第7話 死にゆく世界

 男は白いスータンを着用し、執務室の革張りのソファに身をゆだねている。

 肩にかかるほどの髪は、頭部の真ん中から左右に流してある。

 肘掛けに肩肘をつけ、手の甲に顎を乗せて目を閉じていた。

 袖口には真紅の太陽が刺繍されている。


 一見すると若い女性、それも西洋の血が混じっているかのような、美麗で端正な面立ち。

 薄い唇は紅を引いたように赤い。長くカールしたまつ毛が動く。

 うっすらと目が開いた。


 男の前には直立不動の姿勢で、頭に包帯を巻いたスーツの男が立っている。

 彼は三十分ほど前にななぼし食堂を急襲した集団の、最も年かさの男であった。


 いま報告を終えたところであるが、緊張のためか、それとも目の前に座る男に対する畏怖のせいか、真っ直ぐ伸ばした両腕がかすかに震えていた。


「なるほど。経緯はわかりました」


 顔に似合わぬ低い声で言い、ゆっくりと視線を上げる。


「ようするに、女子学生と若いOLに撃退され、その上、自転車に突っ込まれて逃げ帰った。そういうことですね」


 直立不動の男は震える声で、はいと返事をする。


「困りましたねえ、それは。

 あなた方、『破魔の短剣』を手玉にとるとは、まだまだ知らない世界が多いということですか。

 いや、もしかするとプロと手を組んだのか」


 切れ長の涼しげな眼が、宙を見据える。


「テロ組織。うん、ありえますね。

 『破魔の短剣』と恐れられるあなた方の追跡を知って、あの世界に跳んだ後、手を組んだのかもしれません。それなら話はわかります。

 あの世界では、自爆テロという行為が盛んらしいと聞いたことがありますよ。

 自転車による自爆テロも最初から仕組まれていて、あなた方を迎え撃つ準備をしていたと。

 どうですか、ヨゼフ」


 『破魔の短剣』を率いる男、ヨゼフは大きくうなずいた。


「大司教、ジューダスさま、それは考えも及びませんでした。

 正福音分離派に『破魔の短剣』ありと自負する我々を、まるで赤子の手をひねるように叩き伏せたやつら。完全なプロの武闘集団です。テログループであれば話はわかります」


 ヨゼフは悔しげに、眉をしかめる。


「であれば、あの世界に手を出すのは危険ですね。

 もしかするとあなた方の顔写真が密かに撮られていて、すでにあの世界一帯に手配書が回されているかもしれませんから。

 さて、どういたしましょう」


 ジューダスと呼ばれた正福音分離派の大司教は、大仰に両手を広げた。

 ヨゼフは待っていましたと言わんばかりに、やや腰をかがめて胸の前で片腕を曲げた。


「ジューダスさま、お任せください。

 我々の名誉を挽回させていただくチャンス、いただきとうございます」


「ふむ、どうするのですか? 教皇選挙コンクラーベまであまり時間はありませんよ。

 私たち正福音分離派の枢機卿すうきけい、イグナチオさまを推していくためには、中心派には退いていただかなければなりません」


「はい、存じております。やつら中心派はそのために動いておりますが、やっと見つけたと思った矢先にテロ組織の迎撃にいったん退きました。

 しかし、やつらはまた跳んだようなのです」


 ジューダスは、ヨゼフを見た。


「あの世界から、別の世界へ跳んだと報告を受けております。すかさず第二隊が捜索に向かいました。

 今度こそ、裏切り者どもをひっ捕らえてごらんにいれます」


「さすがですね。わかりました。もしかすると連中の跳んだ先に」


「はい。潜伏している可能性が高いと思われます」


 ジューダスはふむと首肯し、ソファにもたれた。


~~♡♡~~


 泉太は強烈な目まいに襲われ、意識を失いかけていた。猛スピードで回転するメリーゴーランドに乗せられたような気持ち悪さに見舞われたのだ。

 エレベータが停止するような浮遊感があり、すぐに身体に重力を感じた。


「くうっ」


 ガクッと膝をついた瞬間、次に強い光に、両目が本能で閉じられる。

 左腕に違和感があった。ゆっくりと目を開けていく。

 違和感の正体は、左腕をつかんだ他人の腕であった。


「市野谷!」


 泉太はすぐに記憶を取り戻す。


 そうだ。あの公園で市野谷に腕をつかまれた瞬間、奇妙な青い光に包まれたのだ。


 その後のことは覚えていない。気が付いたらここにいたのだ。


 ここ?


 泉太は同じ姿勢のまま、辺りを見回した。


「ここは、どこなのだ」


 目が明るさに慣れるにしたがい、強い光は人工のものではなく太陽の陽差しであることがわかる。太陽って、夜になぜ?

