第二章 アレイシア精霊学院②
ようやく解放されたカミトは、安堵の息をついて立ちあがった。
コートの埃をはたきながら、執務室の中に足を踏み入れる。
うしろ手に扉を閉めると、グレイワースがやれやれと肩をすくめた。
「彼女はファーレンガルト公爵家の娘だ。騎士としては優秀だが、どうにも堅物でな」
「あの娘もここの学院生なのか? 制服の上に甲冑なんて着込んでたが」
「彼女は
「風紀委みたいなもんか。だったら、もっと厳しく取り締まったほうがいいぞ」
カミトの脳裏に思い浮かんだのは、つい先刻、森の中で出会った紅い髪の少女だった。
……あれを野放しにしてるのはまずいだろ、いろいろと。
「ふむ、参考にしよう。ところでカミト、どうしてそんなにボロボロなんだ。森の精霊にでも襲われたか?」
「……いや、猫に引っかかれたんだよ。跳ねっ返りの火猫娘にな」
カミトがめんどくさそうに答えると、グレイワースはふっと肩をすくめた。
「気をつけたほうがいいぞ、精霊調査会すら立ち入れない〈精霊の森〉の深奥部には、いまだ
「やめてくれ。魔神級の精霊なんて二度とやり合いたくない」
「そうだな。いまのおまえでは、おそらく五秒で挽肉だ」
「一秒ともたないさ。まあ、契約精霊がいれば七秒くらいは生きていられるかもな」
「ふむ――契約精霊がいれば、か」
グレイワースは灰色の眼を、すっとカミトの右手に向けた。
「その傷は? それも猫にやられたのか?」
「こいつは――」
傷――先刻、右手に刻まれた精霊刻印のことだ。
カミトは胸中で舌打ちするが――いや、どのみち
「まあ、なんつーか、なりゆきでな。とある封印精霊と契約したんだ。めちゃくちゃな暴れ馬でな、契約に失敗してたら、いま俺はここに立ってない」
「ほう、いったいどういう心境の変化だ。おまえが彼女以外の精霊と契約するとは」
眼鏡の奥で灰色の眼が鋭く光った。
「ようやくあの亡霊と決別できた、ということか?」
「……っ!」
嘲るようなその口調に、カミトは思わずカッとなった。
「亡霊なんかじゃない! あいつは――」
コートのポケットから便箋を取り出し、目の前の執務机に叩きつける。
魔女の美貌は微塵も揺るがない。
憎らしいほどに冷静だ。
カミトはくっと唇を噛み、グレイワースに詰めよった。
「それより、あんたのよこしたこれは、本当なんだろうな?」
「ああ、本当だとも。魔女は嘘をつかない」
「そうだ。たしかにあんたは嘘をつかない。だが、決して真実も口にしない」
カミトは吐き捨てるように言った。
「……まあいいさ。あんたの知ってることを教えろ」
「やれやれ、それが魔女にものを頼む態度か? 三年前のおまえはもっと可愛かったよ」
「三年もすれば猫も虎に変わるさ。いつまでもあんたの飼い猫と思うなよ」
「猫は虎には変わらないよ、決してね」
グレイワースはわざとらしく肩をすくめると、カミトの目をじっと覗きこんだ。
その威圧的な眼光に、カミトは思わず気圧される。
「そこに書いてあることは本当だ。おまえの契約精霊は生きている」
「……っ!」
カミトは息を呑んだ。
魔女は真実を口にしない。
だが、決して嘘はつかない。
「あいつは……レスティアは、いま、どこにいるんだ!」
カミトが声を荒らげ、執務机に身を乗りだすと――
魔女は眉ひとつ動かさず、カミトの鼻先に書類の束を突きつけた。
「……なんだこれは?」
「交換条件だ。ここに
「意味がわからないな。どういうことだ?」
「わからないことはあるまい。なんのためにおまえを呼びよせたと思っている。この
「あんたに悪意しかないことはわかっているさ」
カミトは書類の束をひったくると、執務机に叩きつけた。
クリップで束ねられた、アレイシア精霊学院の編入届けを。
そこに書かれているのは、まちがいない――カミトの表のプロフィールだ。
