第3話 市野谷の実験

「さってと、勤勉なおふたりさん。そろそろエネルギー補給しねえと、二階のなんとかっていう丸っこい神父さんみてえに、ぶっ倒れちまうよ」


 七星は暖簾をしまった食堂で、テーブルに向かい合って座り、教科書と格闘しているひかりと泉太に言った。

 厨房に近いテーブルの上には、二人が勉強をしている間に用意された夕食が、美味そうな香りと湯気をただよわせている。


 夕飯は、若い孫たちには豚の生姜焼きにグリーンサラダとカジキのムニエル、そして自分の晩酌用にイワシの梅煮とタコとワカメの和え物を用意していた。

 ひかりのためにどんぶりの大盛りご飯、泉太には茶碗に八分目のご飯、あとは豆腐とアゲの味噌汁である。


「さっきから、この香りで頭がいっぱいだよー」


 ひかりは教科書から、すでに視線を隣りのテーブルに移している。


「ちゃんと覚えたかなあ、ひかり。この公式はこれからも使うからオロソカにしていたらだめなんだけど」


 泉太は心ここにあらずのひかりを見ながら、やれやれとため息をひとつ。

 七星は冷蔵庫から冷えたビールの中瓶をとりだすと、シュポンとせん抜きで開けた。

 三人は「いただきます」と夕食に箸をのばした。


「ところでさ、おじいちゃん」


「うん?」


 泉太は二階を指さしながら言った。


「あの神父さんたち、いったいどういういきさつで、お世話することになったの?」


 七星は店じまいのときからの経緯を話しだした。

 泉太は箸をやすめ、祖父の話を聞く。

 ひかりは泉太用のお皿に盛られた生姜焼きを一切れ、そっと箸でつかみ、素早く自分の丼に入れた。もうすでに自分のお皿には何も残っていなかったのだ。


「そうなんだ。あのトマスっていうお兄さんの方は、ちょっと怪しい感じだったけど違ったんだね。弟さん思いの、敬虔な聖職者なんだ」


 泉太は感心したように納得する。


「おうよ。感心な兄さんだよう。

 弟はシモンって名だったっけ。できた兄さんを持っているもんだから、すっかり甘えちまっているようだな」


 二人のやりとりを聞きながら、ひかりは別のことを考えていた。

 七星の前に置いてある、イワシの梅煮をじっと見つめている。

 ひかりの視線に気づいた七星は、取り皿にイワシをいれてひかりに渡す。 

 満面の笑みで受け取り、ひかりは美味しそうに食べ始めた。


~~♡♡~~


 階下の様子をドア越しに伺いながら、トマスは正座の足をくずす。


「さあってと。シモンの仮病のおかげで、今夜は屋根つきの部屋で寝られるな」


「け、仮病って、お兄さん、それでは僕が悪いことをしているようではないですか!」


「あんまり大きな声を出すなよ、聞かれちまう」


 布団の上で起き上がろうとしたシモンを押さえ、トマスは言う。


「いいから寝ていろよ。とにかく今夜のところは体力を温存しておいて、明日には行動しないとな。あまり時間がねえし」


「お兄さん、そんな悠長なことを。一刻も早くしないと」


 シモンは黒縁眼鏡の奥の細い目を、不安げに揺らす。


「わかってるさ。あの連中にみつかったら、エラいことだし」


「ええ、それもそうなのですが。僕が気になるのはあっちよりも」


「こっちだな」


 トマスは目を閉じ、腕を組んだ。


「どっちにしても急がねえとよ。

 それにはまず俺たちが、しっかりと動けるようにしとかないといけない。

 弟よ」


「はい、お兄さん」


「ここのご主人は寛大な心をお持ちだ。そのお気持ちに申し訳ないが、よっかからしていただいて、明日は朝一番から俺が動くよ」


「僕も、ご一緒させていただきます」


 それをトマスは手でさえぎる。


「いや、おまえは病気なのだから、ここで寝ていろ。それに元々の原因は、俺なんだし」


 トマスはシモンを見る。


「大丈夫さ。ここはお兄ちゃんの言うとおりにしてくれ。

 なあに、夜が明けたらすぐに行動するさ」


 シモンは黙ってうなずいた。


 布団の上で上半身を起すと、正座し、目を閉じて胸元で指を組んだ。


(天にまします我らの太陽神たいようしんよ。今日の一日に感謝いたします)


 トマスは咳払いしながら正座し、同じように祈りを捧げるのであった。


~~♡♡~~


 市野谷は涙で濡れた目をこすり、もう一度ゆっくり目を開いた。


(あれは、なに?)


