第1話 ひかり、レイに弟子入りする
タッ、タッ、タッと規則正しいリズムで、アスファルトを蹴る音。
N市北区にある名城公園は、金の鯱で有名なN城を取り囲むように作られた公園である。
秋晴れの気持ちいい、日曜日の早朝。
お堀の周りを老若男女のランナーたちが、それぞれのペースで走っている。
キャップのツバを後ろに回し、鮮やかなオレンジ色のスウェット姿のランナーが、かなりのスピードで前をジョギングする人たちを追い抜いて行く。
小学生か中学生くらいの、小柄な女の子である。
笑った顔が見たくなるような黒目がちの大きな目、口元にのぞく真っ白な歯、キャップからはみでたウェーブした髪が風になびいている。やや濃い眉が勝気さを思わせる。
スウ、スウ、ハッ、ハッ、速度の割に呼吸は安定しているようだ。
「お先にいっ」
少女は、小太りの中年女性コンビがランニングしている横を抜いていく。
「相変わらず、早いねえ、ひかりちゃん」
ひとりの女性は顔見知りらしく、手を振った。
「えへへっ、それでは、また」
ひかりと呼ばれた少女は、笑みを浮かべながらグイと加速する。
「早いわねえ、あの子。中学生かしら」
「ひかりちゃん? ちがうわよ、この春に、たしか市立の
「あらま、高校生なの。しかも本郷高校なんてあなた、優秀じゃない。
それにしてもオチビちゃんだわ。中学生かと思った」
世間話の大好きなオバサマたちは大粒の汗をかきながら、はるか先を走っていくオレンジ色のスウェット姿を見送った。
公園内はラジオ体操をする老人グループ、柔軟体操を行う体育会系の大学生たち、のんびり散歩する夫婦など、さまざまな人々が心地よい季節を楽しんでいる。
植林された散歩道横の芝生広場で、ピンク色のスウェット上下を着用した若い女性が、先ほどからゆったりとした動きで不思議な運動を行っていた。
両腕で円を作り、姿勢を変えずに腰を下げる。屈伸した膝と腰が水平になったときに、鋭い気合とともに右足を両腕の円の中へ垂直に蹴り上げる。
上げた右足をゆっくりおろしながら、円を描いていた左腕を真っ直ぐ前に、右腕は肘を垂直に曲げ上半身を左側にそらしていく。
この間、身体の軸は地面に対して一切ぶれていない。
明るい栗色に染めた髪を、まとめて後ろでゴム止めしている。つり目気味の二重の目元に高い鼻梁。頬から顎にかけてシャープなライン。ほっそりとしていながらも、スウェット越しにもそれとわかるグラマラスな体型。
男なら誰でも振り返るような超美形の女性だ。
うっすらと富士額に汗を浮かばせながら、二十代前半とおぼしき女性は中国武術のひとつ、
舞踊に見えるが、陳式太極拳は中国武術の中でも向かうところ敵なしと言われるほど、過激な戦闘体術である。
健康のために広く行われている簡化太極拳とは、一線を画す。
腹式呼吸によって取り入れた気を体の中で練り、一気に爆発させて攻撃に変換するのだ。
拳を鉄のごとく鍛えて相手を表面から粉砕する空手と違い、気を操り四肢を
身体をくねらすような
タッ、タッ、タッ、散歩道を走ってくるリズミカルな音に、女性は視線を向けた。
さきほど中年女性にひかりと呼ばれていた、オレンジ色の少女が走ってきている。
ピンク色の若い女性は視線を戻した。
ひかりは女性の五メートルほど後方にとまり、ハアハアと上がる呼吸をしずめる。
ピッと姿勢を正すと前方の女性に向き、上半身を九十度に折りお辞儀をした。
「おはようございます!」
女性は振り返りもせず前方を見たまま「おはよう」と口元を動かし、全身の力を抜いて自然体の姿勢をとった。
深呼吸で息を整えたひかりは、女性の動きを真似するように体制を整える。
陳式太極拳で三十六式と呼ばれる型がある。
第一段の
女性はゆっくりと両腕をあげ、手のひらをヒラリと返す。
ひかりに声をかけるでもなく、三十六式を始めた。
ただ、女性はひかりの荒い呼吸が落ち着いたところを見計らってから、スタートしているのであったが。
そこから太極拳独特の、ゆったりと手足をあらゆる方向に動かしていく動作が始まった。
五分たたないうちに、ひかりの額には大粒の汗が浮かび始めた。
三十六式、一見ゆるやかそうであるが、実際にやってみるとこんなにも筋肉を使うのか、というほど全身を使う。しかも動作はスローモーションであり、相当な負荷を筋肉にかけているのだ。
そうかと思うと突然地面を激しく蹴り、片足を天衝くがごとく跳ね上げる。
ひかりは女性の動きにぴたりと合わせ、まるで影のごとく寸分のくるいもなく真似ていく。ふたりの呼吸音が重なり、ピンとした緊張感を漂わせている。
(ふふっ、いつまで続くのやらと思っていたけど。少しはさまになってきたか。
高校生になって半年。相変わらず背は伸びないねえ。
まあ、関係ないけど)
女性は長くカールしたまつ毛を閉じる。
