第48話
ふいに、目が覚めた。
なにか胸がざわつくような、落ち着かない感覚。
体に掛けた毛布を除けて、身を起こす。
窓から差し込む月明りだけが、部屋を照らしている。
誰もいないのは、簡単に見て取れた。
胸に手を当てて、肩の力を抜く。
色々と忙しかったせいで、まだ緊張が残っているようだった。
『どうした。ルフィア』
隣で寝ていたウラガーンが片目を開けてこちらを見ていた。
「ううん、ちょっと目が覚めただけ」
『大丈夫か?』
「体はもう大体回復してきたから、大丈夫。なんとなく落ち着かなくて」
声を掛けると、ウラガーンは体を起こし、壁を一瞥する。
その先には、オルレニアのいる部屋がある。
『……少し、外に出るか?』
「オルレニアさんが止めに来るよ」
『私がいれば大抵のことは問題ないはずだ。それに気付いたのなら、オルレニアも付いてくるだろう』
「それも、そっか」
少し考えてから、寝台の隣に置いてある剣を取った。
上着と外套だけを羽織って、革帯に鞘を括りつける。
「行こう、ウラガーン」
『夜は良い。とても、とても高ぶる』
笑みを返すと、ウラガーンはぐるると喉を鳴らす。
それからすぐに人の姿に変化すると、長い銀色の髪を尻尾のように揺らした。
部屋を出て、階段を下りて、移動する。
念のために足音を潜め、かがんで歩いてると、ウラガーンも真似して人の姿のまま四つ足でゆっくりと付いてくる。
いってきます、と小さな声で言ってから、ルフィアは玄関の扉を開けた。
冷たい風が流れ込む。
庭に飾られた花から甘い匂いが漂ってくる。
同時に、視界になびく青色が入った。
「あ……」
鉄柵の門前に、カフリノが立っていた。
普段と変わらない小さな笑みを口元に浮かべて、首を傾げている。
近くにアルテの姿はなく、どうやら一人のようだった。
「少し夜風に当たろうと思ったんです。無理はしませんから」
『私が付いている』
弁解を口にすると、隣でウラガーンが狼の姿になる。
カフリノは変わらず無口のまま、一層首を傾げた。
そして視線を迷わせたあとに、まるで滑るような足取りで目前に来た。
身長は並ぶほど、視線もちょうど直線に並ぶほど。
まるで一本線を通したように、カフリノの深い青色の瞳がこちらの目に合わせられる。
「な、なんでしょう?」
カフリノは困ったように眉をひそめると、今度はウラガーンに向いた。
「ヤロルテ、ケテ、タリエ」
そして、ささやくように声を上げる。
『私には細かいことはわからぬ。勝手にやってくれ』
ウラガーンはなにかを理解したように、カフリノの手のひらに自分の額を当てた。
その様子を見て、カフリノは小さく頷く。
「”ユティ、コフリカ、コルホリル”」
それから、今度は歌うように呟いた。
すると、ウラガーンから銀色の光が伸びて、ルフィアの体を包みこむ。
一瞬だけ警戒したが、ウラガーンが受け入れているならば、恐らく問題になるようなことではないのだろう。
握った手を、ゆっくりと開く。
目の前でゆらりとカフリノが顔を向けていた。
「これで、お話できますね。エクイレ――ルフィア・エリンツィナさま」
ほのかに掠れの混じった、高く透明感のある声。
どこか少女的で、二十余の見た目よりやや幼いように聞こえる声だった。
「話して、いいんですか?」
「お話できないのは、もしものときを考えてです。いま、そちらのエクコリテ――ウラガーンさまの力を借りて、守りの魔術をかけさせていただきました。これなら、もしもわたしの力があなたを襲っても大丈夫です」
「なる、ほど?」
「安心してくださいませ。これでも、魔術を使うのは得意なのですよ」
つまり、危険がなくなったから話せるようになった、ということだろう。
なにをどうしたのか、などはルフィアが考えてもわからない。
わかることは、今の少しのやり取りの間に、複雑な魔術が使われていたということだ。
「それで、カフリノさんはわたしたちを止めようと、していたんですよね?」
「そうなのですか?」
