5 楽園城郭都市エウリュメテス――外郭

 待ち合わせの公園に立つ。澄んだ空気が美味しい。

 こんなにも清々しい朝は久しぶりだと、まだ見慣れない風景の中、ヴァージニアは空に向かって背伸びをしてみた。具体的に言えば、もういつものことではあったが、とにかく身体が痛くない。そんな高級なものでもなく質素といえば質素だったのだが、何ヶ月ぶりかのベッドの心地は快眠の一言に尽きた。

「やぁ、おはよう……」

 一言で言うと、陰気な声。その清々しい朝の気分を心の底から破壊してくれる存在がとぼとぼと近付いてきた。警戒を強める。

「おはよう、変態」

 刃物でさっくりといかれたように変態――イスカリオットの身体が傾ぐ。顔の右側の青い痣が痛々しい。とはいっても、ヴァージニアがグーで殴り付けた結果なのだけれど。

 昨晩の【勇者】と【魔王】の最終決戦、もとい、【勇者】からの一方的な虐殺は悪ノリが過ぎたというパメラの制止によって終幕を迎えたが、話を聞けば、発端はやはりイスカリオットが――故意なのかどうかはさておき――部屋を間違えたことにあったわけで。

「なんで朝から変態とふたりで出かけなきゃいけないのかしらねー」

「何でもないときならそういうご意見も有り難く頂戴するけれど、昨日の今日では深く傷付いちゃうんで、出来ればご遠慮いただきたくー」

「普段は軽薄キャラ装っておきながら、実は小心者でしたなんてダッサ」

「ホント容赦ないね。ヴァージニア」

「これでも手加減しているつもりだけど? 本当に容赦ないっていうのは――」

 と言いかけたところで、口を噤んだ。

 経緯はどうであれ、今からこのイスカリオットに街を案内してもらう身である。あまりに礼節欠く言動は控えるべきだと、ヴァージニアは思い直した。

「……ん?」

「久しぶりに人里で迎える朝の気分を自分で壊すことはないと思ったのよ」

 パメラのことだが、今日は共に行動することをやんわりと断られた。

 なんでもこの街に縁者がいるらしく、挨拶に行きたいとのことだった。なるほど。道理でエウリュメテスのことを色々と知っているわけだ。やっぱりパメラはすごい。【勇者】になるまでミュニス村から出たこともなかった自分とは雲泥の差だと、ヴァージニアは思う。

 で、残されたヴァージニアとイスカリオットのことになるが、ここに来るまでの道中、ヤヌシュに砕かれたヴァージニアの剣の代わりを求めて、武器屋巡りをすることになった。【魔王】のくせにイスカリオットもエウリュメテスのことには、それなりに精通しているらしい。魔族が行き来するグレイトホールがすぐ傍にあるからと、本人は語っていたが。

「とりあえず行こうか」

 と、歩き出すイスカリオット。

「そこにも武器屋さんあるけれど?」

 ヴァージニアが指差す先。公園の向かいに剣を象った看板を出す軒先があった。つい今し方のことになるが、小太りの主人と思しき人物が開店準備にその看板を路地に置いたのだ。

 だが、彼はそれに目もくれなかった。

「あの店舗も悪くはないけれど、表通りで真っ当に商売している店なんて子供向けの練習用だったり、オモチャに等しい品揃えだったり、あんまり大したモンはないと思うよ。本当に良い物はやっぱそれなりに足を使ってこそでしょ」

 まるで、真っ当なことがいけない言い草だ。

「そういうもんなの?」

「そういうもんです」

「……どさくさ紛れに変なトコ連れ込む気じゃないでしょうね」

「信用ないなぁ」

「【魔王】が【勇者】に信用されてるなんて考えてるほうがビックリだわ」

「ハハハ、違いない」

「でも、せっかくだしあの店から見るわ」

「そうだね。最終的に選ぶのはキミなんだし、好きにすればいい」

 そうして、店の正面に立ったヴァージニアだったが、すぐにその足を止める。

 一目見て、悪くない店構えだった。

 路地の看板とは別に、剣と盾が合わさった意匠の看板が屋根の下にぶら下がった家屋。中古と思しきおんぼろの剣が雨傘よろしく樽の中に詰め込まれていた。

 戸板はオープンのまま、通りからでも店の中を覗くことができる。きちんと明かりを取り入れられた店内は明るく、武器種ごとに並べられた棚に店主の几帳面さを感じる。このテの店にありがちの陰気な雰囲気は感じられない――が、

(店主とレジは金網に囲まれた向こうって、とっても用心深そう)

