第10話


「なっ……! な、な、な……!」


 頭を思い切り殴りつけられたかのように、ガトゥールは足元をふらつかせた。


「だ、旦那様! お気を確かに!」


 先に正気に戻ったラシャがとっさに支えると、主もまた我に返り、娘の伴侶となった牧夫に食ってかかった。


「貴様! 貴様が娘を襲ったのだろう! 訴えてくれる! 二度と太陽を拝めると思うなよ! このケダモノが!」


 口角泡を吹き、ガトゥールは怒鳴る。先ほどまで死人のように青かった肌が、激したせいで、茹で上がったタコように真っ赤になっていた。

 いくら愛し合っているとはいえ、世間一般の常識に照らし合わせてみれば、若干順序が違ったかもしれない。その点については申し訳ないと思っているらしく、牧夫は目を伏せてしまった。

 だが一見気弱そうに見える牧夫も、芯は強いようだ。

 ラグスットの夫となった彼はすぐに姿勢を正すと、義父との対決に臨むべく、毅然と顔を上げた。

 しかし牧夫が口を開くより先に、ラグスットが涙ながらに訴えかける。


「お父様、この人は少しも悪くありません! 私がお願いしたのです。お情けをくださいと」

「おっ、お情けだと……!」


 ガトゥールはとうとうガタガタ震え出した。

 確かに問題の多い人物だが、ガトゥールを一人の父親として見たとき、ラグスットの告白はあまりにも残酷だった。

 自分の娘が男に、「お情けで」孕まされたなどと――。ラグスットの言い分はあまりに卑屈だったし、それが本当ならば不幸過ぎる。

 だが娘をそんな風にしたのは、当のガトゥールなのだ。ラシャは同情する気にならなかった。自分に価値があると思えないラグスットの苦しみを、もっと思い知ればいいとさえ思った。


「ラグスット! 気でも違ったか! お前は、由緒正しきガヌドゥ家の一人娘なんだぞ! それを――! そいつのような身分の低い男に、な、情けをもらっただと!」

「この人は勤勉で賢く、心の広いお方です。雇い主にも信頼されているし、お友達もたくさんいます。それに引き換え、私にはなにもない……」

「なにを言っているんだ! お前はガヌドゥ家の……! 高貴な血筋を継ぐ……!」

「もうやめてください! この家に誇れるものなんて、なにひとつないのに!」


 悲鳴を上げるように叫んだあと、ラグスットはガトゥールをまっすぐ見詰めた。彼女はもう、父親を恐れてはいない。


「血筋って一体なんですか……。私には、私の中に流れる血が見えません。見えるのは――確かなのは、一人ではなにもできない、愚かで臆病な自分だけ……。お父様は、私がさも特別な身分であるように仰いますが、とてもそうは思えない……」

「ラグスット……」


 ガトゥールは初めて会う相手のように目を見開き、娘を見た。


「――本当はお父様にだって、分かってはいないのではありませんか?」


 自分たちが、代々の先祖からなにを受け継いだのか。

 自分たちが、子供たちになにを引き渡すのか。

 ――「家」とはなんなのか。


 ラグスットは手で顔を覆い、俯いてしまった。嗚咽を漏らすその肩を、牧夫が抱く。

 寄り添う二人は、深い信頼で結ばれた夫婦にしか見えなかった。


「ガトゥール様。このようなことになってしまって、申し訳ありません。ですが、僕たちは真剣に愛し合っています。ラグはいつも自分のことを謙遜して言いますが、僕にはもったいない、素晴らしい女性です。僕はラグがいなければ生きていけない。――どうか僕たちが結婚することを、お許しください」


 牧夫の真摯な言葉を聞いて、ラシャの胸には安堵と感動の念が広がっていく。


 ――思いやりのあるこの人になら、お嬢様を任せて大丈夫。ラグ様は絶対に幸せになれる……!


