第2話 謎の神父兄弟、食堂に現れる

「おはようございまーす」


 ガラガラと曇りガラスのはまった木枠の出入り口を開け、ひかりはいつものように店内に入ると丁寧にお辞儀をする。


 十月に入り、高校の制服は冬服に指定された。少し運動すると汗ばむ時候であるが、校則に気温は考慮されない。

 ひかりの通うN市立本郷高校は、男女共学の高校である。制服は男女ともに紺のブレザーで、男子は赤いネクタイ、女子は緑色のリボンを結ぶ。

 ひかりはこの春から、本郷校生の制服を着ているのだ。


 自宅はこのN駅西側の中村区にあり、「本陣ほんじんN駅商店街」と呼ぶアーケード街のすぐ裏手にある。

 ひかりの父親は銀行勤務で単身赴任しており、現在は化粧品会社でチーフアドバイザー職についている母と、ふたりで自宅に住んでいる。


 朝の七時五十分。


 出入り口の内側には開店前のため、「ななぼし食堂」と染め抜かれた暖簾がつり下げられていた。元々は白地の綿であったものが、いまでは黄色や茶色のシミが浮き年代を感じさせる。

 店内は四人掛けのテーブルが六つ、調理された惣菜を並べる段仕切りのあるガラスのケース、ビールやジュースがいつも冷やしてある冷蔵庫、新聞や雑誌を入れてある本棚が設置してあった。

