第4話 レイ、食堂にて

 ひかりと泉太は、トマスの後をつけはじめた。


「これって探偵さんの尾行みたいだね、センちゃん」 


 ワクワクする感情を目元に浮かべながら、ひかりは背をかがめ、ビルの壁に張り付く。


「そうだね。でもトマスさんはいったい何をやっているのだろう」


 前を行く黒い装束の神父トマスは、人目を避けるように歩いていく。

 ときおり周囲を見回す様子。

 後ろを振り返えられたときには、ひかりも泉太もあわてて電柱に身を隠した。

 どうやらみつかってはいないようだ。

 表通りとは違い、住宅街に入ると人通りは少ない。

 泉太は祖父の言葉を思い出していた。


「そういえば、トマスさんたちは財布を落として、他にも大事なモノを紛失したっていってなかったかな」


「そうだっけ?」


 ひかりは、ハッとする。


「センちゃん、わたしたちも大事なコトを忘れていた!」


 泉太は立ち止まる。


「わたしたち、探偵さんをするためにここへ来たのじゃなかったよー。

 お見舞いにきたんだった」


「そうだった。市野谷くんのお見舞いを、すっかり忘れていた」


 ひかりは、電柱に取り付けられた番地のプレートを指さす。


「ここは五丁目でしょ。市野谷くんのご自宅はたしか七丁目だったはずだから、次の角を右に曲がらないと」


 尾行よりも優先事項があることに気づき、ふたりはトマスから離れる。

 そのためトマスの後をつけているのは、ひかりたちだけではなく、もう一組いたことに気付かなかったのであった。


~~♡♡~~


 ひかりは番地を確認しながら、泉太を案内していく。六丁目を越え、七丁目にはいった。


「このあたりだよ」


「静かなところだね」


「えーっと、イチノタニ、市野谷っと。ああ、ありましたあ!」


 ひかりは石垣に囲まれた二階建ての家を指さした。

 青い瓦屋根の、モダンな和風の外観である。表札に筆文字で市野谷とあった。


「結構大きなおうちだね」


「そうね。市野谷くん、寝ているのかなあ」


 石垣の中央に鉄製の門扉があり、表札の下にインターフォンが設置してある。

 ひかりは泉太と目くばせをして、ボタンを押す。ピンポーンと電子音が鳴った。

 しばらくすると、インターフォンから中年女性の声が応対してきた。


「はーい」


「あっ、あの初めまして。

 わたし、満くんと同じ本郷高校のクラスメートで、凪佐と申します」


「はい、なにか」


 感情のこもっていない冷たい声。どうやら母親らしい。


「今日お休みされたので、授業のノートを持ってきました」


 母親はインターフォンを接続したままの状態で、「満、満ーっ」と市野谷を呼ぶ声が聞こえる。 


「病院にでもいっているのかしらね。

 部屋にいないみたいだから、ノートか何か知らないけど、郵便受けにでもいれておいてちょうだい」


 言うなり、ガチャンとインターフォンを切る音がした。

 ひかりは驚いてインターフォンを見つめる。

 泉太も母親の対応に、眉間にしわを寄せた。


「えーっと」


 見上げるひかりに、泉太は肩をすくめる。


「お忙しいのだろうね。仕方ないさ、ノートだけ入れておいてあげたらいいよ」


 ひかりは鞄からノートを取りだし、いっしょに手のひらサイズの附箋を一枚破り、簡単にメモ書きしノートの上に張り付けた。

 ノートを郵便受けにいれようとしたとき、後方で自転車のブレーキをかける音がした。

 ひかりと泉太が振り返ると、ブルーのチェック柄のシャツを着た市野谷が自転車にまたがって立っていたのである。


「市野谷くん!」


 ひかりは嬉しそうに微笑みながら、「こんにちは」と頭を下げた。

 市野谷は下から見上げるように、ふたりに視線を送る。


「風邪ひいたって聞いたから、今日の授業のノートを持ってきたんだ」


 市野谷は無言のまま、じっと動かない。


「病院行ってきたのかな。明日は来られそう? 学校には」


