第7話


「なーんだ。楽しいこと、してるのかと思ったのに」


 空いている片方の手をくびれたウエストに置いて、ジーンは含み笑いをしている。


「楽しいことってなによ?」

「そりゃ、セッ」

「言わなくていい!」


 ラシャは飛びつくようにして、ジーンの口を塞いだ。

 ジーンの回答はいつだって明確で、すっきりはっきりしている。性的な話題についても濁すことはない。だから聞いた人間のほうが、恥ずかしくなる……。

 ラシャ。厨房長のバフラ。庭師の小太郎。そして、メイドのジーン。

 ガヌドゥ家令嬢のラグスットが、愛する人と神の前で婚姻を誓うまで、この四人がマハ・マカルカの足止めをする。昨晩の打ち合わせでは、そのように決まっていた。

 これまでのところはうまくいっている。だが敵のペースに巻き込まれて、バフラも小太郎もついうっかり、マハと令嬢の結婚を望んでしまいそうになるなど、こちらも無傷とは言い難い状況だった。


「私の番だから来たんだけど、帰ったほうがいーい?」

「そ、そんなことないよ……。でも、やり過ぎないでよ?」


 ラシャはジーンに念を押した。


「あら、できるだけ時間をかけたほうがいいんでしょう? 任せて。足腰立たないくらいにしちゃうから」

「なにする気よ!」


 ジーンの、彼女が言うと冗談には聞こえないアグレッシブな発言に、ラシャはつい声を荒らげた。


「?」


 直したばかりのズボンを履き終えたマハが、なにごとかとラシャたち二人を振り返る。

 ――このまま彼を、ジーンに渡してしまっていいのか。

 迷うラシャの視界を、意気揚々と大きな、しかし形の良い尻を振って歩くジーンが横切っていく。


「ん……?」


 最初は不思議そうにラシャを見詰めていたマハは、ジーンが近づいてくるにつけ、彼女に視線を移した。

 ジーンの派手だが整った顔に、そして――巨大な胸に。


「アイスコーヒーをお持ちしました。お好きかしら?」

「あ、ああ……」


 ジーンは持ってきたトレイを、ローテーブルの上に置いた。

 ところでガヌドゥ家のメイドの制服は、裾の長いチュニックに、下は七分丈のパンツというスタイルである。しかし流行からかけ離れた地味なそれを、ジーンは嫌がり、彼女は仕事中、自前のカットソーとミニスカート、そして白のエプロンとヘッドドレスを着用していた。

 ジーンが生まれ育った西洋の国々では、メイドはそういった格好をしているものなのだそうだ。

 さてジーンの着ている紺のカットソーは、襟ぐりが大きく広く開いている。

 給仕にかこつけて前屈みになり、ジーンは二の腕で左右の胸の脇を押した。ただでさえボリューミーな彼女の胸は、そのように寄せられれば、とんでもないことになっているはずだ。


「……!」


 案の定マハの目は、触れようと思えば触れられる距離にある二つのビッグなお宝に、釘づけとなった。


 ――なんでそんなに、じろじろ見るんですかね!


 先ほどまでは、後ろ髪を引かれるように、この部屋から去り難かった。だが今やその想いは消え失せ、代わりに燃えるような激しい怒りが、ラシャの少々寂しいサイズの胸を満たす。


「ガムシロップはお使いかしら?」

「あ、い、いや、ミルクだけでいい」

「はーい。お入れしますねえ」


 ジーンはミルクポットを摘むと、アイスコーヒーが入ったグラスへ傾けた。


「ああん、白いミルクぅ、手に付いちゃったー」


 鼻にかかった声で言いながら、ジーンはミルクで汚れた指を口元へ持っていった。グロスに彩られてぬらぬらと濡れた唇から、ピンク色の舌が這い出し、指を舐める。


「うふ……。濃ぉい……」


 ジーンはぺろりと舌なめずりしてから、妖艶に笑った。


「……ぁ……」


 女悪魔の猛撃に晒されたマハは、魅入られたように動かなくなった。

 目的はマハの足止めなのだから、本来ならジーンの見事過ぎる手腕に、拍手喝采を送るべきなのに――。

 ジーンが勝ち誇ったように唇の端を上げるのを見て、ラシャはなぜか彼女を部屋から追い出してやりたくなった。

 だが、今去るべきは、自分のほうだ。昨日、みんなでそう決めたのだから。

 ラシャは自棄気味に声を張り上げた。


「じゃあ、後はよろしくね! ジーン!」

「はーい」


 わざと騒いだのに、マハもジーンもこちらを振り返りもせず、互いに見詰め合ったままだ。

 頭にくる。ムカつく。


 ――エロガキめ!