 強盗だけでなく、魔物もいつ襲ってくるのか分からない環境では妥当な措置なのかもしれないけれども。

「文字通りお客さんとの壁を作ろうとするのって、接客業としてはどう?」

「まぁ、感じ悪いと思われるのは仕方ないかもね。ていうか、武器屋って接客業?」

「知らないけど。私が人里から離れていた半年の間に変わったのかもだけど」

「……要するに、やっぱりお気に召さないと」

「偏屈で申し訳ないですね」

「いいえ。お嬢様の仰るがままに」

 肩を竦め、だが口調ほどに呆れた様子もなく、当初の予定通り飄々と歩き出すイスカリオット。路地裏から突然飛び出してきた魔獣に動揺することもなく、ぶん殴ってあっさり追い返しては歩みを再開する後ろ姿に感心さえ覚えた。

(もし私が彼のようだったら、パメラも苦労しなかったかもね)

 紋章のことにしてもそうだが、もっと上手く立ち回る方法があったのではないか。人里にてようやくこの半年間を振り返るに至った今だからそう思えることもあるだろうが、ただふてくされ、絶望し、パメラに縋って生きてきた日々も別の振る舞いかたがあったかもしれない。

(……なんてね)

 まだ人気の少ない表通り。

 先行するイスカリオットの背中を追いながら思う。

(しかし、妙なことになったなー)

 本当、妙なことになった。

 【勇者】が【魔王】に連れられて、人間の街でショッピングである。お目当ては剣、武器屋巡りという色気もへったくれもないものだが、それはさておきだ。【魔王】とふたりきりだなんて、何が起こってもおかしくはない。最悪、殺されたって文句は言えない状況だ。

 何よりも安全を重視し、真っ先に反対してくれそうなパメラだが、イスカリオットのことになると何故かその判断が甘くなる。この武器屋巡りには、丁度良かったと諸手を挙げて賛同したぐらいだ。

 まるでヴァージニアの知らないところでふたりの信頼関係が結ばれているかのような気さえする。

 少し、いや、かなり気に入らない。

(まぁね。分からないでもないけどさ。あたしも)

 世界のどこか、まだ他にもいるはずの【魔王】たちはどうだか知らないが、少なくともこの【魔王】に関しては、自身の危機的状況という事態を想像し辛い。そういう明確な根拠のない補正があるのは確かで、そうでなければ、自分もこうしてはいないだろう。

 【魔王】イスカリオット・グラッドストーン。

 黒き紋章を持つ、ヴァージニアとは対極の存在。争うことを後天的に運命付けられた人工的な存在――

「ん、どうかした?」

 気付くと、イスカリオットが足を止め、振り返っていた。

 なんでもない。と言い掛けて、そういえばとヴァージニアは考えた。

「ヤヌシュ……て言ったっけ。あたしの剣を折った奴」

「うん、ヤヌシュ。いけ好かない能面みたいな奴だろ」

「そんな悪口言ってないけど。アンタの部下じゃないの?」

 すると、意外なことにイスカリオットは後頭部を掻きながら言い難そうに口篭る。

「いやぁ……あれは、部下、っていうか……そうだなぁ」

「違うの?」

「まぁ、体裁上、取り繕う意味で奴が勝手にそう振る舞ってくれているだけで、俺の下に就いてるつもりはないと思うけど」

「どういうこと?」

「そうだなぁ……魔界の覇権――といっても、ここでいう魔界とは表層のほんの一部だけど――を巡って、本気で俺と対立したのは、アザゼルだけなんだよな。そして、それは俺が勝った。だから部下と言えるかもしれない。腹に一物以上のものを抱えた面白い奴だけどな。リリィはそれを見て感銘を受けたのか、勝手に付いて来た。まぁ、部下と言えるかもしれない。けど」

「能面は違う?」

「違うね。アイツは【魔王】イスカリオットを見出した奴だ。到底勝てる気がしない。別格だよ、別格」

「へ……」

 【魔王】が勝てないと言い切る魔族。

 それはいったいどういった存在だというのだろう。

「アイツが全ての元凶だって言ったら、ヴァージニアは信じるかい?」

 その問い掛けは唐突であり、上手く入り込んでこない。質問に質問を返すことにする。

「元凶って……なんの?」

「決まっているじゃないか」

 そう言って、彼は袖の中に隠していた右腕の紋章を露わし、目の前に晒す。

 怖気付いたのは、ヴァージニアのほうだった。半ば飛び掛るようにして、即座にその腕を覆い隠す。頭も押さえ付ける。人目も徐々に増えてきた表通り。【勇者】を受け入れるぐらいなのだから白き紋章は問題ないのかもしれないが、黒いほうはどういった事態になるのか分かったものじゃない。