 人懐っこい笑顔で、ひかりは訊ねた。


「悪いけど、帰ってくれないか」


 ぼそりと市野谷は言う。

 泉太はのんびりした口調で、市野谷へ告げた。


「きみさあ、クラスメートが心配してお見舞いに来たのだよ。

 お礼も言わないで帰ってくれっていうのは、どうなのかなあ」


 ギロリと市野谷は泉太をにらむ。

 ひかりは泉太のブレザーの裾を引きながら、頭を下げた。


「ごめんね、市野谷くん。こっちが勝手にお邪魔したのだから、すみませーん」


「ひかりが謝ることないさ。

 だってクラスの誰もお見舞いに来ようなんて言ってなかったじゃないか、ひかり以外にさ」


「いいの、いいの、センちゃん。さあ、帰ろう。

 市野谷くん、体調早く良くなるといいね」


 ひかりは笑みを浮かべたまま、泉太を引っ張って歩き出した。

 市野谷の姿勢は、ずっと変わらなかった。

 二人は足早に歩きながら、少し陽の傾いた街中を駅までもどる。


「ありがとうね、センちゃん。お付き合いさせちゃって」


「それは全くかまわないけど。

 しかしあの市野谷くんの態度は、いかがなものかな。ひかりの好意をさ」


「いやあ、仕方ないよ。彼は風邪で体調が悪かったみたいだし。

 でも、自転車に乗れるくらいなら、大丈夫かな」


 泉太は市野谷の目つきが気になった。にらまれた時に感じた嫌悪感。

 前日に校門で初めて会ったときには、視線さえ合わそうとしなかったのに。

 オドオドした草食動物のような目であったのに。

 先ほどの下から突き刺すような目で見られたときには、ゾッとした。

 人を見下したような、いや、下等動物を見るような蔑みを感じたのだ。

 ひかりはそれに気づいていない。


「じゃあ、帰ろうか、ひかり。

 今晩から三日間お泊りだから、ゆっくり勉強会ができるなあ」


「えーっ」


「昨夜の続きで、数学を進めよう。公式、覚えているかどうか」


「いやー、すっかり忘れているかもー。えへへっ」


 恥ずかしげな表情のひかり。


 自宅から遠ざかるひかりたちを、目で追う市野谷。


(どうして七星と来るんだ? ひとりでくるのが、嫌だったの?


 ならばわざわざ来なけりゃいいのに。それとも七星が勝手についてきたのか)


 ポケットに入れてあるスマートフォンが振動した。電話のようだ。

 市野谷は送信相手を確認する。昨日と同じ、斎間であった。

 市野谷の顔に、浮かぶ微笑み。それはまるで、死神の笑みだ。


「もしもし、はい。わかった。じゃあ今夜、いつもの公園で」


 通話を切ったあとも自転車にまたがったまま、肩を震わすように笑い続けるのであった。


~~♡♡~~


 洞嶋は秘書室のある四階で、自席に座り明日の予定表をチェックしていた。

 何もない日は定時の午後五時十分で終業するようにしている。

 残業は切りがないのだ。どこかで線引きして業務を終了しないと、ダラダラになってしまう。


 また十二人いる秘書室の女性スタッフの育成管理も任されている以上、終業時刻をきっちり告げることも重要であることを実感していたのである。

 女性だけの室内であるせいか、綺麗に整理され、棚や各自の机上には花瓶や小さなマスコット人形などの小物も置かれている。


 ちらりと壁に掛けられた時計を見た。十七時五分前だ。

 洞嶋の席はブラインドカーテンを下ろした窓側を右手に、正面の出入り口ドアを見る位置にある。十二人の女性スタッフたちは洞嶋の前に、三つずつ向き合う位置に机を並べている。


「さあ、そろそろ業務終了の時間だよ」


 洞嶋の声に、スタッフたちの肩の力を抜くため息が聞こえた。


(今日は火曜日。日曜、月曜ときて三日目。

 大丈夫だろうが、少し気になる。手加減するつもりであったのが、つい本気モードにスイッチが入ってしまったからな。

 自宅を訊いていなかったのは私の痛恨のミスだ。しかたない、手掛かりは確か)