 膝をついている地面はレンガ敷きであるが、ところどころに爆発でもしたかのような痕跡がある。


 顔をあげると目の前には大きな建物、博物館だったような建造物が建っていた。

 だった、と言うことは、今は違うということである。


 その建造物は、元は何階建てかわからないが、二階から上の部分は、これまた爆弾で吹き飛ばされたように鉄筋やコンクリートがむき出しになっているのだ。


 あわてて四方に視線をめぐらす。

 右手と左手にも同様に破壊されたような建物があり、背中の方は見渡す限り瓦礫が山のように続いていた。


「おい、市野谷、市野谷ってば!」


 泉太はつかまれていた腕をふりほどき、かたわらに死んだように仰向けになっている市野谷の身体をゆすった。

 市野谷は大の字になり泉太にされるがまま、身体を揺らす。

 どうやら気を失っているようだ。

 泉太は市野谷の口元に耳を近づける。大丈夫、呼吸はしていると判断する。

 そのままレンガ敷きの上に胡坐をかいた。


「困ったな。まあ、仕方ないからちょっと考えるかな」


 あえて声に出しながら、泉太は脳をフル回転させる。

 こういう時にも柔和な表情のまま、焦りが感じられない。


(ここはどこだかわからない。夜が昼になっているということは、地球の裏側?

 そんなことはないか)


 泉太は腕時計を見る。


(あれっ、止まっちゃっているよ。どうしたのだろう。

 あの公園で市野谷に腕をつかまれたときに見た光。

 あれはトマスさんが言っていた、羅針珠が起動したということなのかな。

 市野谷はそれを知っていた。

 となると、今いるここは、別の世界。平行世界の中のひとつ)


 そう考え、もう一度周囲を見渡す。


(どこか知らない、いくつもある日本のひとつということか。

 でもこの様子はただ事じゃないな。戦争? それとも天災?

 そういえば、物音がしないな。

 人が生活する音、行きかうクルマの音、飛行機の音、何も音がない。

 死の町)


 さすがの泉太も背筋が寒くなる。


 よいしょと立ち上がると、もう一度耳を澄ます。かすかに遠くの方で動物の遠吠えが聞こえるが、本当に聞こえるのかそれとも幻聴なのか判断できない。


「市野谷、起きろよ」


 泉太はしゃがみ、寝そべる市野谷の頬を軽く叩く。


「だめか。人をこんな所へ連れてきて、自分は寝たままなんて」


 泉太は市野谷の肩を、下から持ち上げた。


「こいつ、小さいと思ったけど、やっぱり重たいな。くそう!」


 普段から運動の苦手な泉太は、気絶したままの市野谷を強引に起し、その腕を自分の肩にまわす。


「元の世界へ帰るには、こいつだけが頼りだからな」


 泉太は力をふりしぼり、目の前の建物へ引きずっていった。


~~♡♡~~


「ふうー、こんなに体力を使ったことなんて、生まれて初めてかも」


 泉太は白いコンクリートの床の上に座り込んだ。

 かたわらには相変わらず寝ているのか気絶したままなのかわからないが、市野谷が横たわっている。

 泉太は額に流れる汗をハンカチでぬぐった。


 あらためて建物の内部を見渡す。

 入口から奥の、大部分の壁はひび割れ、コンクリートの内部がさらけ出されている。

 それでも天井はなんとか残っているようだ。

 やはり博物館だったようで、入口から入った正面には元はわからない彫像の残骸が何体かあり、広いエントランスには飾られていた大きな額縁が放り棄てられたように重なっている。