「アンタ馬鹿なの! 目立つじゃないッ!」

「いやぁ、ごめんごめん」

「ほんっとにありえないんだけど……大丈夫なのかしら……」

「ごめんてば。ついね、つい」

「ついじゃ済まされないのよ。あたしたちのこれは!」

 楽園城郭都市エウリュメテス。

 右手の家屋の向こう、その一ブロックか、二ブロック先。十中八九、魔物と思われる獰猛な唸り声と、それに相対する男女の声がここまで聞こえてくる。ここは、常識に囚われない街――というよりは、ヴァージニアの常識が通用しない街と表現するほうがより正確か。

 ここでは悲観することも、さほどの警戒心を持つ必要もないのかもしれない。ヴァージニアがここに来る前からこの街を練り歩いていたらしい【魔王】の振る舞いだから、大丈夫なんだろう。

「おい……黒い紋章だぞ……」

「何でこんなところに」

「【魔王】かよ……」

 ――なんていうのは、ほとほと甘い考えであったと。

 きっかり一秒後に後悔するヴァージニア。

 気付けば、ふたりの周りには人だかりが出来ていた。邪険というべきかなんというべきか。複雑な表情を醸し出す住人たちに取り囲まれていたのだ。

「うわぁー」

 当のイスカリオットは間抜けな声を上げて。

「ほ、ほら……見てみなさいよ……」

「いや。どっちかといえば、さっきのはヴァージニアが大声上げるから目立って気付かれた的な流れでは」

「ちょ、あたしのせいだって言うのッ?」

「そうとは言ってない」

「言ってるよね、確実にそう言ってるよねッ!」

 人が人を呼び、包囲網はどんどん狭く、厚くなっていく。女子供は身を引いて、見るからに屈強な男に入れ替わっていく。

「おやぁ」

 一触即発という表現が非常に相応しい空気の中、今度は包囲網の方から素っ頓狂な声がした。一抱えほどもある紙袋に野菜やパンを詰め込み、視界が半分遮られている男だった。ヴァージニアにも見覚えがある。というか、今朝も会ったばかりだ。酒場兼宿屋のご主人。髭面のナイスガイ。

「アンタら、うちの客じゃないか。やっぱりそうなのか?」

 何が、やっぱりというのか。

 最初から怪しいと思っていたということなのだろうか。

「とにかく掴まえろ!」

「逃がすな!」

 人だかりの中の誰かが叫んで。誰かがそれに呼応して。

 包囲網が急激に狭まり、無数の腕がふたりに向かって伸びてきた。

「伏せろ!」

「うわっ」

 それに併せて、頭を押し込められるヴァージニア。続けて、不安定な体勢のまま首根っこを掴まれては、比較的手薄な箇所に突撃していくイスカリオットに付き合わされる。

 人の足を掻き分け、包囲網の外に転がり出たふたりは脱兎の如くその場から離れようとした。

「おい、逃げたぞ!」

「追えぇ!」

 まず最初にヴァージニアとイスカリオットの、そして少し遅れて、不特定多数の足音が石畳を乱雑に叩く。街路の隅に避難した老婆の「おやおや、賑やかだねぇ」という、あまり事態を深く理解していないような声を聞きながら、

「どうしてこうなっちゃうのよぉッ!」

「だって、ヴァージニアが」

「こうなったら困るからって、あたしは言おうとしただけじゃない!」

 などと叫んだところで、既に後の祭り。

 ちらりと肩越しに後ろを振り返ると、鬼気迫る表情の男たちがすぐそこまで迫ってきている。

「ひいぃぃ、どどどーすんのよぉッ!」

 先導するようにやや前方を走るイスカリオットに腕を取られ、非常事態とはいえあまりにも自然な挙動に対し抗議を――

「こっちだ!」

 する前に彼の姿がヴァージニアの視界から消えた。

 街路の左右はなんでもない家屋の敷地だった。この辺りの地域は魔物に対する警戒の意識が弱いのか、ブロック塀の代わりに丁寧に刈り込まれた植木の仕切りがあっただけだ。こともあろうにイスカリオットはその中に突っ込んでいく。

