第6話 ひかり、跳ぶ

 急いで暗い自室に入ると、市野谷はドクドクと脈打つ心臓を鎮めるように、荒い呼吸を繰り返した。それほど暑い季節ではないが顔には大粒の汗が流れ、わきの下も気持ちが悪いほど湿っている。

 持っていたバッグをベッドに投げ出し、自分も寝転がった。


(あの追いかけてきた人は誰だったのだろう。

 まさか、斎間を置き去りにしてきたのが、ばれたのだろうか。

 いや、そんなはずはない。だって、こんな不思議な球体が存在するなんて、インターネットの検索でも引っかからなかったし。

 でも間違いなく、僕を追いかけてきた)


 目をつむって、これまでの経緯を思い浮かべる。


(あれは斎間が悪いのだ。僕は何も悪くない。ちゃんと警告したのに、あいつは無視した)


 カーテンを引いた部屋の中。月明かりがぼんやりとカーテンの隙間からもれている。


(そうだ、僕は良いことをしたのだ。僕に害をくわえる人間を消してやったのだから。

 この世に必要のない、ハイエナ以下のあいつを消去してやったのだ。

 待てよ。これは使えるかもしれないぞ。この世界に居てはいけない奴を僕があの世界へ放りだしてやれば、救われる人は大勢いるのではないかしら)


 市野谷は目を開け、ベッドの上に坐りなおす。


(そうだ! それだ。この球体を使えばできる。僕にしかできないことだ)


 ふと頭のなかで、クラスメートのひかりの笑顔がよぎった。風邪で休んだことにしていたが、唯一お見舞いにきてくれたひかり。


(本当は嬉しくて、いっぱいお礼を言いたかった。

 だけど、一緒にいたあいつ。特選科の七星泉太。

 どうしてついてきたのだ? 幼馴染かなにか知らないけど。

 僕だって特選科に入学できる学力はあったのだ。だけどあえて確実な普通科に入学しただけで、学力が劣っていたわけじゃない。

 七星はそれを知らない。だからあんな優越感にひたって、僕を蔑んだような目でバカにしていたのだ。

 凪佐くんはもしかしたら、あいつに騙されているのじゃないか?)


 一度悪い方へ思考が向くと、とめどもない妄想が市野谷の頭に広がっていく。


(間違いない。凪佐くんは七星に、いいようにたぶらかされているのだ!

 それならどうやって凪佐くんを救ってあげたらいいのか。

 答えは、この手にあるじゃないか)