 二メートルほど先の青い光。

 芝に手をつき立ち上がると、その光を見つめる。

 青い光は暗闇のなかで、妖しげな明滅をゆっくり繰り返している。

 テニスボールか、いやゴルフボールくらいの大きさのようだ。


 元来臆病な性格の市野谷。普段であれば決して近寄ろうなんて考えもしない。

 市野谷はあたりをうかがいながら、歩を進めていく。


 青い光は生い茂った芝の間で音もなく、市野谷が寄ってくるのを待っているかのようであった。


 そっとしゃがみこみ、光源を見下ろす。

 そこにはゴルフボール大の球体が、光を発していた。どこにも電源はない。当たり前である。草原のど真ん中なのだから。電池を内蔵しているのであろうか。


 すっかり光に魅了された様子の市野谷は、手をさしのばした。

 人さし指で軽くつついてみる。コツコツと音が伝わる。金属かガラスのような、硬質の物体のようだ。


 ゴクリと唾を呑み込む音が、やけに大きく響く。


 意を決し、親指と中指をひろげ、ゆっくりとつまんだ。

 まったく熱は感じない。むしろひんやりとしている。

 思い切って目の高さまで持ち上げた。重さもそれほど感じない。


 市野谷は球体を観察する。

 透明の球体で中に核があり、それが青い光を発しているようなのだ。


「僕の知らない、新しい玩具なのかな。それとも、最新の電球なのかな」


 蛍光灯とも、LEDの灯りとも違うようだ。


 じっと見つめていたその時、突然頭の中に声が聞こえてきた。


(ゴメイレイヲ、ドウゾ)


 エッ? 市野谷はあわてて周囲を見渡す。自分の乗って来た自転車が倒れている以外に、外灯の明かりで見える範囲にはもちろん誰もいない。


「だ、だれっ」


 市野谷は立ち上がった。


(ゴメイレイヲ、ドウゾ)


 再び声が聞こえた。


 声? いや、声ではない。耳には遠くのほうでクルマの往来の音が聞こえるくらいだ。


(まさか、この球体が。トランシーバーみたいな、無線機だったのかな)


 市野谷は指先でつまんでいた球体を、手のひらに乗せた。

 青い光の明滅が早くなり、青色から紫色に変化し始める。紫色から赤紫色に急変した。


 シュッ、という擦過音とともに、市野谷の身体が消えてしまった。


~~♡♡~~


「いやあ、大変満足いたしましたあ」


 ひかりは大きく椅子の上で背中をそらした。


「ギンさん、ごちそうさまでした」


「おじいちゃん、ごちそうさま」


 泉太とともに立ち上がり、きれいにたいらげられたお皿をカウンターに運ぶ。

 二本目のビールを飲みながら、七星は頬を赤らめていた。


「あいよ。食器はそこに置いといてくれたらいいからな。

 もう少ししたら、明日の仕込みをやっちまうから」


 泉太は制服のブレザーを脱ぎ、シャツの腕をまくった。


「洗い物だけ、僕がやっておくよ」


「じゃあ、わたしもお手伝いする。お料理を作るのは苦手だけど、洗い物は得意よ」


 ひかりもブレザーを脱いだ。

 七星は目を細めて、若い孫たちを見る。


「そろそろ九時か。

 それ終わったら泉太、ひかりちゃんを送ってやんなよ。そのあとで風呂を沸かすか」


 ひかりは厨房から顔を出した。


「大丈夫だよお、ギンさん。だってすぐ裏なんだから」


「いや、そうは言ってもよ、花も恥じらう乙女だからな」


「そう言ってくれるのは、ギンさんだけー。えへへっ」


 泉太は泡立てたスポンジで、皿を洗いながら言う。


「送るさ。ひかりを小学生と間違えて、深夜徘徊でお巡りさんに補導されたらまずいし」


「もう、センちゃんったら。いくらわたしがチビでも、小学生には間違えられないよー」


「そりゃ、すみません」


 唇をとがらせて洗い物をするひかりに、泉太は笑った。


「そうだ、忘れねえうちに」


 七星はよいしょと立ち上がり、泉太に声をかける。


「布団をさ、もう一組出しといてやらにゃ。

 まあ今の時候で風邪ひくこたあ、ないだろうけどさ」


「うん。そうだね。これ終わったら、僕がやるよ」


「いいって。それより、ひかりちゃんを送っておくれ。

 ひかりちゃん、気ぃつけて帰りな。明日も弁当を楽しみにしておいで」


「ありがとう、ギンさん。明日もワクワク、待ち遠しいなあ」


 七星は手をふると、二階への階段を上がっていった。

 ドアをノックし、入るよと声をかけながら七星は開けた。


「あれま、もうお休みになっておられたか」


 四畳半の部屋の中。

 いつのまにかトマスはスータンのまま鼾をかいている。

 シモンに掛けてあった上布団はトマスが独占しており、シモンは丸い身体を、膝を抱えるようにまるめ寝息を立てていた。

 七星は持ってきた布団を、そっとシモンに掛けてやる。


「よほどお疲れの旅なんだなあ。ゆっくり休みなせえ」


 電灯の紐をひっぱり、七星は部屋を暗くするとドアをゆっくりと閉めた。


~~♡♡~~


 深海? 宇宙空間? それとも、死の世界?

 ここは、いったいどこなのだ? 僕は気がおかしくなってしまったのか。

 誰か、誰でもいい、助けて!


