お前の部屋に姿見を届けるわ。墓標の代わりに」

 それがお互い、完全に切れた合図だった。

 アザゼルは石人形ごとリリィを叩き切ろうと力を込め、リリィはアザゼルを圧殺しようと呪文を紡ぎ、石人形の強化に努める。だが、力と力に変換された魔力の単純な比べ合いは、次第にアザゼル有利へと傾いていった。

「どうした。ハハッ……正面からの力比べを選択したのは、失敗だったんじゃないのか?」

「喚くな。自分の得意分野に持ち込んでいれば勝っていたなんて、後から醜い言い訳を聞きたくないだけ」

「そうかい。なら、俺もそんな言い訳は聞きたくないから、ここでお前を完全にぶっ殺しておくとしよう」

「クズが……ッ!」

 どれだけ強がっても、今この瞬間においてはアザゼルのほうが上手だった。

 リリィがどれだけ呪詛を込め、石人形の腕で押し返そうとも奴の双刃剣を跳ね付けることが出来ない。リリィに覆い被さり、守る石人形ごと壁際に追い詰められていく。

(やるわね……クズのくせにこの馬鹿力)

 でも、アザゼルは芸のない奴だ。この鍔迫り合いをどうにか制することが出来れば、リリィにも勝機が見えるだろう。

「吠え面……かかせてやるわッ!」

「その言葉、そっくりそのまま返してやるよ!」

 継続的に呪文を送り込み、石人形に更なる強化を施す。

 その繰り返しの中で、リリィは一種の高揚のようなものを覚えていた。自分は野蛮な戦い自体好きじゃないし、戦闘狂と呼ばれるような部類でもないと自覚しているが、一方で充足感のようなもので満たされていることに戸惑いを覚えていた。

 相手と経緯がどうであれ、それが真剣勝負における醍醐味であると、リリィが心の片隅で理解をし始めた頃、

「な、ん……ッ!」

 双方予期しない、思わぬ幕切れがあっけなく訪れる。

 空間を裂く鋭い音が耳を劈いたのだ。

「がッ!」

 くぐもったアザゼルの声。そして、吐血。

 それが何であったのか。そして、それがどういった結果をもたらしたのか。赤い飛沫を浴びながら、理解するまでリリィはその場に立ち尽くした。

 アザゼルの背中から胸にかけて、真っ直ぐに貫かれた光の刃。ゆっくりとその場に崩れ落ちる巨体のその向こう、原初の勇者が上半身を起こし、虚ろな瞳でこちらを睨んでいた。

「どう、して……ッ!」

 どうして手を出した――その台詞の途中で我に返ったリリィはぐっと飲み込み、石人形を瓦礫に戻す。アザゼルはその一撃で既に事切れていた。原初の勇者はまだ意識朦朧としているようで、しきりに頭を左右に振っていた。

「悪かったわね」

 口ほど、そうは思っていない気がする。

 いや、どうだろうか。昂ぶっている今の状態では、自分の気持ちが分からない。それでも、せめてもの情けと呪文を紡ぎ、アザゼルの遺体をひび割れだらけの床の下、土の中に沈めてやる。

 それを見送って。

 リリィの視線は自然と勇者の少女のほうに向いていた。

「生きていたのね。原初の勇者」

「あはは……加勢するほうを、見誤ったかしら……」

「確か、パメラ――と、言いましたね。油断しすぎではありませんか。アザゼル如き愚物に対し遅れを取るなど。原初の勇者は我らが魔王家と同列に語られるのですよ。たまったものではありませんわ」

「そっか……知らない間に貶めてしまっていたなら謝るけれど、今の私はこんなものだよ」

 のろのろと身体を起こすパメラだったが、その動作は全体的に遅々としていてアザゼルからのダメージが大きいことを物語っている。パメラは謙遜しているが、アザゼルが彼女の身内を人質に取った結果がこれというだけ。

(弱っているうちに始末するのが最良、か……?)

