第45話

 北の地の生活は厳しい。


 大きな街に市民権を持つ者はマシなものだが、村や集落に所属している住民さえ、まともに生活できない者は多い。

 寒さはもちろん、雪や獣による災害、食糧不足による餓死。

 大小はあれど集団に属していなければ、ただ生きるだけのことが難しい。


 そんな、生活に困窮した人々のなかには、大きな街に逃げ込む者たちがいる。

 彼らは本来街に住むことを許されない存在だが、非合法の人員というものは、何かしら役に立つことが多い。

 そして街が失われることを恐れる彼らは除雪や修繕作業などを率先して引き受けるため、町人にとっても利があった。


 街も彼らの利用価値を知っているからこそ、野放しにしている。結果として彼らの住まう場所が生まれ、町人が嘲るために名がつけられる。

 街にふさわしくない、貧しい者たちの区画。

 北の地の街に多く見られる小さな区画はやがて、貧民区と呼ばれるようになった。


「ちょうどいい人の群れだったというわけね」


 風と雪を凌ぐためだけに作られた粗末な小屋たち。

 職人区からの排水を流すための水道の周りには石畳が剥がされた痕があり、食べても問題のない植物が植えられていた。


 水を濾過するための小石が山ほど置かれていたり、彼らの努力の痕ははっきりと見える。きっと春になればこれらの植物はよく育ち、腹の足しになっていたはずだ。


 貧民は貧民なりに生活がある。


 南の地の貧民は奪い合いを基本としていたが、奪い合えば全滅するのが北の地だ。

 協力しなければ生きてゆけないことを知っているため、家を作る作業や、食事の用意など、彼らの関係は大きな家族のようなものだっただろう。


 それが今、彼らの姿は一人として見当たらない。


「『黒』を食物に潜ませたのね」


 プラーミアに溢れた無数の黒い影――弱小の『魔者』たち。

 あれだけの人間をどこから用意したのかは、この光景を見れば容易にわかる。


『黒』を多分に含んだ食物を口にすれば、人は簡単に『魔者』に堕ちる。『崩れた色彩』はそうやって貧民たちを尖兵にしたのだ。


「カフリノ」


 振り返り、自分と瓜二つの妹に声を掛ける。

 アルテとカフリノが居た貧民街はほんとうに悲惨な場所だった。比べるべくもないほどこちらの方がマシだが、貧民たちに抱く同情の念に違いはない。


「鎮魂歌を」


 カフリノが小さく頷けば、空間が波打ち、その背後に二十を超える青い人影が現れた。

 彼らにアルテが作り出した『赤』の楽器を持たせれば変色が起こり、紫の人影と楽器によって構成された音楽隊が完成する。


「”アケルテ始め”」


 指揮者が腕を振るえば、音楽が始まる。

 アルテが口を開き、唄を紡げば、裏から支えるようにカフリノが重唱した。


 風景が水面のように揺れ、変化する。土地に刻まれた『色』の記憶が描かれ、アルテの目に、人々の生活が映し出される。

 ――今は捨て置かれた大きな窯を囲う、大小さまざまの影。狩り道具を作る細身の男や、子どもたちと共に家を補修する女性の姿。

 それが一人ずつ黒く染まり、『魔者』へと変貌していく。


「”ナテァリ集え”」


 アルテとカフリノを包むように緋色の風が走り、薄青の細かな結晶が煌めけば、暗色の小さな無数の球体が二人の眼前に現れた。


『黒』に染まった魂は輪廻することがない。長い間を世界の染みとして残り続け、苦痛のなかで崩壊する。

『歌姫』の鎮魂歌はそんな魂たちから『黒』を祓い、輪廻の波に載せる力があった。


 かつてにおいても、戦場ではよく歌ったものだ。


 魂――その生物を形作っていた『色』の塊――を呼び寄せては『黒』を祓っていく光景は、緻密で美しいと言われる。

 しかし空を舞う暗色の球体が次第に各々の色を取り戻し、虹を描きながら消えていく光景を、アルテは美しいとは思えない。


 こうすることで彼らはいずれ生まれ変わる。正しく輪廻に乗って、互いに惹かれ合う魂ならば、再び出会うことも出来るだろう。

 しかしそうやって出会った魂が、互いの以前の姿を知ることはない。


 輪廻に乗ることは、消えるよりマシというだけだ。


「ラ――」

 