 市野谷は叫んだ。声の限り、悲鳴のような甲高い声で叫んだ。しかし、その声は聞こえない。自分の鼓膜すら振動しない。


 広がる風景はただ濃紺の世界。


 足は地面を踏んでいるのか、何も感じない。宙に浮いているような、非現実的な浮遊感。


 気分が悪くなってきた。

 市野谷は身体を曲げ、吐いた。

 幼いころに味わった乗り物酔いのように頭が痛い。口から出た吐しゃ物は目の前に浮かんできた。あわてて身をそらす。

 それはまるでクラゲのように舞い、どこかへ漂っていく。


(気持ち悪い、気持ち悪い。僕はとうとう気がふれてしまったのだ。でなければ死んでしまったか)


 目を閉じて、身体を丸めようとした。母体回帰の本能であった。


 市野谷は気が付いた。

 そういえば最後に見たのはあの光であった。

 忘れていた手を広げる。

 何もつかんでいない、と思った矢先。開いた手のひらがボウッと赤みを帯びてきたのだ。

 何もなかった手のひらから赤い光が発せられ、球体の一部が姿を現したのである。

 赤い光が強くなる。半円球の状態まで出てきた。


(いったい、何なのだ、これは)


 グラグラする意識の中で疑問を投げかける。すると、またしても声ならぬ声が頭のなかに響いた。


(ゴメイレイヲ、ドウゾ)


 市野谷は赤い光に向かって叫んだ。


「帰してくれ! 僕を帰してくれ」


 光が明滅し、赤色から赤紫色に変わる。


 ふと身体が急に重くなり、市野谷はがっくりと膝をついた。

 膝をつく? あわてて目をこらすと、目の前には公園の暗闇が視界に入る。


「も、もどったのか」


 市野谷は立ち上がった。芝の地面を踏みしめる。確かに感触がある。

 上下左右を見渡す。先ほどと何もかわりはない、夜の公園である。

 ふーっと大きくため息をつき、芝の上に座り込んだ。


(夢、だったのかな。ずいぶんリアルな感じだったけど)


 何気なく両手を見つめる。そこには何もなかった。


(あまりに神経を要らないことに使ったから、幻覚をみたのかな)


 球体を思い浮かべたとき、またしても手のひらが青く輝きだした。


「エエッ?」


 今度は落ち着いてそれを観察した。青い光が手の上で大きくなる。


(ゴメイレイヲ、ドウゾ)


 あの声が、再び頭を駆け巡ったのだ。


(夢じゃないのなら、もう一度僕を、先ほどの場所に連れて行って)


 手のひらの青い光が紫色に変化し、赤紫色に変わると同時に、シュッという擦過音が聞こえた。


 固く閉じた目をうっすらと開く。

 濃紺が続く奇妙な空間に浮いているのが分かった。


(ここは、どこなの? この光は僕をどこへ連れて行ってくれたの?)


 今度はやや落ち着いて周囲を見渡すことができた。どこにも光源が見当たらないのに、まず己の身体を見下ろすと宇宙遊泳をしているような不安定な足先から、制服のブレザー、そして両腕が判別できるのだ。しかも色彩もそのままに、である。


 先の方に眼を凝らすと、何やらわけのわからない、正体不明の浮遊物が浮かんでいるのがわかる。岩のようでもあり、飛行機のようでもあり、楕円形やら円錐のような物体、それも大小さまざまな大きさで存在しているのだ。


 ほとんどが灰色に近い色合いであった。

 また気分が悪くなってきた。市野谷は手のひらを上に向け、心のなかでつぶやく。


(わかったから、元の所へ帰して)


