第44話

 気が付けば、なにもかもがぼんやりとした空間にいた。


 なにかを見ようと思っても、まるで霞のように崩れていく。

 人肌のような色だと思えば、深い川底のような暗闇に変化する。


 そんな中を、ルフィアは漂っていた。


 やけに、暑かった。

 背中が緊張していた。

 身体についた二十本の指先がすべて、震えているようだった。


 腹のうちからこみ上げた冷たいものが、そのまま背筋をなぞって足先へと落ちていく。

 そんな悪寒がぐるぐると回り続け、身体を蝕んでいる。


 ――これは、なに。


 ふいに、ルフィアの目が一つのものを捉えた。

 遠くに見える小さなそれは、黒い炎のようだった。揺らめき、形を変えながら、ルフィアへと向かってくる。


 咄嗟に、アレに触れてはいけないと思って身をよじる。

 眩暈が止まらず、まともに動けないルフィアを嘲笑うかのように炎は迫る。

 

 すでに背けた視界に映っていないのに、炎が迫っていることはわかった。


 突然、脇腹が黒いナニかに縫い留められた。

 なにもかもがぼんやりしたまま、腹を抱えてうずくまったルフィアは、目の前にまで迫った黒い炎を目に映した。


 ――くそ。


 抗おうと、炎を蹴りつける。

 すると炎はその足にまとわりつき、ルフィアの足先から吸い込まれた。


 燃えている。

 ルフィアの身体が内側から燃え始めている。


 疲れていたときに、火の点いた薪を足に落としてしまった記憶。その時の火傷の痛みが、衰えることなく上ってくるようだった。

 視界が明滅した。なにかを掴んで耐えることも、動いて逃れることもできない。


 叫び声すらぼんやりとして、意識は痛みに収束してしまう。


 気が付けば、ぼんやりとしていた世界は、黒く染まり切っていた。

 自分の姿も見えない黒色の世界で、ルフィアは喉から黒い炎を吐き出した。


 それでも止まらず、炎は身を上る。


 震える意識のなかで、瞳がじりじりと灼けていくのがわかる。痛みが痛みをこえて、頭のなかが真っ白になっていた。


 もう駄目だと、意識を手放そうとしたときだった。


 ――お前。


 声が聞こえた。

 そう思った瞬間に、腕が引っ張られる。

 暗闇が弾け、ぐるんと動いた視界に鬱蒼とした森が写り込んだ。


 炎が急速に衰え、喉に空気が流れ込んだ。

 濃厚な湿気の匂いと、肌を刺すような冷たい空気が、心地よく身を包んだ。


 ――お前は。


 呆れと、怒りが混じった声だった。


 もう一度聞こえた声に、顔を上げる。

 夜闇よりも暗い髪と切れ長の黒い目を持つ青年だった。

 鼻筋の通った特徴の薄い顔は焦ったように眉間にしわを寄せていたが、いわゆる美形のそれだと思った。


 なにか言おうとした瞬間、青年がルフィアの口に指を押し付ける。

 口いっぱい広がった甘い鉄の味を、ルフィアは不思議と血の味だと思った。


 不快なはずなのに、不思議と安堵した。


 ――随分と無茶をするものだな。お姫様。


 ため息交じりに洩らされた言葉に、ルフィアは微笑む。


 ――毒をくれると言ったのは、あなただもの。


 そう返せば、青年は苦々しい顔をした。



 ◎◎◎◎



 頬を撫でる冷たさに、目を覚ました。

 やけに重い体を、片手をついて起き上がらせる。

 ぎぃと寝台の軋む音が鳴った。


「ここ、は」


 小さな硝子窓がひとつあるだけの、狭い部屋だった。


 自分が寝ていた寝台の頭のあたりに朝日が差し込んでいる。

 窓の外に広がる風景は、そろそろ見慣れたプラーミアの町並みだった。


 最後の記憶は、オルレニアに運ばれている記憶。

 おそらく、この部屋にルフィアを運び込んだのもオルレニアだろう。


 まだ頭はふらつくが、動けないほどではない。

 

