第43話

 昔、ゲルダンに手ほどきを受けた時、彼が言った。


「お前ぇは早死にしそうだな」


 それは今思えば、才能があると言いたかったのだろう。

 直接的な言い方をしなかったのは、きっとゲルダンが知っていたからだ。自分の才能に驕った者は、長くは生きられないということを。


 だからこそルフィアはゲルダンの実力や自分の実力を知ることなく、一人立ちしたあとも堅実な仕事ばかりを受けていた。

 そしてそれが正解だったと、ルフィアは戦いのなかで感じていた。


 絶え間なく続く、重く鋭い剣。


 受け流せているのは、驕ることなく相手が強いことを認められたからだ。


 ルフィアとウラガーンを同時に相手して、サイラスは優位に立っている。しかしそれでも、防戦に徹するルフィアを傷付けるには至らない。


「……厄介な」


 サイラスからその一言を引き出せただけでも、満足だった。

 悪魔の一体はサイラスの命令ですでに逃亡していた。それはつまり、『崩れた色彩』が不利を悟り、撤退の判断に至ったということだった。


『歌姫』の復活に加えて、ロンバウトの登場。オルレニアという脅威が迫る可能性を考えれば、一刻も早く逃げたいだろう。


「わたしを殺すことに固執しないほうがいいんじゃないですか!」

「せめて、貴様の首を持ち帰らねば申し訳が立たんのだ」


 撤退の指示を受けて、石の悪魔もまた逃亡を図ろうとしている。


 ロンバウトはそれを阻みながら、時折サイラスに雷で攻撃を仕掛けていた。ルフィアの攻撃の隙を突くように滑り込むそれは、即興とは思えない援護だった。


 ルフィアが主な攻撃を受け止め、ウラガーンとロンバウトが反撃する。長くはもたないが、引き留めるだけでいいのなら多少は無理も利く。


「”止まれ”!」

『”動け”!』


 一瞬、ルフィアの動きが硬直し、ウラガーンによって解放される。


 しかしたった一瞬に生まれた隙をサイラスは見逃さない。庇うように放たれた雷がなければ、ルフィアは真っ二つになっていただろう。


『色の力』による魔法。

 命令という形で『色』を扱えない者を強制的に従わせるそれは、戦闘のなかで大きな足かせとなっていた。


 腕はほとんど感覚を失い、関節は熱を持ち、開き続けている目が痛い。

 余裕が欠片としてない。的確な判断を考える暇もなく、思考が回るのは、身体が動いたあとになる。


 耳に一秒前の剣戟音が残っている。剣がぶつかりあった時の衝撃が、まるで一続きのように全身を震わせる。


 ――ルフィアは特別、戦いを好きだと思ったことはない。


 相手を殺すことも、自分が殺されることも、出来ることならご免だった。

 それでもこの戦いは、徐々に研ぎ澄まされていく感覚は、驚くほど気分を高揚させていた。


 縦横から迫る剣、その一つでも取り逃せば、ルフィアは死ぬ。


 元々戦いとはそういうものだ。

 野蛮な戦いに巻き込まれる傭兵が、否応なしに理解するものだ。


 そこに想定外の事態が含まれることも、理解しているつもりだった。


「”吹き飛べ”」

「なっ――!」


 唐突に、ルフィアの体が不可視の力に突き飛ばされる。

 ウラガーンの言葉も間に合わない。わざわざルフィアを引き離す必要がサイラスにあるとは、ルフィア自身も考えていなかった。


 サイラスはそのまま横面に迫った雷をかわし、吹き飛ぶルフィアへ一歩で詰める。


『”止まれ”!』


 ウラガーンの魔法が割り込むように響いた。

 ほんのわずかな硬直。サイラスのほうが強い力を持つせいで、ほとんど効力が発揮されない。


 重厚な鎧をまとったサイラスが迫る。


 その手に握られた剣が、間違いなくルフィアを縦に割る動きで振るわれる。

 たとえ多少逸れたところで、致命傷は免れない。


「死ね」


 そんな一言が、ルフィアの耳に、やけに大きく響いた。


 かわさなければ、受け止めなくては。

 思考ばかりが巡って、身体が付いてこない。


 当然だ。歌による応急処置を受けたとはいえ、ルフィアの体は万全ではないのだから。