 右手の手のひらを見つめる。

 熱さも苦痛も何も感じないが、ボウッと青い光が明滅し始めた。


~~♡♡~~


 ひかりは映像を指さしたまま、泉太を振り返る。


「センちゃん、ここに映っているのは市野谷くんだよ」


「まさか。どうして彼がこんな場所に、しかもシモンさんたちの落とし物を持っているんだ?」


「それで、このあとどうしたんですかー?」


 ひかりは視線をシモンに向ける。


「呼び止めたのですけど、いきなり自転車に乗って走り去ってしまって。

 僕は追いかけたのですが」


「まさか、途中で見失った?」


「は、はい。でも、お嬢さん」


 ひかりは顔を上げる。


「この御仁は、お知り合いなのですか?」


「はい。わたしのクラスメート、市野谷くんです」


「では、居場所もご存じで」


「知っていますよ。今日の夕方、センちゃんとおウチにお邪魔したから」


 トマスは胸の前で、両手を組んだ。


「おお、これは太陽神のお導き!」


「まだ、地下鉄は通っている時間帯だけど」


 泉太は食堂の時計を見ながら言った。時計は午後九時半を回っている。

 と、食堂の出入り口がガラガラと半分まで開いた。

 洞嶋はすかさず拳を構えて立ち上がり、ひかりは泉太をかばうように小さな身体を出入り口に向けた。


「おい、ギンさん」


 ひょっこりと顔をのぞかせたのは、八百屋の大将であった。

 ひかりはフッと肩の力を抜く。


「何かあったのかい? 喧嘩しているみたいな声が聞こえるから様子を見て来いって、かあちゃんに言われてよう。灯りがついているから、もしやと思ってな」


 大将は食堂のなかを見渡す。


「ああ、すまん。なんでもないよ。心配かけてすまねえな」


「そうかい。ならいいけどさ」


 七星は、そうだっと声を上げ、シモンを見る。


「神父さんよ、あんたは運転できるかい?」


「運転と申しますと」


「自動車だよ」


 シモンがゆっくり手を上げる。


「僕は、大型自動車免許を持っています」


 七星はニンマリと笑う。


「あんたは料理の腕も一流だが、クルマまで大型免許持っているとはな」


 七星は、八百屋の大将に向かって言った。


「大将のところに、クルマあったよな」


「あるぜ。せがれが昔乗っていたやつが。

 たまにエンジンを回してくれって、鍵は預かっているよ」


「悪いけどさ、今から貸しちゃあもらえねかな」


 大将は笑いながら返事をする。


「あれに乗るのかい? 俺ならごめんこうむるなあ、あれは。

 それでもよければいつでも貸すぜ。どうせしばらくはこっちには帰らないからさ、あの放蕩息子。

 それに乗ってもらった方が、こっちもありがたいよ。でも、本当にあれに乗るのかい?」


 七星は腰を押さえながら言う。


「動けば何でもいいさ。泉太、ひかりちゃん、ことのついでだ。その友達の家に案内してあげたらどうだい。クルマでいけば往復で一時間もかからねえだろうしさ。

 落とし物を拾ってくれたのがクラスメートなんて、神さんがうまく手をまわしてくれたに違いねえ」


 泉太はうなずいた。


「そうだね。クルマがあるのなら、隣り町だからすぐだし」


「そういうことなら、私はここにいて、少し様子をみておこうか」


 洞嶋が七星を振り返る。


「ここまできたら、乗りかかった舟。ご主人が迷惑でなければだが。

 先ほどの連中があきらめて退散してくれたのならいいのだが、万が一を考えた方がいいだろう」


 ひかりは洞嶋の前で深く頭を下げる。


「先生、ありがとう! ギンさんをお願いします」


「ああ、任せておけ」


「早く帰るようにしますけど、先生は終電なくなったら困りますよ」


 洞嶋は自分のバッグを指さす。そして自慢げに言った。


「大丈夫だ。いつも“お泊りセット”を入れているからな、私だって」


「お、お泊り、セットですか」


 ひかりの言葉に、洞嶋は心外な顔をした。


「お泊りセットっていえば、女子は誰でも持ち歩くのだろ。私も一応女子だが」


 食堂内がシーンと静まり返った。


(なぜ皆が黙る? 私は女性のたしなみだと聞いてから、常に携行しているのに)


 洞嶋は半年ほど前に営業課の課長代理、菅原から言われたことを思い出す。


「えっ、室長はお泊りセットを持ち歩かないのですか? それはだめですなあ。

 今どきの若い女性は、みんなバッグに入れていますぜ。常識です、常識。

 洗面道具に、化粧品、人によっては、グフフッ。

 なんなら秘書室のスタッフに確かめてごらんなさいな。室長がお泊りセットを持ち歩いていないなんて知れたら、尊敬から軽蔑の眼差しに変わるかも」


(菅原は確かにそう言った。さすがに秘書室のみんなには聞けなかったけど。

 まさか、私はかつがれていたのか?

 エッ? もしかしたら私はとんでもなく恥ずかしい発言を、堂々とこの場で臆面もなく平然と口にしてしまったのか?

 エッ、エエーッ!)


 洞嶋の顔が、みるみる真っ赤になっていく。


「い、いや、違う、違うぞひかり。私はもしかしたら今夜はこういう事態になるのではないかと思って、思って、思っていたわけではないな。

 すまない。お泊りセットの事は、忘れてくれ」


 洞嶋は両手で顔をおおって、下を向いてしまった。


「ま、まあ、それはそれとしてさ。わしもこんな腕の立つベッピンさんと一緒なら、ありがたい。さあ、早く行ってきな」


 七星の言葉に、全員はホッとため息をついた。


(菅原のやつ、明日会ったら絶対に、間違いなく半殺しにしてやる!)