 ラシャは怒りのまま乱暴に足を踏み鳴らし、応接間を出て行った。


「あ……!」


 扉の閉まる大きな音で我に返ったのか、マハは顔を上げ、ラシャの姿を探した。だがもちろん、彼女は既にいない。


「あ、あれ……? あいつはどこへ行った?」


 急に落ち着きをなくした客人の顔を、ジーンは両手で挟み、優しくも強引に自分のほうへ引き寄せた。


「あの子は忙しいの。あなたのお相手は、私が。……ね?」

「………………」


 ジーンが首を傾けると、ぼよんと胸が揺れる。マハはごくりと生唾を飲んだ。





 廊下を進むごとに、ラシャの全身からは毒気が抜けていく。

 大人げない自分が段々恥ずかしくなってきた。同時に、ある疑問が頭をもたげる。


 ――私はなにに腹を立てているんだろう


 答えの欠片は遠くに見えている。だがそれを掴むことを、ラシャはためらった。


 ――だって今は、ラグ様の結婚が成功するかどうかの大事なときだよ。自分のことになんて、気を取られている場合じゃない。


 そうだ。ヤキモチを妬いている暇なんて――。


 ――ヤキモチ!


 ついうっかり真実を拾ってしまい、ラシャは混乱した。冷静にならなければと思えば思うほど、生意気なマハの顔が浮かんできて、かえって動揺してしまう。


「あ、ああああ、あー……」


 頭を冷やそうと、ラシャは休憩室に行こうとした。が、その足を止める。昨晩ジーンと打ち合わせた内容が、頭をよぎったのだ。

 ジーンの役目は「少しだけお色気を振り巻き、できるだけ長い時間、マハを引きつけておく」というものだ。

 だが。

 その「少しだけのお色気」とは、どのくらいの行為を指すのだろう?

 話し合った当時は適当に考えていたが、もしもジーンにとっての「少しだけ」が、ラシャにとっての「とんでもないこと」だったとしたら?

 ラシャの脳内では、ジーンの毒牙にかかるマハの姿がありありと再生された。ジーンは赤い唇を歪めて、してやったりと笑う。


『男っていうのは、みんなスケベなのよ』


「そんなの、絶対やだ!」


 ラシャは応接間に急いで引き返した。

 こうなってしまえば、もう認めないわけにはいかない。


 ――私は、マハ様のことを……!







 ジーンが頬を撫で上げても、マハはおとなしくしていた。

 いつもなら強い光が宿っている瞳は、落ち着きなく揺れている。どうしたらいいのか分からず、戸惑っているのだろう。そんな彼が初々しく、可愛く思えて、ジーンはくすりと笑った。

 綺麗に手入れされたジーンの爪は、マハの褐色の肌によく映えた。

 そう、例えば指先。それからメイクにヘアスタイル。

 メイドの受け持ちには水仕事が多く、また結構な重労働も強いられるから、身だしなみに構わない者も多い。そのような中にあって、ジーンの装いは常に完璧だった。

 ジーンはいついかなるときも、「女」を捨てはしない。その時々で自分が最も美しく見えるように、力を尽くしているのだ。

 そして愛想はいいが、決して自分を安売りしない。自分を好きにしていいのは、上等な男だけだ。


「さてと」


 ジーンはそこいらの商人よりもずっと厳しく、目の前の青年を値踏みし始めた。

 マハは男性的な整った顔だちをしており、背も高く、体も引き締まっている。頭も悪くなさそうだし、実家は今をときめく大商家、つまりお金持ちだ。きっと早晩自分の魅力に気づき、彼は多くの女たちを惑わせる、プレイボーイに成長するだろう。