「だって、門の前に立っていたので」
「いえ、立っていただけです」
するりと言葉が抜けるように、カフリノは答えた。
「つまり、止めるつもりはないと」
「止めるなら、ヴィエナさまが来ると思います。わたしは、そうですね。どちらかというなら、ついていきたいほうですね」
「え、えぇ?」
「夜って心が揺れると思いませんか? どこかに行きたくなる、みたいな」
筆談で、ある程度理解したと思っていた。
アルテより控えめで、しかしその根底に芯のある女性、という想像だった。
――こんな、雰囲気だったか。
ルフィアの視線を受けて、カフリノはふふと失笑した。
「困らせてごめんなさい、半分は冗談です」
カフリノの青い瞳が、ほのかに星空を映した。
「わたしがここにいるのは、姉さまからのお願いによるものです。あなたがこの街を去る前に、伝えないといけないことがあります」
真剣なまなざしだった。
正直な話、ルフィアはカフリノについて、確実な信頼があるわけではない。
それは事実として、共に過ごした時間が短すぎるからだ。アルテが信頼しているから大丈夫だろうという憶測でしか、カフリノを見ることができない。
華奢な淑女に見えるカフリノは、その実、強大な力を持つ『色の騎士』だ。
もしもカフリノが何らかの思惑を持っていて、ルフィアに危害を加えようと考えていた場合、ルフィアはそれに抗う術を持たない。
ただ、そんな理屈とはべつに、ルフィアは自分の勘を信じていた。
それはある種の、野生のものだ。
『ルフィア』
「わかりました。カフリノさん、移動しながら話しましょう」
「ありがとうございます」
カフリノは目を伏せ、膝を傾けて一礼した。
その瞳は、変わらず星空のように煌めき、青く輝いていた。
◎◎◎◎
寒い夜には、雪解けが止まる。
外套をまとっていても、鋭い冷気が意識をはっきりさせた。
未だ悠々と残っている雪原を銀狼の足が踏みつける。
まるで風になったかのように、周囲の風景が流れていく。
どくどくとウラガーンの胸を打つ力強い心臓の音が、体から伝わっていた。
その隣を、青い光の帯が続いている。薄く、高い音が耳を撫で、それは鼓動と一体となって独特の旋律となる。
生命の奏でる音楽、とでも呼べるだろうか。
なるほど、歌姫の手にかかれば、すべてが歌になるらしい。
『耳をふさげ』
森へ入るなり、ウラガーンは夜に高ぶり唸る野獣たちを一声で押さえつける。
若いものなどは牙を剥いていたが、ウラガーンのひと睨みで口を噤んだ。
獣たちはすでに春の気配に動きはじめており、夜だというのに、あちこちでなにかが動いている気配があった。
少し進み、開けた小丘に出る。
よく日が当たるのか、雪解けが進んだ丘だった。
ウラガーンはその中央でふんと鼻を鳴らし、膝を畳むと、ルフィアを包みこむように丸まった。
耳の付け根を撫でると、小さく唸って大きな頭を膝の上に乗せてくる。
「仲がよろしいのですね」
そんなルフィアの前で青い光の線が人の形となり、カフリノを描き出す。
魔法の一種だというが、ウラガーンに付いてこられるのなら相当な速度だ。
「お世話になってばかりなんですけどね」
「ふふ、そうなのでしょうか」
ふわりと笑ってカフリノがウラガーンを覗き込むと、その耳が軽く動く。
特に不満はない、と言いたげな素振りだった。
ルフィアはもう一度軽く撫でてから、カフリノに顔を向ける。
「それで、ここまで離れたら大丈夫ですか?」
「気付いていらしたのですね」
「離れる必要がないなら、あの場所で話してもよかったと思うので」
「そうですね。……ヴィエナさまたちには、できれば聞かれたくない話です」
「お互いに気づかれたくなかった、と」
ルフィアがそう言うと、カフリノは苦笑しながら衣裳の裾を抑えて座った。
「聞かれたくないとはいえ、悪いことを話すとかではありません。ただ、諸々の事情を姉さまと鑑みた結果、隠したほうがいいと結論しました」
「そういえば、アルテさんは?」
「追ってきそうな人がいたので、食い止めると」