 ラグスットは涙に濡れた瞳を夫に向け、微笑んだ。それはラシャが今まで見た彼女の笑顔の中で、一番美しいものだった。


「認めん! 絶対に、認めないぞ!」


 ガトゥールは娘夫婦に背中を向けた。

 この男だって、本当は分かっているはずだ。これだけしっかりと結びついた二人を引き離すなんて、誰にもできないということを。

 だが、認められない。なぜなら――。


「この家はどうなる……!」


 弱々しく吐き出されたガトゥールの問いに、嫁となるべき女を寝取られた哀れな青年が答える。


「どうにもならん。どう考えても、そこの男の稼ぎでは、傾いたこの家を再建するのは無理だろう」


 マハ・マカルカ。

 本来ガヌドゥ家の救世主になるはずだった大商家の三男坊は、目の前で繰り広げられた修羅場をたっぷり堪能し、ご満悦のようである。


「そんな! マハ様、どうか……!」

「――おい。まさかこのままなにもなかったことにして、別の男の子供が腹にいるその娘と、結婚しろとでも言うんじゃないだろうな?」

「それは……」


 マハの切れ長の瞳に冷たく睨まれ、ガトゥールは口を閉じた。いくら厚かましい当主でも、そこまで恥知らずなことはできないらしい。


「ただし、今回の縁談を成立させる方法が、ないわけではない」


 うなだれるガトゥールに、マハは勿体ぶった口調で持ちかけた。


「え?」


 ガトゥールは即座に顔を上げた。「溺れる者は……」といった心境なのだろう。

 しかしマハの提案は、「藁」よりもずっと危ういものだった。


「令嬢を勘当し、継承権を剥奪しろ。そして、養女を取るんだ」

「養女?」

「そうだ。俺はその養女と結婚する。そうすれば当初の予定どおり、我らはガヌドゥの名を、お前は大金を手に入れることができるだろう」

「………………」


 あまりに乱暴な方法だ。しかしガトゥールは、婿になるはずだった男の突拍子もない申し出に、かなり心を動かされているようである。

 実際のところ、ガトゥールにはもう後がない。どれだけ荒唐無稽な策にでも乗らざるを得ないほど、追い詰められているのだ。

 一方、ここまでの悲喜劇の一部始終につき合ったラシャは、マハへの不快感をあらわにした。


 ――ガヌドゥの名前さえ持っていれば、誰でもいいんだ……。


 しかもついさっき情を交した自分の前で、よくもまあそのようなことが言えたものだ。無神経過ぎる。

 マハにとって、先ほどのあれは、ただの遊びだったに違いない。頭では分かっていても、認めるのは切なかった。


 ――ああ、もう知らない! 勝手にすればいいわ!


 ラグスットを、彼女が好いた男性の元へ嫁がせる。

 ガヌドゥの名からも解放してあげる。

 その目的は、このままいけば果たされるだろう。

 だからもう、あとはどうでもいい。


 ――マハ様が誰と結婚しようと。


 怒りと疲労がピークを越え、ラシャは逆に気が抜けてしまった。


「しかし、そんな急に養女なんて、見つかるでしょうか?」

「いるじゃないか、丁度いいのが」


 男たちの汚らしい密談はすぐ側でなされているはずなのに、遠く聞こえる。それらをほとんど聞き流し、ぼんやり放心していたラシャの肌に刺さるものがあった。


「ん?」


 周りを見回せば、なぜか皆がラシャに注目している。先ほどちくちく感じたのは、彼らの視線だったようだ。


 ――なに?


 不思議に思っていると、マハが大股でつかつかと近づいてくる。避ける間もなく両肩を掴まれ、ぐっと前へ押し出された。


「というわけで、養女はこいつだ」

「はあっ?」


 突然振られた、ガヌドゥ家の養女の話。しかもその座は、マハ・マカルカと婚姻を結ぶためだけに用意されたものだ。

 驚いたのは、もちろんラシャだけではない。


「な、なにを仰います! ラシャはただの使用人ですよ? ガヌドゥを名乗るのであれば、それ相応の娘でなければ……!」


 さっそく意義を申し立てるガトゥールに、マハは抑揚のない声で応じた。


「俺はそろそろ帰らねばならん。ただでさえ長居し過ぎているからな。今日俺が婚約成立の報を持ち帰らねば、この話はなかったことになるが、それでもいいか?」

「な、そんな……! 急過ぎます!」


 慌てふためくガトゥールを、マハは鼻で笑った。


「俺たち商人の世界は、スピードが命なんだ。それにそもそも今回のことは、お前たちの不始末だろう。俺はだいぶ譲歩したと思うが?」

「そ、それはそうですが……!」

「――娘を持つ貧乏貴族は、ほかにもたくさんいるぞ?」


 最後の一言が決め手だったのか、ガトゥールは沈黙した。

 マハの言うとおり、世の流れについていけず、財産を失った貴族は多い。マカルカ家のような豪商に経済的な救いを求め、娘を差し出そうという輩も、たくさんいることだろう。

 完全に買い手市場なのだ。

 ――このままでは売られてしまう。ラシャは慌てた。


「こ、こんな結婚、無茶ですよ! 私たち、今日初めて会ったんですよ?」


 後ろに立つマハは、ラシャの肩に手を置いたまま、彼女を見下ろした。


「俺の両親はお見合いで、しかもたった一週間後に結婚したが、今でもベタベタのラブラブだぞ。お互いを最高のパートナーとして認め合っている」

「そ、そういうこともあるでしょうけども! 私はちょっとそういうのはまだ……!」


 しどろもどろになるラシャに、マハは自信たっぷりに微笑みかけた。


「うちの親が言うには、男女の相性とは、磁石のようなものだそうだ。一緒に過ごした時間が問題なのではない。どれだけ心が惹かれ合うか、その度合いが重要なのだと」


 ――そりゃ、言いたいことは、分かるけど。


 第一印象は最悪だったマハ。だが、その魅力に捕らわれたら最後、ぐいぐい引き寄せられてしまって。

 そして、今は――?


