第2話
国と国を繋ぐ道や、海路が整い始めて、物や金は盛んに動くようになった。近年のそのような流れの中、新たな商人たちが続々と産声を上げ、そのうちの賢い幾人かは莫大な富を築くことに成功した。しかし彼らは、そこで満足するということを知らない。手元の金を、もっともっと増やそうと奔走する。
商人たちは考えた。庶民相手の商売では、稼ぎもたかが知れている。だから富裕層を取り込もうと図ってみても、貴族たちはプライドが高く伝統を重んじるため、新興の商家などはまず相手にはしてくれない。
この段になって、多くの商人は強く思う。――自分の生まれが、卑しくなければ、と。
上流階級にも通じる名を持てば、貴族たちも自分の話を聞いてくれるだろう。社交界への出入りも許されるかもしれないし、もしかしたら王族相手の取引も望めるかもしれない。そうなれば、一体どれだけの金を、この手に掴むことができるのか――。
そんな野心家の商人の一人が、ある貴族に目を付けた。ガヌドゥ家である。現在はすっかり落ちぶれてしまったかの家は、昔は国一番の隆盛を誇った。その名を知る者も未だ多い。
――ガヌドゥの名を、取り込みたいと思うならば。
最も円満、かつ手っ取り早い方法は、縁続きになることだろう。結婚してしまえばいいのだ。
善は急げ、時は金なり。商人は早速行動に移す。
こうして新興商家「マカルカ」は、三男坊「マハ」を婿入りさせるべく、ガヌドゥ家の一人娘ラグスットに結婚を申し込んだ。
物語は、こうして始まったのである。
その日、ガヌドゥ邸内の空気はピリピリと張り詰めていた。朝っぱらから屋敷の隅々に響き渡る、金切り声のせいである。
「いいか! 先方は、もう隣町まで来ているそうだ! いつ当家にお見えになってもおかしくないんだぞ! さっさとせんか!」
声の主は、ガトゥール・ガヌドゥ。ガヌドゥ家の現当主である。
身体的特徴として挙げられるのは、チビでデブでハゲなオッサンであること。
内面的特徴として挙げられるのは、ケチで見栄っ張りであること。
――どうやっても、長所を見つけることができない。それも特徴のひとつだろうか。
ニ十年前の先代の病没後、ガトゥールはガヌドゥ家の当主となったのだが、各種事業に手を出し、ことごとく失敗。その結果、ほとんどの財産は泡と消えたのである。典型的なボンクラ跡取りだ。
「ぼーっとしてるんじゃない! ほら、動け動け!」
使用人たちは、ガトゥールのヒステリーに慣れっこだ。へいへいと聞き流すようにしているが、それでも良い気持ちはしない。特に使用人の長であるラシャは、主の言いように苛ついて仕方がなかった。
修繕したり買い直す費用はないから、確かにこの家の内装や調度品は少々くたびれている。だがいつだって彼女たち使用人は、埃一つ落ちていることのないように目を配っているのだ。
家内を清潔に保つ。それが自分たちの責務だと日々勤めているのに、ガトゥールときたらそんな努力を知ろうともせず、ただ怒鳴るだけだ。こんな主人の元で働くのは、なんとも張り合いがない。
「まったく、のろのろしおって! ラシャ! お前の教育が悪いんじゃないのか?」
最後には、ラシャを叱りつける。これが主のいつものパターンである。いちいち取り合うのもバカバカしくて、ラシャはなんの感情をこめず答えた。
「ここは私にお任せを。旦那様、そろそろお薬の時間じゃございませんか?」
「ふん! いいか、王宮並に磨き上げるんだぞ!」
最後まで傲慢に言いつけて、ガトゥールは自分の部屋に引きあげていった。
――こんなにボロくて寒々しい王宮が、あるかっつーの。
