4 楽園城郭都市エウリュメテス――アエテルニタス

 いつからその街はパラメティシア大陸に存在していたのだろうか。

 それは人間の、どこからともなく現れた魔族との戦いの歴史を紐解くに等しいと、有識者は語る。

 かつて、この世界ランドヴァースには魔族なる種族は存在しておらず、パラメティシア大陸最北端、グレイトホールと呼ばれる大地の大穴からそれらは湧き出してきたと言い伝えられている。その大穴は天空から降り注いだ隕石の仕業だとされているが、その辺りの真偽は不明。

 パラメティシア大陸の地底はいつしか魔界と呼ばれるようになり、その中で魔族もまた人間と同じように繁殖を続け、陽の光の恩恵を抱く地上の覇権を巡って熾烈な争いが繰り広げられるようになった。

 その中で必ずといっていいほどに登場するのが、魔族の王たる魔王と、それを退ける人間の英雄たる勇者の存在である。

「――で。ここは人間の中で、最初の勇者を輩出した街なのさー」

 ぴっと、右手の人差し指を立て、嬉しそうに語る【魔王】イスカリオット。

 その様子を半眼で見るヴァージニア。なんだかもうこの【魔王】、ヴァージニアが口を利いてくれるだけでも嬉しいらしい。

「世界で最初の【勇者】ね……」

 何気なく、ぼそりと呟いたヴァージニアに対し、イスカリオットはちっちっと舌を鳴らす。

「違うよ、ヴァージニア。【勇者】じゃない。勇者だ」

「……ハァ?」

 首を傾げるヴァージニアに、なおも嬉しそうにイスカリオットが言葉を続ける。

「今、ヴァージニアが口にしたのは、いわゆるキミと同じ【勇者】のことだろう?」

「そうよ。それ以外に何があるって言うの」

「白き紋章を身体のどこかに抱く【勇者】。うん、それも現代では【勇者】であることには違いないけれど、でもそれをそう呼ぶようになったのは、誰が、いつからの話なんだろうね?」

「そんなの、知らないわよ……」

「そう、俺も知らない。俺も黒き紋章を持つ者を、誰が、いつから【魔王】と呼ぶようになったのか知らない」

「何が、言いたいの?」

 白き紋章を持つ者を【勇者】とし、黒き紋章を持つ者を【魔王】とする。

 そんなのは、ランドヴァースで何百年も繰り返されてきた歴史のひとつで、誰が最初にそう呼び始めたかなんて、そんなのはもはや瑣末なことでしかない。ヴァージニアにとって重要なのは、こいつのせいで生家のあるミュニス村を追い出され、親友のパメラに迷惑を掛け続けているという事実だけ。

 でも、この【魔王】は人を食ったような物言いで、更に続ける。

「俺たちはさ――世界で最初の勇者、あるいは魔王、その血族なのかい?」

「それは……」

 そんな話は聞いたことがないし、違うと思う。

 と言いかけて、ふと横目に暗く沈んだような表情のパメラが映った。

「……パメラ?」

 聞こえていないのか、彼女は無反応。

 そういえば、エウリュメテスが近付くにつれ、口数が減っていっていたような気がする。

「どうしたの、気分悪い?」

 パメラの真横に立って、眼前で手を振ると、ようやく彼女は気付いてくれたようだ。弾かれたように仰け反り、動揺の色を慌てて覆い隠そうとする。

「ひゃっ……ご、ごめん。考え事してた!」

「ふぅん? それならいいけど……」

 パメラが何かを思い込んでいることだけは分かったが、能動的には語りたくない内容であることは窺い知れた。なので、ここは一旦引き下がり、改めて、イスカリオットを振り返るヴァージニア。

「で、えぇと、何の話……ああ、血族の話ね」

「うん。少なくとも俺は人間だし、魔族じゃないし、魔王の血族である可能性は皆無。つまり、ヤヌシュに言わせると、俺は人工【魔王】ということになるわけだね」

「じゃあ、あたしは、人工の【勇者】……ってことよね?」

「そう。争うことを後天的に運命付けられた人工の【勇者】と人工の【魔王】。こんなに馬鹿げた話はないよねぇ」

「まぁ、確かに……」

 その言葉通り、あまりにも馬鹿馬鹿しい話だとヴァージニアは思う。

 ヴァージニアは白き紋章を抱く【勇者】であり、同じようにああして肩を竦めているイスカリオットは黒き紋章を抱く【魔王】。遥か昔、おとぎ話にも勝るとも劣らないくらい古い伝承によれば、常に対立してきた存在であるふたつの存在。