 演奏は平坦で、ゆるりと続く。


 どれくらいの時間、唄っただろう。

 朝日がちょうど頭上に来た頃には、最後の魂が空に消えた。


 口を閉じ、一息吐けば、音楽隊を含めた『色』の影響が消え、幻想が消える。


「お疲れさま、カフリノ」


 カフリノは少し疲れのある顔で口を開こうとして、軽く微笑むに留めた。


 慣れていない身体では声に『色』が乗ってしまう可能性がある。

 その危険性も鑑みて、カフリノは声を出さないように努めてくれていた。


「さ、なにか買って帰りましょうか――」


 カフリノに微笑み返して歩き出そうとした瞬間、アルテの視界の隅を稲妻が走る。

 咄嗟に片手に『色』を流して魔法を作ろうとしたところで、アルテは目の前に現れた青年を見て、霧散させた。


「あなたは本当に、いつも突然ですわね」

「……忙しい身でね。用事はなるべく早く済ませたいんだ」


 かつてから、まるで変わっていない。


 日の光に煌めく金髪と、宝石のような青い目。

 いつまで若者を気取っているのか、青年の姿をしたロンバウトをアルテはため息で迎える。

 ロンバウトはアルテの反応に苦笑いを浮かべながら、四つ折りになった白い紙を差し出した。


「ほら、君に頼まれていたものだ」

「昨日頼んだばかりでしょう。確かな情報なのかしら?」

「まあ、人脈はそれなりに築いているからね。それぞれ距離はあるが……ほら、私は速さだけが取り柄だろう?」

「どうでも良いわ。嘘だったら承知しませんわよ」


 紙を受け取って軽く睨めば、勘弁してほしいなと溢す。

 昔から貴族の子女たちには人気の笑顔を浮かべているが、アルテからすれば胡散臭いだけだ。

 いつも全てを知っているような余裕の顔で、うざったいことこの上ない。


 オルレニアはロンバウトに信頼を寄せているようだが、アルテにはそれほどの価値がある男だと思えなかった。


「君たちには負い目もあるからね。これ以上印象を悪くするのは私も望まないさ」

「わかっているなら、もっとこの街を救うことに力を尽くしてはいかがでしたの? 『色の準騎士』の一人や二人、簡単に殺せたでしょうに」

「……色々、事情があってね」

「あなたは昔から、本当に変わりませんのね。その事情とやらを教える口はありませんの? 相も変わらず皮を被って、人に姿を見られるのがそんなにお嫌いかしら?」

「すまないが――」


 全身の『赤』を瞳に集めて、ロンバウトに放つ。

 アルテから放たれた赤い波はロンバウトを呑み込むと、その表面の『色』を剥がしとった。


「手間がかかるから、やめてくれないか」


 白い肌も、金の髪も青い目も、そこにはなかった。


 浅黒い肌に、黒い髪と金色の瞳を持った青年は笑顔まで剥がされて、煩わしそうにアルテを見据えた。


「わたくし、素直な人のほうが好みですの」

「べつに、君に好まれたいとも思っていなかったがね」


 アルテは手を伸ばして、ロンバウトの黒い髪を撫でる。

 指先に灼けるような痛みが走り、その『色』の意味を教えてくれた。


「こんな不安定な『黒』、なにに使うつもりですの?」

「それも君たちに話すことじゃない。理解するべき相手には伝えてある」

「あら、随分と冷たい物言いですこと」

「温かい言葉が欲しかったのか?」


 八重歯をむき出して嗤う顔から、この男の本性が覗いている。


 物腰やわらかく、丁寧な笑顔なんて欺瞞。冷徹で意地が悪く、他人を弄び、自分の牙で食らい尽くそうとする獣のような本性が。


「ノーグ商会に所属していて、こちらの手助けもせず、隠れ身を暴けば『黒の力』が表れる。おまけにわたくしにさえ話せない事情だなんて」


 手を放して一歩引いて、喉に手を当てる。


「あなたが何と言い訳しようと構いませんけれど、わたくしからすれば、『崩れた色彩』との関与を疑わざるを得ませんわよ」

「君の立場なら、確かにそう思っても仕方ない。君は私を嫌っているから、なおさらのことだろうな」


 ロンバウトの身体の表面を、金色の稲妻が走る。

 歯向かってくるかと身構えれば、ロンバウトは手を懐に入れた。


「言い訳はオルレニア様に伝えてある。君はこれを届けてくれたまえ」


 ロンバウトは一枚の手紙を空に投げた。

 手紙に目を惹かれた瞬間、閃光が走る。


 真っ白い光に視界を奪われ、アルテは舌打ちを溢した。


 ――やられた。


 閃光が収まると、ロンバウトは既に姿を消していた。

 

