第41話
ユエンの倉庫の下、過度なほど頑丈に作られた地下牢の最下層で、オルレニアは空っぽになった牢を見ていた。
開かれたままの牢の扉や捨てられている手枷から、この牢の囚人は脱獄したのだということが容易に想像できる。
そんな牢には、幾本かの白い髪と、わずかな血の跡が残っていた。
「自力で抜け出したか」
経験こそ未熟だが、彼女は生半可な戦士では抑えられないほどに強い。
仮に『崩れた色彩』の影たちが見張りをしていたとして、強引に抜け出すことは可能だろう。
昔から、実力のある戦士であればあるほど、脱獄を武勇伝に語っていたものだ。
ルフィアほどにもなれば、自力で脱獄したとしても不思議ではなかった。
「ふむ……」
オルレニアは小さく唸る。
この道を通ってきたのは、ルフィアの『白の力』の跡を追ったためだ。しかし、この場には『白』が残っていない。
『崩れた色彩』の目的が、ルフィアから『白の力』を回収して利用することであるとオルレニアは予想していた。
血痕はルフィアに傷をつけ、『白の力』を漏出させた際に流れた血だろう。
ただ、『色の力』はそう簡単に取れるものではない。空間を漂うほとんどは、回収できずに霧散してしまう。その結果、その一帯の『色の力』が濃くなり、原因不明の死や物体の消滅などが起きる異常地帯が生まれる。
オルレニアの視界に『白』が映っていないということは、『白の力』をすべて回収したということか。
「そうか」
すこし思案した後、オルレニアはほかの牢へと足を延ばした。
牢のなかに生き物はおらず、木材と骨材で作られた人の顔や、動物と人を混ぜ合わせたような金属製の像などが置かれている。
そしてそのすべての中心に、半透明の石が埋まっていた。
「この地下牢自体が、色を奪う為の設備という事か」
半透明の石を中心に、『色』を引き寄せる素材をふんだんに使った物品を各所に置くことで、空間に漂う『色』を吸収させる。
後から半透明の石を回収すれば、それだけで『色の力』を奪い取れるという仕組みだ。
しかし必要となる素材は、『色』に曝されつづけた古木や魔獣の骨など、希少なものばかりだ。そう簡単に集まるものではない。
オルレニアは目を細めた。
その問題を解決できる理由。
この北の地において、強大な権威を持つ商会が背後にあるならば。
『察しが良いな。オルレニア・ヴィエナ』
静かな地下牢に、くぐもった低い声が響く。
オルレニアは階段から聞こえた声に、顔を向けた。
「ルフィアを攫ったのは、貴様か」
『如何にも』
入口を塞ぐようにして、黒い全身鎧をまとった男が立っていた。
オルレニアよりもわずかに高い身長に、ルフィアの倍ほどもある肩幅は、中身が大男であることを伺わせる。
その片腕は肩から灰色の金属になっており、ルフィアやアルテに与えられた損傷を補いきれていないようだった。
そんな鎧の男は片手に漆黒の長剣を構えている。
それだけオルレニアを警戒しているということだ。
『アルテ・シクルを捕らえるにおいて、貴様が最たる障害だった。貴様さえ現れなければ、白の娘を攫う手間をかける必要さえなかったのだ』
鎧の男が剣を掲げると、地下牢の天井や床を伝って白い糸が伸びてくる。
糸は男の剣を包み込み、絡みつくと、刀身に溶け込んで白く輝かせた。
この地下牢によって回収された、ルフィアの『白の力』である。
『黒を操る貴様にとって、白の力は厄介だろう。我が同胞たちがアルテ・シクルを捕らえるまで、ここで食い止めさせてもらうぞ』
鎧の男が、オルレニアに剣先を向けた。
――肌がひりつく。
『白の力』は、『黒の力』を退けることができる強大な力だ。
それもルフィアのものとなれば。
器からあふれ出るほどに膨大な『白』を抱え込む彼女の力であるならば、それは強大なものであろう。
オルレニアは鎧の男が手に持つ、白い剣を見据える。
『崩れた色彩』は、非常に優れた組織だ。
アルテを捕らえるために必要な戦力の用意を怠らず、少なくとも街一つを奪える戦力を、街中に潜伏させていた。
そしてアルテの居場所を特定した上で、斥候を送って実力を把握。同時に新しい悪魔を作りながら、相手の動きを牽制した。
そうすることでオルレニアの実力を把握すると、即座に戦力の要を動かして、隣にいる『白の力』の持ち主を攫い、利用した。
敵ではあるものの、その行動と作戦力には感心する。普段なら、それに免じて遊んでやろうと考えたかもしれない。
「我に対抗する為に、ルフィアを傷付け、白の力を奪ったという事か」
剣を抜きはらう。
その一動作で、オルレニアの体から濃霧のような『黒』があふれ出す。
今のオルレニアにとって、許容できないことは一つだけだ。無意味にルフィアを傷つけ、彼女に望まぬ苦痛を与え、彼女の命を脅かすことだけだ。