 当然電気は通っていないらしく薄暗いが、陽光が天井のむき出しの鉄筋から漏れて来ており、ある程度視界に影響はない。


 泉太がとりあえず建物の中に移動したのには、理由がある。

 どこともわからない世界。

 先ほどいた場所は、周囲からまるわかりなのだ。

 もしこちらに害意をもった人もしくは動物が現れたら、あっという間に餌食になるであろう。


 また空を見上げた時、厚い灰色の雲が流れていた。

 もし雨が降ってきたらたちどころに濡れネズミだ。

 どうなるかわからない時に、雨で体温や体力を奪われてしまったら今後に影響する。

 少なくともあらかじめ建物の中に避難しておけば、次の行動計画が立てやすくなると考えたのである。


「まあ、もっともこの世界が大地震でこうなっていたとすれば、どこにいても一緒かな」


 泉太は苦笑した。


「ひかりたち、さぞかし心配しているだろうなあ。

 いつの間にか強くなっちゃてるから、もし帰れたらいきなり蹴られそうだ」


 音のない世界で、泉太はいつのまにか独り言を声に出すようになった。


「とりあえず、市野谷はここに寝かせておいてっと」


 立ち上がると、ゆっくりエントランスの中から外へ歩き出す。

 何かを探すように慎重に目配せした。

 砂まじりのレンガ敷きの道は、自分の足音がやけに大きく聞こえる。

 最初に自分たちが現れたと思われる場所は、ちょうど建物の前の広い敷地であったようだ。


 元来陽気なポジティブシンキングの泉太は、今置かれている状況下で、最大限生き延びるための手立てを思考し始めた。

 レンガ敷きの広間の前には、めくれあがった広いアスファルトの道路が真っ直ぐ続いており、その左右にはコンクリートの瓦解したビルが連なっている。


 泉太は一度博物館の建物を振り返る。そこには市野谷が寝ている。

 もしかすると途中で気が付いて、自分だけ逃げてしまう可能性はある。

 しかし、いつ目を覚ますともわからない人間と一緒になって、じっと待っているのは泉太の性分ではなかった。


「どうなるかわからないけど、今は行動しよう」


 自分にハッパをかけるように声を出し、泉太はビル群に向かって歩き始めたのであった。


~~♡♡~~


 行けども行けども、景色はひかりの心を明るくしてはくれない。

 窓枠にしがみつくようにして、ひかりは車外を眺めている。


「どうしてこんなになっちゃったのだろう。

 ここにも色んな人たちが毎日生活していたんだよね」


 ひかりはもはやビルとも呼べない建造物を見ながら、誰にともなく言った。


「そうです。みんな明日への希望を抱きながら生きていたはずです。よもや自分たちの住む世界が滅び去っていくなどとは、誰も思わなかったでしょう」


 トマスは神妙な面持ちで返した。

 ひかりの目にうっすらと涙が浮かび、ツーっと頬を伝う。


「運命だ、と一言で片づけるにはあまりにも大きい代償です。

 この世界にも神はいらっしゃるでしょう。

 もしかすると、私たちが心から信仰している太陽神が手を差し伸べているかもしれません」


 トマスは胸の前で両手を組み、黙とうする。

 ひかりは信者ではないけれど、トマスにならって胸の前で両手をしっかり組んだ。


(神さま。神さま。本当にいらっしゃるのなら、どうかこういう世界をひとつでもお救いください。ここに生きていた人たちの魂を、全部お救いください)


 ひかりは生まれて初めて、他人ひとのことを神に祈った。


「お兄さん」


「どうした、シモン?」


 ハンドルを器用に操作していたシモンは、正面を向いたまま言う。


「ちょっと、停めます」


 言いながらアルファードを停車させた。

 しばらくシートに座ったまま動かない。

 指先だけを動かしている気配だ。


「なんだ? 便意でももよおしたか」


 トマスの問いかけに、シモンは真っ赤になって振り返る。


「お、お兄さん、レディがいらっしゃるのに、そんな恥ずかしい言い方はおやめくださいっ」


「だって、出るモノは時と場所は考えちゃくれないぜ」


「違います。教会へ連絡するのを忘れておりましたゆえ、メールを送ります」


「エッ? ここの世界からメールなんて送信できるの?」


 ひかりは驚いてシモンの座るシートをゆすった。


「アッ!」


 シモンが素っ頓狂な、裏返った声を発した。


「えっ、わたし、なにかしてはいけないことを、しちゃいました?」


 シモンは口を開けたまま、手元を見ている。

 チッとトマスは舌打ちをしながら、シモンの丸い肩をつついた。


「どうしたんだよう。もう送信したのか。したのなら早く行こうぜ」


「するのは、したのです、が」


「じゃあ、いいじゃん」


「は、はい」


 シモンは返事をし、再びハンドルを握る。


「お嬢さん」


 トマスが言う。


「私たちの世界では異世界間を超えるメールのやりとりは、頻繁に行います。

 羅針珠の持つ電波信号を利用します。

 ただ音声、つまり電話のようなことはまだできませんけどね」


「へええ、それは凄いですね。多分」


 理系分野が苦手なひかりは、適当に相槌を打った。


~~♡♡~~


 どれほどの力が加われば、鉄筋コンクリートのビルをこんな姿に変えられるのだろう。

 それもひとつや二つではない。飴のように曲がりくねる鉄筋や鉄骨。


 泉太は道路の真ん中に立ち、ひとつとしてまともな状態ではないビルや建造物をながめた。ガラスやコンクリートの破片があちこちに山を作っている。

 うかつに動くとケガをしかねない。

 中には一階部分だけ損傷を免れた建物もあるようだ。


「何か、役に立つような商品が残っていればいいのだけどな」


 泉太はつぶやきながら、注意深く建物をのぞいていく。

 コンビニエンスストアのような雑貨店があれば助かる。

 飲料水や食料、衣類やそのほか救急道具があればありがたい。そう考えていた。

 あまり博物館から離れるのは得策ではないと思いつつ、もう一か所、と歩いていく。


「あそこは、どうかな」


 前方のビルの入り口に青色と白色の模様の入った、割れたプラスチック製の看板が見えた。

 文字の部分は読み取れないほど割れているが、なんとなく入ってみたい気にさせる。

 思った通り、そこは何かを販売していた店舗のようだ。

 倒れたショーケースや飾り棚が重なり合っている。


 しかし、残念ながら扱っていた商品らしきものは見当たらない。

 泉太は諦めきれずにさらに奥へ進む。電気は通っていないから、壊れた入口から差し込む太陽光だけが頼りだ。


「あの階段、昇っても大丈夫だろうかしら」


 壁から落ちた棚の方に、二階へ上がる階段があった。

 一階部分の天井を見上げると、白っぽいコンクリート製であるが、幾筋かの亀裂はあるものの破片が降ってくる気配はない。ということは、二階部分は持ちこたえているのではないかと推測する。