 かつてより言われていた。

 あれは、『逃げ足の騎士』だ。


「……言い訳を並べないだけマシかしらね」


 ロンバウトが立っていた場所には、一枚の便箋が落ちていた。

 丁寧に折られたそれには、無駄に丁寧な字で「オルレニア様へ」と書かれている。

 

 アルテはそれを拾い上げると、便箋を開いて、中に入っている手紙を取り出した。


 ――盗み見とは良くないな、アルテ。


 手紙の裏側、便箋の内側に書かれた文に、顔をしかめる。


 はぁと重いため息を吐いてから、手紙を便箋に納めた。


『楽しそうですね、姉さま』


 振り返ると同時に、頭のなかに鈴のような可愛らしい声が響く。

 見れば、カフリノが身体の周りに青い結晶を浮かべていた。


 結晶が震えると同時に、声が聞こえる。

 相手に自らの『青』を送りこみ、自分の思考を伝える魔法だ。


 相手がカフリノの『青』を受け入れることが前提であり、カフリノの『色』の操作が器用であるからこそ出来る芸当でもある。

 もしアルテが真似すれば、伝える相手を燃やし尽くしてしまうことだろう。


「べつに、楽しくはないわ」

『でも姉さま、アレクセンさまとお話するときはいつも元気ですよ?』

「勘弁してくれないかしら……」

『ふふ、アレクセンさまがあんな顔するの、姉さまかトリアさまの前だけですのに』


 カフリノも本当に、昔から変わっていない。

 アルテとアレクセンが言い合いをしていると、その間に入ってうやむやにしてしまうことのがカフリノだった。


 子供っぽいのに淑やかで、儚げなのに芯があり、意外と頑固だったりする。


「わたくしは、カフリノ一筋よ」

『まあ、嬉しい』


 びしりと言い放てば、カフリノは両手を合わせて笑った。

 その笑顔を見ると、温かい感情が胸の内を満たす。


 ロンバウトへの不快な感情が、洗い流されるようだった。


「あの男のことはもういいわ。さ、帰りましょうか」


 カフリノは頷きを返す。

 会話に『色の力』を使うのは、馴染んでいない身体では大きな負担になる。出来るだけ会話は控えるべきだった。


 もどかしく思うが、カフリノのことなら声が無くともわかる。

 たった数年、身体が馴染むまでの辛抱だと思えば、大したことではない。


 長い間、胸のうちを満たしていた暗い感情が、少しずつ晴れて行っている。


 歩き出した先に見える太陽が、まるで自らを祝福しているようにすら思えた。



 ◎◎◎◎



「それで、皆さん出かけているわけですか」

「家にいるのが錬金術師だけでは不満かね」

『私もいる。お前たちだけではない』


 片手にはさみを、片手にほうきを持ったユエンが背を向けながらくくくと笑った。


 目を覚ましたルフィアがウラガーンの背に乗って屋敷を回っていると、ユエンとカルロスが屋敷の庭を手入れしていた。

 普段から引きこもっているところばかりを見ていたせいで、つい興味を抱いてしまったのが運の尽きだった。顔をのぞかせれば、ユエンはルフィアに椅子と机を用意して、丁寧に茶まで淹れてきたのだった。