 洞嶋は机上の電話器から受話器を持ち上げ、内線の番号を押す。

 耳にかかった髪をかきあげた。

 相手はすぐに出た。


「ああ、仕事中申し訳ない。ひとつ思い出してほしいことがあるのだが、今いいか?」


 営業課の課長代理である菅原は、「もちろんオッケイですよ! 室長のご用命とあらば」


 と大きな声で、嬉しそうに返事をするのであった。


~~♡♡~~


 ひかりと泉太は、ななぼし食堂の出入口に暖簾が出ているのを発見した。


「今夜は、居酒屋ななぼしが開店するみたいね」


 ひかりは手でひさしを作り、遠くを見る真似をする。


「ほんとだ。久しぶりだな。あっ、今日はシモンさんが、朝から手伝っていたからかな」


 二人はそろって暖簾をくぐった。


「ただいまー」


「おう、お帰り」


 七星はまだ誰もいない店内で椅子に座り、新聞を広げていた。


「居酒屋、開店?」


 泉太は、よいしょと鞄をテーブルに乗せる。


「うーん、なんか美味しそうな匂いが胃を刺激してくれますー」


 ひかりはうっとりと目を閉じた。

 七星は新聞をたたむと、厨房を指さした。


「今夜はシモンのにいちゃんが、一品料理をこさえてくれるってさ」


 奥の厨房から、リズミカルな包丁の音が聞こえる。


「夕飯前に、もちろんやっちゃうよ、ひかり。お、べ、ん、きょう」


 泉太の言葉に、ひかりは肩を落とす。


「ぼっちゃん、お帰りなさい。あっ、お嬢さんもご一緒で」


 カウンターから真ん丸な顔がのぞいた。

 手に持っていた小皿を丁寧にカウンターに置く。


「シモンさん、お疲れ様です」


「これは鯛のカルパッチョ、バジル風味ですねえ」


 ひかりは鼻を動かして、小皿の料理を見る。


「はい、活きのいい魚をご主人が用意していただいておりましたから。よくわかりますね」


 ひかりは得意げに、えへへっと笑みを浮かべた。

 ガラガラと出入り口が開き、近所の呉服店の主人が暖簾から顔を出す。


「今夜はやれるのかい?」


 紺地の和服を着た中年の主人は、指先でお猪口をかたむける仕草をした。


「よう、いらっしゃい。今夜は助っ人がいるからさ。一杯やっていきな」


 七星は席を立つ。

 泉太は鞄を持ち上げ、ひかりをうながした。


「今夜は僕の部屋でいいかな、せまいけど」


「はーい」


 ひかりは後ろ髪を引かれるように、七星を振り返りながら泉太の後について二階へ上がっていく。


「ギンさーん」


「わかっているさ。ちゃんと残しておくよ、二人の分は」


 七星は前歯の一本欠けた口元で言った。


~~♡♡~~


 太陽の輝きが、そろそろ薄れはじめている。

 トマスはコンビニの前で腰を降ろし、キセルにさしたシケモクの煙をながめていた。


「腹がへったなあ。結局進展なしか。ちょっとまずいかも」


 夕暮れの国道前。歩道を行き交う人が増え始めていた。


「明日。明日だな、これは。

 さってと、寝ぐらにもどって飯でもご馳走になるか」


 キセルにさした煙草を灰皿でポンポンと落とすと、たすき掛けにした唐草模様のバッグにしまう。本陣N駅商店街のすぐそばである。

 トマスはぶらりと歩きはじめた。地下鉄の出入り口を横切ろうとしたとき、階段を上がってくる若い女性を何気なく見つめる。

 栗色のセミロングの髪が揺れている。黒のパンツスーツに、肩から下げた洒落たブランドバッグ。目元はきつめだが、シャープな顔のライン。はっきり言って、申し分ない美形である。

 トマスは立ち止まり、サングラスの下の目を輝かせた。


「もし、そこのお嬢さん。いっしょにお茶でもどうかな」


 階段の途中で足を止め、顔をあげてトマスを見上げる女性。

 洞嶋レイであった。洞嶋は辺りを見回し、自分を指さした。


「私を誘っているのか、神父さん」


「はい。ぜひあなたとお茶をしながら、世界と神について語りたいと思いまして」


 洞嶋は考えるように、手を腰にあてた。


「あいにく、私は無神論者なんだ」


「構いません。そんなあなたに、私が神の慈悲についてお教えいたします」


「ふむ。興味がないことはないが。

 神父さんはこの辺りの地理はお詳しいか」


「もちろんです。なんでもお聞きください」


 トマスはしめた! という素振りは微塵もみせず、静かに言う。


「そうか。私は行きたいお店があって、ここまで来たのだが」


「あなたの行きたいお店へお導きすることこそ、我が太陽神が私に命じること。

 どこへなりとご案内いたします」


 洞嶋はバッグから、一枚のメモを取り出した。


「本陣N駅商店街というところに、ななぼし食堂という名称の店舗があるらしいのだが、ご存じか?」 


 トマスは眉をしかめた。


(ななぼし食堂って、もしかして俺たちがやっかいになっている大衆食堂じゃね?)