「よし、だめもとで、行ってみよう」


 そっと右足をクリーム色の階段に乗せる。ゆっくりと次は左足を運ぶ。今のところ崩れる心配はなさそうだ。いいぞ、と思う。もう一歩、さらに一歩。泉太は十段ほど進んだ。

 もう少しで二階が見えそうだ。


 泉太は足元に気を取られ過ぎていた。

 十一段目に足を下ろそうとした、その時。

 バッと風の音とともに、いきなり泉太の顔をめがけて二階から黒い影が襲ってきたのだ。


「ウワーッ!」


 泉太は突然目の前が真っ暗になり、勢い余って階段から転がり落ちてしまった。


~~♡♡~~


 深い、深い闇。泉太の身体はなすすべもなく、落ちていく。これが死というものなのだろうか。ひかりの笑顔がもう一度見たかったな。


 泉太は落ちていく自分に向かって、温かい光の結晶が天から降り注いでくるのを感じた。

 光の粒子は泉太の身体をみるみる包み込んでいく。

 急降下していく身体がゆっくりと停止する感覚。


「おおっ、気が付いたね」


 泉太は聞きなれない男性の声に、本当に目を覚ました。


「大丈夫? 頭は打っちゃいないと思うけど。よかったら、これを飲みなよ」


 まだ頭がぼんやりしている。身体は堅い床の上に寝ているようだ。

 目の前に、金属製の筒が差し出されている。


「心配しなくてもいいさ。賞味期限は切れていない」


 泉太は一度固く目をつむり、勢いよく上半身を起した。

 閉じていた目を開いて声の主を見る。若い男であった。

 無造作に伸ばした長い髪を後ろでくくっている。あごにうっすらと無精ひげがみえる。

 古い茶系の布を貫頭衣のようにざっくりと羽織っているのだ。

 泉太をみつめる目に、やわらかな優しい光があった。


 男は、ほらっともう一度筒を差し出す。どうやら飲料水の缶らしい。プルトップではなく、筒の上が蓋になっているようで、それを回した。カチッという金属の外れる音。

 泉太は上蓋をとって中をのぞき、においを嗅いだ。


「これ、緑茶だ」


「そう、普通のお茶だよ」


 泉太は一気にそのお茶を飲み干す。お茶がこんなに身体に染み渡るなんて。

 ほうっとため息とともに、身体の力を抜いた。


「ありがとうございます。美味しかったです」


「いやあ、お礼を言われることではないよ。だって、元々はこいつが悪いのだから」


 男が腰を降ろしている後ろから、一匹の茶色の猫がひょっこりと顔をのぞかせた。

 緑色の首輪がついている。猫は前に回ると泉太の指先のにおいをかいだり、身体を摺り寄せてくる。


「ずいぶん人懐こいなあ。この猫が悪いとは?」


 泉太は猫の頭をなでながら訊く。


「申し訳ない。

 きみがここの二階へ上がる途中で、先に上がっていたこいつがふざけて跳んだのだよ。

 きみの顔めがけて」


「ああ、そうだった!」


 泉太の記憶がもどった。

 確かに急に何かに飛びかかられ、驚いて階段から落ちたのであった。


「こいつは、僕か先生と間違ったのだと思う。

 まさかこの世界に、他の人間がいるなんて思わないからさ」


 男の言葉に、泉太は反応した。


「この世界を知ってるんですか? ここはどこなのですか? あなたは、ここの人なのですか?」


 泉太は男の肩を両手でつかんだ。


「おいおい、落ち着きなさいよ。

 この世界と言う言葉を使うということは、きみもこの世界の住人ではないね。

 だったら羅針珠ってえのも、理解しているのかな。

 じゃあ、まずは自己紹介だ。

 僕は斎間、斎間フランシスコ真一って名前だ。半年ほど前に、理由わけあっていきなりこの世界に放り込まれた。

 フランシスコって、ミドルネームで呼んでくれよ。

 僕はこの世界で先生に救われてね。先生に弟子入りしたのさ」


 斎間フランシスコ真一は、晴れやかな顔で言った。


~~♡♡~~


 アルファードの痛車は崩れているビルとビルの間を縫うように、ゆっくり走っていく。

 どでかい排気音だけがこだましている。


「シモン、あとどれくらいで着きそうだ?」


「十五分はかからないと思います」


「まだそんなにかかるのか。思いのほか離れた場所に跳んだな」


「どうやらこの世界は、時間軸がおかしくなっているようですね、お兄さん」


 ひかりは泉太の身を案じていた。ほんの数時間前には、いっしょに勉強し、いっしょにご飯を食べていたのだ。それが突然わけのわからない世界に連れてこられ、といっても、ひかり自身が勝手についてきたのだが、泉太を探すことになってしまった。


 モヤモヤがひかりの心を黒く染め始めた。

 怒り、悲しみ、憐れみ、そういった感情が頭をもたげている。

 ひかりの心に、突然洞嶋の声が響いた。「何か事を起こす前には、必ず深呼吸をして、気を身体中に満たすのだ。正しい気を練れば正しい判断、行動ができる。いいな」出発前に、ひかりに向けた言葉。


(いけなーい! 危うくネガティブシンキングに走るところでした。

 せっかく先生が、弟子のわたしに言ってくれたのに、わたしったら。

 そうよ。理由なんていらない。わたしはセンちゃんを助けに行く。それだけ!)