 いわゆる町の大衆食堂である。

 奥の厨房からは揚げ物の音と、包丁で野菜を切る音が聞こえてくる。


「ひかりちゃんかい、おはよう。また一週間が始まっちまったな」


 厨房から、白い板前の帽子をかむった頭がひょっこりのぞいた。


 鼈甲べっこうぶちの眼鏡をかけた柔和そうな表情、笑うと前歯が一本欠けているのがユーモラスな老人はこの店の店主、七星吟次ななぼし ぎんじである。

 ひかりは片手で学生鞄を持ち替え、すぐに丸まるカールしたくせ毛を、あいた指先で伸ばす仕草をした。


「おかあさんが、いつもすみません、明日から三日間、お世話になりまーすって」


 テーブルには白い布巾で包まれたかなり大きな弁当箱と、かわいい花柄の布巾で同じように包んだ小さい弁当箱がおいてある。


「なあに、お互いさまだよ。ひかりちゃんのおっかさんには、亡くなったわしの娘が最期まで、うーんと世話になったしな。

 相変わらず、忙しんだろ?」


「うん。今日も打ち合わせがあるからって、早く出かけたんだよ」


「おとっつぁんも、おっかさんも大忙しだ。

 泊まりは明日の晩からでよかったよなあ。

 娘もそうだけど、いまじゃ孫の泉太せんたのやつがひかりちゃんに世話になってる。

 図体ばっかり大きくて、ちっちゃなひかりちゃんにおんぶしちまって。

 たまにはよ、ガツンと言ってやっておくれな」


 ひかりは大きな目を細め、笑った。


「そんなことないよ。センちゃんには、小学校のころから勉強を教えてもらっているし。

 でなかったら、一緒に本郷高校なんて入れなかったもーん」


「そうかい。ならいいんだけどさ。

 ところで今日の弁当にはいつもの玉子焼きに、ほうれん草の胡麻和えと、ひかりちゃんの好きなミートボールをいれておいたよ。楽しみにしてな」


 七星は得意げに言う。


「やったあ! わたし、ギンさんのお手製ミートボール、大好きっ」


 へーっと弁当箱を嬉しそうに見つめる。


「おおっと、もうこんな時間だ。おーい、泉太ーっ!」


 大声で奥の階段へ叫ぶ。


「早くしな! いっつもひかりちゃんを待たせんじゃねえよ。遅刻するぜ!」


 ドンドンと階段を下りる音が聞こえる。


「ごめんごめん、ちょっとトイレで」


 七星の孫であり、ひかりの幼稚園時代からの幼馴染みである泉太が、階段に下げられた暖簾から顔を出した。


 七星が言った通り、かなりの長身である。高校一年でありながら百八十五センチは超えていそうだ。ただ横幅がかなり薄い。

 すそをきちんと刈り込んだ髪は清潔感にあふれている。

 祖父によく似た柔和な目元は、知性を感じさせた。


「おはよう、ひかり。待たせちゃって」


 上がり框に置いてある黒のローファーに足先をいれ、コンクリートをうった床で爪先を蹴りながら履く。


「おはよう、センちゃん」


 ひかりは丁寧にお辞儀を返す。


「またお腹の調子が、悪いの?」


「うん。家から出かける前になると、ちょっとね」


 照れたように泉太は頭をかく。


「おまえもよう、運動でもして身体を鍛えておかねえと」


 祖父の七星は厨房で包丁の手を止め、孫に苦言した。


「運動は苦手なんだから。

 それにあまり無理するとかえって身体に悪いんだよ、おじいちゃん」


「なに言っていやがる。とっとと行って来い。そのうちひかりちゃんに愛想つかされるぞ」


 ひかりと泉太は、七星の言葉に笑った。


「ごめんね。じゃあ行こうか」


「うん。今日はミートボールだって」


 ひかりは白い布巾の大きな弁当箱を、泉太は花柄の小さな方を手に持ち、手提げバッグに入れる。


「いってきまーす」


 声をそろえて店のドアを開けた。


「うぉーい。気ぃつけてなあ」


 七星は厨房から見送った。


~~♡♡~~


 市立本郷高校は、商店街の入り口にある地下鉄駅から二駅目である。


「昨日も寝るのは遅かったの?」


 ひかりは泉太を見上げる。ほぼ首を四十五度にかたむけながら。


「うん。数学の予習をしていたら、なんか面白くてさ」


 泉太は口角を上げた。


「すごいねえ、予習だなんて。わたしは復習で、手いっぱいって感じ」


「わからないところがあったら、いつでも言ってよ。理数系なら得意だし」


「悪いね、いつも。

 それなら、さっそく今日お願いしようかなあ。中間テストも近いことだし」


「それ、おじいちゃんの料理を食べるのが目的だろ」


「えへへ、ばれましたか。

 実は今夜、お母さんは帰りが遅くなるからって言われてたんだ」


 ひかりは舌を出す。


「いいよ。じゃあ、授業が終わったら教室までお迎えに参上いたします。校内で迷子になって、泣きわめくひかりの姿を想像すると、ね!」


 言いながら、泉太は隣を歩くひかりの頭をなでた。

 カールした髪がふわふわで柔らかい。


「あー、そうやっていつもセンちゃんが頭をさわるからー、わたしの背が伸びないんだよお!」


 プウッと唇をとがらすひかりの横顔を見ながら、泉太は笑った。


 二人はまだシャッターのおりたままの店が連なる商店街を抜け、地下鉄駅の階段を下っていった。


 本郷高校のある駅前を、同じ制服を着た生徒たちが歩いていく。

 駅から徒歩五分と言う距離にあり、周囲は国道沿いの住宅街であった。

 生徒たちはクラスメートをみつけると声を掛け合い、校門へ入っていく。

 ひかりは普通科だが、泉太は特選科と呼ばれる成績優秀者のみを集めたクラスの生徒だ。


 ひかりは前をひとりで歩いている男子生徒に気が付いた。

 同じクラスの市野谷満いちのや みつるだ。

 ひかりの視線に、泉太も前を見る。


「クラスメート?」


「うん。市野谷くん」


「へえ」


 その男子生徒は、ひかりと同じくらいに小柄だ。

 それにうなだれたように猫背であり、憂鬱そうな気配が感じられる。


「なんか、朝から疲れているみたいだねえ」


 泉太は苦笑した。


「まあ、そんなに元気じゃないかな。でも勉強は熱心だよ。特選科並みのレベルです」


「ひかりは、仲良くしているのかな」


「うーん、まあ普通ってとこ。クラスにとけこもうとはしないタイプなのですね、彼は。

 だからわたしから話しかけているのだけど、会話が続かなくて。えへへっ。

 市野谷くんはわたしたちの隣り町の中学出身だって言ってたよ。

 そうそう、前にランニングしている時に、おウチを見つけちゃったのでーす」


 泉太はひかりから再び前方の生徒に、視線を向けた。

 肩を落とし気味に歩く市野谷に、ひかりは声をかける。


「おはようございまーす。市野谷くん」


 お辞儀をしながら挨拶するひかりに、市野谷はビクンとして立ち止まった。

 肩越しに振り返る。

 無造作に伸ばした前髪に隠れるように目が見えた。顔には高校生特有のにきびが目立つ。

 これといって特徴がない面立ちだ。むしろどんな顔だったか思い出せ、と言われると困る平凡さである。


「ああ、凪佐さんか。おはよう」


 市野谷は恥ずかしそうな表情でひかりを見る。

 横に歩く泉太の存在に気づき、あわてて前を向いてしまった。激しい人見知りのようだ。

 泉太は気にすることなく挨拶をした。


「おはよう。初めまして、かな。

 僕は特選科の七星泉太。ひかりとは幼稚園時代からの腐れ縁だよ」


 上背にある泉太を見上げ、もそもそと口を動かす市野谷。どうやら挨拶を返しているらしい。市野谷はひかりが気になるのか、ちらりちらりと視線を投げかけた。


「えへへっ」


 泉太のブレザーの胸元あたりから顔をのぞかせ、ひかりは微笑む。

 市野谷はにきび面を真っ赤に染め、正面に顔を向けてしまったのであった。


~~♡♡~~


 本陣N駅商店街。

 国道沿いの道を銀行の店舗を目印に、西側に約二百メートル続くさまざまな店。N駅の繁華街から離れているが、昔ながらの旧家や再開発によって周囲に新興住宅が建てられており、それなりの人口密度である。