「なっ、ちょ、きゃああぁ――ッ!」

 そうなると、当然腕を取られているヴァージニアも植木の中に吸い込まれていくわけで。

 反り返った枝に皮膚を裂かれ、髪を絡め取られ、最終的には無造作にそれらをへし折って誰とも知らぬ私有地に不法侵入を果たす。植木の向こうの追っ手は躊躇しているようだった。その隙に庭を走り、フリル付きの真っ赤なエプロンドレスがかかっている物干し竿を跳ね除け、家屋と家屋の隙間に入り込むふたり。

「あんなことして!」

「あとで謝っておくよ!」

「なに、知り合いのお家?」

「ああ。いや、俺が一方的に知ってるだけ」

「なにそれ」

「ここはエルダーっていう中年オヤジの家なんだけど、コイツがいい変態趣味をしていて、あのエプロンドレスも無理矢理奥さんに着せているんだ」

「なんというか……ああ、そう……」

 庭先の植木を荒らされ、干してある洗濯物を台無しにされ、挙げ句の果てに変態扱いされる残念なエルダーさんには申し訳ないことだが、植木の破壊には良心が咎めたらしく――まぁ、普通はそうだろう――正面玄関へ迂回したのと、家屋と家屋の隙間には一気に入り込めないのとで、追っ手との差に少し余裕が生まれていた。

「よし。このままメリルの家とエマの家の裏を通って、向こうの通りに出よう」

「誰よメリルさんエマさん!」

「エルダーの家の裏。あの二軒ね」

 狭い隙間を横歩きしながら、前方左右のレンガ造り家屋をそれぞれ指差す。ヴァージニアの背後にあるもう一軒を含め、四軒が正方形状に並び立つことで一ブロックが形成されているようだ。

 しかし、そんなことよりも。

「なんで【魔王】がそこまで知ってるの?」

 街の主要施設ならいざ知らず、個人邸宅についてまで。

「昔々親交があったから」

「昔々って……普通の人間だった頃の話?」

「そうなるね。エウリュメテス出身なんだよ、俺」

「原初の勇者の街から【魔王】が生まれるなんて皮肉なものね」

「ああ、俺もそう思う」

 なんて軽口を叩く割にイスカリオットの目は笑っていなくて。

 ともすれば、イスカリオットという元人間の深淵を覗き見た錯覚にも陥り、ヴァージニアが目を逸らした瞬間、

「いたぞ!」

「こっちだ!」

「小柄な魔物連れて来い! 囲い込むぞ!」

 少し考えれば分かることだったが、向かう先――つまりは、メリル邸とエマ邸の隙間が騒がしくなって、続々と周り込んで来た男たちの頭によって埋め尽くされていく。

「あちゃー……」

「あちゃーじゃないのよおおぉ!」

「大人しく捕まる?」

「せっかく落ち着ける街にやってきた矢先に【魔王】のせいで?」

「だよねー」

 仕方がないと、何か覚悟めいた言葉を漏らし、今一度ヴァージニアの腕を取るイスカリオット。矢継ぎ早に紡がれたそれが結尾を迎えた瞬間、ヴァージニアの身体がふわりと宙に浮かび、

「え――」

 そんな間の抜けた呟きを残し、重力から解き放たれたふたりの身体は狭い路地の隙間から飛び出す。家屋の屋根を飛び越して、あっという間に楽園城郭都市エウリュメテスの上空へと踊り出た。

 つまりは、空を、飛んでいた。

「な、な、なああぁ……ッ!」

 足元では、あんぐりと口を開けて見送る大勢の男たちの姿が目立つ。突如、上空に現れた飛行物に対し、指差し騒ぎ立てる者もいた。

「ちょっと……こんなこと出来るんなら最初からやってよ」

 ヴァージニアの隣、同高度で涼しい顔をしているイスカリオットに詰問する。

「ええっ、目立つようなことは避けるために目立つのかい?」

「あぅ……」

 人が人を呼び、眼下では結構な騒ぎになっているようだ。既に声は届かない高度にまで上昇していたが、街行くほとんどの人々の関心がこちらに向いてしまっている。

「これは当分降りられそうもないなぁ……」

「それって目立ち続けて、更に人が集まる未来しか見えないんですけど」

「キミはたいした予言者だね。【勇者】なんて廃業してしまえば?」

「出来るものならしてるっての」

 腕を持たれていることもあるためか、不思議と恐怖は感じなかった。

 視線を横に、水平に向けると、普段見ることの出来ない絶景が広がっていた。

「ふわぁ……」

 薄く延ばされた雲に覆われた大陸終端の証、レジーン山脈。

 隣の大陸との間に横たわるイリア・ウロボロス海。

 それらに抱かれるようにして鎮座する楽園城郭都市エウリュメテス。そして、グレイトホールと呼ばれた漆黒の大穴。

「本当に何もない……真っ黒な穴なのね」

「そうだな」

 ヴァージニアは率直に気味が悪いと思った。

 大地に穿たれたそれはあまりにも不自然に見えるのに、この上なく自然に風景に溶け込んでしまっている。魔族、そして魔界という脅威があの穴の向こう――地底にあるというのに、この街の人々は物怖じしない。むしろ、飼い慣らそうとさえしているように見える。