 我が意を得たりと、トマスはうやうやしく頭を下げる。


「お嬢さん。お任せくださいませ。

 おお、やはり神はあなたに一本の道筋をお照らしになったようです。

 よろしいでしょう、私めがご案内申しあげます。ささ、どうぞこちらへ」


 洞嶋は、ほっとしたような表情を浮かべた。


「そうか、よかった。実は私は方向音痴で地理にうといんだ。助かる。

 それに神父さんも、なにやら面白そうだしな」


(この私に街中で声をかけるなんて。そんな勇気のある男は、今までいなかったからね)


 カッカッとハイヒールの音をたて、洞嶋は階段を上り切った。 

 神父がなにの宗教家かどうかは別にして、今から目当ての食堂を探す煩わしさが省けたことは感謝したい。


 そしてもうひとつ。人生で一度もナンパされた経験がなかったことを、実は心の底で悔しく悲しい事実として諦めていたのである。

 男が十人すれ違えば十人がふりかえるほどの魅力的な美貌の持ち主ではあるが、洞嶋本人は自分の見てくれは人並み程度にしか思っていない。

 それでも会社で部下の女子たちが、合コンだ、街で声をかけられた、と会話していれば自分だってと思う。人並みの自分だから、人並みに街で声をかけられたいと思うことはある。

 しかし現実には、体験ゼロなのであった。


「そんなに私は魅力がないのかな」と、独り住むマンションでため息をつくこともしばしばあるのだ。

 実際にはすれ違う男たちは声をかけたい、と誰もが思った。

 ところが洞嶋の女性としての魅力以上に、武術家としてのオーラが強すぎたのだ。

 野生の大型肉食獣に近づいて頭をなでる、なんてことは普通しない。

 そんなイメージを、男たちに持たれてしまうのであった。


 洞嶋はまだ若い。若いがゆえに武術家としてかもしだす雰囲気を、消しながら生活するという境地にまで至っていなかったのである。

 名工が作った美麗な日本刀をむき出しでさらしている、そんなコワさがあった。


 だからいきなりトマスに声をかけられたことは、天にも昇る感動を洞嶋に与えたのである。もちろん性格上、そんな素振りはまったくみせない。かえって無表情になってしまっていた。