 正午を過ぎた、商店街手前の国道。近くの会社に勤めるサラリーマンやOLたちが昼食をとるため、思いおもいにぶらついている。

 銀行の制服を着た若いOLがふたり、今日はどこでランチにしようかと話しながら歩いていると、その横を黒い影が通り過ぎた。


「――だから、お兄さんのおっしゃることはわかりますが、僕たちは神に仕える身であってですね」


 独りでスマートフォンを見つめながら、ぶつぶつとつぶやきながら追い越していく。


「あの人、何かしゃべってなかった? 電話じゃないみたいだけど」


「うんうん、大きな独り言。神父さんかなあ」


「ああ、あの黒くて長い服ね。あれは立襟の祭服スータンって言うのよ。

 頭にかむっているのはカロッタね。

 でも、袖口に銀色の刺繍があるわね。私の記憶では、神父さんのスータンにあんな刺繍はなかったわ」


 黒い袖には円形に放射状の線が銀糸で編み込んである。太陽を図案化したようだ。

 OLふたりはささやいた。


「よく知っているわねえ」


「ええ。近所に教会があって、そこの神父さまが素敵な英国人だったのよ。

 だから仏教徒にも関わらず、友だちとよく日曜学校に行っていたわけ」


 若い女性たちはおかしそうに笑った。


「あなたが通っていた教会の神父さまなら、会ってみたいけどさ」


 ひとりが意味ありげに、前方を指さす。


「あの背負っている大きな風呂敷包みって、お婆ちゃんの家でしかみたことない唐草模様よね。西洋宗教の人も風呂敷なんて使うんだね」


 前を歩く神父らしき男は後ろ姿が丸い。背丈もOLたちより低そうだ。

 OLが指摘した、深緑の地に白い枝葉をあしらった唐草模様の大きな風呂敷の荷物を、首から背負っていた。


「聞いていますか、お兄さ、あれっ、お兄さん?」


 男は立ち止まり、振り返った。

 後ろには制服姿のOLがふたり、ビックリした表情で立ち止まっている。


「ああ、あれえ?」


 男は独りでしゃべっていたことに気づき、サッと顔を赤らめた。

 OLたちは、くすくすと笑う口元を隠すように追い抜いていく。


 男は髪をオカッパにし、カロッタと呼ばれるベレー帽のような黒い小さな帽子を頭に乗せている。体型通りの、コンパスで描いたような丸顔には黒縁の度の強そうな眼鏡をかけ、荷物が重たいのか顔中に汗を浮かべていた。


「お兄さん、またどこぞへ」


 真ん丸の神父は唇をすぼめ、歩いてきた道を早足で引き返し始めた。


~~♡♡~~


「よう、よう、オネエちゃん。いっしょにお茶でもしねえかい」


 いきなり足元から聞こえた下品な男の声に、コンビニエンスストアからでてきた若い女性事務員は驚いた。店前に設置された灰皿のところに座り込んでいる男が、声をかけてきたようだ。