 目を覚ましたと報せに行こう。

 そう思って立ち上がれば、足元が浮いているような感覚に顔を顰める。


「ぐ――っ」


 同時に、脇腹を強烈な痛みが襲った。

 膝をついて、歯を食いしばる。


 荒く呼吸を繰り返してからまとっている貫頭衣の内側を除けば、腹部に赤く血のにじんだ包帯が巻かれていた。


 傷が開いている感覚はないが、完治はしていないのだろう。


 無理やり深呼吸して、身体から力を抜く。

 しかしもう一度立ち上がろうとは思えず、ルフィアは木の床に仰向けに身体を寝かした。


「夢は、これのせいか」


 酷い夢を見るときは、大抵体調を崩しているときだ。

 大きな怪我をしているのならば、それに見合うほど厳しい夢を見る。

 

 思い出すだけでもぞっとするような夢だったが、夢だと意識すればなにも怖いことはない。

 ――なにも怖いことは、ない。


 ぼんやりと天井を眺めていると、外から聞こえてくる鳥のさえずりも相まって、恐怖や焦りといった感情は、少しずつなりを潜めていった。


 とはいえ、このまま寝ているわけにもいかない。

 ルフィアは右手を動かし、一定の間隔でこんこんと床を叩いて音を鳴らす。

 誰かが屋敷にいるのなら、部屋の前を通ったときに気付くだろう。


 自分で歩こうとして動けなくなったというのは気恥ずかしいが、事実は否定しようがない。


 出来ればユエンが来ないように。

 そんなことを願いながらしばらく経った頃、扉の前で何かが動く音が聞こえた。


「どうぞ、入ってもらえると助かります」


 ルフィアがそう声を上げた瞬間、がぎりと蝶番が音を上げた。


『――ルフィア!』


 まずい、と思ったのも束の間。

 扉が蝶番ごと外れ、部屋の壁に打ち付けられる。


 その直後、全身から嬉しそうな気配を漂わせた狼が部屋に飛び込んできた。

 銀色の毛並みを持つ、美しい狼だ。


「……ウラガーン」

『大丈夫か。なぜ、倒れている?』

「すこし、寝台から転げ落ちただけ」

『まったく、だから私の上で寝かせるべきだと言ったのだ』


 狼の姿のまま、ウラガーンはルフィアの隣に来ると、足をたたんで目線を合わせる。

 どうやら、助けてくれるわけではないようだ。


「上げて貰ってもいい?」

『それの上にか?』

「うん。ちょっと身体が痛くて上がれそうにないから」

『それは……わかった』


 ウラガーンは頷くと、ルフィアの周りをうろついた。

 それから何度も口を開閉した後、困ったように尻尾を振り始める。


「あぁ、なるほど」


 咬んで持ち上げるのは、さすがに問題があると考えたのだろう。

 人の姿になって持ち上げればいいとは思うが、ウラガーンの人型は、ヴァロータで出会った少女、イヴを真似ている。

 まるで子どものような姿では、上手く抱えられないのだ。


「大変だったら、無理しなくて大丈夫だからね」

『だが、苦しいのだろう?』

「それは、そうだけど」

『ならばなんとかしてやる。すこし、待て』


 思わず、頬が緩んでしまった。

 オルレニアも優しいが、ウラガーンはもっと純粋に優しく、そして可愛らしい。


 野生で生きてきたからだろう。良くも悪くも歯に衣を着せることなく自分の思いを口にしてくれるのは、疲れた心にはちょうどよかった。

 プラーミアに来てからはいまいち肩の力が抜けなかったが、ウラガーンには人に対するような気遣いは不要だった。


「ウラガーン、無理はしなくていいよ」

『いや、方法はある。少し気に食わないが、ルフィアのためなら我慢する』

 