 ひかりは唇を固く結ぶ。

 ふと洞嶋がくれたフリスクを思い出し、ポケットから取り出した。

 新品だ。ひかりは包みを開く。


「トマスさん、シモンさん。これは知っていますか?

 お口の中がスーッて爽やかになりますよ」


 ひかりはトマスの手にタブレットを数粒置き、シモンが差し出した手のひらにも同様に置いた。最後に自分も口の中に放り込む。ミントの爽やかな味わいが口から喉に伝わる。


「こいつはいいや、ありがとう」


「初めて体験する刺激です」


「良かったです。また欲しくなったら言ってくださーい」


 ひかりは大きく息を吸い込んだ。肺の中から吐息と一緒に、ネガティブな思考を全部吐き出してやった。


「よーし、これで大丈夫。センちゃん、待っていてね。あと少しだけ」


 ひかりが言葉に出した時、いきなりクルマは音を立てながら急ハンドルを切った。

 ひかりとトマスは遠心力で身体がかたむくが、シートベルトのおかげでどこにも身体をぶつけずにすんだ。


「どうした、シモン!」


「す、すみません、突然瓦礫がれきが降ってきて」


 言った矢先、再びクルマが大きくゆらぐ。


「また、瓦礫が降ってきました!」


 トマスは閉めてある窓ガラスを開け、首を外に出した。

 崩れたビルの上の方で、人影が動く。


「チッ、誰かが意図的に落としていやがるぜ」


 ひかりも窓から外をみる。


「この世界の人なのでしょうか?」


「いや、多分そうじゃないでしょう。ほら、あれをご覧なさい」


 トマスは前方を指さした。

 シモンはブレーキを踏み、いったんクルマの動きを止める。

 降ってくる瓦礫をよけながら方向を変えていった先は、一段と山のように土砂や瓦礫が積まれた行き止まりであった。

 シモンは左手で助手席のシートをつかみ、よいしょと掛け声をかけて後方に身体をひねった。


「お兄さん」


 黒縁眼鏡の奥の細い目が後ろを見たまま、シモンはトマスに声をかける。


「どうした」


「えーっと、どうやら僕たちは、進路も退路も断たれたようです」


 シモンは淡々と状況説明をおこなった。

 ひかりもトマスも後方を振り返る。

 バックドアガラスには目隠しのためか違法のフィルムが貼ってあるが、状況は一目瞭然であった。

 二十メートルほど後方の瓦礫のあいだから、黒いスータン姿の男たちが何人も姿を現した。


「あの人たちは、神父さんなのよねえ?」


「ええ。我々と同じ教会の者だと思われます」


「じゃあ、お仲間さんではないですか」


 ひかりは、良かったーと安堵しながら胸をなでおろす。


「ところが、残念なことにやつらは多分、正福音分離派。

 私たちを追いかけてきたようです」


 トマスの言葉にひかりは驚き、もう一度後方を確認する。

 十人以上の男たちが油断なく立っている。

 こちらを警戒するように、距離をとっているのがわかった。


「シモン、構わねえさ。このままバックしろよ」


「エーッ、それではあの方たちを轢いてしまうかもしれません」


「ここでジッとしていたら、間違いなくやつらは来る。

 俺たちの争いに、このお嬢さんを巻き込むわけにはいかないよ」


 ひかりは二人を交互に見た。


「あっ、わたしなら大丈夫ですよ。気になさらないでくださーい」


 トマスとシモンは顔を見合わせ、うなずく。

 シモンは後方を向いたままギヤをバックに入れ、思いっきりアクセルを踏んだ。

 爆発のような排気音が上がった。

 正福音分離派の居並ぶ男たちは思わず頭を押さえ、その場にしゃがみこむ。

 本能が身の危険を感じるくらいの、馬鹿でかい音であったのだ。


 ところがアルファードは一向に動かない。

 咳払いをしながら立ち上がった男たちの元へ、同じ黒いスータンの裾をひるがえしながら、三人の男が駆け戻る。


「うまく撒けましたよ」


「油で足止めするとは、やつらも思わなかったでしょう」


「だが油断するな。もしかすると報告のあった、プロのテロリストが同乗しているかもしれん。第一隊が全滅になったんだ。どれほど凶暴で悪辣なテロリストか推して知るべし、だ」