 だが今はまだ赤子同然だ。ジーンとは圧倒的に経験値が違うのだ。

 ジーンはマハの膝の上に横向きに座ると、たくましい彼の首に腕を回した。


「あの……。なんでそんなところに乗るんだ……?」


 聞くだけ聞いて、マハは抵抗しない。がっちり筋肉がついた太い腿を椅子代わりにして、ジーンは細い胴を捻り、マハを見上げた。


「こうやって、飲ませてあげようと思って」


 薄く笑うと、ジーンはグラスをマハの顔の前へ運んだ。


「!」


 唇に触れたストローを反射的に咥えたマハは、幾ばくかアイスコーヒーを吸った。きっと味なんて、分かっていないに違いない。


「もういいの?」


 こくこくとマハが頷くと、ジーンはグラスをテーブルに戻し、彼の体にしなだれかかった。

 柔らかく大きな膨らみが自分の胸筋に重なり、マハはびくっと身動ぎした。


「お嬢様がお待たせして、ごめんなさいねえ。もうちょっとかかりそうなの」

「そ、そうデスカ……。あ、そうだ!」


 上擦っていたマハの声が、ふと元に戻った。


「ガヌドゥ家には、ラグスット殿以外の娘はいないだろうか? もしくは親戚かなにかの縁者で、同じ名の娘を知らないか?」

「……?」


 マハの突拍子もない問いは、この場を切り抜けたいがためのものなのだろうか。それにしては具体的で、不可思議な質問だ。

 ジーンは人差し指をマハの唇に置いた。


「ラグ様がなかなかいらっしゃらないからって、もう別のお相手を探そうとでも? いけない人ねえ」

「そ、そういうわけじゃ……」

「ふふ。こんなに素敵なマハ様に嫌われてしまったら、お嬢様が可哀想だから……。私がしばらくあなたの退屈を、払って差し上げましょうか?」

「退屈を払う……とは?」


 ジーンはマハの顎に口づけると、そのままの距離で囁いた。


「――分かっていらっしゃるくせに」

「うっ……!」


 吐息が当たり、マハの首筋はぞくぞくと粟立つ。その隙にジーンは体をずらし、マハの股間に手を伸ばした。

 返ってきた感触は硬く、そして大きさは予想以上だ。ジーンは心の中で歓声を上げた。

 これは久々の上物かもしれない。

 しかし、より深く知ろうとまさぐったその手は、マハ自身によって阻まれてしまった。


「すまない……。本当にすまない……。だが、やめてくれ……」

「え……?」


 俯き加減の顔を下から覗き込むと、マハは苦しそうに唇を噛んでいる。


「私じゃ、ご不満かしら?」

「違う! そんなことはない!」


 反論こそ勢いがあったものの、マハはすぐにしょんぼりとうなだれてしまう。


「俺は、ダメなんだ、こういうの。すごくしたいけど……嫌なんだ」


 なにがダメで、嫌なのか。

 少なくとも肉体的なことではないだろう。先ほど確かめたとき、彼は十分過ぎるほど準備が整っていたのだから。


「どうしても嫌? 女性に恥をかかせるの?」

「……すまない」


 卑怯な言い方で畳み掛けてみたが、マハは頑としてこちらの誘いには乗ってこない。ただただ申し訳なさそうに、体を小さくしている。彼の一部は、正直に反応しているというのに。


「なにか、お心に決めていらっしゃることがあるのね?」

「……ああ」


 マハは静かに頷いた。

 したいけれど、しない。

 飢えた獣が鼻先に餌をぶら下げられて、しかし拒む。

 その意志の強さは、相当なものだろう。だからジーンは、余計欲しいと思ってしまった。

 実際のところ、彼女ほどの手錬れだったら、こんな少年の一人や二人くらい簡単に飲み込んでしまえる。口では「嫌だ」と言っていようとも、体に「いい」と言わせてしまえばいいのだから。