 七星に窮地を救われた洞嶋は、横を向いてキッとまなじりを上げるのであった。


 出入り口で、わけもわからず立っている八百屋の大将に、七星は頭を下げる。


「そういうわけで、今から貸してくれるかい」


「えーっと、どういうわけか皆目見当がつかないのだが。

 まあいいや。じゃあこの前までクルマを持ってくるよ」


 そういうと、大将は出て行った。

 トマスとシモンは荷物を取りに二階へあがり、泉太は制服からグリーンのシャツにジーパンに着替えると、ひかりを伴って店を出た。

 ひかりも着替えるため自宅へいったんもどる必要があったためだ。


 トマスたち兄弟が大きな風呂敷包みを抱え下りてきたときに、店の前に自動車のエンジン音が聞こえた。ボボボッと物凄い排気音だ。

 店の前に、トヨタ・アルファードの大型ミニバンが停まっている。


 ただのアルファードではなかった。ボディはショッキングピンクで、側面にはバーニーガールスタイルのマリリン・モンローが、シナを作って横たわっている写実画が描かれていたのである。

しかも前後には大きなエアロパーツが付けられ、金色に輝くアルミホイールがタイヤに装着されているのだ。

 太いマフラーから灰色の排気ガスが、まるで蒸気機関車のように上がっていた。

 痛車いたしゃと呼ばれる塗装車である。


 驚愕の表情で固まっているシモンに、大将はキーを渡した。

 オレンジ色のスウェット上下にキャップをかむったひかりは、泉太とともに停めてあるクルマを懐かしそうにながめた。


「これ、ヒロスケさんが大金はたいて改造していたのを覚えているよ」


「ヒロスケさん、これで野菜の配達に行っていたよね」


 ひかりは面白そうに言う。

 シモンが運転席に乗り込んだ。七星と洞嶋も店の前に出てきている。


「くれぐれも気をつけてなあ」


 七星は言いながら運転席へまわり、シモンに告げる。


「そのなんとかって大事な物を受け取ったら、ここへクルマを返しがてら今夜は泊っていきなよ。待ってるからなあ」


「はい、ありがとうございます」


 シモンは嬉しそうに言った。

 洞嶋の前に、トマスは片膝をついた。


「今宵、お嬢さんに出会えたことを、我が神に感謝いたします」


 言いながらそっと洞嶋の右手を両手でつかむ。その手の甲に軽く接吻した。

 洞嶋の頬が真っ赤に染まる。

 サッと恥ずかしげに顔をそらしながら、洞嶋は思わずトマスの手のひらを握り返す。

 グギギッと嫌な音が響いた。

 トマスは大きく口を開け、悲鳴を呑み込む。

 指先があらぬ方向に曲がってしまっているのだ。

 洞嶋は自分が何をしたのか気づかぬまま、トマスの前を離れた。


「先生、じゃあいってきまーす。ギンさんをお願いします」


 丁寧にお辞儀をするひかり。


「ああ、わかっている。ここは私が守っておく。それよりも、ひかり」


 洞嶋はスーツのポケットから、未開封のフリスクを取り出した。


「これを持っていけ。友だちと会うだけなら問題ないが、万が一何かあっても落ち着いて行動しろ。

 いいか。おまえはこの二年間で間違いなく強くなっている。それは太極拳の技術だけを言っているのではない。精神力の事だ。見かけは小さいけど、ひかりのここはでっかくなっているぞ」