 その場にいる全員がうなずいた。

 悪の権化のような対象とされているひかりは、動かないクルマの中できょとんとしている。


「お、お兄さん。タイヤが突然すべりだして、いくらエンジンの回転数をあげても空回りです」


「くーっ、くそう。どうやってこの窮地を脱する?」


 トマスの言葉の途中で、ひかりは何を思ったのかクルマのドアを開け、ピョンと外へ飛び出した。

 これにはトマスもシモンも驚いた。

 もっと驚いたのは、『破魔の短剣』第二隊の連中であった。

 追いかけている相手のクルマを足止めにしたはいいが、次にどうやって中心派の連中を確保するか考えている矢先、クルマから降りてきたのは見たこともない子供であった。


 第一隊を、五分かけずに倒したというテロ組織。

 情報によれば、ひとりは女子学生の仮の姿をしていたという。

 いま目の前をこちらに向かってくるのは、オレンジ色のスウェットにキャップをかむった、かなり小柄な子供のようだ。

 だがそれは相手を油断させる罠かもしれない。

 しびれを切らした若い男が拳を振り上げながら、ひかりに向かって走り出した。


「ま、待てっ! 早まるな」


 横の男が制したときには遅かった。

 ひかりは落ち着いていた。相手を叩きのめそうとか、攻撃しようという気はさらさらないのだから。ただ泉太を連れて帰りたい、それだけを思っていたのだ。

 だからこの人たちに、事情を説明してみようと思ったのである。


 若い男は腕に自信はあった。まさかこんな小さな子供が第一隊を全滅させたひとりとは、とうてい思えない。

 体重の乗ったパンチを繰り出す。ブンッと風を切る鋭さ。

 ひかりはちらりと拳を見たが、わずかに顔を動かしただけで、かわしてしまった。


 次に男はフックと見せかけて、中段蹴りの連続技を出す。

 ひかりは上半身をスェーバックでそらせた後、そのまま脚を開き身体を沈める。

 相手の動作は洞嶋の動きと比べれば、止まっているように見えるのだ。

 若い男が手玉に取られるのを見て、後方で固唾を飲んで観ていた男たちにどよめきが起こる。


「や、やはりあいつらは、プロのテロリストをスカウトしていたのだ」


「まずいぞ、あんな小さいのに、なんという凶悪なっ」


「こっちにくるぞ、いったん撤収しよう。あれは悪魔だ!