「……ロンバウトさんですか?」
小首をかしげたのは、肯定だろう。
カフリノはそこまで反応してから、人差し指を唇に添えて、細い息を吐いた。
高い音が鳴り、そこから青く輝く吹雪のように細かい結晶が散らばり、ルフィアたちを包み込む。
高い音が止むと、煌めく結晶たちはそのまま停止し、周囲の音が消えた。
「これは防音の魔法。ほかにもいくつか魔術を使いますけれど、不安でしょうから説明しておきますね」
カフリノは両手指を細かく動かしながら、続けて魔術を使った。
ひとつは、遠くまで声が届かないようにするもの。
ふたつは、『黒』に限定して、干渉を妨げるもの。
みっつは、ウラガーンの力を借り、ルフィアの体を魔法から守るもの。
よっつめが、『色使い』の何者かが近づいた際に警鐘を鳴らすもの。
「現在使っているのは、この四つの魔術です」
「そんなに厳重にしないといけないんですか?」
「昔はこのくらいはふつうでした。とはいえ相手がヴィエナさまですから、ほとんど気休めにしかなりませんね」
「だから、距離を作ったと」
「単純なものほど、案外効果的だったりします」
丁寧に説明してくれるのは、敵意がないという表明だろう。
カフリノ自身、あまり信用されていないという意識があるようだ。
「わたしの声が安定してくれるとも限りませんから、早く話してしまいますね。わからないことも多いと思いますけれど、ひとまず聞いてくださると助かります」
こくりと頷くと、カフリノは頷き返す。
それから少し迷ったように口を開閉させて、それから言葉を紡ぐ。
「ルフィアさん。あなたは白の娘――ソティエ・クルティという名前に聞き覚えはありませんか?」
ルフィアは眉をひそめると、カフリノは目を細める。
「なんですか? それ」
「やはり、ご存じないのですね」
記憶を辿ってみても、白い白いとは言われてきたが、白の娘と呼ばれた記憶はない。
加えて、あえて言い換えた先の呼称は、恐らく古代の言葉だろう。
ルフィアの知り合いに、少なくともその言語を扱う人物はいなかった。
「本来ならば、ヴィエナさまが気付き、あなたに教えているべき情報なのです」
「なる、ほど」
「白の娘は、白に愛された存在。生まれながらにして強い白の力を抱えた存在です。通常の白皮、アルビノよりも強い白の力は、通常なら侵食する他の色をはねのける力があります」
話しながら、カフリノはルフィアの手を取った。
カフリノの肌も白いが、比べてもルフィアの肌は純粋な白色だった。
「日焼けに強く、陽光に目が眩まない。ルフィアさんは、そうではありませんか?」
「あまり、意識したことはありません」
「意識するほどのことでもないという時点で、白皮には珍しいことなのですよ」
そこまで言われれば、さすがにわかる。
「つまりわたしが、その、白の娘だと?」
「触れただけで、浸食した黒を退ける。わたしたちの歌で、深手が完全に治る。通常の白の色使いでは、ありえないことです。ほかにも色々ありますけれど、姉さまはあなたを、白の娘だと判断いたしました」
白は、ルフィアの嫌いな色だ。
生まれつきのものは仕方ないと我慢しているが、そこに意味があるとなれば、複雑な気分にもなってしまう。
「それが、どういった問題に?」
「それ自体が問題ではありません。ヴィエナさまがそのことについて、なにもあなたに教えていないことを、危惧しています」
「どういう、ことですか……?」
申し訳なさそうにカフリノは眉尻を下げる。
「これからあのお方と旅を続けるあなたに、こんなことを言うべきではないのかもしれません」
ですが、と言葉が続く。
「ヴィエナさまは、なにかを隠しています。それはきっと、あなたが白の娘であることと、関係しているはずです」
驚きながら、その言葉を否定することができなかった。
プラーミアに来た初め、オルレニアはなにかを隠しているとルフィアに言っていた。
カフリノを見ると、その青い瞳が揺れていた。