 トマスは人食い虎であろうが、むき出しの日本刀であろうが、まったくおかまいなし。

「いいオンナとお茶がしたい」とそれだけを信念に、洞嶋にも分け隔てなく声をかけた次第であった。


「あなたのようなお美しいレディを、男性諸氏はなぜ見過ごされているのか。私は疑問を持たざるをえません」


「神父さんは、お口が上手いな」


「何をおっしゃいますか。

 天におわす太陽神が作られた最高傑作といっても差し支えないあなたの前では、すべての男性は感動に打ち震え、惜しみない称賛の言葉を述べるはずです」


 トマスは真面目な顔で言う。

 洞嶋は表情には出さず、心の中でおおいに照れた。歩きながらつまずきそうになる。

 と、その時洞嶋のこめかみがチリリと違和感を覚えたのだ。

 視線である。誰かがこちらを見ている。それもひとりではない。

 洞嶋は目だけを素早く動かす。商店街は夕方のかきいれどきであり、人通りが多い。

 街中でオトコたちからの視線を浴びることにはもう慣れているが、この視線は違った。

 例えるならスナイパーが銃口を向け、スコープから目を光らせているような射る視線。

 洞嶋の目に、特に怪しい人影は映っていない。

 違和感が消えた。洞嶋が気付いたことを察知したかのように、消えたのであった。


「ささ、こちらですよ、お嬢さんがお捜しになっているお店は」


 トマスがななぼし食堂の、古びた暖簾を指さした。


~~♡♡~~


 泉太の部屋の壁掛け時計が、午後七時を指している。

 トマスたちが寝ていた四畳半の、廊下を挟んだ向かい側が泉太の自室だ。

 六畳の部屋は綺麗に整理されている。畳敷きでベッドは置いていない。押入れに布団をしまっているのだ。勉強机、本棚、洋服ダンスがある。


 ひかりは小さな文机を借り、教科書とノートをにらめっこの最中だ。

 泉太は自分の机で教科書を開いていた。

 最新型の住居ではないので、防音性に乏しく階下の音は漏れ聞こえてくる。

 七星が夕方に居酒屋を不定期でしかやらないのは、孫である泉太への配慮に他ならない。


 ひかりがチラチラと、閉めてある木製のドアを見始めていることに、泉太は気づいていた。そろそろ限界かな、と思い教科書を閉じる。


「お腹がへったね、ひかり」


 すかさず、待っていましたと相槌を打つひかり。


「もうこんな時間だあ。一生懸命勉強すると、時間のたつのが早いねえ、センちゃん」


 泉太は苦笑しながら、立ち上がる。


「もし、お客さんがいっぱいだったら、この部屋へ運んで食べよう」


「わたしはどこでもいいですよー。食べられれば」


 ひかりはそそくさと教科書やノートの類を鞄にしまう。文机の上を綺麗にしておく。

 これでこの部屋で食べることになっても大丈夫。

 ひかりも立ち上がった。


 ドアを開けたとたん、階下の笑い声や大きな話し声が飛び込んでくる。

 ひかりと泉太が一階をのぞくとテーブルが満席になっており、呉服屋、八百屋、本屋などの商店街の店主たちが酒盛りをやっていた。


 いつのまにやらトマスが戻ってきており、スータンの黒い衣装のまま商店主たちにまじり、テーブルに並んだ料理に食らいついている。

 厨房では七星が忙しそうに調理していた。


 ひかりはこちらに背を向けた位置に座る本屋の主人の横に、下町のこの場にそぐわない女性が座ってビールを飲んでいるのを見つけた。

 栗色のセミロングの髪、黒系のパンツスーツ。どこかで見たような後ろ姿だ。

 前に座っているトマスを始め、他のテーブルに座っているお客さんたちもその女性にわれ先に話しかけている。


「へえ、女性がいるなんて珍しいよね」


 泉太は言いながら上がり框から靴に足先だけを突っ込み、店内に下りた。

 厨房から顔を出した七星が言う。


「終わったかい。じゃあ、夕飯を用意するか」


 背中を向けて飲んでいた女性が振り返り、ひかりと目が合った。


「せ、せんっ!」