 洞嶋は、ひかりの胸を指さす。


「何か事を起こす前には必ず深呼吸をして、新鮮な気を身体中に満たすのだ。

 正しい気を練れば正しい判断、行動ができる。いいな」


「わかりました! 先生」


 ひかりは洞嶋からフリスクを受け取ると、スウェットのポケットへしまう。


「遅くならないうちに、いきましょう」


 泉太はみんなに声をかけた。

 トマスは顔面蒼白で口を開け、指先をみつめたまま助手席へ座る。

 ひかりと泉太が後部座席に乗り込むと、シモンはハンドルを握った。

 八百松の痛車は、機関車のような音を立てながら走り出していく。


 七星と洞嶋はクルマが国道へ出るまで見送り、どちらともなく食堂へ入った。

 七星は厨房に向かい、途中で振り返った。


「コーヒーでも、飲むかい?」


「それはありがたい。酔いはもう醒めているが、熱いコーヒーがほしいな」


 洞嶋はホッと息をつきながら、椅子を引き寄せて座る。


「ブラックかい?」


「いや、私はミルクと砂糖をいっぱい入れるんだ」


 ニコリと笑う洞嶋を見て、七星も微笑む。


「サイフォンで淹れるから、ちょっと待ってな」


 しばらくすると、コーヒーの香りがただよいだした。


~~♡♡~~


 市野谷は暗い部屋の中でベッドに腰を降ろしたまま、膝頭をゆする。


(どうやって誘い出せばいいか。どうやって?)


 いきなりスマートフォンに着信ランプが灯り、バイブレーターが振動する。

 市野谷の心臓が一気に早鐘のように脈打った。


(まさか、斎間)


 恐るおそる画面を見る。


「あっ、どうして凪佐くんが」


 液晶画面には、凪佐ひかりの名が表示されている。

 クラスの全員の名前と電話番号は登録しているが、かけたことはもちろん、かかってきたことも一度もない。

 かかってくるのは、せいぜい斎間くらいであったのだ。

 それが今、ひかりから電話が入ってきている。しかも考えていた矢先である。

 市野谷は画面を指でスワイプした。


「凪佐くん? はい、僕です」


 間違いなく、ひかりからであった。


「なんだって? ら、しんじゅ? フランス語かな。何の事か、僕は知らないよ。

 えっ、下にいるって?」


 市野谷はスマートフォンを耳にあてたまま立ち上がり、窓のカーテンを少しだけ開く。

 二階の自室は玄関の上であり、道路側にある。家の前の道路に一台のド派手なワンボックスカーが停まっており、オレンジのスウェット姿のひかりがスマートフォンを耳にあてながらこちらを見上げて、手を振っていた。