(【勇者】と【魔王】って、なんなのかしら)

 最終的には、そこに行き当たる。

 ヴァージニアは【勇者】で、イスカリオットは【魔王】。

 ならば、イスカリオットと争う気があるのかと問われれば、少なくとも今はさらさらそんな気にもならないヴァージニアがいる。

 白と黒の紋章の力は本物だろう。そこに疑いはないが、これが【勇者】の証である、【魔王】の証であると言い始めたのは、争うことを宿命付けたのは、いったい誰なのだろうか。

「ん、なに?」

 考え事ついでにイスカリオットの顔を凝視してしまっていたようだ。嬉しそうに顔の造形を崩す彼を見て、慌てて視線を逸らす。

「別に……ッ! そ、そういえば、アンタの部下みたいな娘、あれからどうしたのよ」

 突然空から振ってきて、一瞬でヴァージニアたちを敵と特定して、魔法生物はわんさか生み出しては上司たる【魔王】に窘められて、最後には泣き出してしまった黒のエプロンドレスの女の子。

「リリィね。いや、思い当たるところがあって、とりあえずそれをお願いしたから別行動」

「ふぅん……」

「おぉ……その嫉妬にまみれた鋭く冷たい視線がとってもクセになりそうなんだけど、もっと頂いても?」

「だ、誰が嫉妬かッ! つーか、アンタそういう人?」

 話題を逸らすために本当にどうでもいいことを口にしたつもりだったが、あの魔族の娘のことはかえって逆効果だったらしい。

「――ぷっ」

 非常に小さな、溜め息のような笑い声が漏れて。

 しかしそれはすぐに大きな笑いへと転じた。

「パメラ……?」

「あははははっ! はぁー……いやぁ、ごめんなさい。イスカ君面白すぎ。ジニーにはお似合いかもね」

「な、ん……ッ! 言って良いことと悪いことがあるよパメラ!」

「悪いこと……て。え、そこまで?」

 絶句するイスカリオット。

 物事には勢いというものがあって、思わず言い過ぎてしまったことを謝るよりも先にパメラの笑い声が木霊した。笑い過ぎだろうと思う程度には、ヴァージニアとイスカリオットの胸中は合致したようで、ふたりは互いに顔を見合わせるも、直後北方から吹き付ける風に視線を攫われる。

「うわぁ」

 エウリュメテス地方に入ってから徐々に穏やかな草原が姿を消し、剥き出しの岩盤が目立つ荒野と変わり始めていたが、それらが集束する先――大陸最北端、大地を侵食するように開く漆黒の大穴グレイトホールを抱く楽園城郭都市エウリュメテスが眼下に広がっていた。



「――まぁ、何があっても驚かないでね」

 と、予め釘を刺すように言ったのはパメラだったが、それを聞いてもヴァージニアには何のことだかよく分からなかったし、このご時勢、【勇者】を受け入れるという奇特な――当事者にとっては有り難い――街なのだから、多少へんてこな部分があったとしても目を瞑るつもりでいた。瞑るというと上から目線で偉そうに聞こえるが、ヴァージニアにとっては実に半年振りとなる人々の気配。湿った空気。そして、何よりも街。我慢だなんて滅相もない。

 城郭都市の名に相応しく街全体が赤銅色の壁に覆われており、出入り口となる黒門は北を除く三方に存在しているらしいが、そのいずれも検問は行っていないという。今やランドヴァース各地の市町村では検問による身体検査が常態化しており、不審者は当然として、ヴァージニアのように白き紋章を持つ者も一発で弾かれてしまうというのに、だ。

 ヴァージニアたちの前にもエウリュメテス入場待ちの旅人の列が出来上がっていたが、そういった時間を食う作業がないためか、次々にその列を溶かしてしまい、あっという間に三人の番。

「旅人か。通ってよし」

 詰め所の武装した門兵は愛想の良いほうではなかったが、ヴァージニアたちを一瞥しただけでそう呟く。

 久しぶりの人里でそれこそ挙動不審だっただろう。それにヴァージニアの白き紋章はともかく、イスカリオットの黒き紋章まであったのだ。ちょっと調べられたら絶対に引っ掛かっていたであろうに、拍子抜けもいいところだ。ブレストプレートの中が緊張の汗でぐっしょりと濡れていた。

「だから、大丈夫って言ったじゃない」

 パメラはそう言うけれど、ヴァージニアにとっては気が気でなかったのだ。

 というよりも。

(パメラって、まるで来たことがあるみたい)