 ――諦めない。


 食らいついてやる。

 あえて身体は、刃に対して正中に向ける。

 剣を手放し、両手で手刀を作る。

 そして両手のひらを合わせるようにして、サイラスの剣の腹を挟みこんだ。


「ぁあああッ!」


 剣の勢いは鈍りつつも、ルフィアの手のひらをえぐろうとする。


 だから、思い切り逸らした。


 命の危機に発揮する力は、普段の全力をはるかに超えるという。傭兵のなかでは華奢と嗤われるルフィアでも、それは正しく発揮された。


「馬鹿な――っ!」


 サイラスの剣はルフィアの顔の紙一重を通り抜け、石畳に傷をつける。


「ウラガーン!」


 全力で駆けたウラガーンが、そのままサイラスを跳ね飛ばそうとする。

 剣を握り直したサイラスは飛び退いてかわしたが、轟音と共に落ちた落雷をかわしきれず、地面を大きく転がった。


「驚きましたか? 傭兵は、戦い方にはこだわらないんですよ」


 両手のひらが、大きく裂けている。

 歌の力で治癒は始まっているものの、すでに構え直したサイラスがその猶予を与えてはくれないだろう。


 やけくそ気味に浮かべた笑みは、精いっぱいの嫌がらせだった。


 ウラガーンだけではルフィアを守り切ることは出来ない。

 ロンバウトが加減していることを、恨みたくなる。


「だが、剣は失った」

「無抵抗の女性を殺すんですか?」

「貴様は戦士だ」


 言葉を返され、ルフィアは口を噤んだ。

 剣は数歩先にある。油断をついた動きも、二度目はない。


「まだ」


 懐から、短剣を取り出す。

 それはゲルダンから受け取ったもの。一度は、サイラスの指を断った剣。

 決死の覚悟で臨めば、一矢報いることは出来るかもしれない。


『ルフィア』


 短剣の柄を握りしめたルフィアの側に、ウラガーンがやってくる。


「ごめんなさいウラガーン、もう少しだけ――」

『ルフィア、違う』


 何が、と隣のウラガーンを見れば、その顔は空を向いていた。

 つられて空を見れば、ルフィアたちの頭上だけアルテの色である赤色が消えていた。


 アルテたちに何かがあったのか。

 そう、ルフィアが考えていると。


「まさか、」


 サイラスが焦りの声を洩らす。


 よく見れば空は赤色どころか、星の輝きも、街の炎の明かりも、月明かりも映していない。


 ただ、『黒』色になっていた。


「っガロ! 今すぐ、何としてでも撤退しろ! 私が守ってやる!」


 サイラスはルフィアたちに背を向けて駆け出し、石の悪魔に迫る雷を鎧で受け止めた。

 悪魔は頷き、特区の入り口の門に向かって全力で走りはじめる。


「ウラガーン」

『ああ』


 ルフィアはウラガーンにまたがると、剣を拾って追いかける。相手が逃げの一手に入り、それが罠でないのなら、追撃しない理由はない。

 背後から振りかぶった剣を、サイラスは後ろ手に握った剣で受け止めた。


「邪魔を――!」


 言葉を口にする間もなく、逃げる悪魔に向かってロンバウトの雷が落ちる。


「“逸らせ”!」


 雷はサイラスから放たれた濃紺の『色』に流され、地面を削った。


 ルフィアは鎧の隙間に切っ先を入れるために手首を捻って刀身を離す。


 サイラスは続く刃を受け流しながらも、『色の力』を使って石肌の悪魔をロンバウトの攻撃から守り続けた。


「行けェッ!!」


 喉から絞り出すような叫び声だった。悪魔は振り返ることすらしないで、特区の石畳に罅を入れながら走っていく。


 大きければ、その一歩も大きい。

 すぐに悪魔は、門を乗り越えて。


 ――真っ二つに裂け、黒い霧に呑み込まれた。


「馬鹿な」


 刃を合わせていたルフィアは、サイラスの受けた衝撃を少なからず理解できた。


 声の震えは、恐怖ではないだろう。

 ただ、それに限りなく近しい吃驚だったように思える。


 その視線の先には、一人の男が立っていた。


「無様な事だ」


 静かで、重い声だった。