 男は黒いカロッタをかむり、スータンを着ている。聖職者の格好である。

 ところが帽子からのぞく髪は茶髪で、薄緑色のレンズのサングラスをはめているのだ。

 西洋人には見えない。わりと彫の深い顔立ちではあるが、明らかに東洋人とわかる。


「キモーい!」


 女性は顔をそむけ、コンビニの袋をひるがえしながら去っていく。


「なんだよお、お茶くらい、いいじゃーん」


 女性の後ろ姿を見送りながら、かたわらにおいてある大きな唐草模様の風呂敷からキセルと小さなマッチ箱を取り出した。

 何食わぬ顔で灰皿からまだ吸えそうなシケモクを探し、キセルに差し込むとマッチで火を点ける。

 その袖口には、銀糸で太陽の形が刺繍されていた。


「プワーッ。やっぱりよう、新品より味が濃いねえ」


 ゆるやかな紫煙をくゆらし、目の前を通る人たちを見上げていた。

 すると歩道の左手の方から、黒い大玉が転がってくるのが視界に入る。


「おお、あの走ってるのか転がってるのか判別不明物体は、我が弟じゃね?」


 サングラスの男はキセルを咥えたまま、手を振った。


「よーう、ここだよ、ここ。弟よー」


 丸い神父が、必死の形相で走ってくる。


「あははっ、つまずいて転んでやがるの。かっこワルー」


 すれ違ったサラリーマンが、心配そうに丸い神父に手を差し伸べている。恐縮そうに何度もお辞儀をしながら、ドタドタと音を立てるように近づいてきた。


「なんだよう、あんな何もないところでスッテンコロリって。

 普段の運動不足がたたってきてんじゃねえかい」


 丸い神父は茶髪の神父の横で膝に手をあて、ゼイゼイと呼吸を整える。


「お、おにい、お兄さっ」


「そんな息が切れるまで走るこたあねえだろうに。まあ、落ち着け、弟よ」


 汗でずり落ちる黒い眼鏡を指先で押し上げ、ようやく話せるようになると、丸い神父は甲高い声で一気にまくしたてた。


「お兄さんはいつでもそうなのです、自由気ままにあっちへ行ったりこっちへもどったり、僕の意見なんか一切聞こうとされない。

 いったい僕はどうしたらいいのですか。そもそもお兄さんがっ」


「わーかった、わかったって。俺が悪かった。なっ、そういうことなんだよ」


 茶髪の神父は立ち上がると弟と呼ぶ丸い神父の肩を叩き、ハグをする。兄の神父は背が高かった。太った弟の頭がちょうど胸元あたりにきているのだ。

 両人とも年齢は若そうである。二十代の前半くらいか。

 弟をハグしながら、目の前を通ったOLに手を振る。


「おーい、時間あるならいっしょにお茶しねえかーい」


 OLはアカンベエをしながら過ぎていった。


「つれないなあ。お茶してえなあ」


 弟は兄から離れると、下から見上げる。


「お兄さん、僕たちは神に仕える身ですよ。そんなお下劣なお誘いを女子にかけるなんて、もってのほかです!」


「そう堅いこといいなさんな。おまえさんだって、うら若き乙女は嫌いじゃねんだろ」


 丸い顔をパッと赤らめ、下を向いた。


「ぼ、僕たちは修業中の身です。そんなはしたない考えは、神の教えに背きます」


「はいはい、わかりました。ほんとにお堅いこと」


 茶髪の神父は自分の荷物を持ち上げ、結び目を前に首から背負う。


「さあって、行きますかい。我が弟よ」


「今度は勝手に道草喰わないでくださいね、お兄さん」


「はーい、はいっと」


 二人の神父は歩き始めたのであった。


~~♡♡~~


 その日のお昼休み。


 本郷高校の生徒は校内であれば、図書館以外のどこで昼食をとってもよい習わしになっている。


 ひかりのクラスは女子が十八人、男子が二十人の編成だ。

 晴れた日には、女子たちは揃ってお弁当を持ち、校庭の芝生で車座になってワイワイ話しながらにぎやかに食べるのが、楽しみのひとつになっていた。


「でも、ひかりのお弁当箱はいつみても迫力あるわねえ。体育会系の男子並み」


 隣りに座った級友はかわいい小さな弁当箱を膝の上に乗せ、ひかりの特大の弁当箱を感心しながら見ている。


「えへへっ。そうかなあ」


 ひかりは七星が作ってくれた弁当を、重そうに持ち上げる。

 広いグランドでは他の生徒たちもグループを作り、楽しい昼食時間を過ごしていた。


「それだけ毎日食べていたら、来年にはもう少し大きくなっているかもよ」


 別の級友が笑う。


「そうなるといいなあって、思って」


 ニッコリと微笑むひかり。


 ひかりは洞嶋について武術を習っていることを、誰にも告げていない。

 両親はもちろん、泉太もクラスメートも知らない。

 洞嶋と出会うまでは、こんなふうに人と仲良く話すことなんてなかった。泉太だけが唯一の友だちだったのだ。

 身体の小さいことを悲観し、いじけていたのかもしれない。

 洞嶋はそのネガティブ思考を、バッサリと切り捨てさせてくれた。


 それからである。

 少しずつ中学校でも級友と話すようになり、高校に入ったときには暗かったころからは想像もつかないほど、元気に明るくなっていたのである。

 洞嶋に、武術に出会わなかったら、今のひかりは存在しなかったということだ。


 土日の練習だけではなく、自宅でも時間があれば三十六式の型を自主練習するため、これが結構体力をつかう。

 したがって体力を維持するために人一倍以上の食べ物を摂取し、エネルギーに変えないと身体が持たないのであった。


 ひかりはクラスメートたちとの楽しい昼休みを過ごしていた。

 その様子を後ろの木立からうかがっている男子生徒がいた。

 クラスメートの市野谷であった。

 独りで弁当を食べていたらしい。

 目が隠れるくらいに無造作に伸ばした前髪。その暗い双眸は、じっとひかりを見つめていた。


~~♡♡~~


 ななぼし食堂の昼は、当然ながら多忙をきわめる。

 営業は午前十一時から午後三時まで。

 年中無休で、気が向いたときだけ夕方五時から八時まで酒を提供する居酒屋も兼業しているのだが、こちらは不定期のため、常連でも開いているかどうかは来ないとわからない。

 食堂は昼の時間帯だけ、近所の奥さんが三人ほど手伝ってくれる。


 午後二時五十分。遅めの昼食を食べに来た、近くの不動産会社に勤める中年サラリーマンが代金を払い、爪楊枝で歯をせせりながら出ていく。


「大将、ごちそうさん」


「まいどねえ、ありがとう」


 七星は下げられた皿を洗いながら、厨房から声をかけた。


「どうれ、そろそろ店じまいでもすっかいな。

 トミさん、ケーコさん、それにマサちゃん、あがろうかい」


 三十代から六十代の三人のアルバイトは「はーい」と返す。