 せい、と続けようとしたひかりは、その女性、洞嶋が素早く自分の人差し指を口元に立ているのを見て、はっと口をつぐむ。

 泉太は自分のことを呼ばれたかと思い、ひかりを見る。

 ひかりは何でもないというジェスチャーで、首をふった。


「お店はいっぱいみたいだから、僕たちは二階で食べるよ、おじいちゃん」


「悪いな。まさかこんなに来客があるとは、思わなかったぜ」


 トマスが連れてきた、とんでもないベッピンさんを一目見ようと、商店主たちが連れ添ってやってきていたのであった。

 七星は手早くカウンターの上のお盆に、ラップでくるんだ小皿や丼をのせる。


「はいよ、ひかりちゃんも。おかわりは悪いけど、また取りに来てくれよ」


 ひかりは唖然としたまま、七星が差し出すお盆に反応しない。

 泉太は受け取ると二階へ上がっていく。


「どうした、ひかりちゃん」


 七星は不思議そうにひかりを見つめる。


「あ、あの」


 ひかり用のお盆を、いったんカウンターに置いた。


「今夜はカレイの煮つけだよ。シモンさんが出かける前に、作っておいてくれたんだぜ」


「シモンさんは、出かけたの?」


「ああ。お兄さんが帰ってくるのと入れ替わりに、出かけたよう。

 財布を失くした責任を感じているんだろうなあ」


 七星も柔和な顔をくずし、言った。

 ひかりはなぜここに洞嶋がいるのか、理解できていない。しかも、他のお客さんたちと何度も乾杯をしている。

 大衆食堂には不釣り合いな美女が、きさくにお酒を酌み交わしているのだ。

 お客さんたちは誰もが洞嶋の美貌に嘆息し、精一杯のアピールを繰り返す。

 洞嶋はコップに注がれたビールを一気に喉に流し込み、席を立った。

 すでにビールの大瓶を五本はあけている。

 ほんのりと頬が朱に染まっており、それがまた洞嶋の美しさを強調しているようだ。

 しかし、酔った感じはまったくない。


「ご主人。お手洗いを拝借したいのだが」


「トイレならこの厨房の奥だよ。悪いけど、上がりかまちで履物をぬいで上がってくんな」


 七星がひかりの立っている方を指さした。

 洞嶋はそのままひかりのそばまでくると、履いていたハイヒールをぬいだ。

 ひかりにだけ聞こえるように、ささやく。


「そう驚くな」


「せ、先生。どうして?」


 ひかりは大きな目を全開にし、小声で尋ねる。


「ひかりの身体が、気になってな」


「からだ、ですか?」


 洞嶋は、背中の方をちらりと振り返りながら言った。


「一昨日、つい本気になってしまい、ひかりに発勁をぶつけてしまった」


 ひかりは、ええとうなずく。


「拳で叩いて身体の表面を傷つけるのと違って、発勁は身体の内部を攻撃する。

 だから見た目ではわからないが、ダメージが後から出てくるんだ。

 それで気になってね。

 二年前、友達のお店を手伝っているって言っていたのを思い出して、この食堂で訊けばひかりの住まいがわかるのじゃないかと思って、来たんだ。

 具合はどうだ?」


「いいえ、なんともありませんけど」


 ひかりは答えた。


「本当に、なんともないのか」


「はい。多少お腹が赤くなっていますが、どこも痛くないですよ」


 洞嶋はホッとすると同時に、口角を上げた。


「私の本気の発勁をくらって、なんともないって。

 ふふっ。受けたときに無意識に己の気で、防御したってことか」


 たいした成長ぶりだ、と思ったがそれは言葉に出さない。


「しかし、面白いお店だ。料理もお酒も、たまらなく美味い。

 つい本来の目的であったひかりの住まいを聞きそびれてしまっていたが、会えてよかった」


 洞嶋は肩の力をぬくように、すくめた。


「あの、神父さんに案内してもらったのだが、愉快なおひとだ」


 トマスはアルコールを口にせず、どんぶり飯を片手にジョークを飛ばし、周囲を笑わせている。


「まあ、無事を確認できたらそれでいい。

 私はもう少ししたら帰る。夕飯の時間なんだろ?