 知識として知っていただけでなく、まるで最初から分かっていたような素振り。

 先導するように赤銅色の城壁を潜り抜ける彼女の背中を追う。

 そして。

「ふあああああぁぁ……」

 久しぶりの人里――よりも、初めての街という感動が上回った。

 片田舎の故郷、ミュニス村しか知らなかったヴァージニアにとって、エウリュメテスはとんでもない都会だったからだ。

 きっちりと区画整備された街並みに、城壁と同じ赤銅色の屋根で統一された建物。舗装された街路なんて初めて見た。そして、その上を大勢の人々が行き交う。有り体に言って、それら全てがヴァージニアにとって初めてのものだった。これまでの疲れも吹き飛ぶと言うもの。

「すごい、すっごいこんな大きな街! あたし、初めてよ! こんなに大勢の人がいて、こんなに魔物もたくさ――ん……」

 ふと。

 自分の発言に違和感を覚え、ヴァージニアは言葉を止める。

(魔物も、たくさん?)

 確かに門の傍に立って、そこから街を見渡すだけで途切れないぐらいの人は見える。それと同時に犬のような狼のような自然界の魔物もそこいらに見受けられ、武器を手にした人々に退治されている。

 よくよく見ると、舗装されている街路や等間隔の街路樹、建物の壁のあちこちには、獣のものと思われる爪跡が刻まれていたり、生々しい血痕の跡さえも見られる。

「ちょ……ここは、いったい……?」

 数歩先を行くパメラが振り返る。その顔には苦笑が浮かんでいた。

「だから、驚かないでって言ったじゃない」

「おど、驚くって言うか……おどろ……えぇぇッ?」

 半ば平然としているパメラの態度から、そうであるとしか解釈できないのだが、しかしこれはあまりにもヴァージニアの想像の範疇の外だった。

 その、次の瞬間。

「――ジニー!」

 呆然と佇むヴァージニアの頭上に覆い被さる影。

 普段ならば取るに足らない野犬相当の魔物ではあるが、あまりに衝撃が大き過ぎて反応しきれていない――のをイスカリオットがヴァージニアの身体を押し退け、獣の顔面を問答無用で殴り飛ばす。

「油断大敵」

「あ……ありがと、っていうか。アンタも、知ってたの……?」

「ん、そりゃあ勿論。魔族はこの先のグレイトホールから行き来するわけだし。楽園城郭都市エウリュメテス――ここは初代勇者を輩出した伝統ある街であると共に、魔界に一番近い場所。訓練用に低級魔物が放し飼いされているなんてのは序の口だよ」

 そして、それこそが【勇者】であっても問題ない街の、その理由。

 さも当然と言わんばかりのイスカリオットに、ヴァージニアはあんぐりと口を開けるだけだった。



 言われてみれば、至極当然のことだと思えた。

 白き紋章が発現してしまった【勇者】を受け入れる街。そんな普通じゃない街がランドヴァースにあったとして――いや、実際にはあったのだが――そうした場合、そこはいったいどんな場所なのか。

 その疑問に対する回答は本当に簡単なことだった。街中に同じものが溢れていれば、どいつが【勇者】のに惹かれてやって来たものなのか判別付かないし、それをわざわざ探ろうとする輩もいまい。

(楽園なんて、よく言ったモンだよ)

 鬱屈とした気分の中、ヴァージニアは胸中で独りごちた。

 久々の屋内である。

 テントでも、寝袋でもない。きちんとした屋内である。

 入り口の真正面にカウンターが置かれ、いくつかの丸テーブルと椅子が存在する。真昼間だというのに、ランプを光源とする薄暗い店内には、顔を赤らめた年配のオッサンたちがガハハガハハと品のない笑いを繰り返していた。

 南門のすぐ傍にあった酒場兼宿屋だ。看板は『アエテルニタス』となっていた。イスカリオットの薦めにより、昼食に立ち寄ったのだが、久しぶりの人里に加えて、都会かつ、未成年、酒場未経験のヴァージニアにはなかなか敷居の高い雰囲気だった。

 窓枠に切り取られた外に目を向ける。遅れ馳せながらに気付いたのだが、どこの家も建物も、窓という窓にはもれなく頑丈な鉄格子が据えられていた。外の状況を鑑みれば、当然の措置といえるだろう。だが、まるで監獄のようでもある。監獄の経験はさすがにないが。

「有り難いのよ。有り難いのだけれど……なんか、こう。イメージが、ね」

 改めて、窓の外。

 年端もいかぬ少年と、その両親と思しき大人の嬉々とした声が聞こえる。ここの子供たちはそれこそ物心付くかどうかの頃から武器の扱いを教えられ、魔物退治に明け暮れるのだ。

