第9話
退屈させないように。つまりマハの気を引けばいいのだろうか。
だが、なにをしよう? 餌づけも、散歩も、色仕掛けも、思いつくだけの暇つぶしは、やり尽くしてしまった。
「ど、どうすればよろしいのですか?」
情けないが聞くしかない。するとマハはニヤついた笑いを引っ込め、ラシャの顔をまじまじと見詰めた。
「分からんのか? 本気か?」
「えっ、はい」
「……………………」
マハは黙ってしまった。
しまった。怒らせただろうか。
びくびく身構えるラシャから、マハはなぜか気まずそうに目を逸らし、すっかり馴染みの場所となったソファへ移動した。
「そりゃ、こういう場面なら……あれしかないだろ」
「あれ?」
「あれだ、あれ!」
なぜ分からないのかと責めるように、ソファに乱暴に腰を下ろし、マハは腕を組んだ。
「女が男の気を引くといえば、あれしかないだろーが!」
「なんですか!? はっきり言ってください!」
ラシャはマハの前に立つと、彼に負けないくらい大きな声で聞き返した。
「察しの悪い女だな……」
マハは不機嫌そうに口をへの字に曲げている。
「さっきの胸のでかいあの女は、積極的だったが?」
つまり、性的な奉仕を求めているということか。ラシャはうんざりとした表情になった。
それにしても、そういったことを要求するならば、なぜ先ほどはジーンを拒んだのだ。男ならば普通、色気不足の自分なんかより、ジーンを選ぶだろうに。
ラシャにはマハの思考が、さっぱり理解できなかった。
「わ、私はジーンのようなことはできません……」
それにしても普段のラシャだったら、今回のようなセクハラそのものの要求を突きつけられたならば、怒り狂い、自慢の蹴りを何発もお見舞いしているはずなのに。
なのに今は、そんな気にならない。なぜだろう。
ラグスットのことがあるからか。それとも――?
「ふーん。お前の主人に対する想いは、所詮その程度のものか。じゃあやっぱり、俺は首都へ行こうかな」
「わーーーー! 待って待って!」
立ち上がって再び扉へ向かおうとするマハの背中に、ラシャは慌ててしがみついた。
「分かりましたよぉ……」
ラシャはマハの腰におずおずと両腕を回す。マハが息を飲んだのが分かった。じわじわと、ラシャの顔も赤くなる。
熱を帯びたラシャの小さな手を、包むように握ってから、マハは彼女をゆっくり自分から離した。
向かい合うように立って、二人は見詰め合う。
「嫌か?」
問題が、いつの間にかすり替わっている。
元々は、そんな話をしていたわけではなかったはずだ。
「もう怒っていないんですか?」
「忘れた」
マハの機嫌が直ったのはなによりだ。だがラシャは不満そうに唇を尖らせた。
脅されて、身を任せることになった。それならば楽だったのに。――なにも考えずに済んだのに。
マハはそっとラシャの頬に触れた。わずかだが、彼の手は震えている。
私はそんなに脆くありませんよと訴えたくて、ラシャはマハの手に頬ずりした。
「してもいいのか?」
「はい……。お嬢様が無事にドレスを買うまでの間、お相手致します」
「そういうのは嫌だ」
駄々っ子のように、マハは言い放つ。
「ええー……」
「俺はこの家の門の前で、初めてお前に会ったとき、本当に嬉しかったんだ。ああ、こいつが俺の嫁になるんだなって。元気そうで――綺麗で。早く結婚したいと。まあ、勘違いだったわけだが」
「……………………」
ラシャの頭の中にはまたもやジーンが現れ、『男なんてヤりたいだけなのよ。そのためなら、どんなことだって言うわ』と嘲笑う。
――いいもん、嘘でも。嬉しいから、いいもん……。
ラシャは脳内から同僚を追い出そうと、目をつぶった。すると、キスをねだられたと勘違いしたのか、マハが顔を寄せてくる。
あ、と思ったが、仕方ない。ラシャはそのままマハの口づけを受けることにした。
しかし二人の唇はうまく重ならない。目測を誤ったらしく、マハの唇は少しずれて、ラシャの上唇に着弾した。
「……………………」
