第8話
柱に掛けられた時計を見れば、午後の三時を回るところだった。ラグスットたちが出発してから、ようやく四時間経過したことになる。
――もう大丈夫かな。大丈夫だよね……。
これだけ時間が経っても、誰もなにも言ってこない。ということは、ラグスットたちの結婚式はつつがなく終了したか、もしくは進行中なのだろう。
気を抜いてはいけないと思うが、心が軽くなったことは否めなかった。
外の空気を吸おうと、窓辺に立つ。朝、自分がピカピカに磨いたガラス窓を開けて、爽やかな風を頬に受けた瞬間、ラシャはあっと声を上げた。外側の窓枠の横に、見知らぬ男が立っていたからだ。
「!」
向こうも驚いたのだろう。男は泡を食って逃げ出した。ラシャは素早く窓を開け放ち、庭師の名を呼んだ。
「小太郎!」
男の前方に黒い影が降り立つ。この家の庭師で、元忍者の小太郎である。
「くそっ! どけっ!」
男は文字どおり降って湧いた庭師に、全速力で突っ込んでいった。
小太郎は男とぶつかる直前、ひらりと身をかわし、走り抜けようとする男の片腕をすれ違い様に掴んだ。その腕を男の背中側に捻り上げ、体重をかける。男はどっとうつ伏せに倒れ、小太郎は素早くその上に乗った。
「ありがとう、小太郎! 流石だね!」
「たいしたことはない」
東国の恐るべきソルジャー、ニンジャ・小太郎。それほど力を入れているわけでもなさそうなのに、組み伏せられた男は逃げるどころか、体を動かすこともできない有様だった。
ラシャは小太郎たちのところへ向かおうとする。そこへようやくマハが戻って来た。
「はー……。すっきりした」
憑き物が落ちたというのか、マハの表情は妙に清々しい。
「お帰りなさい。おなか痛いんですか? お薬をお持ちしましょうか? 今、温かい飲みものを頼んでありますから」
「いやいい。逆に健康なくらいだ。ところで、なにかあったのか?」
「その、怪しい者が……」
「怪しい者?」
ラシャと並んで窓の前に立つと、マハはひょいと外を覗き込んだ。晴れやかだった顔つきが、倒されている男を見た途端、険しくなる。
「どうしました?」
「いや……。小太郎殿、すまない。そいつを離してやってくれないか? そいつは、俺の従者だ」
思いがけない言葉を聞いて、ラシャは目を瞠った。
「従者って! 確かここに来るまでの途中、食当たりを起こしたと……」
「そんなマヌケな従者がいるか。ま、人の家にのこのこ忍び込んで、とっ捕まるっていうのも、相当マヌケな話ではあるがな……」
小太郎は男を解き放った。その後男は、マハたちの控える窓辺へ、ふらふらと駆け寄った。
「マハ様。やはり――来ました。年齢や姿格好は、聞いていたものと一致します」
「そうか……」
従者だという男の報告を聞きながら、マハは神妙な顔をしている。
「店主が、もうこれ以上は『彼女』を足止めできないと申しております。店の評判に関わると。あと一時間は待つが、それ以降は通常どおりの対応をする、とのことです」
先ほどラシャが時間を確かめた柱時計を、マハも仰ぎ見る。
「そうか、もうこんな時間か。店主には悪いことをしたな。店主の言うとおり、一時間以内に俺が連絡をしなければ、客の望みどおりドレスを売ってくれて構わない」
「かしこまりました。お伝え致します」
「ああ。お前たちは引き続き、首都で待機しておけ」
嫌な予感がする。ラシャの鼓動は早くなった。
マハたちの会話には、聞き流せない単語がちらほら混じっていた。
「ドレス」、「首都」。今まさにラグスットは、「ドレス」を買うために、「首都」にいるはずだ。なにか関係があるのだろうか。
一礼して去っていく自分の従者を見送ってから、マハはラシャと小太郎に詫びた。
「手数をかけたな」
小太郎もなにか察したのだろう、指示を仰ぐように、庭からラシャの顔を見上げている。ラシャは小さく首を振り、窓を閉めた。
ふたりきりに戻った応接間には、沈黙が重く横たわっている。
こうしていても埒が明かない。先に口を開いたのは、マハのほうだった。
「こうなったら仕方ないな。この家に今、令嬢はいない。違うか?」
「えっ……!」
あまりに単刀直入に切り込まれて、ラシャは咄嗟に答えられなかった。
――見破られていたなんて。