ひかりと出会った二年前の冬を、そこからの二年間を思い出していたのだ。
二人は収式までの演武を終えた。
ひかりの口から息をはく音が聞こえる。と、女性の目がカッと大きく見開かれた。
「ハイッ、ヤアァッ!」
鋭い掛け声とともに、ひかりに向け、逃げようのない距離から痛烈な回し蹴り、
~~♡♡~~
二年前の冬のことであった。
N市中村区、JRのN駅前。
明日はクリスマス・イブという、繁華街がもっともにぎわう時期だ。
プレゼントを買いに来るカップルや、早々と年末用品を品定めにきたご婦人たち、商談に向かうのか足早に歩くサラリーマンなど、大勢の人々が行きかっている。
その日の夕暮れ時。
N駅の西側のビル街の一角。様々なオフィスが看板を掲げている。
青いガラスの自動ドアが開き、社員らしき若い女性が社内から出てきた。
栗色の髪は毛先を若干首元で内側に巻いたミディアム。襟元に毛並みの長い毛皮のついた黒いカシミアのコートを、上品に着こなしている。
同系色のブーツカットパンツの脚はモデルのようにすらりと長い。
ブランド物のショルダーバッグを、無造作に肩から掛けている。
玄関わきに立っていた人物に声をかけた。
「待たせたな、
「いえいえ、とんでもございません。
課長代理と呼ばれた菅原は、リーゼントに固めたヘアスタイルで、銀色に近い派手なスーツの上からトレンチコートを羽織っている。
直立不動で立ったまま頭を下げた。
洞嶋秘書室長と呼んだ女性と、同年代くらいであろうか。
姿勢をもどすと、頭一つ分ほど菅原の方が長身であった。
ホストクラブの売れっ子のような、目鼻立ちのくっきりした甘いマスクであるが、洞嶋はまったく興味を示していないのは素振りでわかる。
「ふふっ、相変わらずお堅いな」
「いいえ、これが地ですから。しかし、相変わらず室長はお綺麗で」
菅原は後半を口の中でモゴモゴさせながら、何故か顔を赤く染めて斜め下を向いた。
洞嶋はニコリと微笑む。シャープな頬にえくぼができた。
その魅力的な笑顔を盗み見るように、菅原はちらりと視線をなげる。
「ありがとう。お世辞でもそう言ってもらえると、女子としては嬉しいものだな」
「め、滅相もないです! 秘書室長、洞嶋レイさまは世界で一番無敵の美女ですっ」
洞嶋は微笑んだまま、いきなり菅原の腹部を拳で殴った。かなり強烈なパンチである。
菅原はフグウッとうなった。
「褒めすぎだよ。
それよりもせっかく今日はおまえたち、営業課との忘年会だ。早くいくぞ。
我々幹事が遅刻するわけにいくまい」
「痛たたっ、は、はい。
でも室長の拳は本物の凶器ですから、ほどほどにお願いいたします」
「こんなかよわい女子に向かって、よく言うよ」
殴られた腹を嬉しそうになでながら、菅原は洞嶋を先導するように歩き出した。
N駅の西側、つまり洞嶋たちの会社がある地域はオフィス街となっており、線路をはさんだ反対の東側のほうが華やかな飲食店、大手百貨店が並んでいる。
忘年会先は東側のカニ料理専門の店である。
駅中を抜けるには相当な人ごみを覚悟しなければならないため、しばらく歩き線路の高架をくぐることにした。
中村警察署の前、太閤通りを歩く。それでも行き交う人の数は半端ない。
ちりん、ちりん。自転車のベルに洞嶋は振り返る。
往来する人たちを器用によけながら、ライトを点けた自転車がゆっくりと走ってきていた。運転しているのは小学生くらいの女の子か。
いや、白い通学用のヘルメットをかむり、紺色のセーラー服姿から中学生かなと認識できる。
それにしては小柄である。首から顔半分に毛糸の手編みマフラーを巻き付け、ハンドルを握る手には毛糸の手袋をしている。
ヘルメットとマフラーの間に、クルッとした黒目がちな大きな目がのぞいていた。
自転車が大きいのか、立ちこぎであった。サドルに腰を降ろすと地面に足がつかないようだ。
「ごめんなさーい、すいませーん」
小柄な中学生は行き過ぎる通行人にいちいち頭を下げ、丁寧に謝りながら洞嶋の横を通り過ぎて行った。
目で追いながら、洞嶋はふと気が付いた。
「アルバイト?」
女子中学生の乗っている自転車は通学用のものではなく、一昔前のかなり頑丈で武骨なタイプであった。しかも荷台には、出前のオカモチがゴム紐でくくりつけられていたのだ。
「へえー。ななぼし食堂って書いてありますぜ。
うどん屋の出前ですかねえ」
同じように菅原も立ち止まり、オカモチの文字を読んだ。
「小学生かと思いきや、中学生の女の子みたいだったな」
「そうですね。セーラー服に名札がぶら下がっていましたから」
「おまえ、よく見ているな。
あっ、まさかロリなんとかって言う、鬼畜の性癖を持っているのじゃないだろうな」
洞嶋の目がスーッと細まる。
「ちょ、ちょ、ジョーダンはやめてください!