 宇宙を暗黒の世界に変えると伝わる、聖書に記された悪魔としか考えられん。

 神よ、太陽神よ、我々を救いたまえ!」


 ただ攻撃を避けていただけで、ひかりは悪魔呼ばわりされているとも知らず、男たちに真っ直ぐ向かう。

 若い男はすべての攻撃が見切られたショックで、めくれたアスファルトの上でしゃがみこんでいた。

 第二隊の連中は、一目散に走って逃げだしたのであった。


「ああ、ちょっと、ちょっと待ってくださーい!」


 ひかりは逃げていく男たちを追いかける。


「おい、悪魔が追いかけてくるぞ」


「なんて早いんだ! すぐに追いつかれてしまう」


 必死になって走る男たちたちとの距離が、みるみる縮まる。


「話を聴いてくださーい!」


 ひかりは最後尾の男の横に並びながら、話かける。


「ヒ、ヒーッ!」


 男は顔面蒼白になり、涙まで浮かべながら必死に走る。


「顔色が悪いですよー。大丈夫ですかあ」


 ひかりは相手の事を思って走りながらしゃべるが、相手はひかりを悪魔だと信じ始めている。

 胸元で揺れる太陽をシンボルとしたペンダントにはめてある羅針珠に、思いのすべてをぶつけるように命令した。

 第二隊は、全員が羅針珠を使って跳んで行ったのであった。


「あー、みんな消えちゃっいましたあ。仕方ないです」


 ひかりは今走って来た道を、ランニングのままもどる。

 途中、若い男はまだ大地に伏していたので、ひかりはその横にしゃがみこんだ。

 ひかりは当分忘れないであろう、男が心底恐怖した表情と悲鳴を上げたことを。

 若い男は胸元に掛けたペンダントを固く握りしめ、叫びながらひかりに突き出したのだ。


「ええっと、わたしは吸血鬼じゃないから。

 すみません、そんなものをつきつけられても困ります」


 なぜか男は何度も首肯し、羅針珠に念じた。

 シュッと光とともに、男は消えた。

 その間アルファードはトマスが瓦礫の中から板らしきものを探しだし、タイヤの下にそわす。それでようやく動けるようになった。


~~♡♡~~


 泉太はかたわらに座る斎間、フランシスコの語る話を聴いていた。


「もう半年になりますかねえ、ここの世界を歩いて。

 最初はね、正直言って神が僕に罰を与えただなんて、考えもしませんでした。

 そりゃ驚きと怒りで、頭の中は沸騰していましたよ。

 どうして僕がこんな世界に、いきなり跳ばされなきゃいけないのだって。

 そう、今では羅針珠の存在やこういう平行世界については、先生から学んで知っています。先生に出会わなければ、僕はこの世界でのたれ死んでいたでしょう」


「先生と先ほどから言われている方は、近くにいらっしゃるのですか?」


「はい、もちろん。先生は大変優秀な方で慈悲深いお方です。

 こういった滅亡していく世界をいくつも周られています。

 もし誰か生き残っていたら、先生が太陽神について語られて、その人の迷える魂をお救いしようと考えていらっしゃいます。

 半ば自暴自棄になっていた僕は、先生のお言葉によって目が覚めました。

 それまで僕はなんと身勝手で自堕落な人生を送っていたのだろうって、大いに自戒しましたよ」


 フランシスコは澄んだ瞳で泉太を見る。


「こいつ、僕はミカエルと名付けていますが、不思議なことに、この何もない世界に一匹で住んでいたようです。よく生きていたなと思いますけど」


 ミカエルと呼ばれた猫は、甘えるようにフランシスコの膝にじゃれる。

 建物の外から声が聞こえた。


「おーい、フランシスコ。ミカエルはみつかったかーい」


「ああ、先生です。はーい! ここにいました」


 フランシスコは立ち上がり、建物の入り口まで進む。泉太も立ち上がった。


「そうかい、そいつはよかったなあ」


 道路わきから男が現れた。

 背の高い男であった。泉太よりも高い。

 白いスータンを着て、胸元に銀色のペンダントを下げている。その中心には、丸い玉がはめられていた。

 肩まで伸ばした髪に鼻から下には長いひげを生やし、その目はにこやかにほほ笑んでいた。年のころで三十代後半くらいであろうか。やや頬がそげているが、その笑顔を見るだけで温かい気持ちになる。

 泉太は思わず頭を下げた。


「おや、珍しいねえ。この世界にまた殿方がいるなんて。フランシスコに出会って以来だよ。

 はじめまして、私はベネディクト。といっても日本人ですが」


 ベネディクトは柔らかな声で名乗った。


「こんにちは。はじめまして、僕は七星泉太と申します。高校一年生です」


「高一ってことは、僕といっしょなんだ」


 フランシスコは懐かしむように、あらためて泉太を見上げた。

 三人と一匹は建物から外へ出た。


「泉太くんでいいかな。きみはどうやってここへやってきたんだい?」


 ベネディクトはゆっくり歩きながら尋ねる。


「何からお話すればいいのか、まだ頭が混乱しています」


 泉太は言った。


「いいよ、あわてなくても。フランシスコから平行世界については聴いたのかな。

 知識を持っていない人には、驚きの連続だろうけど」


「はい。別の人からある程度は聴いていましたから、平行世界については。

 実際に跳んだ時は驚きましたけど」


 フランシスコは笑った。


「そうだろうね。次元を跳ぶなんて」


「いけない!」


 泉太は立ち止まった。ベネディクトとフランシスコも止まる。


「僕、同級生を置いたままでした。あの博物館に」


 指さす方向を二人が見る。


「おや、まだお連れがいらっしゃったんだ。

 フランシスコや、私はこの方と先に行くから、クルマをあそこまで運んでくれないか」


「クルマ? お持ちなのですか」


 泉太に、ベネディクトはウインクする。


「いくら物好きな私でも、説法のために歩いてまわるのは無理だよ。

 クルマと言っても、もう二十年近く乗っているオンボロだけど」


 フランシスコは束ねた髪をゆらしながら、建物の反対方向へ走っていく。

 猫のミカエルを抱きながら。


~~♡♡~~


 教会の執務室。ジューダスはソファに座り、長い脚を組んだまま再びヨゼフの報告を聞いていた。


「なるほど。ではテロリストが一緒に跳んでいたわけですね」


 直立不動の姿勢でヨゼフは、はいと返事をする。

 ジューダスは人差し指を、高い鼻梁の前に立てた。


「中心派、侮れなくなってまいりましたね。

 こうなったら力ずく、ってことにしないとだめでしょう」


「力ずくとおっしゃいますと?」


「教会本部のお許しは当然出ないのですが、火器を使用してテロリストたちを黙らせるってことでしょうか」


 ヨゼフの顔色が変わる。


「か、火器を、ですか」


「そう。無敵と言われた『破魔の短剣』が、二度にわたって失敗しているのですよ」


 ジューダスの涼しげな目元にバチッと炎が燃え上がったように感じ、ヨゼフは絶句した。


「そんな報告を私にしなければならないあなたの心中を、お察しいたします。

 忸怩じくじたる思いであった『破魔の短剣』のリーダーが、厳罰を承知で教会から無断で火器を持ち出した」


「エッ!」


「大丈夫です。ようはコンクラーベの時に我が正福音分離派の長である枢機卿イグナチオさまが次期教皇におなりになれば、何も問題はありません」


 ヨゼフの額に、一筋の汗が流れる。


「し、しかし、火器を他の世界へ持って行くためには、教会本部の厳しい制約が。

 そのために我々は、日々おのれの肉体を鍛え上げ」


「女子学生とOLに、二度も敗退したと」


 ジューダスは下からヨゼフを見上げ、冷たく言い放った。

 クウッと言葉につまるヨゼフ。

 静寂な室内はまるで凍りついたように固まっていた。


 ジューダスの言葉は提案ではない。命令である。

 教会は火器を取り扱うにおいては相応の手続きを踏まねばならないという、戒律を設けている。異世界を重火器で侵略もしくは討伐することは、太陽神の教えに反するからであった。