「なんだ、バレてないとでも思ったのか? どんな阿呆でも、これだけ待たされれば気づくだろ、普通」
顔色をなくすラシャの前で、マハは困ったように笑っている。
「俺と従者はガヌドゥ家に来る前、ついでに首都の取引先へ届け物をしてな。――知ってるか? 『プランラン』という店なんだが」
「……!」
「やっぱり、知ってるみたいだな」
マハがここに来る前に寄ったという取引先の名は、首都の有名ブティックだ。
「プランラン」。
そして、この家を出たラグスットが、ウェディングドレスを買いに行った――いや、買いに行くように、ラシャが手はずを整えた店でもあった。
「届け物をした際に、店主と軽く世間話をしてな。俺がガヌドゥ家に婿入りするかもしれないと言ったら、驚かれたんだ。店主が言うには、今日その『プランラン』に、俺の婚約者である『ラグスット・ガヌドゥ』を名乗る人物が、ドレスを買いに来るそうじゃないか」
そのとおり、ラグスットは「プランラン」を訪ねただろう。秘密が漏れているとも知らないで。そしてそのあと、どうなったのか――。
「同姓同名の別人かとも思ったんだがな。だが今日これだけ待っても、ラグスット殿が姿を現さないということは、やはり……」
誰を責めるでもなく、マハはぽつりぽつりと話し続けている。怒っているのか呆れているのか、その語り口からは窺い知ることはできない。
マハはつまり最初から、「婚約者はいない」という疑惑を持ってこの家の扉を叩いたのだろう。
「お、お供の方が、食当たりで倒れたというのは嘘だったんですね? 先ほどの話では、首都で待機していると……。その方たちは、なにをしていらっしゃるのです?」
薄氷の上を渡るように慎重に、ラシャは尋ねた。
「従者には、『プランラン』に詰めてもらっている。『ラグスット・ガヌドゥ』を名乗る人物が店に現れたまでは、報告を受けているぞ。店主と従者たちはあれこれ口実をつけて、彼女を穏便に足止めしているのだ」
「……!」
なんということだ。
今まで皆で必死になってマハを引き止めていたというのに、マハはマハでラグスットを拘束していたということか。
つまりラシャたちの工作は、全くの無駄だったわけだ。
あまりに滑稽ではないか。ラシャの目の前は、真っ暗になった。
「そろそろあちらも限界らしい。お前が本当のことを言わないなら、俺がひとっ走り首都へ行って、直に確かめて来ようか? 馬を借りていけば、半時もかからず着くだろう」
マハは今にもここを飛び出して行きそうだ。
――どうしよう、どうしよう。
背中を冷たい汗が伝っていく。
自分にできることはもうないのか。自身の激しい鼓動を聞きながら、ラシャはなんとか頭を働かせた。
『一時間以内に俺が連絡をしなければ、客の望みどおりドレスを売ってくれて構わない』
マハは先ほど、従者にそう指示していた。
つまりあと一時間なんとか踏ん張れば、ラグスットはドレスを得て、マハの従者たちの手からも解放されるということだろうか。
「なあ、頼むから、真実を教えてくれないか。なんでこんなことをしたのか、事情を聞かせてくれれば、悪いようにはしないから」
思い詰めた表情をしたラシャを慮ったのか、マハは憐憫の情をにじませ、訴えかけてくる。
なんと答えようか。ラシャが迷っているうちに、誰かが扉を叩いた。先ほどマハのためにと頼んだ温かい飲みものを、同僚のメイドが届けてくれたようだ。
「あ、ありがとう……。あとは私がやるから」
メイドからコーヒー入りのポットを受け取り、部屋の隅にある給仕用の小机へ運びながら、ラシャは懸命に考えた。
――マハ様に洗いざらい告白したら、どうなる?
本当は全部ぶちまけてしまいたい。嘘をつくのもマハを騙すのも、もう嫌だ。しかし、なんと言うつもりなのだ。
「あなたの婚約者のラグ様は、別の男性と結婚します。だからあなたがたの計画した、貴族や富豪相手の商売は、おじゃんになるでしょう」。
そんなこと、許してもらえるわけがない。マハはもちろん、彼の実家であるマカルカ家が黙ってはいないだろう。
きっとラグスットは連れ戻される。そして当初の予定どおり、意に沿わぬ結婚をさせられて、不幸な人生を歩むことになるのだ……。
――それくらいなら……!