 呼応するように、手の平が赤く光だす。赤色から赤紫色に変わった。


 大地をしっかりと踏みしめる感触とともに、景色が公園の暗闇にもどる。

 市野谷は大きく深呼吸をした。


「これって、ふっ、ふふふっ」


 口元に浮かぶ笑み。遠くの方でパトカーのサイレンが鳴っている。

 市野谷の静かな笑い声が、公園の闇にとけていった。


~~♡♡~~


 ひかりは目覚まし時計の鳴る寸前で、目を開けた。早朝の五時前である。


 自室のベッドから起き上がると、素早くオレンジ色のスウェットウェアに着替えた。


 六畳の部屋は小学校時代から使っている勉強机、本棚、籐の箪笥、ドレッサー、ベッドが主な家具で、衣類はクローゼットにしまっている。 


 二階建ての家はひかりが幼稚園に入るころに、父親がローンを組んで建てたのである。


 ひかりの朝は、ランニングから始まる。 

 愛用のキャップをかむり、まだ寝ている母親を起こさないように家を出た。

 いまの季節は何をやるにも気持ちいい。 


 ひかりは玄関前で軽くストレッチを行い、「よしっ、行きまーす!」と走りだした。

 一キロほど走ると児童公園がある。そこで陳式太極拳の三十六式を行うのだ。

 このあたりは新興の住宅街であり、ななぼし食堂のある商店街とは背中合わせだ。

 早朝の新鮮な空気を吸い込み、基本の型を何度も繰り返す。


「発勁、気を取り込み丹田たんでんで練る。その気を、螺旋を描くように身体のなかで回し、パワーに変えて一気に撃つ」 


 ひかりは声にだしながら、洞嶋の動作を頭のなかでイメージしていく。 


「ハイッ!」 


 鋭い掛け声とともに左足を前に出し、両腕を素早く突き出した。

 公園内はシーンと静まり返っている。


「そんなに簡単にできるわけないか、えへへっ」


 ひかりは恥ずかしそうに頭をかいた。


 家に帰ると母が朝食の準備をしつつ、出張のための用意をしていた。

 赤いトランクケースが玄関の下駄箱の前に置いてあった。母親はひかりよりも早く出かけるようだ。


「じゃあね、行ってくるよ。

 ギンさんによろしく言っておいてねえ。東京みやげは、ギンさんの好きな草加せんべいを買ってきますって」


 快活な母は、洒落たグレーのスーツで家を出ていく。

 まだ四十歳前の母はいつも元気だ。ボブカットがよく似合う。


「いってらっしゃーい」


 ひかりは制服のブレザーに袖を通しながら、見送った。

 自室にもどると、ドレッサー前で髪をとかしながら独りごちる。


「お母さんは真っ直ぐできれいな髪なのに、やっぱりお父さんの血が濃いのかなあ、わたし」


 父は母よりも背が低く、天然パーマと呼ばれるくせ毛の持ち主。

 ひかりは軽くウェーブのかかった髪を引っ張る。クラスの女子からは、羨ましいと言われる。高校ではパーマは禁止されているからだ。でもひかりはあまり嬉しくない。

 ひかりは鏡を見ながら、引っ張った髪を放す。ゆっくりと丸まっていく。

 眉根を寄せ、立ち上がった。


「さあさあ、学校へ参りますか」


 いつものように泉太を迎えに行き、七星からお弁当を受け取るのだ。

 それがこの日は少し違った。


「おはようございまーす」


 食堂の出入り口をガラガラと開けると、丁寧にお辞儀をしてから、なかへ入った。


「あっ、おはようございますー!」


 厨房との間のカウンターから顔をのぞかせたのは、七星家の珍客、食べ過ぎで倒れたとされる弟のシモンであったのだ。

 コンパスで描いたような真ん丸な顔、高いとは言えない鼻にのせた黒縁眼鏡。細い目はどこか愛嬌のただようラインである。オカッパヘアにはカロッタをかむっている。


 ひかりは驚きの表情で訊く。


「たしか、シモン、さんですよね?

 えーっと、もうお腹の具合は良くなったのですかぁ?」


 そこへ厨房から、七星がおたまを持ったまま顔を出した。


「おはよう、ひかりちゃん」


「ギンさん、おはようございまーす」


 丁寧にお辞儀をしたひかりは顔を上げると、スタスタと厨房に向かう。


「シモンさん、なにやっているのですか?」


 七星がおたまでシモンを指して言う。


「夕べ休んだらすっかり体調が戻ったからってさ、今朝は早く起きて来て、何かお手伝いさせてくださいってよう」


 シモンはスータンの上に、白いエプロンをつけていた。


「それがさ、この神父さんったらよう、わしが昨日作った料理に使った出汁だしや調味料の按配を、ぴったり同じに作っちまうんだよ。おどろいたねえ!」


 七星は、横で顔を赤くしているシモンの肩を叩く。


「へええっ、それは! そんなにすごいことなの? ギンさん」


 七星はガクンとずっこけながら、言った。


「すごいなんてもんじゃねえぞ、ひかりちゃん。

 一回食べただけで、何をどれくらいの分量で配合しているのか、温度は何度でどれくれいの時間をかけるのか、なんてことを正確に当てて自分で再現するんだからよう。

 そこいらの板前やコックよりも、この神父のにいちゃんはレベルが高いぜ」


 一気にまくしたてる七星。


「じゃあ、もう具合は良くなったのですね?」


 ひかりのもっともな質問に、シモンはウッとうなった。


 早起きのシモンは、横で鼾をかいて熟睡している兄を起こさないように部屋を出て階段を下りると、すでに七星が仕込みに入っていたのだ。


 七星は容態について尋ねたが、元々どこも悪くないし真面目なシモンは一宿一飯の恩義を感じ、手伝いを申し出たのであった。

 七星は病人だと信じ込んでいるため断ったが、シモンは自分の料理の腕を一度みてほしいと申し出た。言うなりドタドタと二階に上がり、戻ってきたときにはその手に紐を巻いた唐草模様の細長くくるまった布袋を持っていたのである。