ラシャはもちろん、マハも失敗を悟ったのか、気まずい沈黙が流れた。
「もしかして、初めてなんですか?」
「悪いか」
ムスッと顔をしかめるマハを見ているうちに、ラシャはおかしくなってきた。
――そうだ、なんだかんだ言っても、この人は年下だもの。
ここはこちらがリードすべきだろう。余裕をもったラシャは、マハの胸に掴まるようにして背伸びをし、素早く唇を合わせた。 だが残念ながら、今回も失敗である。ラシャの唇は、今度はマハの下唇に、勢い良くぶつかった。
それなりの衝撃だったから、二人は自分の口を押さえて、しばらく悶絶した。
仕返しとばかりに、マハが意地悪く尋ねる。
「もしかして、初めてか?」
「いけませんか?」
二人は果たし合いでもするかのよう睨み合い、だが次に破顔した。
笑いながらどちらともなく体を寄せて、唇は自然に重なった。 そのあとの二人は吸い寄せられるように、何度も何度も口づけを交わした。互いの息が、荒くなっていく。
「はあ……っ」
マハはラシャの舌を味わいながら、彼女を抱き上げてソファに運び、その上へ覆いかぶさった。
「あっ、あの……! ちょ、ちょっとでいいから、優しくしてくださいっ!」
「ど、努力はする……! けど」
「けど!?」
薄情なのだろうか。今ラシャはラグスットを忘れ、ただ目の前の、自分を組み敷いたマハのことだけを考えていた。
ギラギラと獰猛に光る瞳に焼かれながら、瞼を閉じる――。
二人がようやく離れた頃には、時刻は午後五時を過ぎていた。
「聞いてた以上に、痛かった……」
満身創痍の体をうつ伏せに倒して、ラシャはぐったりしている。ソファのその隣では、マハが全裸でくつろいでいた。
「俺はとっても気持ち良かった」
先ほどまでの純情はどこへやら、マハはいやらしく笑っている。
――こっちはひどい目に遭ったのに……。
文句でも言ってやりたかったが、ちょっとでも動けば下半身が痛んでつらい。ラシャはじっと耐えることにした。
そんな苦労を知らず、マハは手を伸ばすと、ラシャの剥き出しになった裸の尻を揉んだ。
「その、悪かったな」
「え?」
熟れた桃にたかるハエのようなマハの手をぴしゃりと叩いてから、ラシャはわずかに体を起こした。
「やっぱり優しくできなかった。俺も初めてだったから……。慣れていたら、もう少し良くしてやれたかもしれないのに」
「い、いえ、そんな……。気にしないでください」
そう。マハは今日初めて、女性と体を重ねたのだそうだ。キスにすら不慣れだったから、そんな予感はしていたが――。
性格には若干問題があるものの、美形でスタイルも良く、しかもお金持ちという色々な意味で恵まれたこの青年が、童貞だったなんて意外である。
「がっかりしたか?」
「そんなこと。その歳で慣れてる人のほうが、嫌かも」
マハはホッと胸を撫で下ろすと、すっかり起きてしまったラシャの腕を引き、自分に寄りかからせた。
男性に甘えたことのないラシャはどうしたらいいか分からず、ただ身を硬くするしかできなかった。
マハはラシャの、金色に輝く髪を梳いた。ゆるゆると動く指が心地良い。こんなことをしている場合ではないと思うが、ラシャはどうしてもマハから離れることができなかった。
――不思議……。
初めて会ったときは、こんな風になるなんて、思ってもいなかった。
まさに、恋に「落ちた」。しかも、急転直下である。
「聞きたいことがあるんだが」
「はい?」
うっとりとまどろみながら、ラシャはマハの言葉に耳を傾けた。
「お前の名は?」
「……………………」
マハは、つまりそういう男なのだ。
抜け目ないようでいて、どこかズレている。繊細だが、大雑把。
そしてそんな彼を、ラシャは可愛くて仕方がない。
ひと目会ったそのときは大嫌いだったのに、一周回って大好きになる。男女の不思議を、ラシャは今日身をもって知ったのだった。
時間が時間だから、辺りはだいぶ暗くなっている。ラシャはソファから下りると、床に投げ捨てられた衣服を拾い、テキパキと身に着けていった。