 今はそうでなくても、たとえ本人にその気はなくとも、いつかイスカリオットの覇道の障害となり得る。そんな不安要素は出来るだけ摘んでおくに越したことはない。

 ――が。

「夕闇の旋律よ――【ウムブラ】」

 小さく力ある言葉を紡ぐ。

 アザゼル相手には石人形の召喚として用いたが、元々これは現世にたゆたう魂を呼び寄せ、万物に宿らせる邪術だ。宿らせる先は地中に眠る骸。つまり今はスケルトンの作成。

「え、ちょ……」

「大人しくなさい。助けられた借りはちゃんと返します」

 抉られた地面から躍り出て、独りでに組み上がっていく白骨。足りない部分は硬化した土で補いながら、人らしき形を成していくスケルトンに戦慄し、後ずさるパメラ。

「これのどこが――ッ!」

「召喚したのは、看護士の魂です。応急処置ぐらいお手の物でしょう」

「意味わかんないよ!」

 そんなこと言われても、リリィ自身は癒しの魔法の類を一切使えないのだから仕方がない。ここは大人しく死者の手当てを受けてもらう。ワーキャーという悲鳴に交じって、後方に足音と気配を感じたので振り返るリリィ。

 この煉獄の間に続く通路を歩いてくる優男は、ここの惨状に若干目を見開いてはいるようだった。

「また派手にやりましたね……」

 扉は壊れ、絨毯は床石ごとめくれ上がり、柱も壁もゴーレムの材料にした影響で抉れている。アザゼルが汚した玉座の周辺に至ってはもう跡形さえない。

 イスカリオットも同様にこの惨状を嘆くかもしれないが、リリィにしてみれば、消毒、清掃の必要性さえ感じられたものだ。そのついでに模様替えを具申したようなものだとしよう。

「アザゼルは?」

 特に関心を感じさせない口調で、ヤヌシュ。

「死にました」

「ほう。殺しました、とは言わないんですね」

「リリィが殺したわけじゃないもの」

 そうなれば、いったい誰がということになるのかもしれないが、それは蛇蝎の如く嫌っていたリリィにも、元より周囲に興味を示さないヤヌシュにもどうでもいいこと。部屋の隅っこで死者の治療と格闘している勇者の少女が葬ったという話に発展すらしないし、ましてや敵討ちなんて事態にもならない。

「まぁ、そんなところでしょうね。勇者の少女を攫い、結果としてイスカリオットの真意を炙り出すことに貢献したと思えば、けして悪くない働きと評価出来ます」

「なに……?」

 呻くように声を絞り出したリリィに対し、ヤヌシュは何か問題でも? という涼しい顔を向ける。

「アザゼルの評価が不当ですか? 言葉の表現そのものは違えど、私と貴女の間では概ね一致していると思うのですが――」

「違う。そんなことは言わない」

「では、何が?」

「何故、そんな敬意のない物言いになっているの」

 まるでそれが思いもしなかった事柄のように何度か瞬きをして、苦笑を浮かべながらやや天井を仰ぎ見るヤヌシュ。

「ああ、なるほど……まだご存じないのですか。イスカリオット――イスカ様は心変わりをなされた。いや、彼は元々その気はなかった、ということでしょうが」

「何を、言っている」

「【魔王】イスカリオットは【勇者】ヴァージニアと手を組み、もうすぐここへやって来るでしょう。彼女の回収と、この私を倒しに、ね」

「どういうこと! 冗談では済まない話よ、それは」

「当然です。冗談ではない。リリィ――熟慮する時間がないのは残念ですが、貴女も身の振りを考えたほうがいい。貴女が最も優先すべきは何なのか」

 何がそう思わせるのか。

 滅多に見ることのない愉悦の笑みを浮かべ、肩を竦めるヤヌシュ。

「私は今から来るであろうふたりを迎える準備をしますが、その答え次第では、先に貴女の相手することになってしまう――が、貴女は誇り高き魔族。何よりも血筋を重んじ、魔王家に名を連ねる者として、安易で愚かな選択はしないと信じていますよ」

「準備、って……まさか、地下に眠ってる彼らを持ち出すつもりじゃないでしょうね?」

 リリィの問い掛けに、ヤヌシュは是とも非ともつかぬ軽薄な表情を返すだけだった。

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