 シモンが丁寧に紐をほどくと布が広がり、中には数種類の包丁が内側のポケットにしまわれていたのだ。「マイ包丁です」恥ずかしそうに言うシモン。

 それじゃあとシモンにエプロンを貸し、朝の仕込みを手伝わせたのである。

 煮物用の出汁と玉子焼きをつくらせたところ、見事に七星の味に仕上げたのだ。

 感嘆する七星に、シモンは照れながらも指示を仰ぎ次々と揚げ物、焼き物を手早く調理していった。

 ところが調子に乗り過ぎ、兄トマスの策略をすっかり忘れてしまっていたのであった。


 シモンの細い目が泳いでいる。トマスのように口が達者ではない。嘘を構築し、隙間のない話を紡いでいく術など持っていないのだ。

 シモンの体調が回復したのであれば、この家を出ていかなければならないということに気付いた次第である。


「ええっと、そのー」


「おっと、もうこんな時間だ。ひかりちゃん、弁当はもう準備できてるからさ。

 おーい、泉太ーっ!」


 七星は階下から声を張り上げる。


「ひかりちゃんが来たぞー。早くしねえか」


 シモンはどうしていいかわからず、モジモジと太った身体をねじる。

 ひかりは下からシモンをのぞき込んだ。


「神父さん、すごいですねえ。ギンさんが他人の味を褒めるなんて、なかなかないですよ」


 シモンは真っ赤になってうつむく。

 トントンと階段を降りてくる音。


「おはよう、ひかり」


 泉太がブレザーのボタンをはめながら、姿を現した。


「おはよう、センちゃん。

 このシモンさん、すっごく料理が上手いのですって」


 丁寧にお辞儀をしながら、ひかりは言った。


「そうだね。朝ごはんも、シモンさんが作ってくれたから。美味しかったなあ、味噌汁。

 おじいちゃんの作る味噌汁と、一緒の味なんだもん。

 そういえば、お兄さんの方はまだお休みみたいでしたよ。よほどお疲れなのか、いびきが廊下まで響いていました」


「そりゃ、神父さんたちは長旅されてんだ。ゆっくり寝かせてやらにゃ。

 ほい、お弁当。ひかりちゃん、今日はハムのアスパラ巻と肉の旨煮だよ」


「わー、美味しそう。早くお昼にならないかなあ、えへへ」


「じゃあ、行こうか。

 おじいちゃん、行ってくるよ。シモンさんもごゆっくり」


 高校生二人は手を振りながら出かけていく。


「ほーい、いってらっしゃい。

 さってと、シモンさんよ。もしよかったら、もう少し手伝っちゃくれまいか。

 今日はトミさんがお休みの日だから、ちょっと人手が足りなくてよう」


 七星の申し出は、願ったりかなったりである。


「よろしければ、お願いいたします。

 僕でお役に立てるなら、なんなりとお申し付けください、ご主人」


 七星は笑顔で、シモンの肩を叩いた。


~~♡♡~~


 予鈴のあと、担任の岸田先生が緑のジャージ姿で、出席簿を抱えて教室に現れた。

 三十二歳の独身男性教諭である。現国の担当だ。

 長めの髪はぼさぼさで、つねに無精ひげが生えている。

 この先生、入学式と卒業式以外は緑色のジャージ姿で年中通す。

 クラス委員の声で全員が立ち、朝の挨拶をかわす。


「それじゃあ、始めるか。おっと、そういえば今日は市野谷がお休みだ。どうも風邪をひいたらしい。みんなも手洗い、うがいはちゃんとするようにな。

 もう高校生だからそのあたりは大丈夫だろうけど。

 出席をとりまーす」


 ひかりは何とはなしに後ろを振り返る。市野谷の席は、当然ながら空いている。


(市野谷くん、風邪ひいたんだ。大丈夫かなあ)


~~♡♡~~


 昨夜、市野谷は自宅にもどると、家族を避けるように自室に閉じこもった。

 父親は税理士で事務所を中区に構えているため、ほとんど顔を合わさない。

 兄がひとりいるが、今年の春に国立の難関大学受験に失敗し、自宅で浪人をしていた。

 母は兄をかわいがっており、一日中面倒をみている。だから家の中でも、家族とまったく会話がない日もあるのだ。


 電灯をつけないまま、塾のバッグを置くとベッドに腰を降ろした。

 カーテンを引いた部屋は暗い。


 肩が大きく上下している。荒い呼吸が続く。明らかに興奮していた。

 立ち寄った公園で拾った、光る球体。それは市野谷を不思議な空間へ誘った。

 見たことも聞いたこともない、異様な世界。

 もしかしたら幻覚かもしれない。いや現実にはありえないから、幻なのだろう。


 それでもいい、市野谷は思った。

 別に現実であろうと、幻覚であろうと、あの球体が見せたのだ。

 もしかしたら服用せずにトリップさせる、覚醒剤ドラッグのような危険な代物であるかもしれないが、どうでもよかった。


 これは、何かに使えるかもしれない。


 そんな危険な考えが、毒蛇の鎌首のように頭をもたげてきたのだ。


(そのためには、実験しないと)


 ベッドの上で、胡坐をかいてすわる。

 公園で体験したことを順に思い返す。

 青く光る球体をみつけたこと、あの不思議な浮遊感のある空間へ行ったこと(実際に行ったかどうかは別として)、またもとの公園へ戻ったこと。


 あのとき頭の中に、何者かの言葉が響いたのだ。(ゴメイレイヲ、ドウゾ)だったっけ。


 ゴメイレイ、ご命令。命令ってなんだ?


 市野谷はゆっくりと手のひらを上に向けて広げた。暗闇の中に青く輝く光が現れる。


(これは僕の手の中に溶け込んでいるのか)


 もう恐怖感は消えていた。

 球体が半分ほど姿を現したところで、また声なき声が聴こえる。


(ゴメイレイヲ、ドウゾ)


 市野谷は声を出さずに、心の中で叫んだ。


(ぼ、僕をもう一度あの空間へ連れて行って!)


 光が明滅し、青色が変化していく。その様子を凝視した。

 青色から紫色になり、さらに赤紫色に光が染まったとき、シュッという空気を裂く音が鼓膜を刺激した。


 目の前の風景が暗い自室から、あの濃紺の空間に変わっていた。

 市野谷は胡坐のままであるが、尻や腿にベッドの感触はない。

 ゴクリと喉を鳴らして呼吸してみる。苦しくはない。

 辺りを注意深く観察する。同じだ。宇宙のような、深海のような、人がイメージするとしたらそれが近いかもしれない。


 灰色の物体が音もなく浮かんでいる。ギザギザの剣山、三段重ねたチクワ、巨大な目玉という表現しかできない謎の浮遊物が四方八方に存在していた。

 重力を下半身に意識しないと、すぐに気持ちが悪くなる。


(光る玉よ、答えてほしい。ここはどこなの)


 市野谷は手のひらには、真紅に輝く光がゆっくりと明滅している。

 球体は呼びかけに応じない。

 やはりただの幻を見せているだけなのか。市野谷の探究心は折れそうになった。


(だめだ、僕は。

 いつもそうなのだ。あと少し頑張ってみようだとか、できるまで努力するってことができない人間なんだ。

 何もかも中途半端。だからあんな斎間みたいなヤツにいいカモにされるのだ。

 いずれまた違う奴等に僕はいじめられ、カモにされて。

 いやだ! 僕はこんな世界に生きるのは、もういやだ!)