 ただそれだけで、ルフィアの背筋を恐怖と、相反する安堵感が撫でた。


 門を越えて、緩やかに歩んでくる影。

 ばさりと外套が風に翻れば、その足元から湧き出るような『黒』が光を呑み込んでいた。


 撫で上げた黒い髪に、切れ長の黒い目。


 眉間に寄せられた皺は、普段よりもさらに深く。

 その眼力だけで人を殺せてしまうのではないかと、勘違いするほどに。


「此処までの雑兵は全て片付けた」


 ただ、その憤りを肌で感じられるほどに。


「後は貴様だけだ」


 オルレニアは怒っていた。

 口にした言葉を信じざるを得ないほどの気迫だった。


「アレクセン」


 気が付けば、遠くにいたはずのロンバウトがオルレニアの背後で跪いていた。寸前に見えた細い雷光は、移動の軌跡だったのだろうか。


「良いか」

「隠さねば、なりませんゆえ」

「そうか」


 それだけのやり取りで、なにかが合致したようだった。


「サイラス」


 怒りの余波だけで、体が硬直する。自分の敵ではないと確信していても、思わず、刃を向けてしまいそうなほどの恐怖。


 冷酷なる王。


 かつてオルレニアは、その二つ名で呼ばれていたという。

 敵として向き合った場合。無数の同士が刻まれていく様子を目にしていれば、ルフィアでもそう評したかもしれないほどの冷たい殺意だった。


「逃がすことさえ、叶わんか」


 肩を落とし、サイラスが呟く。

 そして、兜がルフィアに向けられた。


「ならば貴様だけは」

「させぬ」


 サイラスが剣を振る音が聞こえた時には、オルレニアはルフィアの前に割り込んでいた。

 即座に対応したサイラスと、オルレニアが肉薄する。


 あまりに、速い。

 高い金属音が響けば、オルレニアの頭上を鎧の肘から先が飛んでいた。


「そう来ると、わかっていたッ!」


 視界の隅に映ったサイラスは、両腕を犠牲にオルレニアの剣を防いだようだった。

 その傷の断面からは濃紺の霧が溢れ、サイラスを球形に包み込んでいる。


 何かしらの魔法を、使うつもりだ。


「“跳べ”!」


 ルフィアの目にも止まらない速度で、オルレニアの腕が動く。

 濃紺の球に斬撃が食い込み、呻き声が上がる。


 それでもサイラスが止まることはない。


 直後、球は絵画が上塗りされるように消滅した。


「逃げた」


 それはまるで、一瞬の幻のようだった。


 あまりに現実味がない戦いの様と、あまりに呆気ない終わりは、ルフィアに脱力さえ忘れさせていた。


 サイラスは逃げたのだろう。

 理解できたことは、その程度だった。


「これで、終わり……」


 残されたのは、大量の血。

 直径がルフィアの脚ほどもある血だまりは、傷の大きさに比例している。


 サイラスは瀕死の重傷を負った。

 ルフィアにわかったのは、誰でもわかるような、それだけだった。





 ◎◎◎◎





 夜風が舞えば、赤と青の衣裳が揺らめいた。


 真夜中であるというのに、夕焼けの如く染まった空と。


 雲一つないのに、人々の上から舞い落ちる薄青の結晶。


 歌の音色は心を落ち着かせ、失われた者たちへの悲しみと、危険が去ったことへの安堵を思い出させた。


 演奏は途切れず続きながら、すこしずつ楽器を変えて、二刻を超えて流れ続ける。


 移り行く色は次第に混じり合い、高貴なる紫の色へ。


 空から下りる紫の帳は、魔を払う一つの力となった。


 ――ネティ、オネーリル、タエ、ヤカルテ。


 ――テオル、タエ、フェルソール、トゥムルオルソ。


 過去から続く未来へ。


 新しい明日へ。


 そう唄う歌の言葉を、人々は知らない。


 ただ汚れた手を、膝が折れる足を、恐怖に乾いた目を。


 ゆるりと癒す歌に、涙を溢すだけだった。





 ◎◎◎◎





 気が付けば、腕のなかにいた。

 サイラスが消え、動きを止めて力を抜いた。そのせいで体が思い出した痛みに冒されて、意識を失っていたのだった。


 両手足が痺れて感覚がない。

 