その隠し事の中身を、カフリノは知っているのかもしれない。
それでも伝えないのは、きっとオルレニアに対する畏怖からだろう。
「細かい話ができず、ごめんなさい。でも、ヴィエナさまを盲信してはなりません。あのお方はタガル・エカルティ――至上の色使いではありますけれど、それでも、その力を操るのは、あのお方の意思ひとつなのです」
息を吸い、カフリノはルフィアの頬に手を添えた。
「あなたは、あなたの意思で行動なさってください。何者に縛られないことを、強く意識しておいてくださいませ」
添えられた手に、自らの手を重ねる。
カフリノの声は、とても優しく聞こえる。
ただ、その喉奥の震えは、きっと隠せない緊張だった。
「正直言って、よくわかりませんけど……わかりました。自分の考えで行動しろ、ってことですよね?」
「……大体、そんな感じです」
「はい、わかりました」
カフリノの手を両手で握り、ルフィアは笑う。
その笑みにつられたのか、カフリノの真剣な表情を崩して微笑する。
次の瞬間、ルフィアたちを囲んでいた結晶の一部が割れた。
「わたしの声も不安定になってきました。ルフィアさんのお身体も心配ですから、そろそろお屋敷のほうに戻りましょう」
指先をくるくると回せば、周囲の魔法が消える。
ルフィアが立ち上がろうとするとウラガーンも身体を起こし、空に吠えた。
「あ、カフリノさんも乗りますか?」
「甘えてもよろしいのですか?」
『ひとりでもふたりでも変わらぬ。勝手にしろ』
すました顔で言うウラガーンを二人で撫でまわしたあと、ルフィアを前にして、二人でその背に乗った。
まだ夜は深く、星と月が照らす雪原を駆けていく。
しばらく走れば、高い壁に囲まれた街が見えた。
夜だというのに煙を上げ、その上空は無数の炉の光によって薄らと赤くなっている。
ウラガーンが力強い足音を立て、地面を蹴る。
外壁を飛び越える瞬間、小さく、胸がざわつく感覚があった。
◎◎◎◎
妙な予感がする。
呑んでいた酒の味が、急に無くなったように思えた。
適当に勘定して、石槌を片手に酒場を後にする。
冷たい空気が、ほのかな酔いを覚ました。
「なんだってんだ」
ドルフはこの予感を知っている。
戦場を駆けまわっていた頃、ちょうどゲルダンと初めて出会った時なんかは、特に顕著に感じたものだ。
その戦争は苛烈だった。
小国同士の戦争でありながら、大量に雇われた傭兵のせいで戦場がかき乱され、敵も味方もわからない状態だった。
その中で、ドルフは多くの戦友を失った。つい昨日まで酒を呑み交わしていた男が、まだ喧嘩で殴られた痕が残っているうちに、死体になっていた。
その上で自分を雇っていた国が負け、前金だけ握って敵国の追手から逃げる羽目になり、散々な目にあった後にプラーミアにたどり着いた。
それからだ。
ドルフが仲間を失うことに抵抗を持ち始めたのは。
――つまり、この胸がざわつくような予感は、ろくなことが起きないということだ。
「またあいつらだろ」
そして最近この街を騒がせているのは、錬金術師の特区にいるルフィア関係が多い。
ドルフはいつでも戦えるように石槌を担いだまま、特区の門を越える。
門兵は眠たげな目でドルフを見るが、どうせ先は無法地帯だ。
咎めることもしなかった。
特区のうねった通りを歩きながら、その路地裏をちらちらと探す。
問題の種は、こういった場所に隠れている。
そうやってしばらく歩いたところで、足を止めた。
「おう、見つけたぜ」
黒い身体。
焦げた痕。
しかしそれは死体ではなく、ゆっくりと立ち上がり、月明かりに大きな爪を輝かせた。
「お前ぇ、俺を雇おうとした奴だろ」
大柄なドルフの倍以上ある身長。
山羊の頭に、隆々とした人の身体を持ち、両手足から伸びる湾曲した鋭い爪。
先日の騒動で見たことがある。
そこにいたのは、溢れんばかりの怒りを目に宿した悪魔だった。
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