「明かりを点けなきゃ……」
マッチを擦ると、近くにあった蝋燭に火を点け、室内を回る。
「よいしょ……」
「って、お前なあ」
ソファに一人残されたマハは、勤勉なラシャに不服そうだ。
「余韻もなにもあったもんじゃない……」
マハがなにか言っているが無視し、ラシャはせっせと壁に設置してあるランプに火を灯し始めた。
全てのランプが点灯し、応接間が明るさを取り戻した頃、日は完全に沈んだ。
「これでよし、と」
ラシャが役目を終えた蝋燭に息を吹きかけて、火を消すと、マハは彼女を手招きした。
「気が済んだろ? 戻ってこい」
「でもそろそろ、晩御飯の準備をしないと……」
「――戻ってこい」
「……………………」
マハはソファに仰向けに寝そべり、おいでとばかりに腕を広げている。ラシャは床に膝をつくと、マハの胸に顔を埋めた。
幸せな甘い時間は――ほんの数秒しかもたなかった。
「ラシャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!」
厚いドアさえ突き破るほどの大絶叫に、ラシャは飛び上がった。
あの忌まわしい銅鑼声は、日々聞き慣れたこの家の主、ガトゥールのものだ。
「まずい! 旦那様が帰ってきた! マハ様、服をお召しになってください! 早く早く!」
「は、ハイ……」
「いよいよ正念場ね……!」
ラシャの顔つきがみるみる変化していく。眼光は鋭く、唇はきりりと引き結ばれ、まるで戦場に立つ兵士のようだ。
「まったく……。本当に余韻もなにもあったもんじゃないな……」
マハはぶつぶつと愚痴をこぼしながら、それでもラシャに従い、身支度を整えた。
最初は遠く玄関付近にて吹き荒れただろう嵐が、徐々に近づいてくる。
轟音を響かせ、遂に応接間の扉が開いた。
現れたのは、果たして、ガトゥール・ガヌドゥだった。
「ラシャ、貴様ああああああ!」
シミの浮いた顔を怒りに歪ませて、ガトゥールはラシャを睨んだ。
「おかえりなさいませ、旦那様」
ラシャは慇懃に頭を下げた。
なにしろ突然のことだったから、完全には着替え終わらなかったマハが、腰帯を結びながら尋ねてくる。
「なあ、ラシャ」
「はい?」
「なんであのおっさん、あんな可愛いらしいものを持ってるんだ?」
「ん……?」
確かにガトゥールは、妙なものを抱えていた。ガトゥールにもこの場にも似つかわしくないそれは、花嫁が持つ祝福の花束――いわゆる、ブーケだった。
わけが分からず、当主の持つブーケに目を奪われていると、再び廊下が騒がしくなった。
「お父様、早まらないで!」
「うわっ!」
勢い良く開いた扉に押されて、その真ん前に立っていたガトゥールは床に倒れた。顔から行ったから、相当痛そうだ。
当主を倒して新たに現れたのは、ラシャの大切な女の子――ラグスットである。
「お嬢様!」
「ラシャ!」
ラグスットの顔がほころぶ。だが再会の喜びを分かち合う間もなく、当主が跳ね起きた。
「この馬鹿娘がああああ! 父親になんてことをするのだ!」
「ご、ごめんなさい……!」
ガトゥールは娘を一喝すると、再びラシャを睨みつけた。
「ラシャ! 今日のことは、全部貴様の仕業だな!」
「お父様、ラシャが悪いんじゃありません! 私が無理にお願いしたんです!」
ラグスットはラシャを庇うが、頭に血が上った父親は聞く耳を持たなかった。
「お前がワシに逆らうわけがないだろう!」
「それは……」
小さい頃から押さえつけられていたからか、そのとおりラグスットはガトゥールに逆らうことができない。親に反抗する子供は、大罪人と変わらないと、教え込まれてきたのだ。
案の定ラグスットはガトゥールに反論できず、今にも泣き出しそうにしている。
これ以上、可愛い妹分に、つらい想いをさせたくない。
ラシャはきっぱりと言った。
「そうです。私が全部仕組んだことです」
それみたことかと、ガトゥールは口を開いた。――だが。