 視界をちらちらと光の粒が舞い、抱えられていても、揺れているようだった。


 空が見える。

 赤を失った空は、いつも通りの、真っ暗闇に点々と星の灯った夜空だった。


 一息を吐いて思考が戻れば、自覚できる。


 自分はまた、最後には役立たずになったのだ。


「意識が戻ったか」


 ふいに、見下ろすようにオルレニアにのぞき込まれる。

 ルフィアよりも二回りは大きく、力強い体。背を支えるその腕の安心感にルフィアは喉をこくりと鳴らした。


「……なんとか」

「無茶をする。歌姫の力が無ければ死んでいただろう」


 身体を預けて周囲を見れば、大通りが広がっている。

 特区の門の側、立ち並ぶ屋敷の柵にもたれて座りながら、オルレニアはルフィアを抱えているようだった。


「ほかの、みんなは」

「ウラガーンは屋敷に、アレクセンは街の対処に向かった。敵は退いたが、全てが終わった訳ではない」

「オルレニアさんは、いかなくても、いいのですか?」


 歌の力があれば、自分は放っておかれてもいずれ回復する。


 オルレニアはあらゆる面で優れている。どんな状況、どんな場所だろうと、その手を借りたい者はいるはずだ。


 自分なんかに構う必要はないと。

 そう口にしようとして、言葉を呑み込んだ。


「行かん」


 見上げたオルレニアの顔が険しく歪んでいた。


 撫で上げた髪のひと房が、目元に掛かる。

 先の瞬間まで恐怖の象徴だったオルレニアがルフィアの目に、酷く淋しげに映った。


「貴様を置いては、何処にも行けぬ」


 なぜ。


 それほどまでに自分が大切な存在だとは、思えなかった。


 自分はただの、木っ端の傭兵だ。偶然オルレニアに出会い、成り行きで、ついでで旅を共にしているだけの存在だ。


 身体の疲労につられて、心まで弱っているようだった。

 自覚しつつも、気分が、思考が落ち込んでいく。

 

 ふいにオルレニアの手が、ルフィアの額を撫でた。


「貴様は、出来る事があれば何だろうとするからな」


 笑いを含んだ言葉に、ルフィアは胸にずきんと痛みを覚えた。

 

 深く、深く落ち込んでいく。


 あぁ。違いますと、声にできない。


 無茶をするのは、自分の心のせいだ。

 他人にとって、自分が大きな存在でありたいと願う心のせいだ。


 決して木っ端の、路傍の小石のように扱われたくないと、だから自分に言い訳をする。牢を抜け出したり、死にかけるまで戦ったり、無茶をする。


 全部自分の、わがままな心のせいなんだと、声が出ない。


「ごめんなさい」


 小声でこぼれた言葉に、オルレニアの眉が寄せられる。


「何故、謝る」


 耳に届く困惑の声が、続く言葉の手を引いた。


 心を守る蓋、その小さな掛け金が、壊れたように。


「……わたしが無茶をするのは、そんな高尚な理由じゃない、です。努力も、勝手な行動も、オルレニアさんがすごい人だから。認められて、まるで自分がすごくなったように、そう思いたいだけの、おろかな感情だから」


 寸前まで止めていた、吐き出してはいけない感情が溢れ出た。

 感覚のない両手を、形だけでも胸の前で握り合わせて、身を護る。


「わたしはただ、自分を誇りたいだけなんです」


 ルフィアは弱かった。


 生まれつきから、強い日に当たるだけで肌は灼け、体力は少なく、筋肉はつきにくい体だった。

 ただでさえ女性であることが低く見られる傭兵の社会に、ルフィアは限りなく、似合うことのできない存在だった。


 そしてそれを言い訳にして、他人を頼ることは、限りない恥だと思っていた。


 だからこそ自分が努力するのは当然で、いつか正しい意味で認められたいと夢見ていた。

 そして無力を感じるたびに、その夢が、遠くに行ってしまうように思えていた。


「頑張れば、優れた存在であるあなたに認められるから」


 だから、役立たずではないと。

 そう、証明するために。


「そんな、幼く、浅ましい――」

「ルフィアよ」


 ぐい、と前髪を手の腹で拭いあげられ、オルレニアと目が合う。


 いつの間にか浮かんでいた涙のしずくが、頬を伝い流れていった。


「傭兵とは、結果だけを見るものだ」


 それは、とても単純な言葉だった。


 戦いのなかでは、生きるか死ぬか。金を得られるかどうかも、結果がわかるのは、すべてが終わったあとだけ。

 

 傭兵は、それを見る。


「我は貴様が自力で牢を抜け出し、サイラスを相手に防戦を成したという結果を知っている。その結果、多くの者が救われ、アルテ・シクルは妹を取り戻した。それを評価する事について、我が躊躇う理由は無い」