こうみえても俺は、他人様に後ろ指差される性癖は持ち合わせておりません。
俺は室長のような、グッと色気のある年をとった女性にしか興味ありませんし」
菅原は弁解のあまり、一言余計に声に出したことを大きく後悔した。
「ほう。年をとった、となあ。私みたいに、となあ」
洞嶋は細めた目のまま、ツツッと菅原の前にすりよった。
いきなり右手で菅原の顎をつかむ。タラリと菅原の背にイヤな汗が一筋。
「い、い、いや、室長、違う、違います!」
菅原の顎の骨が、みりみりときしむ音を立て始めた。
細く白い指先からは考えられない万力のような力が、顎の骨を砕こうとしているようだ。
恐怖と痛みで真っ青になった菅原の顔をグイッと下げ、顔の三センチ近くまで引き寄せる。微かな甘い香りが男の鼻孔をくすぐった。
本来であれば、滅多に近づける距離ではない。
洞嶋の瞳がまばたきもせず、のぞき込んだ。
うすいブラウンカラーの瞳は、吸い込まれそうなほど妖しい。
「たしかにな。私も来年は二十五歳だ。もう年をとっちまった、ってことだな」
ふっと瞳に柔和な光が宿る。とっておきの微笑だ。
菅原ならずともクラリとするセクシーな笑顔になると、すっと指先の力を抜いた。
とたんに菅原は、ふわりと洞嶋に倒れかかった。
「殺されるかと、思いましたっ。
でも、室長になら、殺されても本望ですう」
「お、おい、重い、重いって」
洞嶋は両腕で抱きとめる。
「ワオッ! 俺、最高にシアワセっす」
「いいから、早くいくぞ」
二人は立ち止まる通行人に照れ笑いを浮かべ、歩き出したのであった。
高架前を左折したところで、二人の足がストップする。
この高架は在来線に新幹線まで通るため、幅が百メートルほどある。
洞嶋たちは高架の真ん中あたりで、歩道を行き交う人々が何かを遠巻きにしながら振り返っているのを目にしていたのだ。
「大道芸でも、やってるんですかねえ」
洞嶋と菅原は、様子をうかがうように歩を進める。
その中心地点に、さきほど追い抜いて行った自転車の女子中学生が、自転車から降りて立っていた。周りを五、六人のたちの悪そうな若者が、取り巻いているではないか。
赤や銀色の派手なダウンジャケットに合皮の黒パン、もしくは腰までずり下げたジーンズをはいている。
金髪やモヒカンカットにしており、耳や鼻には大量のピアスをつけていた。
かなり前に流行ったチーマーとか呼ぶ輩かもしれない。街中では避けてやり過ごしたい連中だ。中には相撲取りのような巨漢までいた。
若い男たちは立ち止まる通行人にガンを飛ばし、威嚇している。
逃げられないように取り囲まれた女子中学生は何か言っているのだが、洞嶋たちの所まで声は届かない。手に缶ビールを持ち、少しよろめいている男もいるようだ。
(酔っぱらったチンピラに、イチャモンでもつけられているのかな)
洞嶋は腕を組んで、様子を見る。
行きかう大人たちは巻き込まれるのを恐れてか、ちらりと見ながら通り過ぎて行った。
そのうちチンピラ集団は、女子中学生を取り囲んだまま歩きはじめた。
「ひとけのない、路地にでも連れていくつもりですぜ」
女子中学生は背中をこづかれながら、大型の自転車を押していく。通り過ぎる人たちに助けを求めるような視線を送っているが、関わり合いを避け誰も声をかけようとはしなかった。
(ふむ。まあ大抵は、関わり合いたくないよな)
洞嶋は菅原に、無言で「行くよ」と指をさした。
男たちは高架を通り過ぎ、東側の繁華街へ出ると、飲み屋が軒を連ねる裏路地へ女子中学生を連れて行く。ビルとビルの狭間の路地には、時間が早いせいか誰もいない。
集団は辺りを見回し、下卑た笑いを浮かべた。
「だーかーらー、オチビちゃん。そのオンボロ自転車が、すれ違いざまに当たったのよね」
「やさしくいえば、追突事故を示談金ですませてあげるってこと」
ひとりがしゃがみ込み、うつむいている女子中学生の顔をのぞく。
「わたし、ぶつかってないもん」
「はあっ? よく聞こえねえなあ」
しゃがんだまま腕をつかもうとして、男は中腰になった。
女子中学生はするりと体をかわしてしまう。これに男はキレた。
「よけんじゃねえよ! クソ餓鬼がぁ」
横にいたモヒカンの男が、さっと足を出した。引っ掛けるタイミングは充分であった。
女子中学生は足を引っかけられて、転倒するかに見えた。
ところが、ひらりとその足を飛び越えたのだ。かなりの反射神経である。
さらに別の男がつかみかかろうと、手を伸ばした。
「アッ、あいつらやる気ですよ」
思わず救済に入ろうとした菅原を、洞嶋は制した。
「見てみな」
洞嶋の言葉に、眉根を寄せる。
女子中学生はつかまれる瞬間にヘルメットをかむった頭を沈め、その場で跳躍したのだ。
「すげえ!」
菅原は感嘆の声を上げた。
ふわりと宙に舞った女子中学生は、停めてあった武骨な自転車のサドルに片足をつくと、さらに上にジャンプする。中学生とは思えない足腰のバネだ。
「く、くそっ」
空をつかんだ男の頭上を軽々と越え、取り囲んでいた男たちの背後に着地した。
片膝をついて振り返ると、女子中学生は口元を隠していたマフラーを下げる。
「いきなり殴りにくるなんて、サイテー!」
顔をしかめ、舌を出した。
「チビがぁ、俺たちをなめたらどうなるか、教えてやるぜぇ」
菅原は今度こそ危険を感じ、仲裁に入ろうと走り出そうとしたが、横に立っていた洞嶋が無言でショルダーバッグを肩からはずし、菅原の胸元に押し付けるほうが早かった。
「えっ?」
洞嶋はハイヒールの音をたてながら、早足で近づいていく。
途中、コートのポケットからフリスクをとりだし、口のなかにタブレットを放り込んだ。
「ああ、室長のスイッチが、オンになってしまった」
菅原は両腕でバッグを抱え、両眉を上げる。
洞嶋は女子中学生を取り囲む男たちの輪にするりと入り、背中で女の子をかばうように立ちふさがった。
「なんだあ、ネエちゃん」
「まさか、そいつを助けようっていうのかい」
「クリスマス前に彼氏を探しに来たのなら、俺らが相手してやるぜ」
チンピラたちは
洞嶋の身長は百七十センチだが、全員がさらに十センチ以上の上背がある。
洞嶋はルージュを引いた口元に、笑みを浮かべていた。
「ほう、相手をしてくれるのか。嬉しいな。
すくなくとも、この女の子よりは楽しませてあげられるよ」
女子中学生は突然の闖入者に、目を開く。
「もしかして、このクソ餓鬼の保護者かよ。オ、バ、サ、ン」
男たちはゲラゲラと、品のない笑い声をあげた。
「オバサン?