 悲痛な叫びが頭に鳴り響く。


(リョウカイ、シマシタ。ソレデハ*#;‘@:*)


 赤く光る珠が理解不能の文言を、市野谷の脳に返信したのだ。

 光は赤色から徐々にオレンジ色に変わり、黄色の輝きにかわる。


 市野谷の身体が、濃紺の空間から消えた。


~~♡♡~~


「カツカレーライスの大盛りと、八宝菜、アジフライ定食ねえ!」


 トミさんがお休みのため、ケーコさんとマサちゃんが注文をとり、料理を運ぶ。


 午前十一時の開店と同時に、ななぼし食堂には常連のお客さんが昼食を食べにやってくるのだ。


「あいよう。ケーコちゃん、これ焼きそば定食ねえ」


 七星は厨房から、出来立ての料理をカウンターに置いた。

 普段の調理場では七星が八面六臂はちめんろっぴの活躍であるが、今日は心強い助っ人が大活躍をしてくれている。


「あの人、昨日そこで派手にスッ転んだ神父さんだよ」


「そうだよねえ。大将は多くを語らないけど、なんかわけありなのでしょうよ」


 女性二人はエプロンにスカーフを頭に巻いた姿で、お盆で口元を隠すようにしながら厨房をのぞき見る。

 シモンの動きはその体型から想像もできないほど、素早く丁寧にかつ華麗であった。

 刻んだ野菜を炒めながら鍋で玉子スープを作り、注文が入ると冷蔵庫から必要な肉類をすかさず準備する。

 それはロックドラマーが両手足を操り、ツーバスとスネア、ハイハットシンバルでビートを叩きだす、ソロ演奏の技法を見ているようだ。

 この道何十年のプロである七星が、へえっと驚嘆の声をあげるくらいの調理技術である。

 おかげで次々入る注文を、ベルトコンベアでカウンターに並べるようにさばいていった。


「やるわいなあ、弟さんよう。兄さんにおんぶにだっこだけのお人かと思っていたが、見かけによらんもんだ」


 トンカツを揚げながら、七星は誰にでもなくつぶやく。

 正午の時報とともに、店内はすでに満席になっていた。


 一方、いまだ夢の中のトマス。

 二階の四畳半に敷いた布団の上で、大の字で高らかに鼾をかいている。


「ん、んんんっ、うん、ん?」


 つむっていた目が、パチッと開いた。


「ここは、どこだ? ええっと」


 トマスは天板の木目を見つめる。記憶がよみがえっていく。


「お、おお、ああ、そうだった、そうだった。

 久しぶりに腹いっぱい食べて、布団に横になったものだから、すっかり寝てしまった。

 そういえばシモンに、寝る前に何か言った気がするけど。まあ、いいや。

 シモン、おいシモン」


 寝転がったままトマスは弟を呼ばわった。もちろん返事はない。

 トマスは上半身を起し、大きく伸びをする。


「あっ、あいつ、まさかひとりで出かけたのじゃあるまいな」


 枕元に置いてあったサングラスを取り、立ち上がった。

 部屋の扉を開けると、階下からにぎやかな声とともに、食欲を誘ういい香りが鼻孔を刺激する。

 いそいそと階段を下りる途中で、包丁の音に気付いた。

 野菜を刻んでいるらしいが、音に一定のリズムがあるのだ。


(トントン、トトン、トン、トトト。これは)


 トマスは立ち止まり目を閉じる。


 それは厨房で調理を手伝うシモンが、兄のトマスへ送るモールス信号であった。


(お兄さん、僕はここで料理を手伝っておりますので、申し訳ないのですがおひとりでお願いします、か。

 なるほど、了解したぜ、弟よ)


 ゴホンと咳払いをすると、にやけた口元を引き締めて一階に降り立った。


~~♡♡~~


 太陽は雲をひとつも寄せ付けず、地上に光をそそいでいる。

 まもなく午後一時になろうとしていた。


 ブルーのチェック柄のシャツを腕まくりし、市野谷は自転車を漕いでいる。

 母親に、体調が悪いからと学校に電話をさせた。それくらいはさすがにやってくれた。

 体調をおざなりに気遣ったあと、母はいつものように兄につきっきりである。

 だから市野谷が昼過ぎに起きだし、外出したことにも気づいていない。

 市野谷は昨夜から一睡もしていなかったが、眠気は感じなかった。


(実験だ、実験だ)


 頭の中で同じ言葉が渦巻いている。

 街中をふらふらと自転車で走る。

 家から三十分ほど漕いで行くと、国道沿いに見知らぬ住宅街があった。

 平日の住宅街は閑静だ。


 暗い双眸に、木立のある公園が写った。

 志賀公園ほどではないが、広葉樹が植林され、子供用の遊具が設置してある。

 自転車を前に停め、辺りをうかがうように入っていった。

 お昼過ぎということもあり、子供を遊ばせている主婦や、ベンチで休憩する営業マンの姿はない。

 何かを探すように、ゆっくりと歩を進める。


(そんな簡単に、みつかるわけないか)