ラシャが声に出さず毒づいていると、すぐ側にいたジーンも首をすくめて見せた。
乾いた笑いを交わし合ってから、ラシャは背を屈めて、階段を点検し始めた。段にも手すりにもむらなくワックスが塗られている。問題なさそうだ。
「うん、OK。ここはもういいわ。あとは……そうね。大広間のブロンズ像を磨いてくれる?」
「りょーかーい」
ジーンはおどけて敬礼すると、大きな胸を揺らしつつ、大広間へ向かった。
二十歳という若さでありながら、ラシャはこの屋敷の使用人たちを束ねる立場にいる。年嵩で経験豊かな者たちがとっとと別の家に移ってしまったから、幼い頃からこの家に仕えていた彼女が、その任に就かざるを得なかったのだ。
ラシャ自身も、もちろん有能なメイドである。家事全般及び、庭木の手入れから家畜の世話までできる。面倒見も良く、慕う者は多い。
ラシャのことを快く思っていないのは、主のガトゥールくらいだ。あの男は自分がそうではないから、優れた者に対する嫉妬心が強いのである。
ラシャだって主のことは大嫌いだ。だが自身のプライドに懸けて、仕事の手を抜く気にはならなかった。
「――さてと」
大きく息を吐いて気分を入れ替えてから、ラシャは玄関に向かった。
――この家の命運を握る大事な客が、これからやってくる。
中庭や門付近も、余すところなく確認しておかなければならない。
外に出て行く前にふと思いついて振り返り、ラシャは屋敷の内部を見渡した。
一階には、大広間に食堂にホール。正面の大階段を上った先の二階には、ここのところずっと使われていなかった客間が五室と、蔵書数千冊を収めた書斎、そして主の私室とラグスットの部屋がある。
「この家を売ったら、少しは借金が減るんじゃないのかしら……」
まあそうしてしまったら、ガヌドゥ家の財産は全くなくなってしまうので、主は絶対に手放さないだろうが。
門の周辺を見て回ったが、落ち葉ひとつ落ちていなかった。
「よしよし。うーん、ちょっと疲れたなあ……」
ラシャは門に寄りかかり、しばしの休息を取った。
朝起きてから、ずっと働き通しだ。屋敷は大きいが、外は外でこれまただだっ広い。玄関から正門まで早足で歩いてもニ十分はかかるし、庭に至っては村人全員を招いて、運動会ができるだろう。
貧乏貴族には、分不相応というか――。
「本当に、無駄無駄無駄ァ! 使用人泣かせなんだよおおおお!」
つい空に向かって吼えてしまう。
――そのようなときだった。
「女」
その人の声は、不思議な響きを伴ってラシャの耳に届いた。
男性のものであるのは確かだったけれど、それほど低くもない。それなのに、妙な迫力を孕んでいた。聞いた者が自分に従うのは当たり前というような、威厳があるというべきか、偉そうというべきか……。それでいて、不快ではないのだ。
「……?」
ラシャは声の主をゆっくり振り返った。そこにいたのは、この辺りでは珍しくない、褐色の肌をした青年だった。
背が高く、体つきもがっしりとしていたが、顔には少し幼さが残っている。
しかしラシャがなにより惹き込まれたのは、青年の瞳だった。
「お前は、この家の者か」
「はい、そうですが……」
青年の深い闇色の瞳の中には、自分で見、聞き、歩く。そんな人間特有の、ゆるぎない強さが宿っていた。
「一目惚れ」という言葉がある。
それでは――。
「主人に取り次ぎを願いたい。マハ・マカルカが来たと言えば分かる」
――マカルカ。
ラシャはわずかに眉を動かした。
「……かしこまりました。どうぞご一緒にお出でください」
――ついに来た……!