(同じ大陸でも北と南で随分と違うものね……)

 南に目を向けると、荒々しい赤茶けた大地が広がっているだけだ。その更に向こうには多少の緑も見えるが、基本は寥々とした風景である。それはヴァージニアとパメラが辿ってきた道でもある。

「ヴァージニアの故郷は?」

「ミュニス」

「ミュニスって、セントヘレナより更に向こうの、大陸最南端じゃないか」

「そうよ」

 ヴァージニア・アップルガースはそこで生まれ、そこで育った。

 白き紋章が発現するまで、全く外の世界を知ることもなく、伸びやかに暮らしていた。

 こんな空の上からでも見ることできないのが残念だ。

「季節が巡るごとにお父さんのりんご農園が赤く色付くのがとっても綺麗でさ。毎年狩り入れの時期が楽しみだったな……」

「帰りたい?」

 あまりに率直なイスカリオットの問い掛けに、ヴァージニアは逡巡する。高所による強風か、ばたばたと靡く髪を空いている手で押さえつけて、ようやく口を開いた。

「さぁ、どうだろ……あたしの手に紋章が出たって分かったときの村の人たちの反応が傑作だったのよ。あんなの知っちゃったらもう普通には戻れないよね。あたしもエウリュメテスの生まれだったらよかったのかな」

 人は生まれる場所も、環境も選ぶことはできないが、もし仮にエウリュメテスの生まれだったとしたら、そんな思いはしなくて済んだかもしれない。災難だなと笑い飛ばしてくれる人たちに囲まれていたのかもしれない。

「勇者の街は勇者の街で色々とあるんだけどな」

「そりゃそうよね。どこにだって、何かしら問題はあるものよね」

 結局、相対的なものでしかないのだ。

 辺境であるゆえの無理解に晒されて、村を追い出された当事者にとってはこれほど辛いことはないと思うのと同じ。それと同等の、あるいはそれ以上の辛いことや悲しいことなんて、きっと世界中に溢れ返っている。

「そんな中でも、あたしにはパメラという理解者がいてずっと助けてもらってた。だから、あたしは幸せなのよ」

 だから、今度はヴァージニアがパメラに恩返しをする番。とはいえ、気立ての良いあの完璧少女に手助けが必要となる場面なんて、生涯訪れることはないのかもしれないけれど。

 ――などと、物思いに耽って苦笑していると、

「なによ」

 空に舞い上がる際、掴まれたままだった腕を揺らされ、イスカリオットが物欲しそうな顔をしていた。何かを強く訴えかけるような、そんな目と共に。

「……ああ、はいはい。最後のほうはアンタにもお世話になったわね」

 渋々そう言うと、満足げに頷かれた。

「まったく。なんでアンタみたいなのが【魔王】なんかに選ばれるのかしらねー」

「うむ。それは俺が聞きたいな」

 ヴァージニアに半年間の過酷な物語があったように、イスカリオットにはイスカリオットの苦悩の日々があったのだろう。それらを思えば、後天的に争うことを宿命付けられたふたりが出会い、ここでこうして手を取り合っているのは、奇跡にも等しい結果なのではないだろうか。

(何、考えてる……?)

 いつの間にか、イスカリオットの視線は足元――つまり、楽園城郭都市の街並みに注がれていた。ただ懐かしいものを見るというよりは、郷愁のようなもう一段階上の、強い感情を思わせる目をしていて。

「なんだかエウリュメテスの出身でーすってだけじゃない顔ね、それ」

 ヴァージニアにしてみれば、ただ感じたことを素直に口にしてみただけなのだが、イスカリオットに自覚は無かったらしく、虚を突かれたようだった。慌てて取り繕おうと彼が顔を跳ね上げると、そこには丁度ヴァージニアの顔があって、