いま、オバサンって言ったか?」
洞嶋の口元から笑みが消えた。つり上った目がすわる。
シュッ、という音とともに洞嶋の
殴ったわけではない。微かに手のひらがふれた程度だ。
男はニヤついたまま顎をさわろうとして急に白目をむき、ドウッと倒れてしまったのであった。手のひらが顎を支点に、脳を瞬間的にゆすったのだ。
男たちの怒りに火が点いた。
「このババァ」
「病院でサンタを待っていな!」
次々と掴み掛ろうとする男たちを、洞嶋はほとんど身体を動かさずによける。
大ぶりのパンチをいともたやすく見切っているのだ。
「ババアだとぉ、私はまだ独身だ!」
洞嶋はセミロングの髪とコートのすそをひるがえしながら、男たちの攻撃を避けていく。
「ハイィ、ヤッ!」
右手を引き、左手を手刀の形で前に差出し、そのまま右足を軽やかに一閃させた。
ガッ、という音とともに、爪先が目前の男のこめかみにヒットする。
右足が着地すると同時に左足でアスファルトを蹴り、身体を反転させた。
次の男の顔面を、ハイヒールの裏側がとらえる。
しなやかな鞭が空気を切り裂くように、正確にヒットした。後ろ回し蹴りだ。
男の顔が地面に向かって倒れていく。
「ハーッ、ハイッ!」
さらに洞嶋は身を沈め、横からパンチを繰り出そうとしている男の腹部に、両腕を一気に突き出した。
そんなに力をこめているようにはみえないが、男は身体をくの字に折って後方にふっ飛んでいった。
時間にして、一分もたっていない。
あっという間にチンピラたちは意識さえも飛ばされ、アスファルトの上に転がされていたのであった。
オロオロと立っていた相撲取りのような大男の前で、背中を見せて洞嶋はスクッと立った。
「お、女ぁ」
大男はまさかこんな状況になるとは、思ってもいなかったのだ。
喧嘩慣れしているはずの仲間が、全員いとも簡単に倒されてしまうなんて。
洞嶋に覆いかぶさろうと両腕を上げた。
「あっ、おねえさん、危ない!」
女子中学生の叫び声と同時に洞嶋は振り返り、大男の両腕をガシッと掴む。
自分の胸あたりまでの背丈しかない女の腕を振りほどこうとしたとき、目の前に黒い棒が、ビュンと現れた。
それは棒ではなく、洞嶋のハイヒールの裏側であった。
しかもハイヒールの鋭い
とんでもない身体の柔軟さであり、器用さである。
大男はゲッと鼻と喉を鳴らした。
「オバサンの私を相手してくれるって言ったよなあ、にいさん」
大男の顔面から血の気が失せていく。
鼻に挿しこまれた踵が、グイッとさらに奥まで挿入される。
「病院でサンタを待つのも、いいかもねえ」
洞嶋の目が、ニタリと笑う。
美しい顔立ちだけに戦慄すべき氷の微笑だ。口からニョキッと牙が生えてもおかしくない、残忍な笑顔であった。
タラリ、と男の鼻孔から血が垂れ始める。さらにもう一センチ踵が埋まった。
大男はアウアウと声にならないうめき声をあげ、涙とよだれまで流しはじめる始末だ。
そこへバッグを抱えた菅原が、小走りで近づいてきた。
「室長、誰かが警察に通報したみたいっすよ」
洞嶋はチッと舌打ちをする。
ハイヒールの踵をするりと男の鼻の穴から抜き、掴んでいた両腕を離した。
大きな鼻の穴から、タラリと血が流れる。
へなへなと大男は正座をするように、崩れ落ちてしまった。
菅原はしゃがみこみ、言う。
「おまえさんたちよ、とんでもないお方を相手にしちゃったよな。
このお方はな、ほれ、すぐそこにある伊佐神興業って会社の秘書室長さまよ。
絶世の美女でありながら、えーっとなんでしたっけ? そうそう中国拳法の達人なんだよねえ」
大男はそれを聞き、いきなり土下座した。
「ヒエェッ、し、知らぬこととはいえ、どうかどうか命だけは!」
洞嶋はつまらなさそうに大男を見下ろし、吐き捨てるように言った。
「菅原課長代理、少し口が軽すぎるぞ。
おにいさんさ、いい若いモンが中学生にゴロまいて。情けないねえ。
でも少しは楽しんでもらえたかしら、おほほほっ。
時間とっちゃった。さあ、いくか」
菅原は「はい」と返事し、立ち上がった。
洞嶋の前にヘルメット姿のセーラー服が、腰を九十度にまげてお辞儀をしている。
「危ないところを、ありがとうございました!」
「ああ、気にするな。宴会前の腹ごなしにちょうど良かった」
マフラーからのぞかせた頬が寒さのせいなのか、真っ赤になっていた。
大きな瞳が真っ直ぐに洞嶋へ視線を投げかけている。