「お父さんに乗せて来てもらったのかな。

 しもんさんって言われても、僕は知らないよ。せんちゃん?」


 ひかりの横に、座席から降り立った七星がいた。

 市野谷の神経がささくれ始める。


「どういう用かわからないけど、行くから少し待ってて。

 家の前にクルマは停められないから、進行方向に少し行くと児童公園があるんだ。

 そこなら停められるから」


 市野谷は電話を切った。


 ひかりは二階のカーテンからのぞいていた人影が消えるまで、スマートフォンを耳に当てていた。


「彼はなんて言っていたの?」


 泉太が訊く。


「用意していくから、この先の公園で待っていてって」


 ひかりと泉太はクルマに乗り込み、シモンに説明した。

 アルファードは唸るように走り出す。


 まさか、向こうからわざわざ出向いてくるなんて。また凪佐くんの騎士ナイト気取りなのだろうか。でもちょうどいいよ、七星。僕がきみに引導を渡してあげる。

 二度と凪佐くんの前に現れないようにね。

 ラシンジュって言っていたけど、まさかこの幸運をもたらしてくれる球体のことなのだろうか? 悪いけど、これはもう僕のモノだからね。


 市野谷はぶつぶつと独り言をつぶやきながら、暗い部屋の中を歩き回る。


「じゃあ、出かけるとするか」


 声に出しながら、自室を出た。


~~♡♡~~


 住宅街の一角に作られた公園は、子供用の遊具はなく老人会がゲートボール大会を開催できるように土が整備され、ベンチが設置されていた。


「良かったね、市野谷くんがおうちにいて」


 ひかりは後部座席に座ったまま、笑顔で言う。


「羅針珠のことは、お伝えいただけましたか?」


 トマスが助手席から振り返る。


「うん、言っておきました。市野谷くんも、フランス語? って聞き返していましたよ」


 ひかりは助手席のシートを後ろから抱え、トマスに言った。


「れっきとした日本語なのですが、耳慣れない言葉ですから」


 バックミラーを見ていたシモンが、来ましたよと告げる。

 四人はドアを開け、アルファードから出た。

 市野谷の歩いてくる小さな姿が、外灯に浮かび上がる。


 ひかりは声を出さずに、大きく手をふった。

 ポケットに両手を入れたまま歩いてくる姿は、どこか雰囲気が違うように泉太には思えた。

 昨日、学校の校門前で初めて会ったとき、夕方自宅前で会ったときから考えると、同じ人間には見えないのだ。

 背中を丸めたオドオドとした小動物から、腐肉を狙うハイエナのような、何かイヤな雰囲気が感じられたのだ。


 市野谷は道路から公園の中へ、無言のまま入っていく。

 四人は顔を見合わせ、同じように歩き出した。


「ごめんねえ、こんな遅い時間に」


 ひかりは申し訳なさそうな表情で市野谷のもとへ歩こうとしたのだが、市野谷は手のひらをこちらに向けた。近寄るな、もしくは動くなというジェスチャーなのか。

 うっ、とひかりの足が止まる。


「あのう、さっき電話でお話ししたんだけど。

 市野谷くん、羅針珠っていう光るボールみたいなものを拾ってくれたでしょ。

 それ、ここにいるシモンさんが落とした大事な物なのだって」


 いや、僕ではなくてと言いそうになったシモンを、トマスが止める。


「だから、返してあげてください」


 ひかりは顔の前で、両手を合わせた。

 市野谷の顔は公園の外灯に照らされているが、上目遣いの双眸はじっとひかりだけを見つめている。


「そ、それと、あなた。羅針珠を身体の中に収納していらっしゃるようですが、それは大変危険なのです。ですからもしまだ体内にあるのなら、速やかに排出してください」


 シモンの細い目が真剣に訴える。

 市野谷は差し出していた手のひらを、ゆっくりと上に向けた。

 ボゥッと淡い青い光が、まるで手品のようにそこに浮かび上がる。


「!」


 ひかりと泉太は、初めてナマで見る羅針珠の輝きであった。


「いやあ、助かります。なんとお礼を申し上げればよいか、あなたに神の祝福がありますように」


 トマスはつとめて明るい声で言いながら、市野谷のもとへ歩こうとした。


「動くな!」


 市野谷は制した。ひかりは市野谷のこんな鋭い声を聞いたことがない。


「誰もそこから動くな」


「じゃあ、きみがここまで返しにきてくれるのかな」


 泉太はいつもの飄々とした表情で言う。

 市野谷は泉太をにらんだ。


「七星」


「うん? なんだい」


「欲しければ、おまえがここまで取りにこい」