 まだ外は寒く、あまり長居はしたくなかったが、そこまでされてさすがに無視というわけにはいかない。

 肩掛けの薄い外套を羽織って、ルフィアはウラガーンの尻尾にくるまれていた。


「まあ、留守番を頼むと言われてしまったものでねえ。本当は君の相手をするつもりはなかったのだが、仕方ない」

「我輩は興味があるぞ。……なあ形無し、まだ手伝いが必要か?」

「当たり前だろう満天の。良い実験は良い素材がなくてはこなせないのだよ」

「だが、これはお前の」

「口を動かしている暇があるなら、さっさと整えたまえよ」


 ぱちん、ぱちんと枝を切る音が鳴る。

 時折がさごそと何かを籠に収めているが、どうせ見てもわからないだろう。


 ルフィアは茶を口にして、口内にすっと広がる冷たい香りに目を丸くした。

 薬草でも混ぜているのだろうか。変なものが入っているのではないかと、なんとなく嫌な気分が湧き出てくる。


「正直、あなたたち二人がいても安全にはならないと思うんですけど」

「だが君を見ていなくては私が責められる。君、思いやりはないのかね?」

「思いやりのかけらもなさそうな人に言われたくないですね」

「くく、随分と毒を吐くようになったものだ」


 ユエンが振り向けば、深緑色の前髪の隙間からエメラルド色の瞳が覗いた。

 にたりと音が聞こえてきそうな笑みを浮かべてから、ユエンははさみとほうきを置いて、ルフィアの対面の椅子に座る。


「おい! 形無し!」

「やかましいな。命の借りを返したまえよ」

「ええい! 面倒事ばかり押し付けおって……!!」


 ひらひらと手を振って、ユエンはカルロスの怒声を受け流す。

 それからルフィアに向くと、視線を合わせた。


「迷いが減っている。オルレニアは、頼りなかったかね?」

「突然、なんですか」

「わかりやすく言い換えよう。随分と気分が落ち着いたね」


 指摘されて、以前ユエンに言われたことを思い出す。

 不安定だとか、オルレニアに頼りすぎだとか、そんなことを言っていたような覚えがある。


「依存をやめようと思えるほど、オルレニアが頼りなく感じたのかね?」


 厭らしく笑うユエンから目を逸らして、ルフィアは首を傾げた。


 オルレニアがいない間、ルフィアは戦いに敗れ、囚われ、危機的な状況を乗り越えることになった。

 多くの人の手を借り、最後はオルレニアに救われた。

 一連の出来事で、オルレニアに失望する理由など一つもない。


「そんなことはないんですけど……」


 少し思案すれば、記憶に色濃く残っている感情が浮かんできた。

 あの時、サイラスに抱いた怒り。あの時、ルフィアは確かにこれまでとは違う心境だったように思う。

 承認欲求でも、金のためでもなんでもなく、自らの確かな意志でサイラスに怒りを向けていたこと。

 その意味を冷静になって思い返せば、なんとなく納得がいった。


「そうですね……わたしが頼りなかったと自覚した、そんな感じです」

「ほう?」

「わたしは、行動する意味を持っていなかったんです。いっぱしの傭兵になるという曖昧な目標だけを抱いて、ただ周囲にある、自分より大きな流れに抱かれるだけだった、ような気がします」


『崩れた色彩』に対する恨みもなければ、明確な目的があるわけでもない。何をすれば傭兵として大成するのか、それをオルレニアに問うことさえしなかった。


 ルフィアがこの旅に出た理由はとても曖昧で、何も見えていなかった。


「思い出したんです」

「子どものころの夢かね?」

「勝手に予想しないでください。……昔、誰かが私に掛けた言葉を、です」


 吹雪の先に隠れた炎のような。

 記憶の果てに、すっかり隠れてしまっていた。


「上に行くことは、下の手に足を引かれることだ。下の手たちを連れていけないのなら、上に行く資格は存在しない」


 穏やかな人だったと思う。

 声も、顔も、何者であったかさえも覚えていない。

 きっとルフィアが失った記憶のなかにいる人なのだろう。


「わたしは、足を引く人たちをないがしろにすることが許せなかった。そして、足を引くわたしを救ってくれたゲルダンさんや、彼に並ぶ優しい傭兵たちに憧れていたんです」


 ルフィアが持っているなかで、一番古い記憶。

 それは返り血に塗れたルフィアを連れて、宿屋の女将に頭を下げるゲルダンだった。

 金を出して、ルフィアを湯浴みさせて、服を用意して、満足に食事が出来るように図らってくれた。


 金は命よりも重いと宣う傭兵たち。

 葡萄酒を浴び、肉汁に溺れたいと笑う男たち。


 粗雑で失礼な酔っ払いたちだったが、それでも彼らは誇りを持っていた。

 彼らこそがルフィアの憧れる傭兵であり、ルフィアが旅に出て、様々を学んで、越えて行きたいと思う目標だった。


「オルレニアさんは、あくまでわたしの手助けをするのが目的です。わたしはあの人に、頼りすぎてはいけなかった」


 元々あった目標が歪んでしまった。

 それはオルレニアと出会い、彼の大きさを知ってしまったからだ。


「ウラガーンと話をして、間違ったものを見ていたことに気付きました」

「それが迷いの原因だと?」

「はい。わたしが学ぶべきだったのはオルレニアさんの行動であって、オルレニアさんという人間ではなかったということです」


 オルレニアの持つ優しさや厳しさを見ても、仕方がなかった。

 彼はあまりに大きすぎて、ルフィアの目が届くほどに収まってはくれない。


 それに、ルフィアとオルレニアの目標は同じではないのだから。


「人はそれぞれ違うものである。それに気付いたところで、意識して自らを律しなければ、意味はないぞ。お嬢さん」

「カルロスさん」

「憧れた者の人間性を学んだところで、その者の背には届かない。学ぶべきはその者の行いであり、必要なのはその利点と欠点を知ることである、と。まあ、良い心がけであると我輩は思うがね」