「だけど、いい反射神経だったな。なにかスポーツでもやっているのか?」
「いいえ。中学でクラブには入っていません。
球技が大好きで、ホントはバスケットボール部に入りたかったのですけど。
でも、わたし、チビだから入部を断られて。
バレーボール部もハンドボール部も全部だめでした。
同級生からもいつもからかわれちゃうんです、ここは中学だから小学校にもどれって」
女子中学生は、泣き笑いのような表情で下を向く。
(だめだめ、アンタみたいに小っちゃかったら戦力にならない。
いくらジャンプ力があっても、元々長身の子に追いつくのがやっとだろ。
きみは文化系のクラブの方がいいと先生は思うな。
あれっ? 誰ですかあ、教室に妹つれてきたのは。ああ、ごめん、あなた同じクラスの女子だったんだ。ごめんね、小学生が紛れ込んだと思ったわ。ねえ、みんなもそう思ったでしょう、アハハハ)
「そうか。それは残念だな。ところで」
洞嶋は大きな自転車を指さす。
「中学生で、食堂のアルバイトをやっているのか?」
「アッ、いっけなーい! 早くお店にもどらないと。
いえ、アルバイトじゃなくて、近所のお友達の食堂をお手伝いしているんです。
本陣N駅商店街にお店があります。
とっても美味しいですよ」
女子中学生の表情が一転し、洞嶋を見上げ、ペロッと舌を出した。
憎めない、なんともかわいい表情じゃないか、と洞嶋は思った。
「その子、大衆食堂をやっているおじいちゃんと、二人暮らしなのですけど、朝から熱をだしてしまって。
夕方の配達にいく予定だったのが行けなくなってしまったので、わたしが代わってあげているんです」
菅原はヘルメット越しに女の子の頭をなでる。
「そりゃ、感心だ。お巡りさんがくると面倒だ。早く帰りな」
その言葉が耳に届いていないのか、女の子はジッと洞嶋を見上げたままである。
その濡れたように輝く大きな瞳には、尊敬と憧れの光が入り混じっているようであった。
「あ、あの」
洞嶋は視線を女の子からはずし、菅原をうながした。
「おい、いくぞ。みんなを待たせてしまう」
「へ、へい」
歩き出した洞嶋の背中にもう一度大きく頭を下げ、言う。
「どうも、ありがとうございました!」
洞嶋は振り向かずに、片手を上げて振った。
~~♡♡~~
クリスマス・イブ当日。
恋人たちがそろそろ待ち合わせる時間帯、夕暮れ時のことである。
洞嶋は会社ビルの裏側駐車場出入り口から、経済研究会へ向かう役員を見送り表玄関から社内へもどろうと歩いた。
今日は、シックなベージュのスーツだ。パンツではなく、タイトスカートであった。
「あらっ?」
洞嶋は玄関の少し先の電柱の下で、立っている人影に気が付いた。
小柄なセーラー服を着た少女である。
ウェーブのかかった柔らかそうな髪に大きな目、口元から首にかけて巻かれた毛糸のマフラー。
昨日乗っていた大きな自転車のスタンドを立て、その横で背伸びするような仕草でいる。
チンピラから助けた女子中学生だ。
少女は大きな目をキョロキョロと動かし、どうやら社内をさぐっている様子である。
(ふふん。律儀なことに、昨日のお礼でも言いにきたのか。だけど、どうして私がこのビルにいるって? ああ、そうか。菅原の奴がチンピラに大きな口を叩いていたっけ)
洞嶋は何食わぬ顔で、玄関からそのまま入ろうとした。
(礼を言われるような活躍は、しちゃいないしな)
少女は目の前を通り過ぎようとする洞嶋を見て、驚いたように叫んだ。
「アッ! あのーっ」
洞嶋は軽く舌を鳴らした。今気づいたとばかりに立ち止まり、
「ああ、やっぱりそうだ! おねえさんですよね、昨日わたしを助けてくれたの。
確か、秘書室長とかって」
少女は大発見でもしたかのように、嬉しそうに飛び跳ねた。
「助けたってほどでもないけどな。なんだ、用事か? 礼ならいらない」
洞嶋は少女の目線に合わせるかのように、少し背をかたむける。
「いえ、本当にありがとうございました。あれだけ人がいたのに、誰も何もしてくれなかった。
おねえさんが来てくれなかったらわたし、アイツらにこてんぱんにのされちゃうところでした」
洞嶋はそれが癖なのか、つまらなさそうな表情で屈めていた背を伸ばした。
「まあ、ああいう手合いは弱みを見せたら付け込んでくるからな。
おまえさんみたいに、ツッパるのもどうかと思うけど」
本当は泣きださなかったことを褒めてやりたい心境ではあったが、洞嶋はあえて口には出さなかった。