 あるいは、雑貨店の軒先で日向ぼっこをしていた老婆が曲がった腰のままで手斧を投げ付け、正確に獣の眉間をかち割った姿に度肝を抜かれるのだ。

 そんな、楽園城郭都市エウリュメテスの日常に。

「いやぁ……ないっすわぁー……」

 テーブルの天板に突っ伏して、呻く。

 心から安らぐ暖かさ。

 漠然と、ふんわりと、そういった柔らかいものを想像していたヴァージニアは現実とのギャップを埋めることに苦心していた。

「ちょっと田舎育ちのジニーには刺激が強かったかしらね」

 あらあらまあまあと、事も何気に年上ぶるパメラ。

「こんなの、序の口だろうにな」

 イスカリオットとパメラは互いに顔を見合わせ、「ねー?」とさも当たり前のように頷き合う。それがまたなんとかこの状況を飲み下そうとしているヴァージニアの神経を逆撫でする。

「むぅー!」

「どうしたの、ジニー」

「ふたりだけ分かったような顔をされるのがなんか許せない」

 小首を傾げ、やや沈黙するパメラだったが、すぐに得心したようにぽんと手を叩いた。

 そして、見当外れなことをのたまう。

「ごめんね、ジニー。別にイスカ君のこと、取ったりしないから安心してね?」

「……ハァ? なんですぐそういった話になるの! そこ、照れないッ!」

 がばりと上半身を跳ね上げたヴァージニアはパメラの思考回路に多大な疑問を抱きつつ、後頭部を掻きながら恐縮しているイスカリオットを牽制する。

「お待たせしましたー」

 と、計ったように酒場の給仕係がいっぱいに盛られた海鮮パスタの大皿をテーブルに持ち込む。併せて、青野菜が入ったボウル。取り皿が六枚。スプーンとフォークを三対。白のナプキンが三枚。

 美味しそうとかそれ以前に、温かな食事と香り立つ湯気を前にしただけで、ヴァージニアの目からは自然と涙が溢れるのだった。


   ◆◇◆◇◆


 気配を殺す意味は特になかったが、それでもイスカリオットは宿の廊下を気配を殺しながら静かに歩いていた。

「興奮して出て行ったまま戻らない。猪突猛進だねぇ……」

 昼食時からしばらく、感動の波に飲まれっぱなしだったヴァージニアも元気を取り戻した夕刻以降、夕食を挟んで街にくり出したきりだった。

 夜の帳は既に街を覆ってはいるものの、街灯整備はきちんとされているし、暴漢魔のような類がいたとしてもヴァージニアの相手にもならない。むしろ心配するのであれば、不逞な輩よりも解き放たれている魔物だが、街の外郭で遭遇する低級魔物では【勇者】の練習相手にもならないだろう。

 理屈で考えるとそういうことなので、完全無欠に心配などしていない――といえば、それもまた嘘になるのだが、その心配と同じぐらいにイスカリオットの胸中を占める郷愁が滲み出てしまわないかという思いがあった。

「はふ……」

 余計な緊張がかえって欠伸を生む。

 宿は昼食を取った酒場の上、そのままスライドするように部屋をふたつ借りた。

 無論、イスカリオットの男部屋、ヴァージニアとパメラの女部屋だ。

 しかし、この酒場兼宿屋『アエテルニタス』の様相は十数年前とまったく変わっていない。ただし、カウンターの中に居た酒場のマスターはどうやらイスカリオットが知るときから変わっていて、おそらくは泣き虫だった息子のほうが跡を継いだのだろう。

「んー」

 変わっていないとは言っても、建物自体は古びただろうか。黄土色の壁に手を当ててみる。少しだけ、土が剥げる。

 昔はよくその泣き虫リヴィと走り回り、かくれんぼなどをしょっちゅうしては怒られていたが、そのことがひどく懐かしい。

 【魔王】イスカリオット・グラッドストーン――

 別に公言するほどのことでもないが、こんなものはもちろん自分の名前ではない。黒き紋章が発現した頃から使っている偽名だ。全ての場面、全てのケースにおいて騙し通せるとは思っていないが、少なくともこれまでは支障がなかった。

 だからといって、これから先もないのかは分からないが。

 幸いにもリヴィには気付かれなかったが。

「まぁ、普通は気付かないか。あの泣き虫が今や髭面なんて爆笑モンだな」

 半ば吐き捨てるように言って、自分の部屋の扉に手を掛ける。

「……んん?」

 鍵は掛けていったはずだが、ドアのノブは抵抗なく下がった。

 訝しむ。

(物取り……?)