 テーブルを拭き、床を掃除していたのだ。時計の針が午後三時をまわったところで、アルバイトの女性たちは口々に「お疲れさまー」と言いながら食堂のドアを開けた。


「さあ、今から夕飯の買い物しなきゃあね」


 トミさんはふたりを見ながら一歩出て、思わずギョッとした。

 店のドア横にはショーケースが出してあり、中には蝋で作ったカレーライスやトンカツ、うどんなどの食品サンプルが並べてある。

 その前にサングラスを掛けた、長身で黒ずくめの男が立っていたのだ。しかも大きな風呂敷包みを背負い、くんくんとなにやら一心不乱に鼻を動かしているではないか。

 続いて店内から出てきたケーコさん、マサちゃんも驚いた表情でその男を見つめる。


「何か、匂いますか?」


 トミさんが遠慮のない聴き方をする。

 男はどうやら目を閉じて鼻を動かしているようだ。


「聞こえなかったかしら」


 トミさんは後ろの二人に尋ねる。


「さあ。ちょっと、神父さん」


 今度はケーコさんが、トミさんの背後から声をかけた。それでも男は関知せず、黙ってひたすらにおいを嗅いでいる。


「なんかコワイ。放っておいて行きましょうよ」


 マサちゃんは、二人の背中を押すように歩き出した。


 もう少し時間が経つと、買い物客で通りはにぎやかになる。

 三人は足早に店を後に歩いていく。途中たびたび振り返るが、男はショーケースの前でずっと立ったままであった。

 国道の方から、似たような格好の黒い影が転がってくるのが目に入った。

 実際には走ってきているらしいが、三人には転がっているようにしか見えなかったのである。

 まばらな買い物客の間を、黒い装束の真ん丸な体型の男が駆けてくる。

 泣いているような、怒っているような表情を浮かべながらだ。

 丸い男はショーケースの前でひたすらにおいを嗅いでいた男と同じように、背中に唐草模様の風呂敷を背負い、黒く長い服を引きずるように走ってきた。


 三人とすれ違った直後、何につまずいたのか、いきなり前方に転がった。

 しかも勢いがついていたため、二転三転していく。


「あー、あれは、痛いよお」


「痛そう」


「あっ、しゃがんだまま痛みをこらえているわ」


「よく眼鏡と帽子が飛ばなかったねえ」


 おばさまたちの会話は聞こえていない様子である。

 足を引きずるように、丸い背中が動き出した。

 自分たちがアルバイトをしている食堂の前までたどり着くと、背の高い黒服に懸命に何か言い出した。どうやら怒っているらしい。


 三人はふと我に返ると、顔を見合わせ反対方向へ歩き出した。


「ちゃんと聴いてくださっていますか、お兄さん!」


「あっ、ああ。聴いているって。それにしても、いい匂いだなあ。腹へったなあ」


「いまはそんなお話をしている場合では、ありませんのですよっ」


 弟の神父は汗と涙でベトベトになった顔を真っ赤にし、兄の神父を見上げる。

 キュキューッと弟のお腹が鳴った。


「へへっ、なんだ、やっぱり腹がへっているんだろ」


 兄はサングラス越しに、弟を見る。


「ろくなモノを食っちゃいねえからな。もう俺なんざ、腹の虫も鳴らねえさ」


 兄はしゃがんで、弟のスータンを手でパンパンと払う。転んだときに汚れたようだ。


「すまねえな、苦労をかけちまってさ」 


「お兄さん」 


 弟は鳴りやまないお腹を手で押さえながら、シクシクと泣きだしたのであった。 


 食堂の入り口が開けられ、七星が出てきた。

 店じまいのため、暖簾を店内へしまおうとしたようだ。

 七星は店の前で泣いている丸い男と、それを慰めるように頭をなでている背の高いサングラスの男を交互に見る。


「えーっと、神父さんかい? いったいどうなされた」


「ああ、これはご主人でいらっしゃいますか」


 サングラスの男は態度が打って変わり、丁寧な物腰に豹変した。


「じつは私とこの弟は、神に仕える職についております。

 わけあって旅をしておりますが、二日ほど前にこの者が、私が預けておいた旅費と大切な品をを失くしてしまい、途方に暮れておりました。

 ひもじい、ひもじいと駄々をこねますゆえ、私が諭しておるところでございます。

 神に仕えるものが空腹くらいで何をいう。試練なら受けよと。

 お店の前でありながら、大変ご迷惑をおかけいたしました。

 さあ、もう泣くのはおよし。

 神が私たちに与えたもうた試練、乗り切らねばなるまい。ひもじさゆえ神のもとへ召されたなら、それこそ本懐。

 神よ、迷えるあなたの息子を救いたまえ」


 丸い弟は、エエッと驚いた顔で兄を見上げた。


「そうかい、そいつは大変だなあ。聖職者のお方を無下にはできまい。

 店は閉めちまったけどさ、よかったら何か召し上がっていくかい?

 なーに、お代をいただこうなんざ思ってねえからさ」


 七星は細い目をさらに細め、笑った。


「おお、神よ。私たちとこのお方の巡り会わせを、心から感謝いたします」


 サングラスの兄は、大袈裟に天を仰いだ。


「こっちの丸っこい方が、弟さんかい。あんたもさ、ご飯くらい遠慮なく食べさせてあげっからよ。あんまし兄さんに我がまま言っちゃだめだぜえ。いいかい」


 弟はアウアウと何か言いたそうであったが、「じゃあ、入りなさいよ」と顔を引っ込める七星には聞こえなかったのであった。 


 厨房でジャーッと油を炒める音や煮物の香りで、店内は満たされている。

 兄弟神父はテーブルに向かい合わせに座っていた。

 弟は恨めしそうな表情で兄を睨んでいる。兄はどこ吹く風とばかりに、珍しそうに店内を見渡していた。


「はいよ、お待たせ」


 七星は厨房からでてくると、カウンターから料理を運んだ。


「オオッ! これは」


 サングラスの下の目をランランと輝かせ、兄はテーブルに並べられた皿を凝視する。

 海鮮焼きそば、チャーハンにくわえ、玉子スープ、小エビと茄子の煮びたし、里芋とイカの煮っ転がし、トマトとレタスのサラダ、そして出汁巻。


「和洋中とごちゃ混ぜだよ。まあ、食ってみないな」


 兄はテーブルの上に置かれたケースから割り箸をサッと取り出すと、口にくわえてバチンと割ろうとした。ところが前に座る弟が両手を組み静かに目を閉じ、口の中で感謝の言葉を唱え始めたのだ。

 テーブルの横に立つ七星を盗み見た兄は、割り箸をくわえたまま素早く手を組んだ。

 弟は最後に深く頭を垂れ、ようやく割り箸に手を伸ばす。


「ご主人、では、いただきます」


「いっただきまーす!」


 ひもじいと駄々をこねたはずの丸い弟は、一つひとつの料理をゆっくりと口に運んでいる。ところがサングラスの兄の方は、まるでテレビの早食い大会に出演するがごとく、片端から口に入れていくのだ。ほとんど咀嚼せず、胃に流し込んでいるようだ。