「なんの冗談だ、これは?」
「今日から学院に編入してもらう。各種手続きはすでに済ませてあるから安心しろ」
「安心できるか! どういうことだよ、説明しろ!」
「おまえが必要だ。以上」
「は?」
魔女の言葉はいつも唐突だ。
真夏の嵐のように。
「なにを言ってるんだ。っていうか、清らかな乙女の園なんだろ、この学院は」
「問題ない。そんなものは私の権限でなんとでもなる」
「問題だらけだろうが! 三年前とは違うんだぞ」
激昂するカミトに――
「勘違いするなよ、少年。おまえに選択の権利などないんだ」
グレイワースはゾッとするほど冷たい声で告げた。
「……っ!」
「これまでは好きに泳がせてやっていたがな。本来、精霊使いは協会に管理されるべきものだ。それくらいはわかっているな?」
「それは――」
オルデシア帝国では、精霊使いは様々な特権を享受する代わりに、協会への登録を義務付けられている。
反帝国の思想を掲げるはぐれ精霊使いなどが存在すれば、国家にとって危険きわまりないからだ。
「いずれお前の存在も嗅ぎつけられる。帝国の精霊騎士団を甘く見るなよ、三年前ならばいざ知らず、ふぬけたいまのおまえでは絶対に勝てん。それに――」
と、グレイワースは悪魔のような笑みを浮かべた。
「私がうっかりバラしてしまう可能性も、なきにしもあらずだ」
「……なにがうっかりだ。要するに脅迫か」
「理解が早くて助かるよ」
「よくもぬけぬけと――」
カミトは苦々しく言い捨てると、グレイワースはさも心外そうに肩をすくめる。
「ふん、いったいなにが不満なんだ。本物のお姫様の集まる乙女の学舎に男が一人。酒池肉林のハーレムじゃないか」
「あのな、俺は――」
「なんなら、学院の生徒を一人だけおまえの好きにしてもかまわないぞ。たとえば、さっきのエリス・ファーレンガルト――あのとおり生真面目な堅物だが、うまく調教できれば従順に尽くすタイプだ。きっとどんな過激なプレイにも応えてくれるに違いない」
「鬼畜か俺は!」
「冗談だ。私にそんな権限があるわけがないだろう」
「あんたのは冗談に聞こえないんだよ……」
カミトはこめかみを押さえてうめいた。
「どうしていまごろ俺を呼びつけた。俺になにをさせるつもりだ?」
「おまえは話が早くていい」
「魔女に逆らっても無駄だからな」
投げやりな返答に、グレイワースはふっと微笑して――
「二ヶ月後に
「なんだと?」
――精霊剣舞祭。
数年に一度、元素精霊界で執りおこなわれる最大規模の
大陸中から精霊使いが集い、
いわば、精霊使い同士の大規模な武闘祭だ。
勝利チームを擁する国には、数年間にわたって精霊王の加護が与えられ、国土の繁栄を約束される。そして、大会の優勝者は――
望む〈願い〉を、ひとつだけ叶えることができるのだ。
「優勝しろ、カミト。もっとも、いまのおまえでは無理だろうがな」
「俺は――」
カミトは唇を噛み、拳を強く握りしめた。
精霊刻印の刻まれた右手ではない――黒い革手袋に覆われた左手を。
ズキリ、と胸に鈍い痛みが走る。
「俺は、二度と
「いや、おまえは出場するさ。そうでなければ困る」
グレイワースは執務机の上で手を組み、静かに首を振った。
「おまえ以外だれも、あの最強の
「な……に……!?」
その名前を聞いた途端、カミトの顔が凍りついた。
最強――その称号で呼ばれる精霊使いは、現在、大陸に一人しかいない。
三年前、わずか十四歳にして精霊剣舞祭の個人戦を制覇した少女。
「――そうだ。彼女が戻ってきたんだよ」
グレイワースの灰色の双眸が、カミトの目をじっと覗きこむ。
「最強の剣舞姫――レン・アッシュベルが、な」
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