「なんでこのワシが、聞いてもいない娘の結婚式に、立ち合わなければならんのだ! なんでブーケなんぞ、受け取らにゃあいかんのだあああああ!」
「……え?」
最後まで言い終えると、ガトゥールはブーケをラシャに投げつけた。咄嗟に受け取ってしまったラシャは、だが主の話がさっぱり分からない。
なにがあったのか、一部始終見届けたであろうブーケからは、芳しい香りが漂ってくるだけだ。
「あの、お嬢様……。これは一体……?」
ラシャはラグスットに説明を求めた。
「あのね、実は……」
ラグスットの説明によると、こうだ。
首都へ行き、なぜかかなり時間がかかったが、なんとか無事ドレスを買うことができた。そのあとは教会へ行き、夫となる牧夫と結婚式を上げた。
「そして神様の前で夫と愛を誓い合い、ブーケを投げたら……なんとお父様が受け取ってしまったの」
どうにも足りない娘の説明を、怒りに燃えるガトゥールが補足してくれた。
「分家の中の一人が首都へ出ているというから、追いかけて行って……そやつを探してウロウロしておったら、偶然教会に差し掛かったのだ。ちょうど結婚式をしておってな。ぼんやり眺めていたら、ブーケが飛んできた。よく見れば、新婦はラグスットだったではないか!」
「あー……」
ラグスットはある意味引きが強いというのか、時々こういった豪快な偶然を招く。
「娘が勝手に結婚しているのにもビックリしたが、ブーケまで受け取ってしまったんだぞ!? ワシは、ワシはもう、驚くやら腹が立つやら……! それもこれもラシャ! お前のせいだ!」
ガトゥールはラシャを面罵しようとしたが、彼女の後ろに立っていたマハ・マカルカに気づき、急に態度を変えた。
「ま、マハ様、これはですね……」
「いや、俺のことは気にせず、ガンガンやってくれ。俺もその話に興味がある」
「いえいえ、ちょっとした手違いなのですよ……」
ガトゥールはへらへらとマハに愛想笑いを返したあと、ラグスットを振り返った。
「とにかく、あんな結婚は無効だ! お前はマハ様と結婚するんだ!」
「そんな、あんまりです、お父様!」
「旦那様、少しはお嬢様のお気持ちを……!」
「うるさい! うるさーい!」
話し合いはヒートアップしていく。
ガトゥールとラグスット、そしてラシャが喧々囂々とやり合うこの場所に、何事かと屋敷中の人間が集まってきた。
天才シェフ、バフラ。
お色気メイド、ジーン。
忍者の庭師、小太郎。
そして、その中でも一番心配そうになりゆきを見守っているのは、ラグスットの夫となった牧夫である。
自分たちの背後にずらりと並んだ人垣の中から、牧夫を見つけたガトゥールは、次なる怒りの矛先を彼に向けた。
「まったく……! あんなどこの馬の骨か分からんようなボンクラと、結婚しようなどと……! ああ! 腹が立ち過ぎて、血圧が上がるわい!」
目眩でもするのか額に手をやったガトゥールは、遠巻きに眺めている使用人たちにつばを飛ばして命じた。
「おい! 神官を、いや弁護士か? とりあえず両方呼んでこい! とっとと入籍を取り消さねば!」
「!」
そんなこと許すもんか。ガトゥールを止めようと、ラシャは足を踏み出しかけた。
だがそれよりも早く両手を広げ、当主の前に立ち塞がった者がいる。
ラグスットだ。
「ラグスット! 邪魔だ! どけ!」
「結婚を取り消しても、もう遅いのです、お父様……! 私は、あの人の妻です!」
「なにを言っている! それが間違いだというのだ!」
ラグスットは息を吸い込むと、ラシャが今まで聞いたことのないような、大きな声を張り上げた。
「私のお腹の中には、あの人の赤ちゃんがいるんです!」
「!!!!!!」
これには一同が衝撃を受けた。特にガトゥールとラシャの驚きといったら大変なものだ。
「お、お前……!」
「お、お嬢様……!」
魂が抜けたように呆然となる二人に対し、しかしジーンとマハだけは、ひゅうと軽やかな口笛を吹くのだった。
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