 猫背の肩を落としながら、それでも歩く。

 眠気もないし食欲もない。やけに身体が重たく感ずる。

 ふうっとため息とともに、目についたベンチに腰をおろした。

 こんな日の太陽は、うっとうしいほどの陽差しを投げかけてくる。

 目を閉じてうつむく。


 ニャア。


 市野谷の耳が鳴き声をとらえた。

 ハッと目を開け、その方角を睨んだ。

 一匹の茶色い毛並みの猫が、のんびり散歩しているではないか。


(いた! いたぞ)


 市野谷の黄色い頬に赤みがさす。

 探していたのは、猫であったのだ。犬は向かないと判断していた。

 猫は目を細めながら近寄ってくる。飼い猫らしい。

 緑色の首輪をつけ、物おじせずにやってくる。

 市野谷は驚かさないように、そっと立ち上がり、猫を手招きしながらしゃがみこんだ。

 猫は喉を鳴らしながら市野谷の差し出した手の匂いをかぐ。

 両手で猫を抱き上げる。いやがるそぶりも見せず、だまって甘えた声を出した。


 市野谷は下から見上げるように、周囲を素早く見回す。

 誰もいない。そのまま足音を忍ばせて、木立の中へ入っていった。

 三分もたたない間に、市野谷は戻ってくる。その腕に、猫の姿はなかった。


「うふ、うふふ」


 何がおかしいのか、口元に笑みを浮かべ、市野谷は歩く。


「やった、やった。実験は成功だ。うふ、うふふ」


 肩を震わせながら興奮気味に独り言をつぶやき、自転車を停めた入口へ向かったのであった。


~~♡♡~~


 トマスは大盛りのオムライスを呑み込むように、胃におさめていく。


「へえーっ、兄弟でねえ」


 ケーコさんはうなずきながら、コップにお茶を注いでやる。

 食堂にはまだお客さんがおり、昼食をとっていた。


「神父さんって、教会で結婚式やったり、聖歌の指揮をとるだけだと思っていたわ」


 一番若いアルバイトのマサちゃんが隣りのテーブルから、茶碗やお皿を下げながら言った。トマスはニッコリと微笑む。


「神父と申しましても、アーメンのほうではございませんが。

 もちろん、そういったことも行いますよ」


「ほほう、さすがにお兄さんは色々とやりなさるんだな」


 七星は感心したように言った。


「弟のシモンはまだまだ半人前であり、だから財布や大切な品を紛失などしてしまうのですが、このいただいたご縁で少しでも成長してほしいと願っております。

 どうぞ召使いのおつもりで、ビシビシと指導してやってくださいませんか。

 その間に私は警察関係に出向いて、早急に探しだしますゆえ。

 こちらさまに、いつまでも甘えるわけにはまいりませんですから」


 七星は手を振った。


「何を言ってんだい、トマスさん。こっちは逆に大助かりだよ。

 弟さんは神父さんとしては半人前なんだろうけど、コックとしたら超一流の腕前だよ。

 わしもビックリしてんだ。

 このまま、ずっと居てほしいくらいだよ」


 トマスはワザとしおらしそうに言う。


「弟は聖職者にありながら、こと食べることに関しては意地きたないと申しますか、お恥ずかしい限りでございます。

 それではしばし、お言葉に甘えさせていとどきとう存じます」


 頭を下げるトマスに、七星やケーコさん、マサちゃんは同じように頭を下げる。

 シモンは皿を洗いながら兄の達者な口上にあきれ、ため息をついた。


 食べ終えたトマスは二階の四畳半の部屋で、風呂敷包みから同じ唐草模様の布のショルダーバッグを取りだし、こまごまとしたモノを詰め込むと肩からたすき掛けにした。

 一階へ降りると七星を始め、食事をしているお客さんにも深々とお辞儀をしたトマスはカウンターから厨房へ顔をのぞかせ、皿洗いをしているシモンに、しっかり働くように告げる。

 サングラスの下の片目でウインクを送った。


 食堂から外へ出ると、トマスは大きく伸びをする。


「さあ、行こうか。でもその前に少し一服しとこ」


 当たりをキョロキョロしながら歩き出す。

 国道に面した通りへ出ると、コンビニエンスストアの前で立ち止まり、設置してある灰皿からシケモクを指でつまんだ。

 たすき掛けのバッグからキセルとマッチを取りだし、そのまましゃがみこむ。


「あー、いいお天気だなあ。このまま公園にでも行って、昼寝でもするかあ」


 紫煙をくゆらしながら、午後の陽差しに包まれていった。


 二十メートルほど先の雑居ビルのひさしの下にスーツ姿の男たちが二人、なにやら耳打ちをしながらトマスを見ている。

 周囲の風景に溶け込むような、地味な男たち。

 トマスはまったく気づいていなかった。


~~♡♡~~


 ひかりは教卓の前の自席で午後の授業を受けながら、何気なく窓側を見た。


(いいお天気だなあ。こんな日はお弁当を持って、N城公園でピクニックしたら楽しいだろうね。

 そうだ、今度のお休みにセンちゃんとギンさんを誘って行こうかな。

 もちろんお弁当はギンさんにたのんで。えへへっ)


「――と言うことから、作者の言わんとすることは何だ?

