妃殿下の祈り
初めて我が子を抱いた魔王(あなた)の顔を、きっと一生忘れない。
我が息子は、真ん丸な目で父親を見上げている。
瞳の色は、両親のどちらとも違う琥珀色。後で白状させた所によると、魔王の母親と同じ色らしい。
混じりものの証である紫色を継がなかった息子を、彼はどんな思いで見つめていたのだろう。
幸せになれ、と小さく呟いた声は、きっとわたしたち親子だけが知っている。
わたしが初めて息子の瞳の色を見たとき、本当は少しがっかりしてしまったのは、内緒だ。
子供の成長は著しく、よたよたと歩くようになった息子は、魔王にべったりと懐いた。
高いものに登りたがる息子は、魔王の膝がいたくお気に入りで、座らせておくと1日ご機嫌だ。
かつては「寄らば切る!」という殺伐とした空気を纏っていた魔王と息子のツーショットは、城の者を和ませるには充分すぎる光景だ。
幼児を膝に乗せて執務を取る魔王。
わたしは見るたびに笑ってしまった。
息子の伯母に当たる彼女も頻繁に顔を出しに来る。
甥っ子が可愛くて仕方ない様子である。
彼女には子供がいないので、余計に構いたくなるらしい。
『結婚は、別にしたくないかな』と言っていたので、今でも独身だ。
我が祖国の騎士隊長殿は、また彼女にフラレたらしい。
それでも懲りずに次の求婚の台詞を考えているというから、おめでたい。
しかし、わたしはいつか彼女がほだされて、結婚を承諾するのではないかと密かに思っている。
「まーま」
「なあに」
「うー、うーちゃ」
「パパはまだ仕事だよ」
息子は魔王をうーちゃんと呼ぶ。どうやらわたしが「ウィー」と呼んでいるのを真似しているらしい。
うーちゃん。最初に息子がそう読んだときは、誰のことだか分からなかった。
気づいて思わず笑った。
だってうーちゃんだ。あの魔王を捕まえて、こんな呼び方をした者が今までいただろうか。いや、いない。流石我が息子。
いつもは親子3人川の字になって寝るのだが、今日は魔王の帰りが遅いらしい。
先に寝かし付けようとしても、魔王様大好きである息子は納得しない。うーうー抗議している。
母親としては少しばかり嫉妬を覚えてしまう。
ぽんぽんと布団を叩いて息子をあやしつつ、魔王と出会った頃のことを思い出した。彼の側近は「我が主は結婚されて丸くなりました」と言っていたが、本当だろうか。
一代で魔王に成り上がった彼は、唯一の血縁である姉に執着していた。今もだが。
他人には冷酷な所もあると今では知っているが、身内に入れたものは全力で庇護する。何事も、手を抜いたりできない人なのだ。そんなところも愛しいと言ったら、笑われるだろうか。
気がつけば、息子はすよすよと平和な寝息をたてていた。睡眠の欲求には勝てなかったようだ。
かたりと部屋の扉が開く。振り返れば、入ってきたのは話題の人、魔王様である。彼は執務室から直行したのだろう、まだマントをつけたままの姿であった。
真っ直ぐにベッドへやって来た彼は、口許をむにゅっとさせて眠る息子を見下ろした。
「……寝てるな」
「お帰りなさい。今寝たところですよ」
無表情はいつも通りで、別に不機嫌なわけではない。
それでもわたしは少し笑ってしまった。せっかく早く急いで戻って来たのに、残念でしたね。
魔王の城に居着いて、6年。今では彼の考えていることが結構分かるようになった。
魔王がそのままベッドに腰を下ろそうとしたので、袖を引いて止める。
「駄目ですよ! 着替えてからです」
「……」
あら、ちょっと不満げ。でもわたしは知っています。
そのままだと、ずーっと子供の顔を眺めたまま夜明かしてしまうときがあるのだ。
魔王は自分のことはおざなりだ。お姉さんとか仕事のことにはマメなのに、少し不思議である。
そういうところが放っておけないのだ。
彼が背負うものの全てを理解出来るとは思わないけれど、一緒に歩くことは出来るのではないだろうか。
言われるままに衣装を着替える魔王。
いつも思うが、そんなに色々身につけて肩が凝らないのだろうか。
剥き出しになった背中に、うっすらと残る傷痕。
昔のことを語りたがらない魔王がぽつりと漏らした所によると、幼い頃のものらしい。大小様々な傷痕。
手をのばして触れると、肩がびくりと反応した。
「触るな」
「嫌です」
彼は触られるという行為が苦手だ。自分から触れに行くのは平気なのに、何とも難儀な性質である。
やれやれと思いつつ、その背中を思いっきり抱き締める。一瞬硬直した魔王は、ギギギっと振り返った。
「ミシャ」
「はい」
「離れろ」
「嫌です」
だって離れたら逃げていっちゃうじゃない。
そろそろ、分かってくれてもいいのに。
わたしは笑った。
紫の瞳が眇められる。今ではもう、全然怖くない。
こんな未来が来ることを、わたしは想像したこともなかった。
でも、予想外の今も悪くないと思う。
魔王(あなた)はまだ信じられないみたいだけど、わたしはいなくなったりしないよ。
いつか、彼が信じてくれる日まで、息子と二人頑張ろうと思う。
凍りついた心が溶けるまで、隣で笑うよ。
それでいつか、心から笑って欲しい。
きっと雪解けはもうすぐ。
貴方の幸せを、心から願った。
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