追い詰められて、まともに回らないラシャの脳みそが弾き出した結論は、「無理矢理にでも、あと一時間乗り切る」。結局そんな乱暴な答えだった。
もう手段は選んでいられない。ラシャは腰のバッグに触れた。
ニンジャから渡された眠り薬が、ここには入っている。薬をくれた小太郎には止められたけれど、もうこれしか方法がなかった。
「お嬢様は、ちゃんとこの家にいらっしゃいますよ」
マハに背を向けるようにして、ラシャはお茶の支度を始めた。さりげなくバッグの中を探ると、指先に小瓶の硬い感触が当たる。
「――ほう?」
信じていないのだろう、マハは尖った声で応じた。
「お茶をお出ししたら、今度こそお嬢様を呼んで参りますから……」
手の平で隠しながら、ラシャは小瓶を取り出す。緊張のあまり落としてしまいそうで、ハラハラした。
蓋を開けて、小瓶の中身をコーヒーに混ぜて――。それだけに集中していたから、だから、気がつかなかったのだ。
気配を感じたときにはもう遅い。ふわりと空気が揺れたかと思うと、後ろから抱き締められた。
「あ……!? な、なに……!?」
ラシャが抵抗しようとしても、巻きついてくる腕の力は強く、動けなかった。
マハ。マハが自分を抱き締めている。
意識した途端、ラシャの体はカッと熱くなった。
「ウェディングドレスなんぞ買いに来たんだ。この家のお嬢様がなにをしようとしているのか、だいたいの想像はつく。怒らないから言ってしまえ。そのほうが、俺は――」
自分を包み込む、彼の匂いも体温も不快ではなかった。――だから困る。
「俺は……」
「やっ……!」
耳元で囁かれて、力が抜ける。その拍子にするりと、ラシャの手から小瓶が滑り落ちた。
「……?」
マハはラシャから離れると、落ちた小瓶を拾った。幸い、いや不幸なことに、瓶は割れていない。
マハは蓋を開けると、瓶の中身の匂いを嗅いだ。
「花の香りがする。そういえば、小太郎殿の守るこの家の庭には、薬の材料になる草花が豊富に揃っていたな……」
マハはラシャを光る目で睨んだ。
「そうだな、そうだった。毒を盛るのは、ニンジャの常套手段だった」
侮蔑の眼差しをラシャに向けながら、マハは笑っている。
「ど、毒なんて……! 違います! ただ眠らせるだけだと……!」
言ってしまってから、ラシャはハッと口を押さえた。
「俺は正直に話せと言った。――お前の答えは、これか!」
激しい怒りの表情を浮かべ、マハは怒鳴った。
――怖い。
本気で憤ったマハの前で、ラシャは震えることしかできない。
舌打ちすると、マハは扉へ向かった。
「ど、どちらへ……!」
「知れたこと。お前が答えないなら、本人に聞くまでだ。首都へ行き、ラグスット殿を連れ戻して来る!」
「そんな! それだけはやめて!」
ラシャはマハの腕に縋ったが、彼はそれを邪険に払いのけた。
「俺のことを騙しているとしても、お前もほかの使用人たちも、悪い奴らじゃないと思っていた。なにかやむを得ない事情があるのだと」
「マハ様……」
「俺はお前たちを信じた。それなのに……! 相手と理解し合う手間を惜しみ、薬を使おうなんて、卑怯者のすることだ!」
返す言葉がなかった。
自分はこの人の信頼を裏切ってしまったのだ。
ラグスットを大事に想うあまり、それ以外の人間の気持ちも、立場も、あまりに軽んじていた。
「待ってください! 今度こそ、本当のことを申し上げますから!」
頼める義理でないのは承知している。だがここで引いたら、なにもかもが終わってしまう。
「今更信じられるか!」
「お願い……! お願いですから、お嬢様をこのまま行かせてあげて!」
ラシャはもう一度、マハの腕に触れた。
「――そんなに、令嬢が大切か」
マハは先ほどまでとはガラリと声の調子を変えて、目に涙をため、自分を引き留めようとしているラシャに、冷たく問いかけた。
「ラグスット殿には、ほかに男がいるんだな?」
「はい……」
今度こそ正直に、ラシャは頷いた。
「ラグスット様はご両親の愛情に恵まれず、いつも寂しそうでした。これからは愛し愛される、幸せな生活をさせてあげたいんです……!」
「泣かせるじゃないか」
皮肉たっぷりにそう言うと、マハは唇だけで笑った。
「お前の健気な忠誠心に免じて、もう少しこの屋敷にいてやってもいい」
「本当ですか……!?」
「さあ、時間を稼げ。先ほどまでと同じように。退屈になれば、俺は首都へ行ってしまうぞ」
ラシャの瞳が期待に輝いたのは一瞬のことで、すぐに不安に曇ってしまう。
マハはいったい、なにを求めているのだろう?
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