「おやおや、まあまあ。どうやらお口には、召したようだな」


 七星は微笑みながら厨房へ戻る。あと二、三品は軽く平らげそうな勢いであったからだ。


~~♡♡~~


 終礼のチャイムが校舎に鳴り響いた。

 生徒たちのざわめきに、解放感が感じ取れる。部活に参加する者、すぐに塾へ行く者、のんびり帰宅の準備をする者、それぞれが次の行動に移りはじめていた。

 ひかりは教科書類を鞄にしまい、帰る準備をする。


「じゃあねえ、ひかり」


「ばいばーい、凪佐ちゃーん。たまには卓球部にも応援にきてよう」


「野球部が先だよ、ひかりんりん」


「えへへっ、了解しましたあ」


 クラスメートたちは、口々にひかりに声をかけていく。

 市野谷が音もなく、ひかりの背後に近寄った。


「あ、あの」


 教室内は騒々しく、市野谷の小さな声にひかりは気がつかない。


「おーい、ひかりー」


 呼ぶ声に、ひかりと市野谷は教室の出入り口を同時に見た。泉太が手を振って立っているのだ。


「もう帰れるかな」


 泉太を見て、市野谷はあわててきびすを返し戻っていく。


「うーん、いいよお」


 ひかりは市野谷の行動にまったく気がつかず、鞄を持ち上げた。

 教室を出ていく二人を、市野谷は口の中で何事かつぶやきながら三白眼の視線を向けるのであった。


~~♡♡~~


 ひかりと泉太は地下鉄の階段を上がると、そろそろ夕方の買い物客でにぎわい始めた商店街へ入っていく。


「お弁当のミートボール、美味しかったね。今夜は何のごちそうかしら」


 夢見るように、宙を仰ぐひかり。泉太は思わず苦笑した。


「おいおい、勉強しにくるんだろ」


「そうだったね。えへへっ」


 照れ笑いするひかりを、まるで本当の妹にするように軽く頭をこづく。

 八百屋の店先で野球帽をハスにかむった中年の大将が、二人に声をかけた。


「いよう、お帰り。商店街きっての秀才くんと、チビ姫ちゃんのご帰宅だ」


「松さん、ただいま」


「ただいま帰りましたぁって、チビ姫じゃないもーん」


 ひかりは立ち止まって丁寧にお辞儀をしたあと、ベーッと舌をだす。


「ウハハ、そいつは失礼。ひかりちゃんも本郷高校の優秀な生徒さんだったな」


「優秀かどうかは、わからないけどね」


 泉太の言葉に、ひかりは学生鞄を振り回した。


「センちゃんまで、ひどーい」


「だから今から優秀になるように、勉強するんでしょ」


 ひかりは唇をとがらせたまま、横を向く。


「ミス本郷さま、勉強がんばんなよ。ほら、美容に最高のプレゼント」


 そう言いながら大将は店の棚に置いてある瑞々しい特大オレンジをふたつ持ち上げ、ひょいと放る。ひかりは学生鞄と手提げバッグをすかさず脇にはさみ、器用に片方ずつの手でキャッチした。


「ナーイス、キャッチ」


「おじさん、ありがとう」


 ひかりは満面の笑みを浮かべ、頭をさげる。


(すごいな、ひかり。反射神経がいいってのは小さいころから知っているけど、学生鞄と手提げバッグって脇にはさんで持てる重さじゃないよ。

 いつのまにあんなに力がついたのだろう)


 泉太は首をかしげた。


「はーい、一個はセンちゃんの」


「あ、ああ。松さん、ごちそうさま」


 あいよっと威勢のいい返答が返ってくる。


「勉強前に、いただこうかな」


 ひかりは愛しそうにオレンジをなでた。

 肉屋、鮮魚店、八百屋、惣菜のお店など下町のアーケード街は、食品関係の商店がかきいれ時の喧噪に包まれている。

 泉太は暖簾が仕舞われている、ななぼし食堂の木枠の出入り口をガラガラと開けた。


「ただい、ま?」


 開けたままの姿勢で止まった泉太の背中に、オレンジを見つめていたひかりがぶつかる。


「どうしたの、センちゃん」


 ひかりは脇から店の中をのぞく。


「お客さん、なのかな」


 それほど広くない食堂の中に、主人である七星が椅子に腰かけ、腕を組んでなにやらしんみりとした様子でうなずいているのだ。

 その横のテーブルには二人の黒い服を着た男が、向かい合わせに座っている。

 手前にはかなり太めの背中があり、その反対側には薄い緑色のレンズを入れたサングラスの男がいた。なにやらそのサングラスの黒服が、七星に話しているところであった。

 七星は、泉太とひかりが立っているのに気づいた。


「おっ、おう。お帰り」


「どうしたの、おじいちゃん。お客さんかな?」


 泉太は訝しげな表情で店内に入る。ひかりもその後に続いた。 

 サングラスをはめた茶髪の男は立ち上がり片手を胸の前にあげ、うやうやしく礼をする。

 カロッタにスータン姿、どうやら聖職者のようだが、なぜ閉めている店内にいるのか。


「これはご家族の方でいらっしゃいますか。お邪魔しております」 


 言いながら、座っている丸い方の頭をつつく。ビクンと驚き、丸い背中が勢いよく立ち上がった。こちらも同様の格好である。おかっぱのヘアスタイルに度の強い黒縁眼鏡が、独特の愛嬌をかもしだしている。 


「私たちはご覧の通り、神に仕える者でございます。

 わけあっての旅の途中、こちらのご主人さまに、ありがたい施しをいただいておりました」


 ひかりは泉太の後方から、物珍しそうにのぞいている。


「施しなんてものじゃねえけどさ。人間、腹が減ってるときはお互いさまだよ。

 それにさ、聞けば相当ご苦労されているみたいでなあ」


 七星は手のひらで、鼻をズズッと吸い上げた。

 泉太はもしかしたら怪しげな勧誘で、人の好い祖父を騙しているのではないか、と思っていたがどうやらそうではないようだ。


「ではそろそろ私どもはおいとまいたします。本当にごちそうさまでございました。

 神のお導きに感謝するとともに、こちらさまにも神のご加護がありますように」


 神父ふたりは大きな風呂敷包みを背負った。

 茶髪の神父は、弟の神父が七星や泉太たちに頭を下げているところを、無理やり引っ張って出入り口に行く。

 兄は素早く弟に耳打ちした。


「何も言わずに、腹を押さえてしゃがめ」


「エッ?」


 弟はポカンと口を開け、兄を見上げる。


「バカッ、いいから言うとおりにしろ!」


 兄は声のトーンを押さえながらも、弟に命じる。

 何を言われているのか、さっぱりわからない弟は首をかしげた。

 兄は七星たちに見えない角度から、いきなり弟の突き出たお腹を思いっきり殴った。


「ゲフーッッ!」 


 当然不意打ちをくらった弟は腹を押さえ、出入り口の手前でしゃがみこんでしまった。


「ああっ、どうした弟よ!」


 兄はうずくまる弟の横で、大袈裟に抱きかかえた。


「どうされたのですか?」


「お腹、痛くなっちゃったのかな」


 泉太とひかりが駆け寄り、遅れて七星も続く。


「おいおい、また弟さんのほうかい。いったいどうされた?」


 三人が心配そうにのぞき込む中、兄は弟の背中をなでながら、いかにも辛そうに言った。


「どうぞ、ご心配なく。元々虚弱体質であり、長旅の途中でさらに内蔵の病気を患い、薬を買ってあげようと考えていた矢先に全財産を落としてしまい。いや、私たちの苦労話をしても意味ないこと。すぐに立ち去りますゆえ、いましばしお時間を」