 はい、凪佐、嬉しそうな顔をしてないで答えてみ」


 授業は担任の岸田先生による、現国である。

 ひかりのもっとも得意とする学科ではあるのだが。

 とっさに名前を呼ばれ、ひかりはびっくりして立ち上がった。


「は、はい。わたしはおにぎりの具は、焼いた鮭のほぐし身が大好きです!」


 教室内は先生をはじめ、大爆笑につつまれた。

 ひかりは笑われた意味に気付いていない。

 先生は緑色のジャージのポケットに手をいれながら、教卓の前に立った。


「先生も鮭は好きだな。

 ただ、先生が訊きたかったポイントは残念ながらちょっと違うなあ。

 作者の言いたかったことは、おにぎりの具についてではないからね」


 ひかりはようやく気が付いた。

 ペロッと舌を出し、頭をかく。先生はひかりの頭を軽くなでた。


「まあ、凪佐らしいといえばらしいけど。たまには俺の授業も聴いてほしいな」


 ひとしきり笑いがおさまるのを見計らって、授業を再開した。


(いかん、いかん。授業中なのだから、真面目に受けないとね。

 真面目っていえば、あの市野谷くんがお休みするくらいなのだから、よほど体調が悪いのかしら。

 お見舞いついでに、今日の授業のノートを持っていってあげようかな。

 お友達が少なさそうだし、クラスメートとしての義務よね)


 ひかりはそう決心すると、真面目な顔つきで黒板に書かれた項目を書き写し始めた。


 チャイムの音とともに、一日の授業がすべて終了する。

 ひかりは、クラブ活動をしていないと思われる級友の何人かに声をかけた。


「今から時間ある人は、市野谷くんのお見舞いにいきませんかぁ」


 男子も女子も、顔をしかめる。


「俺、今日は塾なんだ」


「私は、家の用事を頼まれているからさあ」


 さもありなんという用事を言うものもあれば、あからさまに断る級友もいる。


「ひかりの頼みなら引き受けたいけど、市野谷くんとは話したことないし。

 気が進まないわよ」


「僕も凪佐くんが一緒なら、とは思うけどさ。

 あいつ、なんか暗いじゃん。行っても出てこない可能性の方が高いよ」


 ひかりは肩を落とした。


(同じクラスの仲間なのになあ。なにか、悲しい)


「どうした、ひかり。なんか落ち込んでいるように見えるけど。

 まさか、もうお腹がすいたとか」


 のんびりした声に振り返ると、帰り支度をした泉太がいつのまにか立っていた。


「センちゃん」


「帰れるのなら一緒に帰ろうかな、って思って」


 腰をかがめ、ひかりの顔をのぞき込む。


「市野谷くんって、昨日校門で挨拶したよね。よかったらお見舞いには、僕が付き合うよ」


 ひかりが級友から断られているのを見ていたらしい。

 泉太の心遣いがひかりには嬉しかった。


「ありがとう、センちゃん。やっぱり持つべきものは幼馴染みだね」


 ひかりは落としていた肩を上げた。


 市野谷の自宅は知っている。

 ひかりたちの隣り町だから、高校からは地下鉄で、一駅だ。


 ひかりは普段から鍛えているため、地下の階段を苦も無くステップをふむように上がっていく。泉太の足は長いのだが、体力は正直言って無い。

 老人のように手すりを持って、ゆっくり上っていく。

 ひかりは最後の一段をジャンプすると、クルリと振り返った。


「遅いよー、幼馴染みー」


「もっとゆっくり行こうよ、ひかり。ふーっ」


 にこやかに待ち受けるひかりのもとへようやくたどり着き、泉太は大きく深呼吸をする。

 地下鉄の階段を上がったところは全国チェーンのコーヒーショップ、ハンバーガー店があり、にぎわいにある通りであった。


「えーっとね、たしかあそこの道を入っていくんだよ」


 ひかりは泉太を案内する。


「ひかりは地理にくわしいね」


「そうかなあ。

 ランニングするときに色々風景も楽しみたいから、よく地図帳を見たりしているけど。

 あっ、今度はあの角を曲がっていくはず」


 通りを左折し、雑居ビルの間を歩く。

 市野谷の自宅方面はビル街を抜け、奥へ入る道を行ったはずである。

 通り過ぎるクルマに気をつけながら進み、角を曲がった。

 泉太は、スキップするように歩くひかりの制服の袖を引っ張り、立ち止まった。


「どうしたの、センちゃん。またお腹が痛くなてきたのかな」


 きょとんと振り返るひかりに、泉太はシッと指で自分の口を押えた。

 ひかりの顔の位置まで腰をかがめ、ささやく。


「ひかり、見てごらん。あそこの前の方を歩いている、挙動不審な人を」


 泉太の指さす前方を、そっと振り返った。

 百メートルほど先の道路を、ビルの陰に隠れながら歩く怪しげな人物がいた。

 黒いスータンを着て、唐草模様の布製バッグをたすき掛けにしている。


「そう。あの人は夕べからウチにいる、神父のお兄さんのほうだ」


 トマスは二人に姿を見られていることに気付かず、手にしたスマートフォンらしきものを見ながら、ビルや電柱に身を潜めるようにしながら早足で歩いているのであった。


つづく

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る