 息を吸い込む音が聞こえる。

 首を曲げて足元にいるウラガーンを見れば、姿が変化している途中だった。


 絵が描き変わるように、線が変化し、上から色が塗られていく。何度見ても超常的なその様子を見ていると、普段とは少し違うことに気付いた。

 普段の変身であれば小さく纏まっていく線が、やや縦長に描かれている。


 それだけではない。

 白い光が溢れ、描かれていく輪郭は特徴のはっきりした男のものだ。


「その、姿」


 強い光を受けて目を瞬かせれば、変化は終わっていた。

 姿を変えたウラガーンは、ルフィアの言葉を受けて目を伏せる。


「ロンバウトさんを、真似たの?」

「……」


 すらりと伸びた高い背に、均整のとれた体。

 耳が隠れる程度の銀髪に、灰色の瞳。

 骨ばった印象は薄く、どことなく儚げな雰囲気を持つ顔。


 もし雑踏で見かけたのなら絶対に振り返ってしまうほどの美貌は、まちがいなくノーグ商会に所属する男、ロンバウト・アレクセンのものだった。


「そういえば、話せないんだっけ」


 ウラガーンはルフィアの言葉に頷き返す。

 狼の身体とは声の出し方が違うのだ、というのはウラガーン自身が言っていたことだ。

 練習すれば話せるようになるらしいが、時間がかかるらしい。

 そんなことを思い出しているうちに、両腕で抱え上げられた。


「わぁ……」


 まるで人形のように整った顔が、すぐ側に来る。

 べつにルフィアは初心でもなければ面食いでもないが、それでも容姿の優れた人間には目を引かれるものだ。


 普段から笑顔が胡散臭いロンバウトに比べて、ウラガーンは表情もほとんど変化させない。

 そんな理由も相まって、より容姿の端麗さが強調されているように感じた。


「と、ありがとう」


 寝台に優しく下ろされ、ルフィアは目を細めて笑う。

 直後、ウラガーンの姿は糸がほどけるように狼に戻った。


『……気に食わぬ容姿だ』


 まるで敵を前にしているように、ぐるると喉を鳴らす。


「嫌いなの? ロンバウトさん」

『大嫌いだ。あの臭い男と同じようにな』

「ユエンさんのこと? ……確かに、似てるかも」


 話しながら、ウラガーンは寝台に上がる。

 そしてさも当然というように寄り添うと、尻尾を毛布替わりにルフィアに被せた。

 ぽふぽふと柔らかい毛並みに撫でられ、心地よい眠気が顔を見せはじめる。


 ふと、なんともいえない疑問が頭にちらついた。


「そういえばウラガーン、あなた、性別は?」

『性別……ああ、雄、雌の話か。それは大事なことか?』

「大事じゃないけど、気になるよね」

『うむ……』


 頭のなかに直接響くような声は、ぼんやりとしていて中性的だ。


 自らを私と言い、少女の姿に変身するから女性だと思っていた。しかし男の姿にもなれるということはそういうわけでもないらしい。

 以前に直接確認しようとしたら、さすがに嫌がられてしまった。


『ルフィアは、どちらが好きだ?』


 しばらく悩んだ末に、ウラガーンはそう溢した。


「わたしは、ウラガーンならどっちでも好きだよ」


 微笑んでわしゃわしゃと撫でまわせば、ウラガーンはルフィアの頬に頭をすり寄せる。


『ならばどちらでも良い。どちらだとしても、ルフィアが私を嫌わなければ、それで良い』


 狼は、穏やかな喜びの色を混ぜた声色でそう答えた。

 真実がどうであれ、それが問題でないのなら気にする必要はないのだと。


「そう、だね」


 そんな言葉に、ルフィアは目を瞬かせる。

 突然、なにか附に落ちたような感覚があった。


 ウラガーンにとってはそう。

 ルフィアにとっても、大抵のことはそうだった。


「あんまり、気にしなくていいか」

『うむ』


 この街に来てからオルレニアに覚えた不信感に、整理がついた気がした。人との関係も、契約の内容も、真実に辿りつくことが正しいわけではないのだと。

 現実はそう簡単ではないし、思ったところで割り切れるわけでもないが。


 ――いつかを、待ってくれるって言ったものね。

 

 オルレニアに宣言した言葉を思い出して、気恥ずかしさを覚えつつ。

 窓から差し込む朝の日差しを受けながら、ルフィアはゆるやかに瞼を下ろしたのだった。



 ◎◎◎◎

 