 兄は大丈夫かと、呻く弟の顔を心配そうに見る。


「そんな所じゃなくて、もしよかったら二階で休んでいったらどうだい」


 七星は兄に声をかける。


「そうだね。僕、布団を敷いてくるよ。ひかりも手伝って」


「はーい」


 二人は急いで靴をぬぎ、階段を上っていく。


「本当に、本当に、ご迷惑をおかけいたします。クッ、クククッ」


 兄は本当に涙を流しながら、頭を下げた。


「いいって、いいって。どうせこの二階っていっても、わしとさっきの孫の二人暮らしだ。

 部屋は余っているしよ、遠慮なしだぜ。これも何かのご縁だ」 


 兄は何度も頭を下げ、まだ呻いている弟の肩を持ち上げるようにして立ちあっがたのであった。


~~♡♡~~


 市野谷満は地下鉄の駅から、仲良さそうに商店街へ入っていくひかりたちを見ていた。

 あまり近づくとバレてしまいそうで、もしそうなったらすごく恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。だからここから先は、つけるのをやめよう。


 七星泉太か。背も高いし顔も悪くない。それになんといっても特選科だ。


 本郷高校自体も市内では有数の名門校であるが、その特選科であればほとんどの生徒がストレートで、国立や私立の最難関と言われる大学へ進学している。

 つまり、七星泉太は選ばれた人種である、とそういうことなのだと思った。

 市野谷は駅の階段付近で、顔をしかめながら頭をふった。


 ふと我に返り、ゆっくりと階段を下っていく。本来降りるべき駅は、ひとつ手前なのだ。

 ブルブルッと胸ポケットに入れてあるスマートフォンが着信を告げる。

 市野谷は画面を見て、なぜか大きくため息をついた。


「はい、そうです。はい。はい、わかりました」


 まただ。中学のときの同級生、斎間真一。

 札付きのワルで、市野谷は虐めの対象であったのだ。

 殴られ蹴られ、かっこうの玩具にされていた。親や先生に泣きついたら、その後はもっとひどい目に合う。そう思って耐えたのだ。

 そのうち、斎間はお金を寄付しろと言いだしてきたのである。

 寄付すれば痛い目にあうことはない、と暗に言われた。

 もう幾らたかられたのだろか。計算するのも怖い。中学生の時はまだ数千円単位であった。親には参考書を買うからと言えば、お金を出してくれる。虐められるのが嫌で、殴られるのが恐ろしくて、ずっと言いなりになってきた。


 高校に進学すればもう会うことはない、そう思っていた。

 考えは甘かったと思い知った。

 斎間は市内の、名前さえ書けば入学できるといわれている高校へ進学していた。

 高校生になったら、携帯電話で呼び出してくるようになったのである。

 そして、同じようにたかってくるのだ。

 しかも金額が万単位に上がっていた。

 いまさら親に泣きつけないし、相談する相手もいない。

 それにこの頃は、もっとたちの悪い連中とつるんでいるようなのだ。断れば何をされるかわからない。


 斎間は、いつもの喫茶店にいるからおいで、とだけ言って電話を切った。

 行くしかない。

 猫背をさらに曲げ、まるで夢遊病のように市野谷は階段を下りていった。


~~♡♡~~


 長い髪を後ろで束ね、斎間は喫茶店の一番奥にいた。

 四人掛けの席で、胸元を大きく開けたブルーのシャツを着た斎間の前には、蛇柄のノースリーブシャツを着たスキンヘッドの男と、ドクロに短剣を刺したヘビーメタルのTシャツを着た金髪の男が煙草を吸っている。