 泉太はひかりと目を合わす。


「僕が行けばいいんだね。おやすい御用だ」


 ひかりは何かを言おうとした。大事な何かを泉太に伝えなきゃいけないと思った。

 泉太は長身をゆらすように、大股で市野谷の立つ場所に歩いていく。その距離は約十五メートル。

 泉太は市野谷の目の前に立った。別に相手を見下すつもりはさらさらないのだが、いかんせん身長差がある。泉太はどうしても市野谷を見下ろす姿勢になる。

 市野谷は顔を上げずに、暗い双眸を精一杯上目遣いにする。


「ありがとう。拾ってくれたのが、きみで良かったよ」


 市野谷はじっと泉太を見つめている。そして、両目の筋肉を動かさず、口元だけをつり上げた。


「ああ。本当だ。これを手に入れたのが、僕で良かった。これで凪佐くんを救える」


 泉太は何を言われているのか見当がつかず、眉間を寄せた。         


「七星。きみは気づいていないのか、それとも気づかないふりをしているのか。

 どっちにしても同じさ。凪佐くんはきみの幼馴染かどうか知らないけど、しつこくつきまとわれて、迷惑しているってことを」


「はあっ?」


 驚く泉太。市野谷の声はひかりにも届いた。


「えっ、何を言っているの、市野谷くん」


 ひかりは驚いて走り出そうとした。


「来ないで! 凪佐くん、危険だから近寄らないで。

 僕がこの七星の呪縛を解いてあげるよ。待っていて」


 トマスは市野谷の手のひらの輝きを注視していた。「いかんな、あの坊主、よからぬことをしでかしそうだ」言いながら走り出す。


「じゃあ、いこうか、七星」


 市野谷はおもむろに泉太の腕をつかんだ。

 羅針珠の淡い光が点滅をはじめ、青色から紫色に変わっていく。

 走りながらトマスは叫んだ。


「やめろ!」


 その瞬間光りに包まれて、泉太と市野谷の姿が消えてしまった。


「ああ、跳んだっ」


 トマスは空をつかむように、伸ばした腕をふる。

 ひかりは何が起きたのかわからず、両手で口元を押さえた。


「せ、センちゃんが、消えっちゃった」


 シモンが丸い身体をゆすりながら、トマスのもとへ走ってくる。


「お、お兄さん!」


「あの坊主、羅針珠で跳んだな。まずい。追いかけるぞ、シモン」


「わかりましたっ」


 二人は急いでクルマに戻ろうとした。


「いやだー! センちゃんが、市野谷くんとどこかへ消えっちゃったー!」


 ひかりが狼狽しながらいっしょに走ってくる。


「お、お嬢さん、私たちがすぐに追いかけますから、あなたはここでお待ちになっていてください」


 トマスの言葉に、ひかりは首をふる。


「わたしもいっしょに行きます! だって、センちゃんが」


「あの坊主がどの世界に跳んだのかはわかりませんが、今すぐなら羅針珠の軌跡を追尾させることができます。

 ただ、お嬢さんを危険な目にあわせるわけにはいきませんから」


「どんな世界だって、わたしは行きます!」


 先にクルマに乗り込んだシモンが、運転席のウインドウを開いて言う。


「お兄さん、時間がありません。

 僕の羅針珠を起動させますから、早くお乗りになってください」


 シモンは置いてあったバッグから、スマートフォンと銀色に輝く鎖のついた手のひら大の太陽を模したペンダントを取り出した。

 その銀色も、鮮やかに外の淡い光を反射させている。

 ペンダントには中央に丸く穴が開いており、そこに無色透明の玉がはめ込まれているのだ。

 シモンは鎖を頭から通し、胸の位置にペンダントを置いた。

 その間、トマスはひかりといっしょにクルマの後部座席に乗り込み、ドアを閉める。

 シモンはスマートフォンの画面を、指でスワイプした。


「良かった! お兄さん、羅針珠の反応がありました。すぐに跳びます」


「そうか、時間がまだ経っていないからな」


 トマスはひかりに顔を向けた。


「今からシモンの羅針珠を使って、跳びます」


「トブって、空?」


 ひかりは目を天井に向け、指さした。


「跳躍するということなのですよ。つまり、この今いる世界からいったん虚無空間に移動し、そこから彼らが向かった世界に行くのです」


「それはつまり、川から一度出て違う川の流れに入るってことね」


 トマスは親指を立てた。

 シモンがひかりを振り返る。


「お嬢さんは初めての経験ですから、酔わないようにシートベルトを固定して、前をしっかり見ていてください。このクルマごと跳びます」


「このクルマで行けるの?」