この青年は、つまりガトゥールが勝手に取り決めた、ラグスットの許嫁だ。
内心の動揺を隠して、ラシャは青年――マハを伴い、屋敷への道を戻り始めた。
昂ぶる想いが顔に出ないよう、必死に堪える。そんなラシャの頭は、なぜか突然後ろに反った。
「いたっ!」
どうやら後ろからついて来るマハ・マカルカが、ラシャの髪を掴んでいるらしい。
ラシャの金色の髪は頭の高い位置でひとつに束ねられており、歩くたび馬の尻尾のように揺れる。つい引っ張りたくなる、その気持ちも分からないではないが、しかしこれではまるっきり子供のいたずらだ。
「金髪とは珍しいな」
「あっ、あの、祖母が移民ですので……」
ラシャたちの暮らす王国は、人口のほとんどが単一の人種で占められている。彼らの特徴は浅黒い肌に、長身痩躯。髪と瞳の色は黒だ。マハ・マカルカの外見は、まさにそのとおりである。
ラシャのような金色の――正確には明るい茶色なのだが、そういった髪色をした者は珍しい。だからなのか、マハはラシャの髪に随分執心しており、手に持ったまま離そうとしなかった。
「あ、の……!」
離して、と叫びたかったが、頭一つ分高い位置にある青年の整った顔は妙に真剣で、逆らうことがためらわれる。
マハは真面目な表情のまま、つぶやいた。
「髪が金色ということは、下の毛もそうなのか?」
「なっ!」
あまりに下品な質問に我に返ったラシャは、強引にマハの手から逃れた。睨んでやろうかと向き直った瞬間には、しかし彼に眼前まで距離を詰められている。その素早さに怯んだ隙に、今度は顎を掬われてしまった。
「眉と睫は金色、だな。ということは、やはり陰毛も……」
「いっ、いやらしいことを言わないで!」
息が当たるほど近くに野性味溢れる、だが端正な顔だちがある。
「よく見れば、肌も幾分か白い。瞳は茶色いのか」
そう言って、マハの視線は少しずつ下へ下へと下がっていく。
――ん?
ラシャの背にぞわぞわと悪寒が走った。これは女にしか分からない感覚だろう。
自分の体の、性的な部位に絡みつく視線。マハが凝視しているのは――。
身を守ろうとしたときにはもう遅く、マハの右手はラシャの胸をがっしりと掴んでいた。
「うーむ。まあまあ、か?」
「え、あ、え」
あまりに突然の辱めに動けずにいると、青年のもう片方の手が、背中側にある下半身の膨らみに触れた。
「~~~~!」
胸と尻。マハの手は両方に置かれ、大きさを確かめるように遠慮なく、それらを揉みしだいている。
「――胸の大きさの割に、尻がでかくないか?」
「!」
その侮辱的なコメントが、ラシャの金縛りを解く呪文となった。
「人に痴漢行為を働いておきながら、なにしつれーなこと言ってんのよ! このセクハラ野郎があ!」
一度体を沈ませてから、勢いをつけて、ラシャは渾身の回し蹴りを放った。
「うわ!」
マハは間一髪で攻撃を避けた。しかし蹴りの風圧で短い前髪を揺らされ、ぞっと青ざめている。
当たっていたら、なかなかの威力だったろう。ラシャの足捌きは、女とはいえ侮れない。
「なにをする!」
マハは怒鳴った。対するラシャは乱れた服の裾を正したのち、腰を落として、攻撃の構えを取った。
「申し訳ありません。足が滑りました」
「う……」
脳天でも叩き割ってくれようか。それほどの憤りを目の前の女から感じ取って、マハは後退りながら悪態をついた。
「嫁にしようという女の品定めをして、なにが悪い!」
「……嫁?」
どうやらこの男は、ラシャをこの家の娘と勘違いしているらしい。いや、例えラグスットと間違えたにしろ、いきなり胸を揉むなんて、常識外れもいいところなのだが。
「………………」
とりあえず攻撃体制を解くと、ラシャは胡乱な目つきでマハを睨んだ。
「な、なんだ!」
「ご案内しますので、もう余計なことはなさいませんように」
先ほど激しく掴まれた胸が、ズキズキと痛む。
――最低、最低、最低。
この男はどうしようもないエロガキだ。
「一目惚れ」という言葉がある。
――それでは、一瞬で誰かを嫌いになることを、なんと言うのだろう?
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