 ジューダスは戒律を破ってでも、中心派を抑え込めと言っているのだ。

 現教皇は齢九十を超え、新たな教皇を選出する時期に来ている。

 中心派から政権を奪還し、正福音分離派から新たな教皇をたてる。

 つまり政権を握ることを目論んでいるのである。

 だからこそこの勝負の分かれ目の時、勝機を逃がすなとジューダスは言っているのだ。

 なにゆえ勝負の分かれ目なのか。


「中心派の次期教皇候補とまで言われている枢機卿は、今だにこの教会本部の意向を無視し、放蕩三昧ほうとうざんまいです。

 コンクラーベまでに本部へ戻らなければ、選挙においての立候補権をはく奪されます。中心派の連中はやっきになって捜索しております。それを妨害するのは政治を行う上で、常套手段ではないでしょうか。

 そのために使えるものはなんでも使いましょう。違いますか?」


 ジューダスはソファの上で上半身をかがめ、両肘を膝の上に乗せて組んだ手に顎を乗せる。

 もはやヨゼフに否を言う権利は、なくなっていたのであった。


~~♡♡~~


 市野谷はまだ横になっていた。

 泉太は駆け寄ると、しゃがみこんで市野谷の肩をゆする。


「おい。おーい、市野谷!」


 よほど深い眠りに陥っているのか、一向に目覚める気配はない。

 泉太の横に、ベネディクトがふわりと座り込む。


「ほう、この方がお連れか。よくお休みのようだが」


「彼がその羅針珠を使って、僕と一緒にこの世界へ跳んできたのです」


「なるほど。慣れない行為で、よほど神経をすり減らされたのか。

 では羅針珠はこちらがお持ちなのかな」


 泉太は首をひねる。


「お持ちという表現でいいのかどうかわかりませんが、たしか彼は右手に青く光る珠を握っていました」


 ベネディクトの片眉が上がる。


「それは、直接持っていた、ということ?」


「はい」

 泉太の返事を聞いて、ベネディクトの顔が曇った。


「それはまずいな。羅針珠をもし体内に取り込んでいたら、場合によっては脳か精神が汚染されてしまう」


「では、こうやってずっと寝ているってことは」


「うむ。手遅れにならなければよいが」


 ベネディクトは顎髭をさわりながら思案する。


「先生ーっ。クルマを前につけました」


 そこへフランシスコが現れた。

 二人がしゃがんでいる前に、横になっている若者を見る。


「こ、こいつは、市野谷っ!」


 フランシスコの叫び声に、泉太は驚いて振り返る。


「ええっ? 知り合いなのですか」


 ベネディクトも怪訝そうに顔を上げた。

 フランシスコの身体がワナワナと、目に見えて震えているのがわかる。


「ぼ、僕を半年前にこの世界におきざりにしたのは、この市野谷だ」


 泉太とベネディクトは顔を見合わせた。

 フランシスコは肩で大きく呼吸をしている。


 泉太にはその怒りを感じることができた。

 半年間もこんな世界におきざりにされた怒り、悲しみはどんなだっただろう。

 自分なら気がふれていたかもしれない。


 泉太はそこで気が付いた。

 半年前? それはおかしくはないか。

 だってそもそも羅針珠を紛失したトマスさんたちが、ウチに来たのは昨日。

 失くしたのも一昨日って言っていた気がする。

 それを市野谷は半年前にどうやって?


 疑問をぶつけようとしたときに、ベネディクトが立ち上がっていた。

 震える斎間の肩に優しく手を置いた。


「せ、先生」


「フランシスコよ、彼がきみをこの世界に連れてきたのだね」


 斎間は無言でうなずく。


「きみは今、どうしようもない怒りに見舞われている。もし許されるなら、この場で彼を叩きのめしたい、いやそれ以上の報復さえ辞さないと考えている」


 ベネディクトの声音は、温かく染み渡る。


「その思いは当たり前だね、普通の人間なら。

 でも、彼がきみをこの世界に連れてきてくれなければ、私はきみという、立派な弟子を持つことはできなかった。

 きみはこの半年間で、私の声を通じて太陽神の言葉を学んだ。

 きみは優秀な神の子となり、私の旅を手助けしてくれている。

 私はいつも太陽神に感謝しているのだよ。

 きみのような、優れた人間と巡り合えた奇跡を」


 斎間は震えながら、大粒の涙を流す。


「さあ、フランシスコ。どうする? 彼を許してあげようじゃないか。

 そしてきみと私が出会うチャンスを作ってくれたことを、彼に感謝しようじゃないか」


 ベネディクトは両手をゆっくり広げた。

 フランシスコはその胸元に顔をうずめ、先生、先生と泣きながら繰り返す。

 泉太は神の存在については、否定も肯定もしない。

 しかし、いまこの場所で師弟の姿を見て、心から感動していたのであった。

 いつの間にか市野谷の両目が、とろりと開いている。


「気が付いたか!」


 泉太は顔を上から覗き込んだ。

 だが市野谷の目は、まったく焦点が合っていない。


「とりあえず、私のクルマに連れて行こう。彼は立てるのかな」


 ベネディクトは片膝をついて、市野谷の様子を見た。

 市野谷にその声が伝わったのか、むくりと上半身を起す。


「動けるようですね」


 泉太は少しホッとした声で言った。


「フランシスコ、先にクルマの中で準備しておこう」


「わかりました、先生」


 二人は博物館から表に出ていった。


つづく

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る