「エメレイよぉ」


 昼間だというのに、食堂も兼ねているはずの酒場には客がほとんど見当たらなかった。

 食事をすることも惜しんで、皆で日常を取り戻そうとしているのだろう。

 がら空きの店内、その隅の席に座ったドルフは、正面に座るエメレイに向かって魚の骨を投げつけた。


「どっちに付くのが正解だったかって? 何度目だそれ」


 エメレイはその骨を摘まんで投げ返す。

 骨はドルフの眉間に当たり、思わず舌打ちが洩れた。


「俺ぁ金が欲しいんだよ」


 騒動が落ち着いて丸一日が経ったというのに、正体不明の組織も、雇い返すと言い放ったルフィアも、まるで顔を出さない。


 現状では、働いた分だけ損をしている状態だ。


「だったら言いに行けよ。あいつの居場所はわかってるだろ」

「行きにくいだろうがよ。あんな場所」

「だったら黙ってろよ」


 錬金術師の住む区画に入れば、何をされても文句は言えない。

 言葉巧みに実験動物を誘い込む者どもの所になんて、行きたくはなかった。


「お前ぇは呑気でいいよなぁ。器用でなんでも出来やがって}

「お前の馬鹿力みたいな才能がなかったもんでね。金を払うなら教えてやってもいいぜ。小麦の育て方からだがな」


 くそったれ、とドルフが溢せば、エメレイは鼻で嗤った。

 石槌だけを隣に置いているドルフに比べて、エメレイは体中に道具を帯びていた。


 短剣や小さなランタンに始まり、何が入っているかわからない鉄球や小箱。

 見えているもの・・・・・・・見せていいもの・・・・・・・であり、恐らく全て使えば、どんな状況にも対応できるように備えている。


 馬鹿ばかりの傭兵のなかで考えれば、特別に厄介な類だった。


「まあいいさ。んで、俺を呼んだ奴は?」

「俺らを呼んだ奴、だ。日がてっぺんになったら来るって言ってたから、まあそろそろ来るだろ」


 と、そんな言葉に呼応するかのように、入り口の鈴が鳴る。

 横目を向ければ、ちょうど一人の男が酒場の扉をくぐったところだった。


「……あいつかよ」

「むしろ、それ以外あると思ってたのか?」

「お前ぇの知り合いかなんかだと思ってたぜ」

「俺らを呼んでる、って三回は言ったぞ」


 目を向ける先で、緩やかに現れた男は酒場内を一瞥すると、迷いなくドルフとエメレイの元へと歩を進めてくる。

 その一歩ごとに、エメレイの表情が暗くなっていくのがわかる。

 会わない理由があるわけでもないが、会いたくはない相手といったところか。


「待たせたか」


 机の隣に立たれると、想像以上に威圧感があった。


 黒い髪に、黒い目。内側に幾重に着込んだ服もそれらを覆う外套も、腰に帯びた剣まで黒色で統一されている。

 眉間にしわを寄せ、険しい表情をしているのは元々だろうか。


 身長はドルフと同程度だが、威風堂々とした態度は自分よりも偉いような、そんな錯覚を起こさせる。


「ああ、いや、どうせ暇だから構わねえよ」

「そうか」


 どこか剣呑とした態度を受けて見澄ましてみれば、色々と納得が行く。

 身体を包んでいるゆったりとした服は、男の姿勢や動きを曖昧にする。そして道具を潜ませているという警戒を、相対する者に覚えさせる。

 男自身、両腕をだらりと下げて外套の下に隠しているのはそういうことだろう。

 自らの動きも邪魔する服装だが、それでも戦えるように訓練をしているはずだ。


「まぁ座りな」

「ああ、失礼する」


 話している途中から、エメレイが逃げるようにドルフの隣に移動して来ている。

 男はそれを目で追いながら特に何かを言うこともなく、ドルフの対面に座った。


「酒は呑めるか」

「勝負なら受けて立つが、特別好む訳では無い」

「そうか」


 手を上げて酒を頼めば、暇そうに座っていた店主が店の奥に下がっていく。


「待たせた分、支払ってくれよ」

「元より、その心算だ」

「気前が良くて助かるぜ」


 くそったれ、と内心でぼやく。

 軽く試したつもりだったが、冗談にも掛からない。