「私は、どうしまれい、洞嶋レイって名前だ」
少女の頬がぱっと赤くなった。
「す、すみません! 申し遅れました。昨日助けていただいた、
夕凪のナギに、佐藤さんのサ。ひかりは平仮名です」
「ひかりか、いい名だ。じゃあ、な」
そのまま洞嶋は社屋へ入ろうと歩きかけた。
すると、ひかりはいきなり九十度のお辞儀をしながら、大声で言ったのだ。
「わたしを、わたしを先生のお弟子にしてください!」
洞嶋は立ち止まり、今まで見せたこともない素っ頓狂な表情で固まった。
「ハアァッ?」
~~♡♡~~
洞嶋はけんもほろろに、ひかりの申し出を断った。
その日は泣くのを必死に堪える表情のまま、ひかりは帰っていったのである。
ところが翌日も夕方になると、洞嶋をつかまえようと玄関先でウロウロしているのを発見し、洞嶋はつき放すように帰した。
またあくる日も、懲りもせず玄関前の電柱に身を潜めていたひかりをみつけた洞嶋は、わざと凄い剣幕で怒った。通り過ぎる社員が、落雷に直撃されたように驚愕したほどだ。
そして大晦日の二日前。会社は今日が御用納めである。
夕暮れ時。
「まさか、今日は来ていないだろう。あれだけ叱ったのだからな」
洞嶋は社内の休憩室で自動販売機からホットレモンティを買い、簡易ソファに腰を降ろした。
「聞きましたよ、秘書室長」
嬉しそうな声で休憩室に現れたのは、黒系のスーツをパリッと着こなした営業課の課長代理、菅原であった。月初に支給されたボーナスであつらえたようだ。
失礼しますと洞嶋の前で手刀を切り、反対側のソファに座る。
グレーのタイトスカートから伸びる長い形のよい脚を組みながら、洞嶋は缶をかたむけた。
「何を、聞いたって?」
菅原は新調したスーツにしわが寄らないように浅く座ったまま、ぐいっと背を曲げる。
「あのいつぞやの中学生のお嬢ちゃん、あれから毎日やってきては弟子にしてくれって、しつこくつきまとっているらしいじゃ、ありませんか」
「ああ、そうなんだ。困ったことさ」
洞嶋は、ほっとため息をついた。
「そりゃあ、室長のあのカッコいい姿みたら、憧れるんじゃないですかねえ」
「別に格好のためにやったわけじゃないよ。身体が勝手に動いちまった、ってとこ」
「正義感にあふれるお人だってことは、承知しています。
義を見てせざるは勇なんとかって言いますからね」
洞嶋は菅原を見つめる。
「おまえ、もしかして面白がってないかい」
「と、とんでもございません! 俺は秘書室長がお困りなんじゃないかと、はせ参じた次第っす」
菅原の言葉に、洞嶋はすがるような視線を向けた。
少し首をかたむけ、下から見上げるような大きな瞳。
(や、やべえ。室長のこんなかわいい仕草を見せつけられたら、思わず抱きしめたくなっちまうじゃん)
しかしその行為に及んだが最後、血祭り状態になるであろう自分の姿を想像し、その恐怖感が高ぶる心を急速に萎えさせる。
「と、ところで秘書室長」
「なにを焦っている?」
「い、いや、別に俺は何もやましいこと考えてないっす! じゃなくて。
どうしてあの子をお弟子にされないんで?」
洞嶋は再びため息をついた。
「弟子なんてとれる器じゃないよ、私は」
「だって、あんなにお強くていらっしゃるじゃないですか。
お弟子をいっぱいとって、月謝をいただけば、もしかしたらここの給料より稼げるかもしれませんよ」
「お金には興味ないよ。今でも充分すぎるほどいただいているしな。
あの小さな背丈でも、抜群の反射神経と足腰のバネの強さをみるとね、武術家の端くれとして私は興味あるんだ。
あの子はもしかしたら磨けば光るタマになるかもしれないって。
だけど」
「なんです?」
洞嶋の瞳に、悲しげな憂いを見た。
「私はごらんの通り、物の言い方や性格は女性らしい品性に欠ける。昔からなんだ。
人にモノを教えるなんざ、考えただけでも目まいがするよ。
それこそもっと人として、立派な武術家はたくさんいる」
ガバッといきなり菅原はソファから身を乗り出し、洞嶋の両肩をつかんだ。
普段の彼女であればその
ところがまさかの驚きのあまりビクンと身体を震わせ、菅原を見上げることしかできかった。
「洞嶋室長!」
「な、なに?」
「何をおっしゃるんですか! その若さで秘書室長に抜擢され、社長や役員のあらゆる難問を解決され。
そりゃ、多少品がないとも言えますが。洞嶋室長に上品さなんて、そんなものは入りません!