「いよう、待ちくたびれたよ、市野谷くん」


 斎間はやけに明るい声で、手を振った。

 市野谷は目線を下げたままロボットのようなぎこちなさで、テーブルの横まで進んだ。


「悪いけどさ、ここの代金を立て替えておいてくれねえかな」 


 斎間はテーブルを指さした。

 空のコーヒーカップ、サンドイッチか何かを乗せていた白い皿が三つある。


「うっかりして財布を忘れてきてさ、ウチら困っていたんだわ」


 同席の二人も、三白眼の目元にうすら笑いを浮かべている。

 市野谷は目線を合わせないように、床を凝視した。


「今度返すからな、たのんだぜえ」


 そう言うと、斎間たち三人は立ち上がった。市野谷を威嚇するように見下ろす。

 最初から返済するつもりなんか、ないのだ。

 ポンポンと斎間は市野谷の肩を叩いた。

 よろしくねえ、と三人は鼻歌交じりで喫茶店を出て行った。

 市野谷は下を向いたまま、大きくため息をついたのであった。


~~♡♡~~


「お兄さん、ひどいですよ、いきなりお腹を叩くなんて」


「シッ! 声がでかい。とにかく寝ていろ」


 兄は正座のまま、布団に寝かされている弟に言う。

 四畳半ほどの部屋に布団を敷いてもらい、そこに横にならせている。

 そこは空き部屋らしく、隅に段ボール箱が幾つか重ねて置いてあるだけだ。

 窓にはくもりガラスのサッシが閉められている。

 木製の古いドアが設置されており、トントンとノックの音が聞こえた。


「はーい」


 兄は膝で立ち、ドアを内側に開けた。


「大丈夫ですかあ?」


 お盆に水差しとコップをのせ、ひかりが心配そうに立っていた。


「これは、どうもありがとうございます、お嬢さん」


 ひかりからお盆を受け取り、畳の上に置いた。


「いま、センちゃんとギンさんがお薬をさがしていまーす。

 でも本当にお医者さん呼ばなくて、いいのですか?」


 ひかりは心配そうに、布団に横たわる弟を廊下から背伸びして見る。


「いや、大丈夫ですよ。

 いつものさしこみか、いきなりご馳走をよばれましたので胃が驚いているだけでしょうから」


 兄はいかにも善良そうな声で応える。

 七星と泉太がクスリ箱を持ってきた。


「どうだい、にいさんよ。弟さん、少しは落ち着いたかい」


「お腹が痛いときのお薬は、何種類かあります。僕もしょっちゅうお世話になるから」


 泉太はひかりの背を押すように、部屋の中へ入った。七星も続く。


「何からなにまで、本当に皆さまにはなんと申し上げればよろしいのか」


 兄はサングラスを持ち上げ、指で目頭を押さえた。


「いいって、にいさん。困ったときはお互いさまだって。

 それにわしの作った料理でアタッたなんてことになったら、あんたらの神さまに怒られちまわあ」


「こっちの人が元気そうだから、ギンさんのせいじゃないですよ」


 ひかりは弁護しようと、兄を指さした。


「も、もちろん、そんなことはございませんですよ、ご主人。

 弟はこんなナリをしていますが、それはもう恥ずかしいくらいの虚弱体質でして」


「ああ、それわかります。僕も外出しようとすると、きまってお腹がグルグル鳴りだして、大変だから」


 泉太は大きく首肯する。


「どっちにしてもさ、あんたら財布をなくして大変なんだから、弟さんが落ち着くまでここにいてくれて、構わねえんだぜ」


 しめた! と兄の目が一瞬輝いた。が、すぐに顔を伏せる。


「こんな見ず知らずの私どもに、お慈悲の心をいただけるなんて。

 やはり日ごろから真摯に神に祈りを捧げるおかげでございますでしょうか。

 いえ、何もお返しするすべのない私ども。お心だけありがたく頂戴し、弟の痛みが治まり次第、すぐにおいとまいたします」


 ここはどうやらかけ引きらしい。

 七星と泉太は顔を見合わせ、無言でうなずく。


「そういいなさんな。わしらは仏教徒だから、にいさんたちの神さまってお方がどういうもんか知らないけどさ。さっきも言った通り、この家にはわしと孫の泉太しかいねえし、遠慮するこたあねえよ。二、三日か、一週間か、まあ居たらいいやね。

 財布はともかく、なんか大事な物もいっしょに失くしたんだろ? 警察に届けたらしいけど、探さなきゃまずいのだろって」


 ひかりは七星の言葉に、泉太を見る。泉太は祖父の顔を見た。


「さっき、ご飯を食べたあとにこの人たちのいきさつを、何とはなしに聴いていたんだよ。

 ええっと、にいさんの方は、名前はなんてったっけ」


 兄は正座のまま、三人を見渡した。


「大変申し遅れました。私は桂木トマス涼一郎かつらぎトマスりょういちろう、そしてこの虚弱体質は私の弟で、桂木シモン功次郎かつらぎシモンこうじろうと申します。

 ミドルネームでお呼びいただければ」


 茶髪にサングラスのトマスは、うやうやしく頭を下げたのであった。


~~♡♡~~


 時計の針は、ちょうど午後九時を指していた。

 市野谷は塾の帰り道、市立西部医療センターの建物を横切り、東側にある志賀公園のそばを自転車で走っていた。

 ここでいつも斎間からお金をせびられるのだ。

 いやな思い出ばかりがよみがえる公園。


 自転車のブレーキをかけた。


 ひかりと泉太の笑い顔、斎間とその仲間たちの蔑んだ顔、それらが市野谷の頭の中を駆け巡る。何もかもが嫌になってきた。すべてを否定する負の心がフツフツと湧いてくる。


 市野谷は怒ったようにペダルを踏み込み、乗り入れが禁止されている園内に乗り入れた。


「くそっ、くそっ、くそっ!」


 意味不明の言葉を口にしながら、やみくもに自転車を走らせる。

 公園内に常夜灯は設置されているが、ジョギングコースを照らす程度であり、奥の木立の方は暗い。

 自転車のライトが芝生を浮かび上がらせる。その芝に覆われた排水溝に、自転車の前輪が引っかかってしまった。後輪が浮き上がりながら百八十度回転する。


 市野谷の身体は自転車から投げ飛ばされてしまったのだ。


 一瞬なにが起きたのか理解できないまま、市野谷の身体は芝生に転がる。


「ううっ」


 うつぶせになりながら呻いた。

 幸い芝が成長しており、これがクッションとなってくれたようだ。どこも骨が折れたような激痛はしない。


 市野谷は声を殺して泣いた。


 どれほど倒れたままでいたのであろうか。

 悲しさのあと、やるせなさ、倦怠感に包まれていた。

 その時である。市野谷の目に淡い小さな光が写ったのだ。

 光は青く、まるで市野谷のただれた心を吸収しているかのような色であった。


つづく

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