 この男もまた、特別に厄介な類だ。


「其処の男は知っているだろうが、我が名はオルレニア。貴様が知り合った傭兵の少女、ルフィアの同伴者である」


 オルレニア。

 このあたりではあまり聞かないような名前だ。


「ドルフだ。エメレイは……知り合いか?」

「ヴァロータのほうで軽く見ただけの関係だ。ルフィアの嬢ちゃんには会ったが、お前とはそれきりだろ」

「唯の一度であったとしても、敵となった者を調べぬと思うか」

「どっから調べたんだよ……」

「別にお前ぇを殺しに来たんじゃねえだろ。気にすんな」


 なぁ? と聞けば、オルレニアは首肯する。


「呼んだのは、ルフィアを屋敷へ連れて来たのが貴様らだと判った故だ。返答次第では切り捨てる事もいとわぬが、そうは成らぬと考えている」

「なるほど、こういう奴か」


 言葉を慎重に選んだほうが良いらしい。


 偉い人間の護衛、特に騎士やらなんやらという人間は、こんな感じの極端な考えを持っていることが多い。

 思えばルフィアは逃げ出して来た時に言っていた。


 ――黒づくめの男は、わたしの護衛です、だったか。


 あの時は嘘だと思ったが、もしルフィアが本当に貴族の子女であったとすれば、この状況は非常に不味い。

 この男が殺しに来るなんてことは、想像したくない。


「冗談だ。そう緊張する事も無かろう」

「あまり冗談が得意じゃねえようだな」

「……危険な状態に在ったルフィアを救ったのであれば、謝礼を用意したい。本来は本人に支払わせるべきだが、今は動けぬの状態にあるのでな」


 救った、とは、半分だけ正解だ。

 本来のドルフが担っていた役目は、ルフィアを痛め付けてでも捕らえること。


 弱り、手負いの獣のようだったルフィアを屋敷へ連れて行ったのはドルフたちだが、オルレニアがそれで赦すかどうかはわからない。


「特別、救ったってことはねえよ。あいつが俺たちに協力するように頼んだから、俺たちも協力しただけだ」

「そうだとしても、貴様らは傭兵であろう」


 このまま悪い部分を黙っていれば、得をする。

 ルフィアが支払うと言った金貨に追加で貰えるなら願ってもないことだ。

 ただ、驚くほどに素直なあの少女のことを考えれば、少しバツが悪かった。


「報酬は、どれくらいのもんだ」

「銀貨二十枚」


 即答に驚きながらも、それくらいだろうという予感はあった。

 銀貨一枚で、二、三日は生活できると考えれば、むしろ大儲けだ。

 土壇場の説得材料とは違う。

 金貨という単位は、そう使われるものではない。


 オルレニアはそんな風に考えているドルフを見て、口角を上げた。


「……ルフィアは、金貨を出すと言っただろう」

「あァ?」

「隠す必要は無い」


 隣のエメレイが動く気配。


「貴様らが敵方であった事は判っていた」


 ぞわりと、悪寒が走る。

 咄嗟に立てかけていた石槌を掴めば、エメレイは既に短剣を抜き、構えていた。


「はっ」

「……マジかよ」 


 しかしそれよりも速く、オルレニアが抜いた二本の剣がそれぞれ二人の喉元に突きつけられていた。

 立つ素振りも、剣を抜く動きも見えなかった。

 黒く光沢する刃は本当に、いつの間にか抜かれていた。


「落ち着くが良い。試しただけだ」


 言葉に従って武器から手を離すと、オルレニアも剣を納める。


 ルフィアより強いとは思っていたが、その程度ではない。

 生死を握られていると言っても、過言ではなかった。


 ――なるほど、『護衛』なわけだ。


「貴様らは敵方であったが、ルフィアによって懐柔されたのだろう。忍ばせた金貨を使い、其れに応じる言葉を転がし、分不相応な交渉を行った」

「まるで見てたみてえだな。なら、俺たちの役目もわかってんだろ?」

「捕らえたルフィアの監視役にして捕縛人。報酬は二人で金貨二、三枚。緊急時はエメレイが疲弊させたルフィアを貴様が力づくで抑え込み、拘束する。……他には、何を言えば良い」