 しっかりと食べて、体力をつけるんだな。また土曜日に待っている」


 そう言うと、ひかりの肩をポンと叩き、奥の手洗いに入っていった。

 ひかりのかたまっていた表情が溶けていき、ニコリと笑みが浮かぶ。


「先生、心配してくれていたんだ。えへへっ」


 なぜかとても嬉しく、大好きな食事のことも忘れ、両手で自分の頬を包みこんだのであった。


~~♡♡~~


 一時間ほど前、シモンは、元気よく食堂の出入り口を開けて鼻歌まじりで戻った兄を見て、ちゃんと約束通り発見できたのだと確信する。さすがは兄だと感心した。

 ところがその偉大な兄の後ろから、連れ添うように暖簾をくぐって入ってくる女性を見て、がっくりと肩を落としたのであった。やはり兄だと落胆した。


 これではまずい! シモンは居酒屋タイムのときのメニューを七星から訊き、一緒に大急ぎで仕込みを手伝った。

 トマスから唐草模様のバッグを奪うように借り、食堂を出たのだ。

 七星が店から顔を出し、使うならと店の前に停めてある、出前用の自転車を指さしてくれる。シモンはありがたく借りることにしたのであった。


 国道の方へ向かい、角の銀行から北の方向にハンドルを切る。歩道には行き交う人が多い。

 スータンの格好で古い武骨な自転車を漕いでいると、ある意味目を引く。

 シモンは重たい自転車をフラフラさせながら、国道沿いを進んでいった。

 しばらく走ったところで、肩から下げたバッグから唐草模様カバーのスマートフォンを取り出した。


「これなら携帯電話を操作しているみたいに、の人には見えるでしょう」


 思っていることが言葉に出ている。本人は気付いていないようであるが。

 そのケースには液晶画面が表側にあり、シモンは太い指先を器用に動かす。

 スイッチが入り、画面が明るくなった。


 スマートフォンと大きく違うのは、画面の上に立体の画像が現れたという点だ。

 細かな白い光のラインが幾重にも交差し、図形を描いている。起伏をよく見ると、どうやら地形を立体化しているらしい。


羅針珠らしんじゅよ、でてきておくれ」


 祈るような声で、シモンはつぶやいた。

 太陽はゆっくりと西の空に沈みいく。

 兄のトマスがドンチャン騒ぎをしているころ、シモンは額に汗しながら必死の形相で自転車を走らせるのであった。


~~♡♡~~


 市野谷は興奮で震える身体を、両手で押さえる。

 外灯の下で腕時計を確認した。午後八時三十三分。

 斎間と会ってまだ五分もたっていない。その斎間はもうこの世にはいないのだ。


 昨夜拾った不思議な光の球体。

 いったいどこへ連れて行かれるのかは、わからない。

 ただ少なくともこの球体を持っている限り、この現実の世界とあの無限空間を通り、もうひとつの世界と行き来できるのがわかっている。


 昼間、猫を抱いたままあの空間へ移動し、さらに黄色く変わったと思ったとたん、まったく別の世界が目の前に広がっていた。

 その世界では、太陽は沈んでおり、夜の闇が支配していた。

 そこで猫を抱えていた両腕を放したのだ。猫は腕から飛び降りると、周囲を見回しさかんに鼻を動かしている。


 いったいどこの世界なのか。


 中東の戦争区域のように足元のアスファルトはめくれあがり、見渡す限り崩壊したビル群が闇の中で不気味なシルエットを描いているのだ。

 空は灰色の雲におおわれ、星のまたたきも月光もない。

 動くものさえ何もない、荒廃した世界。

 遠くの方で獣が遠吠えしているような、幻聴が鼓膜を刺激する。


 猫は不安そうにこちらを見上げている。

 市野谷はブルッと震えた。

 すぐに球体に、元の世界へ帰るように念じた。


 公園へ現れた時には、猫はどこにもいなかった。

 太陽がまぶしい。つまり、あの世界へ置き去りにしてきたということである。

 そして、つぶやいた。


「やった、やってしまった」


 中学生時代から虐められ、金銭をたかられ、蛇蝎だかつのように忌み嫌いながらも仕返しが怖くていいなりになっていた相手、斎間をあの空間から別世界へ連れ込んでしまったのだ。


 別の世界は、今度は夜ではなく、太陽が真上に輝いていた。しかも暑い。

 あらためて見渡すと、ゾッとする風景であった。

 無誘導爆弾で絨毯爆撃されたようにあらゆる建物、地面が破壊され抉られているのだ。


「お、おい、ここはどこだ?」


 斎間はまだ気づいていないようだ。


「なんか酔ったみたいに気持ち悪い。

 まさか、おまえ、非合法のドラッグを俺にかがせたんじゃねえだろうな」


「斎間くん、さようなら。きみが僕にしてきたことは忘れないよ。

 僕がどんな思いで生きてきたのか、ここでゆっくり考えてみなよ。うふふっ」


「おい、冗談じゃねえ! なんで太陽が照っているんだ? 答えろよ! てめえ、ふざけてっと半殺しにするぜっ」


 斎間は言いながらも、異様な町の空気に包まれて、声が震えている。

 市野谷は手のひらを胸の位置に上げた。ボウッと黄色く輝きだす。


「ちょっと、待て! それはいったい何なんだ、おいって」


「さようなら」


 市野谷は忘れていた安堵感の微笑みを浮かべ、球体に帰還を命じた。

 斎間の前から、市野谷の姿が消える。


 手のひらで輝く光は、市野谷だけを現実世界に戻したのであった。

 市野谷は夜空を見上げる。大きな満月が、淡く静かに光を降り注いでくる。

 市野谷は背筋を伸ばした。肩を何かに抑え込まれたような猫背であったのが、嘘のように真っ直ぐになっているのだ。


 敏感になっている五感が、違和感をキャッチした。

 周囲を素早く見回すと、キイコッキイコッと金属の擦れる音が聞こえてくる。

 自転車を漕ぐ音だ。それもこちらに向かってくる気配なのだ。

 市野谷はきびすを返し、走り出した。


「ま、待ってえー!」


 背後に声を聞きながら全速力で芝生の上を走り抜け、縁石に停めてあった自分の自転車に飛び乗った。

 市野谷はペダルに足を乗せ、一度だけ振り返る。


 公園のジョギングコースをこちらに向かって、一台の自転車が走ってくるではないか。

 わずかな外灯の光では誰なのかはわからないが、間違いないのは自分を追いかけてきているということ。

 市野谷は一気にペダルを漕ぎ出した。


つづく

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