俺は強くてカッコよくて、懐と胸がでかくて、見目麗しい室長が大好きで大好きで」
「おまえ、それは私に対して告白しているのかな?」
菅原はハッと気づいてあわててつかんでいた両手を離し、真っ赤に顔を染めた。
洞嶋は白い歯を見せて微笑んだ。
「まぁ、それはいいとして、ありがとうね。おまえの気持ちは正直嬉しいよ。
確かに言う通りだな。品がないって他人からあからさまに言われると、カチンってくるけど。そんなに品がないかなあ私は。ちょっと落ち込むわ。
いやいや、ただもうひとつ。
これは絶対に忘れちゃならない、大事なことがあるんだ」
菅原はソファに身を屈めるように座りながら、視線を向けた。
「武術としての太極拳は一子相伝とまでは言わないが、奥義や秘術はほぼ公にはなっていない。ほんのわずかな弟子たちにしか、伝えることを許されていないのさ。
私は十代の時にある老師、師匠のことなのだが、それこそ日参し無理やり弟子にしてもらった。つらい修業だったけどね。
私はなんとかやりぬいて、老師に弟子として認められた。そしてひとり立ちできるようになったある日、老師に言われたのだ。
三つのことだけは、守れってな」
言葉をいったん切り、続けた。
「それはな、学んだ技術を教えるな、見せるな、見せたら倒せ、っていうことだ」
ゴクリ、と菅原の喉が鳴る。
「だから困っているんだ」
沈黙が休憩室を包んだ。
腕を組んで眉間にしわをよせていた菅原が、ハタと顔を上げた。
「そしたら、室長。こうされたらどうです」
洞嶋は真剣な面持ちで、組んでいた足をおろした。
「室長はたしか、N城公園でトレーニングされていましたよね。
その子には一切手取り足取り教えずに、見させて技術を盗ませるんです。
そしたら教えることにはなりませんぜ。
あとは室長が知らんぷりしてれば、つまり見せていることに気付いていないふりをしていれば、お師匠さんの言いつけを守ることになりますまいか」
「少しというか、かなり無理やりな解釈だな。
だけど、見せて盗ませるか」
洞嶋は考えるように親指の爪をかむ。
「うん。そうだな、そうしよう!」
目からウロコが落ちたように、沈んでいた表情が一気に晴れる。
「ありがとうな! 何かモヤモヤが吹き飛んだ。サンキュウー!」
洞嶋はそう言って立ち上がる。そしてとっておきのウインクを送った。
「あっ、室長、胸が苦しい」
菅原は再び顔を真っ赤にし、身もだえしたのであった。
~~♡♡~~
洞嶋の予想を裏切り、というか期待通りに御用納めのその日の夕方、またしてもひかりは自転車を立て、会社の玄関先にいた。
マフラーを鼻まで巻いたセーラー服のひかりは、真っ直ぐに洞嶋を見つめる。その目元には強い意志が感じられた。
「わ、わたし」
洞嶋はブーツの音を立てながら、ひかりの前に立つ。
「厳しいぞ」
「先生のお弟子に! えっ?」
「私はこう見えて優しさは皆無だ。それに、荒っぽい」
断られるのを承知でそれでも土下座する覚悟であったひかりは、マフラーに隠れた口をポカンと開けた。
「おまえに覚悟があるのなら、私が習得した陳式太極拳、中国武術のひとつだが、奥義を盗ませてやる」
「じゃ、じゃあ、わたしをお弟子にしてくれるのですか?」
「勘違いするな。私は教えるとは言っていない。盗ませてやると言ったのだ」
ひかりは眉間にしわを寄せ、考え込んだ。
「私は毎週末の土日に、早朝五時半からN城公園で稽古している。
あそこのジョギングコースは一周一キロ少し。その時間までにコースを必ず三周し、稽古している場に来たら私の背後で、私のやっている型を寸分たがわず真似して盗め」
だまって聞いていたひかりの肩が、ワナワナと震えだした。
「わたし、やります! 先生の言いつけどおり盗ませてもらいます」
嬉しそうに飛び跳ねんばかりのひかりに、洞嶋は冷たく言い放つ。
「弟子にするとは言っていない。あくまでもおまえが勝手に、私に隠れて真似することだけを許したのだ。勘違いするな」
洞嶋の言葉は厳しかった。
「なぜ太極拳をやりたい? 格闘技なら他にいくらでもある。
喧嘩に強くなりたいのか。おまえをチビ呼ばわりした連中に、仕返しをしたいのか」
一陣の寒風が、ひかりのウェーブした髪を舞い上げる。
「違います!