「やっ、ちょ……」

 思わぬ最接近。

 空の風景に紛れ、互いの吐息が掛かりそうな距離。

 何気なく、いつもそうするようにイスカリオットの顔を押し退けようとして――がくん、と。ヴァージニアは自分の身体が揺れ、傾くのを感じた。

「え」

 突如、重力に引かれ、エウリュメテスの街並みに向かって落ちていくヴァージニア。

 【勇者】は飛ぶ術を持たず、【魔王】の力添えがあって空を飛んでいた。空中に浮いていたのだ。その庇護を忘れ、掴まれていた腕を何気なく払い除けてしまった場合はどうなるのか。

 そんな喜劇のような結末は年端も行かぬ子供にだって分かる。

「ヴァージニアッ!」

 悲鳴を上げる余裕もなく、ただ必死に腕を空に向かって伸ばし――イスカリオットの腕に抱かれたところで意識を手放してしまった。


   ◆◇◆◇◆


 おぼろげな記憶だけが頼りだったが、パメラには妙な自信があった。

「変わってないわね」

 迷路のような街路をすり抜け、緩やかな坂道を上る。

 その建物はエウリュメテスの外郭、東門に程近い閑静な住宅街の一角に存在していた。

 周りの家屋と比較して、特別大きな敷地を持つわけでも、目立つ外観をしているわけでもない。これより大きな敷地を持つ富豪の家はエウリュメテスならば指折り数えるほどあるし、家主の趣向を凝らした外観を誇る家屋も山ほどある。

「着いた」

 ほうっと、一息。

 つまり、今パメラの目の前にあるその家は至って普通であるし、驚くほどに何の特徴もない、ただの民家。

 しかし、エウリュメテスに住まう者ならこの家のことを誰もが知っている。こここそがエウリュメテスの原点、発祥の地であると誰もが知っている。それを知らないというのなら他所から移住してきた者でしかない。

 そして、パメラにとっては――

「やっぱり、変わってないわね」

 エウリュメテス発祥の地であることは勿論知っているが、ただそれだけとは言い難い。

 何せここは、彼女にとっての生家なのだから。

「よし」

 胸元ほどの高さの門を押し開き、一歩、敷地内へと足を踏み入れる。踏みならした小道が軒先の玄関まで続いている。これも変わらない。

「あらあら、お客さん……?」

 しわがれた声。女性のものだった。家屋に向かって左手。どうやら目立ち始めた庭の雑草処理をしていたらしい。麻の袋を片手にしたまま、緩慢な動きで上半身を起こす。

「――ただいま。お婆ちゃん」

 祖母マリー・エウレカ。

 彼女はパメラの記憶の中のある姿から若干痩せこけた印象だった。白髪も増えて、腰も随分と曲がっていた。自分が成長したせいもあって、相対的に小さくなってしまった祖母に微笑みかける。

 対して、祖母はというと、パメラの言うことを理解できなかったのか、何度も何度も目を瞬かせて、それこそパメラの爪先から頭の天辺まで視線を彷徨わせた。

「パメ、ラ……ちゃん?」

「うん」

 刹那、覚束ない足取りで駆け寄ってきた祖母にぺたぺたと身体を触られまくるパメラ。

「く、くすぐったいってば! お婆ちゃん」

「パメラちゃん! こんなに大きくなって! ああ、月の神様……ッ!」

「まぁ、十年くらい経っちゃったしね」

「うんうん。今までよく無事で……お爺さん、お爺さんッ!」

 家のほうを振り返りながら精一杯の大声を上げる祖母。

 すると、その声に反応したのは家の中にいるらしい祖父ではなく、周りの民家に住む他の住民たちだった。老若男女様々な人物が金属製の武器をその手に、門構えの向こうに集結する。

「どうしたマリー婆さん! また魔族が攻めて来たかッ!」

「野郎、性懲りもなくまたこの家狙いに来やがったんかッ!」

「エウリュメテスの住人ナメんなコラァッ!」

 その中でも気性の荒い連中が口々に叫ぶがお目当ての魔族は見当たらず、庭で抱き合う若い女性と老婆の姿を見て、すぐに目を丸くさせる。

「いやだねぇ。ミュニスに疎開させた孫娘が帰ってきたんだよ!」

 ほらっと、一歩前に突き出されるパメラ。

 薄っすらとした記憶の中にある近所の人もいたけれど、それよりも強い好奇の視線に晒されて、とりあえず会釈する。

 湧き上がる観衆――特に男連中の声が大きいのは何故だろう――の中、今一度、自分の家を振り返るパメラ。

 散々悩んだのは事実だけれど、来て良かったのだと思う。

 悩んだというのは他でもない。ここは生家であると同時、両親の命が無惨にも奪われ、パメラの胸に消えない大きな傷跡が刻まれた場所でもあるからだ。そんな場所に十数年ぶり、自分がどういった反応を示すのか、自分で自分が分からなかったからだ。