「賛成です!」


 力強い賛同の声が響き渡ったかと思うと、一陣の風が吹き抜ける。今まで扉付近で動向を見守っていた同僚たちが素早く走り寄り、ラシャを取り囲んだ。


「いい話じゃないか!」


 ――バフラ。


「OKすれば、大金持ちのマダムよ? うらやまし~!」


 ――ジーン。


「これこそ、大団円というやつだな」


 ――小太郎。

 三人とも、マハがガヌドゥ家に入ることを、密かに望んでいた者たちである。


「う、裏切り者……!」


 恨みがましい目で同僚を睨むラシャに、ジーンは噛んで含めるように説いて聞かせた。


「ラシャちゃんが『うん』って言えば、ラグお嬢様はこの家を出て、好きな人と暮らせるのよ? ちょっと予定が違っちゃったけど、これって作戦成功ってことじゃない?」

「う、ううううう……」


 唸るしかないラシャを尻目に、同僚の三人はますます盛り上がる。


「マハ様が婿に来てくだされば、食事の作り甲斐があるねえ! もう張り切って作っちゃうよ!」

「そうね、マハ様がこの家に住んでくだされば、それだけ誘惑する機会も増えるってことよね。あ、安心してね、ラシャちゃん。本妻の座を奪おうなんて思ってないから。ただちょっとした癒やしの時間を、マハ様にプレゼントしたいだけ。――愛人のほうが気楽だしね」


 ――だめだこりゃ。


 女性陣に諦めをつけ、ラシャは最後の良心である小太郎に助けを求めた。――しかし。


「すまん、ラシャ。俺は枯山水の庭が造りたい」


 小太郎は簡潔に言うと、申し訳なさそうに目を逸らしてしまった。


「は、薄情者……!」


 今や三人は、すっかりマハの手の内にある。ラシャは床にへたり込みそうになった。

 やはり今回の作戦を実行するに当たって、一番警戒しなければならなかったのはマハ・マカルカ、その人だったのだ。


「あともう一押しよ、マハ様! ここでガツンとキメちゃって!」

「あ、ああ……」


 ジーンに促されて、マハはラシャの体をぐるりと反転させた。

 二人は見詰め合う。

 なにを言うつもりなのか。聞きたいような、聞きたくないような、躊躇するラシャの耳元にマハは唇を寄せると、彼女にしか聞こえないくらい小さな声で囁いた。


「俺は初めて抱いた女と結婚すると、ずっと前から決めていた。だから、お前を抱いたんだ」

「え……」

「お前と一緒なら、きっと楽しい人生を送れると思う。お前は俺を助けてくれるだろうし、俺もお前を助ける。――結婚してくれ」

「……!」


 言うだけ言って逃げるように離れたマハは、熱病に冒されたかのように真っ赤になっている。


「なーにー? 内緒話ー?」


 ふざけたジーンが、まとわりついてくる。


「――やっぱり、少女趣味な男の子だったでしょ? お似合いじゃない」


 意味ありげに笑うジーンを見て、ラシャは今朝彼女と交わした会話を思い出した。

「理想のタイプは、私のことだけを、ずっと想ってくれる人」。マハはまさにそのとおりの人物ではないか。

 商人という職業柄、世慣れているくせに、びっくりするくらい純粋。格好良いかと思えば、可愛いかったりする。憎らしいけど、魅力的だ。

 マハは先ほど男女の相性を磁石に例えたが、自分だって本当は彼とぴったりくっついていたい。ずっと一緒にいられたら、どんなに楽しくて、幸せだろう。

 だが――。


「まあ、仕方ない。ラシャはラグスットに歳が近いし、うちの奴らの中ではマシなほうだ」


 バフラたち主だった使用人たちが賛意を示したこともあってか、ガトゥールも折れる気になったようだ。


「おい、ラシャ! ありがたく思え! 貴様のような下賎の者が、ガヌドゥの名を名乗れるのだからな! ただし、当家の一員になれたなどと、思い上がるなよ! お前がワシの使用人であることに、変わりはないのだぞ!」


 ガトゥールは相変わらず居丈高だったが、慣れているラシャは、少しも腹が立たなかった。

 ――だから、「はい」と頷くのはたやすい。

 ラシャはラグスットを目で探した。妹代わりの令嬢は、父親であるガトゥールの後ろで、はらはらと様子を伺っている。口を挟んでいいのか、このまま流れに任せていいのか、迷っているようだ。

 自分が首を縦に振れば、誰もが望むハッピーエンドになる。ラシャはそれを十分理解している。


 ――だけど私は、マハ様のことを、本当に本気で好きになってしまったから。


「絶対に、嫌です!」


 そう答えるしかなかった。





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