 カルロスは長い茶髪をユエンの頭に被せるように、その背にのしかかる。

 彫りの深い細面はユエンにない愛嬌があるが、目の下の薄い隈はそっくりだった。


「満天、君は憧れた私の真似をして枝切りをしているといい」

「その言い分であれば、さぼりの真似をするべきであろう」

「さぼるのは人間性だと思わないかね」

「そうだ。しかし君はこのお嬢さんから話を聞き出すという行動をしている。ならば、その行為を真似てみるのも良いだろう?」

「そういうことを言っているから君は凡才なのだよ」

「なんだと?」

「まあ、君の考えも間違いではないがね」


 カルロスにのしかかられて前のめりになりながら、ユエンはルフィアに顔を向ける。


「満天の言う通り、人はそれぞれ違うものだ。なら相手のことを理解しなければ、その真意は理解出来ないとは思わないかね」

「では、理解することが大切だと? それでは結局、」

「――私が言いたいのは、答えを一つにまとめようとするのが良くないということだよ。答えが一つだと誰が言ったのかね?」


 ユエンは後頭部でカルロスに頭突きしてから、頬杖を突いた。

 そしてつまらなさそうに目を細める。


「ルフィアさん、曖昧でも良しとすることだ。今はまだ見えなくても、先に進めば見えるものもある。……ウラガーン君は、そのあたりで悩まないだろう?」


 たしかに、ウラガーンからはそんなことを学ばされた。


 ユエンから紡がれる真面目な言葉に、思わず目を瞬かせる。

 いつもルフィアに掛ける言葉といえば、ふざけているものばかりだった。なんとなく、ルフィアのことなど眼中にないような、そんな風に思っていたが。


「答えを求めるのも探求者だが、気が付けば答えを後ろに置いているのも探求者だ。求めるのは答えではなく、未知のほうが都合がいいものだよ。……それに、わかりやすく答えにするには、オルレニアは複雑すぎる」

「それでは、わたしは何に迷っていたんですか?」

「見つかりもしない答えを探すのは、迷っていると言って違いないだろう? オルレニアを答えにしたくて、自分を騙せる言葉を並べるのも悪い癖だ」


 心のうちにずかずかと踏み込まれる感覚に、むずがゆさを覚える。

 無意識のうちに繕っていた自分を解かれて、覗かれるような。ルフィアはそんな不快感から思い切り茶器を傾けると、入っていた茶を飲みほした。


「今日に限って、なんでこんなに親切なんですか」


 頭を振ってから見つめ返すと、緑の瞳は軽く揺らいだ。


「……折角抜け出したのに再び迷いたがっていたのでね。昔の自分を見ているようで気分が悪かったのと、まぁ、軽い礼のようなものだよ」

「礼って、なんの礼ですか?」

「その薬草茶、美味しかったかね」


 骨ばった人差し指が、ルフィアの前に置かれた茶器を指す。


「不思議な味でしたけど、なにか変なものでも入れました?」

「ふむ。まあ、明確に効果を感じないなら別に良いのだよ。身体に悪いものは入っていないから安心したまえ」

「なにを、入れたんですか」

「身体に良いものだよ。くく」


 顔をしかめて不快感を表せば、ユエンは再び口角を吊り上げた。

 三日月のように細められた目は怪しげで、やはり油断するべきではなかったとルフィアは立ち上がる。

 ルフィアの意図を汲んでウラガーンも身体を起こすと、乗りやすいように身を低く構えた。


「部屋に帰ってもいいですか」

「おや、わざわざ聞いてくれるとはね。もちろん私は話を続けたいが」

「お断りしたいです。なにをされるかわかったものではないので」

「それは残念だ。言われているよ、カルロス」


 頭突きを受けた鼻を抑えながら、カルロスは非難がましい目でユエンを見た。

 なんだかんだ、この二人は仲が良いのだろう。


「詳しくはわからないが、君が優しい傭兵に憧れたというのは真実だろう。オルレニアについての気持ちは、もうしばらく悩むといいさ」


 ルフィアが屋敷のなかに戻ろうとした背に、ユエンが言葉を投げかけた。

 普段の気持ち悪さとはかけ離れた優しげでやわらかい声に、ルフィアは思わず振り返る。


『ルフィア、呑まれてはいけない』


 悪魔は人を誘うとき、甘い言葉を優しい声音でかけると聞く。

 そんな話を思い出してルフィアは悪寒を覚えつつも、ユエンが浮かべていた表情に己の目を疑った。


 作ったものではない、自嘲気な笑み。

 それはある意味で自信にあふれたユエンらしくない、悲しげな笑みだった。

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