「はい。羅針珠に命令を下す者が同時に跳躍すべき対象を指示すれば、跳べます。

 ただ大きさには限界があって、この世界ごと、というわけにはいかないようです」


 ひかりは首をかしげながらも、シモンの言う通りシートベルトを肩からまわした。


「行きますっ」


 シモンの言葉に続いて、胸のペンダントにはめられた透明のガラス玉が、淡く青く輝きだした。青色から紫色に変わる。

 満月が照らす公園。その横に駐車していたアルファードが、光りに包まれ消えた。


 ひかりは瞬間目を固く閉じてしまった。くらりと頭が揺れる感覚に包まれる。

 そっと目を開けてみた。

 海の中に沈んでしまったのではないかと、あわてて呼吸をする。

 フロントガラスには夜の公園ではなく、深海のような紺色一色に変わっていたのだから。

 しかも強烈な目まいが襲ってきて、身体が浮いているような感覚におちいってしまっている。

 ギュッと座るシートの端をつかむ。


 何の音も聞こえてこない。静寂が逆に耳に痛いくらいだ。ごくりと生唾を呑み込んだ。

 ゆっくりと隣りのトマスを見る。トマスは正面を向いたまま動かない。

 トマス側のウインドウが、ひかりの目に写った。

 真横に灰色のクラゲが浮かんでおり、その先には灰色の煙を鼻からまき散らしながら、灰色の象が飛んでいるではないか。

 ひかりは自分側の窓の外を観た。

 灰色のフライパンと、灰色のトーテムポールが寄り添うように回転している。


 いったいこれはなに? 私の頭がどうにかなっちゃった?


 ひかりは泣きそうな顔で、歯を食いしばる。

 シモンの胸の光が、黄色く変化していった。


「気持ち悪ーい!」


 ひかりは思わず口にした。


「アレッ? 声が聞こえるよ」と我に返ったとたん、まぶしさに思わず目を閉じた。


「到着しました」


 運転席からシモンが言う。


「もう着いたの?」


 ひかりはゆっくりとまぶたを開けていく。

 海の底かと思ったら、今度は昼間のような明るさに車内が照らされているのだ。


「ここは、もしかして」


 トマスは窓の外をみる。


「はい、お兄さん。僕もそんな気がします」


 二人の会話に入っていけず、ひかりは唇をとがらす。


「すみませーん、お二人には理解できても超初心者のわたしには、なにがなんだかさっぱりわかりませーん」


 トマスはひかりが同乗していることを思い出したかのように、振り向く。


「あ、ああ、お嬢さん、いらっしゃったのですね」


「すみませーん、ついてきっちゃっていましたけど。

 小さいから見えなかったって言う冗談は、もう聞き飽きていますから」


「うっ」


 トマスは、まさしく言おうとしていた言葉をのみ込む。


「気分はどうですか」


 前の席からシモンが尋ねる。


「さっきは酔ったみたいに気持ち悪かったんですけど。今は平気」


「虚無空間を通るときは、慣れないと酔いますから。

 なにしろ重力なんてなくて、言ってみれば宇宙空間と同じですから」


 シモンは優しげな口調で言った。


「象やフライパンが飛んでいましたよ」


 気味悪そうにひかりは言う。

 トマスがそれについて答えた。


「虚無空間では、私たちのように別世界を行き来するモノが、まるで違ったモノに視覚に写るようです。

 それに私たちのようなヒトだけではないのです、あの空間を通るのは」


「ヒト、だけじゃない?」


「そうです。私たちは哺乳類であり、サルが進化したといわれております。

 しかし爬虫類で進化したモノ、魚類が牛耳っている世界だって当然あります」


「おサカナが!」


「もちろん。平行世界とは、ありとあらゆる世界が重なり合っているのですよ」


 へえっと、ひかりは素直に納得した。


「ところで」


 トマスは窓の外を見やる。


「シモンよ、坊主が俺の羅針珠を使って来た世界が、まさか俺たちが次の目的地にしていた世界だったとはな」


「はい。いま次元計(じげんけい)で世界を特定していますが、コンマ幾つで微妙なのですけど、まず間違いないかと」


 ひかりは強引に二人の会話にもぐりこむ。


「だーかーらー、センちゃんはここにいるのですか?」


「ああ、すみません。えっと、まずお坊ちゃんとあのご友人は、間違いなくこの世界に跳んできています。

 どうやらこの世界は自転が、つまり前のお嬢さんのいた世界とは違っており、ご覧の通りこちらは昼間なのです。そのため本来なら跳んだ時間がそれほどずれていなければ距離も離れないのですが、さっと見た限りお二人の姿が確認できません。