 淡々と述べられ、返答に詰まった。

 自分たちが敵に回そうとした相手がどれほどのものであったのかを、認識させられる思いだった。


「じゃあ割って入るが、オルレニアさん。ひとつ質問だ」


 ふいに、エメレイが口を開いた。


「ルフィアは、貴族か?」


 端的に核心を突きたかったのだろう。


 エメレイと会ってから、何度か口にした話題だった。

 ルフィアの容姿は躊躇なく美しいと思える。普段の動きやすそうな服装では意識することはなかったが、捕らえられていた時の衣装で見れば、貴族にも見える。

 しかし所作はどことなくぎこちない。加えてあの身体能力は普段から机に貼りついている貴族のものとは思えなかった


 嘘だとは思っているが、辻褄だけは合っているのだ。


「エメレイ・アヴリコーソフ、だったか」

「名前まで調べたのか……」

「貴様が貴族であったとして、傭兵に扮する利点を考えるが良い」

「ずるい言い方だな。明言を避けたいのか?」


 エメレイはオルレニアを警戒している。

 その色を隠すことなく放たれた言葉に、オルレニアを頬杖を突いて、首を傾げる。


「貴族では無い」


 その言葉は、意味深だ。


「そう言えば、満足するのか?」

「……わかったよ。これ以上追及はしない」


 食えない男だということは、容易く理解できたのだろう。

 エメレイは傍に置いていた酒を呷って、黙り込んだ。


「つまり、お前ぇはどういう形で落ち着けたいんだ?」


 正直、そろそろ話を切りたい。

 ただでさえ冗談の通じない相手だというのに、放っておけば関係のないところまで探られてしまいそうだ。


 そんなドルフの意図を汲んでか、オルレニアは懐から小さな巾着袋を二つ取り出した。

 じゃらりと音を鳴らす袋は、外から見ても貨幣が入っていることが丸わかりだった。


「報酬を支払い、貴様らとの良好な関係を築くべきと考えている。この辺りで活動しているだろう貴様らは、ルフィアの良き味方になろう」

「俺らは、お咎めなしでいいってことか?」

「貴様らも仕事だ。恨む理由があるまい」


 口ではいうが、そう簡単には割り切れないのが人間だ。

 ルフィアに直接被害を及ぼしていないこともあるはずだが――この男に限っては、そうとも思えないのが難しい。


「エメレイ、お前ぇは?」

「いいさ、それで。もうあんたらとは関わり合いになりたくないがな」


 心底疲れたような顔で、エメレイは軽く頭を抱えた。


「なら俺もそれで良い。銀貨二十枚で、ついでに良好な関係も貰えるんだろ?」

「その時に敵で無ければ、協力してやろう」

「十二分だ。お前ぇが味方なら、どんな奴にも負ける気がしねえ」


 個人的な付き合いは勘弁だが、実力はわかった。

 ドルフが手を差し出せば、オルレニアはその手を握り返す。

 手の肉まで引き締まったそれは、剣を振り慣れすぎている手のひらだった。


「酒がおせえな」

「ふむ……」


 オルレニアは立ち上がり、店主がいつも肘をついて寝ているカウンターに歩み寄る。

 そしてその奥へ腕を入れれば、小柄な店主が引っかかったようだ。

 片手で持ち上げられた店主は、ひぃと小さな悲鳴を上げる。


「酒は如何した?」

「じ、準備してあるけど、あんたが剣を抜いてたからよぉ! やめてくれよ、荒事は!」


 ゆっくりと、オルレニアの仏頂面がこちらに向く。


 その光景がなぜか滑稽で、思わず笑ってしまった。

 それを見て、オルレニアもようやくまともな笑みを浮かべた。


「迷惑料として、少し弾んでやろう」


 店長はそれを聞いて、顔を明るくした。

 席に戻ったオルレニアに魚の骨を投げつければ、口で受け止め、噛み砕かれる。


 ――おもしれぇ。


 どうやら、多少は冗談が通じる男のようだった。

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