 ――だけど、できない。

「したいけど、しない」と宣言したマハを、性欲と志の間で必死に戦っているその頑張りを、応援してあげたかったから。

 多くの雄(オス)を知るジーンだからこそ、欲望よりも意地を通そうとするマハに、「男」を感じたのだ。


「あなたって、可愛いわ」

「こ、子供扱いしないでくれ」


 拗ねたように文句を言ってから、マハは真顔になった。


「あなたは、本当に美しいと思う。嘘じゃない」

「……!」


 ジーンの頬が、朱色に染まる。

 まるで少女の頃に戻ったかのようだ。

 肉体的に交わらずとも、相手のことを愛しく思う、この気持ちも。そして、胸がきゅんきゅんする、この感じもだ。





 ――なにをこそこそやっているんだろう。


 ラシャは応接間の扉の前に立ち、中の様子を伺っていた。しかし体を密に重ね、小声で囁き合うマハたちのやりとりは、ちっとも漏れ聞こえてこない。

 どうしよう。なにか用でもでっち上げて、踏み込んでしまおうか。

 焦れたラシャがそんなことを考えていると、突然扉が開いた。

 出てきたのは、ジーンである。ラシャは掴みかかる勢いで、彼女に詰め寄った。


「な、なにしてたの!?」


 ジーンは気だるそうに長い赤毛をかき上げながら、答えた。


「誘惑したんだけど、うまく乗ってくれなかったわ。自信なくしちゃう」

「!」


 ラシャの全身を、喜びが駆け巡った。

 嬉しい。しかし、不思議でもある。同性から見てもただならぬ色気を感じるジーンの誘いを、跳ねのけるなんて。


「でも、どうして?」

「さあ? ギッチギチに勃ってたから、やる気はあったんだと思うけど」

「ぎ、ぎっちぎち……」


 ジーンは顎に手を当て、うーんと唸っている。


「思ったんだけど……。あの人に色仕掛けで迫るんだったら、ラシャちゃんのほうが向いてる気がするわ」

「え?」

「あなた言ってたじゃない。『自分だけを想ってくれる人がいい』って」

「――それが、なにか関係あるの?」


 意味が分からずラシャは尋ねたが、ジーンはからからと笑うだけで、詳しいことは教えてくれなかった。

 ――そう。

 あの青年もこの娘も、あまりに少女趣味過ぎて笑うしかない。

 唇を尖らせて、ジーンは言った。


「でも、ちょっと癪ね。リベンジマッチを申し込みたいわ。今度こそ絶対落としてみせるから。マハ様、ラグお嬢様と結婚して、この家に住んでくれないかしら? そうすればチャンスも増えるんだけど」


 ――こいつもか!


 仲間を諭すのは、これで三回目である。


「マハ様は結婚なんてしません!」

「最初と、ちょ~っとニュアンスが変わってるわよお? ラシャちゃん?」

「あっ……!」


 ジーンの言うとおりである。

 冷ややかに指摘され、ラシャは愕然となった。





 ジーンと入れ違いに客間に戻ると、いきなり怒声を投げつけられた。


「どこに行ってた!」

「え、あ……」


 まさか、扉の前で立ち聞きしてました、とも言えず――。ラシャは適当に誤魔化すことにした。


「ほ、ほかの仕事がございましたから……」

「客をほったらかしてか!」


 マハはなぜか機嫌が悪い。まるで留守番をさせられた子供のようだ。帰ってきた母親に、今までの心細かった気持ちと怒りをぶつけ、八つ当たりしているのだ。

 だが頭ごなしに責められれば、ラシャだってカチンとくる。


「――顎のとこ、口紅ついてますよ」

「!」


 意地の悪い目つきと口調で教えてやると、マハは慌てて顎を拭った。


「あ、はは……。えーと……。この家の使用人は、面白い奴が多いな。ニンジャといい、あの色気たっぷりの女といい」

「ジーンは……屋敷で一番人気のある女性ですから」

「まあ、あの胸ならそうだろうな。美人だし、性格も明るいし」

「あなただって、ああいう女性が好みなんじゃないんですか?」


 探るような上目遣いで、ラシャはマハに尋ねた。


「俺? いや、もちろん嫌いじゃないが、ちょっと刺激が強いな。俺はもう少し、こう、健康的な……」


 そしてなぜかマハはじっと自分の両手を見詰め、次にラシャに目をやった。

 今彼の手に蘇っているのは、この屋敷に到着してすぐに触れた、柔らかな膨らみの感触である。

 それも、上と下の両方。ささやかな胸と、その逆でずっしりと充実している尻。


「あの、マハ様……?」

「…………」


 マハはわざとらしく、ゴホンと咳払いをした。


「――厠を借りてもいいか」

「あ、はい。あちらです」


 ドアの向こうへ消えるまで、股間に重たいものでも詰まっているかのように、マハの歩き方はぎこちなかった。そのうえトイレに行ったきり、長いこと戻ってこない。


 ――冷えたのかな?


 先ほどまでの怒りはどこへやら、ラシャはマハの体調が心配になった。


 ――帰ってきたら、温かい飲みものを持ってきてあげようかな……。





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