 でも安心してください。羅針珠の位置を見ると、そんなに離れてはおりませんから」


 シモンの言葉にひかりは泉太の姿を探そうと、窓の外をあらためて見る。


「あっ、ビルが倒れてる! あっちもこっちも。

 ここも日本なの?」


 ひかりには驚愕の景色であった。

 荒廃した町。それが太陽の下で赤裸々な姿を現しているのだ。

 トマスは辛そうな顔でひかりを見る。


「はい、ここも日本のひとつです。私たちはすべての世界を把握しているわけではありません、当然ですが。

 しかし、この世界は理由あってある程度は情報をつかんでおります。

 平行世界については先ほどお坊ちゃんが、うまい例え方をされました。川の流れですね。

川には本流が合って、途中から何本も支流ができていると」


「はい、ちゃんと覚えていますよ」


「支流の中には本流に負けない力強い流れもあります。だけど、どんどん細っていき、最後には消えてしまう運命の支流もあるのです。

 平行世界も同じなのです」


「ということは、無くなってしまうということなのですか?」


 ひかりは背筋が寒くなるのを覚えた。


「その通りです。ここは消えゆく運命の世界、そして日本なのです」


 世界が消えてなくなる――そんな馬鹿な話があるの? ひかりは目を閉じてしまいたかったが、身体は言うことをきかない。瞳に写る崩壊した建物。


「だったらここに住んでいる人たちはどうしたの? どこかへ避難したの?」


 矢継ぎ早に疑問が浮かんでくる。しかし、トマスは首をふった。


「滅亡する世界から、逃れることはできません」


「でも神父さんみたいに、別の世界へ逃げれば」


「ではお聞きします。お嬢さんの生きている世界に突然あなたやご家族に瓜二つの人が現れて、一緒に暮らすことができますか? それは一家族だけではない、全人類と同じ数だけの人間が突然現れたら、その世界はどうなりますか?

 パニックではおさまらない。それこそ共倒れです。

 すみません、酷な質問でした。お許しください。

 そういうことなのです。

 中には別の支流の世界を乗っ取ろうとする連中もいます。大きな世界戦争が起こり、結局双方の世界が破滅したこともあるように聞いております」


 とんでもない話であった。


「羅針珠がどうして存在しているのかは、誰も知りません。存在自体を知らないお嬢さんの世界の例もあります。

 羅針珠を使うということは、万能の力を使うということではありません。それなりの覚悟と責任が必要です。

 それなくして使用すればどうなるのか。

 秩序も何もない混沌カオスの世界に変貌してしまうでしょう。

 なんてエラそうに言っていますが、私、あの世界で紛失したんですよね、羅針珠」


 トマスは黒いカロッタの上から頭をかき、照れ笑いを浮かべた。

 シモンが運転席から振り返る。


「お兄さん。羅針珠の軌跡が消えてしまう前に向かいます」


 ひかりは質問をする。


「それ、追跡することができるのですか?」


 トマスが人差し指を立てた。


「いい質問です。

 羅針珠は起動すると、ある種のパルスを発生させます。

 私たちのスマートフォンにはそのパルスを追尾する探査アプリがインストールされており、そのためここまで追いかけることができました。

 羅針珠が次元移動を終えると、そのパルスが徐々に消えてしまいます」


「ふーん。飛行機雲みたいですね」


 クルマのエンジンがかかる音とともに、轟音を上げながら動き始めた。

 めくれ上がったアスファルトの上を、シモンは慎重に運転していく。

 崩れた瓦礫のような建物が並ぶ町を、痛車は前進しはじめたのであった。


つづく

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