 またおぼろげな記憶の中の話になるが、優しい祖母とは違い、祖父は非常に厳格な人物だったとパメラは記憶している。

 家の庭に面するリビングに通される。内装も家具も古びた感じはするけれど、最後の記憶のままだった。木製テーブルの上には祖母が出してくれたお茶のカップがふたつ、所在なさそうに置かれていて、パメラが座る向かいには祖母同様、深い皺が刻まれた祖父が難しい顔をし、両目を閉じたまま腕組みしている。

(いえ、それより……)

 大きな窓を介して、庭先からリビングを覗き込むように住人たちが群がっているのはどうしてか。

「あの……」

 外の楽しげなそれとは異なり、室内の重苦しい空気に耐え切れなくなったパメラが口を開く。

 すると、それを遮るように祖父が言葉を重ねた。

「婆さん。茶だ。おかわり」

「おかわりって、一口もつけてらっしゃらないじゃないですか」

「いいから。温くなった」

 やれやれと肩を竦めながら、祖母。カップを持ち上げると同時、

「ガラにもなく照れてるんですよ。この人」

「うるさい」

 続けて、庭先から多数のブーイング。

 祖父は鋭い視線で庭先を睨み付ける。一瞬、水を打ったように静まり返るも、すぐに祖母の言葉を繰り返すように冷やかしやら口笛やらが飛ぶ始末。

(なんだか、イメージ狂うなぁ……)

 こんな楽しげな場所だっただろうか。

 一旦はキッチンに引っ込んだ祖母が新しいお茶を持ってきて、そのときになってようやく祖父の目がすっと開かれ、パメラを真正面から捉えた。次いで、重苦しいその口がついに動く。

「今日は随分と外が騒がしいが……お前は関係ないのか?」

「え……」

「街に【魔王】が現れたとか、若い連中が飛び出して行きおった」

「えぇ、えええぇぇ?」

 それって十中八九イスカリオットに違いないのだが、どういうことだろうか。街中でトラブルに巻き込まれたか。助けに行ったほうがいいのだろうか。などと、緊張していたこともあって、上手く思考が纏まらない。

(大丈夫、よね? ジニーも一緒なんだし。あれ、ジニーが一緒だから危ない? えぇとえぇと……)

 そうこうしているうちに再び祖父の口が開かれる。

「パメラ」

「は、はい」

 背筋が伸びる。

「よく、帰ってきてくれたな」

「あ……」

 それは、貰えないかもしれないけれど、本当は心のどこかで待ち望んだ言葉だったのかもしれない。

 途端に目頭が熱くなった。

「今更何を言うのかとお前は思うだろうが……この十年、お前のことを考えなかった日はない」

「わ、私のほうこそ、その……」

 パメラには負い目がある。

 悪ふざけが過ぎて、親戚のお兄ちゃんと共に魔族を呼び寄せてしまった結果、自分の父親と母親――つまりは、祖父ジグ・エウリカの息子と、そのお嫁さんが命を落とすきっかけを作った。

 その際、エウリカ家のことが魔族に知れ渡り、まだ幼かったパメラは負った傷も癒えぬまま、片田舎のミュニス村の親類に預けられることになったのだ。

「その……お父さんと、お母さんを……」

 声が、震える。

 上手く言えない。

 祖父は自分を恨んでいる。憎んでいる。

 あのときの祖父の気持ちを考えると、恐怖しかなかったからだ。

「お前は気に病んでいるのかもしれないが、それは違うぞ」

「……え?」

「お前の両親の命を奪い、お前を深く傷付けた魔族――確かにそれはお前たちが呼び込んだものであったかもしれない。息子夫婦のことは無念ではあるが、我がエウレカ家のことを思えば、それもまた無理からぬこと。ふたりは立派に戦って、お前を守り通したのだ」

「お爺、ちゃん……」

「未熟だったのは、ワシのほうだ。両親を失い、傷付いたお前の気持ちを考えず――いや、魔族にお前の存在が知れ渡った以上、あのときはそれが最良だと考えたのだが――追いやるようにミュニスへ行かせてしまった。どうか、許しておくれ」

 そこで、テーブルにこすり付けるように深々と頭を下げる祖父。

 そんなことをされてもどうしていいのか、どう言っていいのかも分からない。ついに決壊を迎えた涙腺から、後追いでどんどん涙が溢れてくるだけだった。

 あらあらと暢気に呟き、テーブルを回り込んできた祖母に背中を擦られる。そんな彼女さえ涙ぐんでいた。やっぱり来て良かった。勇気を出して来た甲斐があったと、パメラは改めて思う。