この前、先生は大きな男たちを相手に、あっという間に倒しちゃった。
わたし、それを見てピンときたんです。格闘技には興味ないけど、これなら小さなわたしでも、もしかしたらできるのじゃないかなって。
神さまがわたしに、チャンスをくれたかもって」
洞嶋はショルダーバッグを持ちなおす。
「ふん。生ぬるい子供の考えだな。そんなに甘くはないぞ、
いったん言葉を切り、ところで、と口を開く。
「質問をひとつする。継続は力なり、という言葉の意味は習ったか?」
ひかりは小首をかたむけ、上目遣いで言う。
「ええ。たしか、継続することがひいては力になっていく、ってことですよね」
「違う」
洞嶋は腕を組み、ひかりを見おろした。
「継続するには、力が要るってことだ。
ひとつの事をずっと続けることは忍耐力、持久力、そしてやろうとする強い精神力が必要だ。
私の技術を盗む覚悟なら、中途半端な意志では無理だということだ。
それと、おまえはこの前自分が小さいことをネガティブにとらえていたな。チビだからと。でもな、陳式太極拳に身体の大きさ、年齢は関係ない。
肉体の円運動と螺旋を主体に、大気を取り込み自らの体内で練り力に変えて撃てば、どんなに相手が大きかろうが痛烈なダメージを与えることができる。
気の破壊力に必要なのは身体というウツワではない。気の力、気力だ。わかるか。
マイナス思考は邪魔なだけだ。
ひたすら前を向いて鍛錬することだ」
ギラリと抜身の刀のように光る眼。荒ぶる極道の男でも、縮みあがるほどの眼力だ。
ひかりは正面からその目線を、ガチッと受け止めた。
「もちろんです! わたし、絶対に逃げません」
(ほう、たいしたものだな。私の気迫をがっちりと受け止めるなんて。根性は褒めてやる)
洞嶋はくるりと態勢を変え、歩き出した。
「私は週末には公園で必ず鍛錬している。雨だろうが雪だろうが、私は稽古を休まない」
その背に向かってひかりは大きくお辞儀をし、声を高らかに叫んだ。
「ありがとございます! 必ず盗ませていただきます!」
ちょうど通りかかった中年のサラリーマンが、驚いてひかりを見ている。
「わたし、絶対に先生のような強い女になるんだから」
ひかりは決意したように、手袋をはめた手でガッツポーズをとった。
~~♡♡~~
ひかりは年明けすぐの土曜日、言われたとおりにN公園でランニングを行い、芝生広場で洞嶋の姿を見つけると近くまで走り寄り、洞嶋が行う陳式太極拳三十六式の動きをトレースするように真似ていった。
土日の二日間で、全身が味わったことのない筋肉痛に見舞わる。それでも負けん気の強いひかりは歯を食いしばり、ひたすらランニングし三十六式を身体に覚えさせていったのであった。
平日は自宅近くの公園で、朝からひとりで型を思い出しながら練習する。
来る日も来る日も、同じ型のみの練習であった。
ある程度動けるようになってくると、この単調さが苦しくなる。
洞嶋は一切他の動きを加えず、三十六式のみを続けた。
ひかりは最初に言われた「継続は力なり」の意味を、やっと理解する。精神的にも疲労した。しかしここが踏ん張りどころ、チビのわたしだって根性は大きいのだ、と自分を叱咤激励するのであった。
その結果、この夏場あたりから急に気持ちが楽になったのだ。
むしろ三十六式を、さらに深めたいという欲求まで持つようになっていたのである。
一皮むけた状態と言えばいいのであろうか。
洞嶋にはそれがわかっていた。なぜなら、自分も同じ道を歩んでここまで来たのだから。
~~♡♡~~
そして二年近くたった今日。
洞嶋の空気を切り裂く凄まじい蹴りが、ひかりの胴体にのめり込む。
と見えた瞬間、ひかりはなんと紙一重のところでそれを見切り、後ろへ跳んだのだ。
これに驚いたのは、ひかりであった。
「エッ! うそっ」
考える間もなく、すぐに
二年前の冬にチンピラたちをいとも簡単に吹き飛ばした、洞嶋の鋭い足技を目の当たりにしているひかりは、自分がその攻撃をかわしているなんて信じられなかった。
「ぼやっとしている暇はない!」
洞嶋は左足と左腕を前にだし、右腕を後方にふりながら右指で物をつかむように曲げる。
へたに腕でかばおうものなら、骨折するくらいの破壊力をもつ。
ひかりはとっさに左右の足を広げ、地面にそのまま素早く沈み洞嶋の掌底による打撃を避ける。
いつのまにか身体中の筋肉や関節が、伸縮自在に言うことをきいてくれるようになっているではないか。
(身体が、勝手に反応している!)
ひかりの肉体は二年間ひたすら練習した三十六式のおかげで、思っている以上に鍛えられていたのであった。
(やるね、ひかり。面白いじゃないか!)
無意識のうちに洞嶋はスウェットのポケットからフリスクを取りだし、タブレットを口に含んだ。
ひかりが上体をひねりバネ仕掛けのように立ち上がったのを見計らい、ガリッと噛み砕く。
直後、ひかりの目の前に、洞嶋はテレポートしたかにように忽然と現れた。
「ハアッ!」
鋭い呼気とともに、洞嶋の両手がひかりの腹部に当たる。
ドンッ!
ひかりはまるで大きな丸太で殴られたように身体を曲げ、背中から地面に叩きつけられてしまった。
「クゥッ」
「これが、発勁だ」
洞嶋は大の字になって倒れているひかりを見下ろした。
以前にチンピラを吹き飛ばした、大技である。
「まだ甘いよ。この程度の攻撃をまともにくらうようでは、ダメだ。
二年前のネガティブな思考はなくなったようだが、もっと大きくなれ。もちろんそれは肉体のことではない。おまえの心を大きくしなってことさ。
弟子だなんて、百年早い」
それでもひかりは嬉しかった。
二年間で、初めて組み手を行ってくれたこと。「継続は力なり」は思っていた以上に辛かったけど、同級生よりはるかに小さい自分が、洞嶋に半歩でも近づけたのじゃないかなと確信を持てたこと。
今、ひかりのなかで、何かが変わろうとしているのであった。
つづく
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