 仮にも【魔王】が寝泊りする部屋を荒らしに来るなど、その空き巣はいったいどれほど運の悪い面をしているのだろうか。

 ドアの隙間からは暗がりの部屋しか見えない。もう少しだけドアを開き、出来た隙間に身体を滑り込ませる。確実に誰かが居る気配を感じた。がさりと、窓から入る鉄格子の月明かりに照らされた影が動いたのだ。

 入り口からすぐベッドと鏡台があるだけの小さな部屋だ。向こうもこちらの存在に気付いただろう。

「誰だッ!」

 部屋のランプはどこかにあったはずだが、暗闇の中ではそれを探し出すよりも先に魔法で明かりを放ったほうが早い。部屋の天井に向けて、滞空する鬼火を放つ。それにより、部屋全体が赤く照らし出される。

 ベッドの横、そこに呆然と突っ立っていたのは――

「え、えと……?」

 パメラだった。

 しかも、全裸の。

「あ、れ……?」

 続けて、イスカリオットが呆然と呟いた。

 時が凍ったようにたっぷりと時間を掛け、体感的には何千回と瞬きをし、次々と湧き出る手汗はマントで処理し、ゆっくりと入り口のドアを振り返る。

「……すまない。もしかして、部屋間違えましたか俺」

 更に赤く染まった夕日色の髪が揺れる。頷いたようだった。

 なんという間抜けだろう。失態だろう。

 とにかくなんでもいいから、大声で罵倒するなり、手近のものを投げ付けたり、それでもって追い出すような行動を取ってくれれば、イスカリオットも反射的に謝罪の言葉を述べ連ね、この場から飛び出せたかもしれないが、当のパメラはややきょとんとしているものの、どうしてか冷静のようにも見えた。それがイスカリオットの足を縫い付けているような気がしたのだ。

 いや、あらぬ言い訳は止めようと思い直した。がイスカリオットの目を引き付け続けるのだ。

「あはは……あ、あまり見ないで欲しいのだけどね……」

 出るところは出て、引っ込むところは引っ込んで。

 とても均整の取れた、いわゆるところのナイスバディという奴だろう。

 ただ一点だけ。それを除いては。

(そう、だよな)

 彼女の左肩から豊満な乳房の間を通り、斜め下の右脇腹に掛けて。

 無惨なまでの大きな傷跡が刻まれている。刻まれてしまっている。

「そ――」

「そ?」

 本当に突然のことで、イスカリオットの唇はかさかさに乾いていた。張り付いて上手く開かないため、声も出ない。

「それなら……とりあえず、隠してくれないか。いや、勝手に入ってきた俺が言うのもなんだけど!」

「んん。そうね。ごめんなさい。つい」

「つい?」

 つい、なんだと言うのだ。

 思わず聞き返す。

「いえ。実は私、イスカ君が他人とは思えなくて。家族みたいだし、なんだか」

「か……家族でも何でも、パメラぐらいの年頃はもうアレだろう。なんだ、そうだ。もうアレだよ!」

「そうね。アレだね。おかしいよね」

 穏やかに笑いながらいそいそとベッドのシーツを掬い上げる彼女。その動作でさえ緩慢で、もう見られてしまった後だから慌てても同じだと思っているのだろうか。

 だが、事がその段階に及んで、本当の、イスカリオットの身の危険は背後に現れた。扉が押し開かれ、部屋を照らす鬼火に廊下の灯りが紛れ込む。がさりと、布袋か何かが床に落ちて、中に入っていた果物が散乱する――

「ア、ア、ア……」

 言葉不自由にその一言だけを繰り返すのは、タイミング悪く街から帰ってきたヴァージニアだった。

「ア、アア、アアア……ッ!」

「いいいや待て待ってこれは違うよ違うんだよヴァージニアこれは事故です比類なき完全無欠の事故なんですねぇパメラだから落ち着い――」

「あらそうなのかしらーウフフ」

 わざとなのかどうか知る由もないが、胸元までシーツをたくし上げ、肯定とも否定とも取れない言葉で笑うパメラの姿はヴァージニアという名の火種に燃料を注ぎ込む。

 イスカリオットは青褪めた。泣く子も黙るはずの魔界の覇者、【魔王】は凄惨な死の予感を覚えた。

「アンタって奴はァァァァァァァァ――ッ!」

 そこからきっかり三秒後。

 【勇者】と【魔王】の最終決戦が始まるのだった。

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