「でもわたしは、そのために、」

「潔癖な考えだ」


 全く、とオルレニアは言葉を続ける。


「富、名声を求める事こそが、傭兵の本懐である」


 言葉が詰まった。

 その通りだと言ってしまいそうだった。


「それでも、それでもです」


 間違いなく、自分の考えは褒められるべきものではなかったはずだ。


 他人を利用して、自己満足を得ようとしていた。

 それも自分のことを助け、導いてくれる相手を、利用しようとしていたのだ。


「貴様が拒否しようと、我は貴様を助ける。それ故に、貴様を傷付ける者を許すつもりも欠片として無い。貴様がそれを不快と思ったとしても、実行する」


 それが、自分のわがままだというように。


「それを貴様は、愚かと断ずるか」


 それによって救われる人がいるのなら、いいではないかと。


「ルフィアよ。己を誇りたければ誇るが良い。それが己の欲望であるならば、それを妨げる者は、自らであろうと切り捨てろ」


 ただ誇りたいだけの自分と、正しく尊ばれる自分。どちらを選び、どちらを切り捨てるのかを決めろと、そんな言葉だった。


「ただ一つの意志こそが、万年の生を作るのだ」


 万年の生。


 オルレニアがどれほどの時を生きているのか、それは曖昧にしかわからない。


 ただ、かつての大戦のなかで託された遺志はきっと、長い時を超えてオルレニアのなかに残っているのだろう。

 

 綺麗ごと。

 ただの慰めだと、ルフィアには断じられない。

 それほどオルレニアの瞳には、強い遺志が見えていた。


 ルフィアは手を伸ばし、オルレニアの力強い胸に触れる。


 オルレニアは目を細め、首をかしげる。


「それは、誰かのことばですか」

「かつてに於いて、老人を自称していた男の言葉だ」

「オルレニアさんよりも、お歳を……?」

「我も未だ若かったのでな」


 若かった頃のオルレニアは、どんな姿で、何を考えていたんだろう。


 思いを馳せながら、ルフィアは小さく息を吐いた。


 自分はまだ若く、理想にはほど遠い。オルレニアの胸に一つの意志は刻めない。


 ただ、わがままを言っても、自分を卑下するルフィアをオルレニアは認めてはくれないだろう。 

 そう、今は思いたい。


「わかり、ました」


 理想とは、届かないから理想なのだと、誰かが言った。


「いつかあなたに、傷を付けられるようになります」


 指で、力強いその胸の中心を突く。

 オルレニアの目が見開かれた。


「わたしという存在。その意志を、刻んでみせます」


 褒めてくれるうちに、存分に甘えればいい。

 相手が自分を下に見ているうちに、奪えるだけ奪えばいい。


「わたしを褒めるなら、責任をとってください」


 涙を流して、自らを愚かと評する意思の弱さを、切り捨てる。オルレニアという存在が自らを愚かにするのならば、それを超えることを意志にする。


 ルフィアが視線を返せば、オルレニアは頷いた。


「良かろう。そのいつかを、待ち侘びるとしよう」


 オルレニアは笑っていた。

 それは小さな笑みだったが、ルフィアの言葉を得心しているようだった。


「……さて、この場で長居は体に障る」


 突然、視界が上がった。


 オルレニアがルフィアを抱えたまま、立ち上がっていた。


 手は動くようになったものの、当然のように力はほとんど入らない。

 両足もそうであるために自力で立てないとはわかっていたが、見栄を張った直後だったせいで、気恥ずかしさが大きい。


「お、オルレニアさん」

「……? どうした」


 何でもないことのように首を傾げる。

 その素面な様子に、一層、ルフィアの顔が逆上せた。


「自分で、あるけます、から」


 口が上手く回らないでいると、オルレニアは怪訝な顔のまま、膝を突く。

 そして緩やかに片腕を下げて、ルフィアの足を地面に着けた。


「力が入っておらんな」


 重みがかかると共にかくんと曲がる足首を見ながら、穏やかな声が上がる。


「すこし休めば……」

「ならば我が運んでも問題あるまい」

「で、でも、オルレニアさんの手をわずらせてしまう、ので」

「先に言ったであろう」


 大きくため息を吐いて、再び身体が持ち上げられる。


「貴様を置いては、何処にも行けぬとな」


 それだけ言って、後は聞く耳を持たないというように、オルレニアは歩き出した。


 ルフィアもそれ以上、なにかを言えなかった。


 きっと、熱が出始めていた。

 顔が暑くてたまらなくて、どうしようもなく、心まで熱くなってしまっていた。


 少しはわがままを言ってもいいだろうと。


 自分に言い訳をすることしか、結局出来なかった。

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