 ――と。

「お婆ちゃん……?」

 ぴたりと、その手が止まり。

 ゆっくりと仰向けに倒れていく祖母。

 そんな彼女を振り返るついで、視界の横に映った庭先でも興味本位の見物客がばたばたと倒れていくところだった。

「え、え……」

 訳が分からず、とにかく涙を拭う。

 そして、祖父を振り返った瞬間、

「――なぁんてナァッ!」

 厳格な様子から一転、テーブルを蹴り飛ばして部屋の隅に追いやった祖父は一足飛びでパメラとの距離を詰め寄って来た。

「おじ……ッ」

 その先は言えなかった。

 祖父の皺だらけの両手、鉤爪のように曲がった指がパメラの喉元に食い込んできたからだ。そして、その勢いのまま、床に押し倒される。

 突然の豹変だった。

(今のは……口だけ……やっぱり、殺したいほど恨まれてたって、こと?)

 白む視界。

 希薄になっていく意識に絶望が蘇る。

 自分の上で馬乗りになっている祖父の目は大きく見開かれ、酷く血走っていた。パメラの命を確実に削りに来ている尋常ならざるこの力は――さすが、年老いてもエウリカ家の者といえるのだろうか。呼吸が出来なくなって窒息する前に首の骨がへし折られそうだ。

 ここに来る前、祖父のあんな言葉はさすがに想定外だったけれど、邪険にはされるぐらいの、下手したら殺されるんじゃないかぐらいの予感はあった。

 だって、自分は。

 お爺ちゃんの子供の、私のお父さんの、命を――

(……な、に)

 最初、それは脳に酸素が供給されなくなった故に見せられた幻かと思った。

 しかし、そうではなかった。

 黒い輪郭が徐々に実体を帯び、最終的に青く巨大な、そして禍々しいものが祖父の背中越しに浮かび上がる。

 それはニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべて、舌なめずりをしていた。

 そいつは――

「アザ、ゼ、ル……ッ!」

「クカカカカ、生意気なジジイめ。貴様を絞め殺してしまわぬよう、必至に抵抗し続けておるわ」

 一瞬で理解する。

 祖母と庭の人たちを昏睡させ、祖父を豹変させたのは、この魔族の仕業であると。

 その刹那、振り解くまでには至らなかったが、祖父の手が緩んだ気がした。

 声を絞り出す。

「卑怯よ、アザゼル! 貴方の狙いが私なら、周りは、関係ないでしょッ!」

「卑怯だ? ハハ、大いに結構。虫けらの叫びなど取るに足らん」

「なに、を……ッ!」

「だが――」

 そこまで言ったアザゼルは次の瞬間、意外な行動に出た。

 パメラの首を絞めていた祖父の腕を払い、その身体を部屋の脇に追いやって、祖母や庭先の人たちと同じように昏倒させてしまう。

 解放され、空気を求めて喘ぐパメラに今度は青き巨体が覆い被さった。

「貴様のことは調べさせてもらったぞ、パメラ・エウリカ。まさか、ランドヴァース原初の勇者の血筋――それを今の世に受け継ぐ者が貴様のような小娘だったとはな」

 バレた。

 祖父があんな思いをしてまで危険から遠ざけようとしてくれたのに、とうとうこの魔族にまでバレてしまった。

「道理で魔族であるこの俺に手傷を負わせることが出来る訳だ。あの森で貴様が言った勘違いとやらは――」

 祖父の両腕の代わり、今度はアザゼルの太い左腕がパメラの首を捻り掴む。

 そして、残った奴の右腕の拳が固く握り締められ、次の瞬間、パメラの下腹部に強く捩じ込まれた。床板が割れ、身体が背中から若干沈み込む。全身が引き攣り、悲鳴さえ上げられない。

「――ッ!」

「つまり、そういうことだったんだなァ……!」

 満足に動くことの出来ないパメラを見て、先日の溜飲を下げることが出来たのか、どすどすと足音を響かせやや遠ざかる。

 が、アザゼルの次の行動に、今度こそパメラは悲鳴を上げた。

「止め――ッ!」

「俺に協力しろ、パメラ・エウリカ。拒否するようなら――」

 青い巨人は気を失ったままの祖母を片手で吊り上げ、有無を言わさぬ迫力でその返答を迫ってきた。

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