それが、免じられない琴線である。
「名乗るが良い」
壁に掛けられていた蝋燭が、炎まで黒に染まる。
あらゆる影よりも黒い『色』が、オルレニアの周囲を飲み込んだ。
鎧の男は微動だにしないが、明らかにその身を強張らせている。
『白』は『黒』に対して有効だが、それはあくまで力が相対的に上回っている場合に限った話だ。
オルレニアの『黒』によって押しつぶされてしまえば、どれだけ対抗策として有効であったとしても、無意味となる。
『ソリィダと呼べ』
オルレニアの言葉に、鎧の男はそう返した。
「剣、か。大層な名を騙る」
『色使いに名乗る名など、持ち合わせておらんものでな』
魔術を使うにあたって、相手の名を知ることは優位に立つことにつながる。
名前はその者を体現する要素。魔術の力が上回っていれば、それこそ肉体を奪う事まで可能だからだ。
その点において、名を知られているオルレニアは不利であったが。
静かに、オルレニアの剣先がソリィダに向けられる。
「ふん――」
その表情はなにも映してはいなかった。
オルレニアが抜いた剣と同じく、冷たく、鋭い眼だけがソリィダを見つめていた。
「この痴れ者が……‼」
瞬きの間に、ソリィダの両腕が吹き飛んだ。遅れて響いた怒声に牢全体が震える。
十歩以上あった距離は、すでに零となっている。ソリィダの頭がオルレニアの方へ向いたときには、脚は砕かれていた。
『ォォッ!!』
ソリィダは逃れようと片足で跳ぼうとするが、膝から下を失った足がむなしく空をかいた。
唯一の対抗策であった白く輝く剣が、鎧の腕と共にオルレニアの放つ『黒』に呑み込まれ、消えていく。
「我を、この場で食い止めるだと?」
オルレニアの拳がソリィダの兜を打ち砕いた。
寸前まで無感情を湛えていた顔は、憤りに溢れていた。地の底から響くような声が、牢獄に響き渡る。
「望む所だ。ルフィアを攫った貴様は、此の場にて葬ってくれる」
事実、戦いではなかった。
ソリィダの体から『黒の力』の靄が溢れ、損傷が修復されると、オルレニアは踏みつぶした。
頼みの綱である『白の力』は消滅し、オルレニアを止められるものなどなにもない。どれだけソリィダが抵抗しようと、状況が変わることはない。
オルレニアは頭と胴だけになったソリィダを片手で持ち上げ、壁に叩きつける。
一方的に。何度も、何度も叩きつける。
『――‼』
悲鳴にならない声を上げ、必死で抵抗しようとするソリィダを何度も砕いていく。
石造りの壁が砕け、ひび割れ、牢そのものが壊れはじめても、叩きつける。
いかにソリィダの鎧が硬くとも、それほどの力を見舞われればひとたまりもない。
へこみ、ひしゃげ、次第に小さくなっていく。
オルレニアはほとんど兜だけになったソリィダを掴み、壁にめり込ませた。
「遠く離れた場所から見ている気分はどうだ」
ソリィダは鎧に自らの『色』を染みこませ、遠くから操っていただけだ。
だからこそ、どれだけ小さな欠片になっても、視界と思考は途絶えない。
オルレニアは兜のなかのソリィダを、真っ黒な瞳で凝視した。
「粗末な魔術で、我の目から逃れられると思うな」
牢を埋め尽くす黒い靄が、ソリィダの断片に染みこんでいく。そしてそこに込められた魔術を侵食し、自分のものへと変えていく。
急いで鎧との繋がりを断とうとするが、そんなことを許す訳もない。
細い糸のような魔術を辿り、本体がオルレニアの片目に映った。
呆然と立ち尽くす初老の男。
余裕のない、逃げ腰だった。
「サイラス」
凡そ、わかっていた。確証が得られなかっただけだ。
ロンバウトの紹介である相手であるために、寛容な目で見ていただけだ。
もしも彼の紹介でなければ、真っ先に疑い、詰問しただろう。あるいは、拷問にかけた可能性まである。
ノーグ商会のサイラス。
最初から穏やかに、丁寧な物腰でオルレニアたちと接していた男こそが、『崩れた色彩』だった。
「貴様を葬るのは我ではない。だが、逃げられるとは思わぬことだ」
サイラスは渋面を作りながら、化け物めと口を動かした。
オルレニアは鼻で嗤い、兜を握りつぶす。
相手から、オルレニアのことは見えない。オルレニアの使う魔術がどのようなものかを、理解しているのだろう。
優れた魔術の腕、『色の力』を知り尽くした使い方。加えて、並の剣士では敵わない剣の腕。
それはソリィダが、古き大戦を生き抜いた存在であることを示していた。
「愚かな事だ」
制御を失い、残骸となった鎧を見下ろしてオルレニアは小さく呟いた。
古い大戦の時代、オルレニアが求めたもの。
『崩れた色彩』にかつての自分の面影を見て、オルレニアはわずかな虚しさに、頭を振った。
◎◎◎◎
ウラガーンが出ていったことには気づいていた。恐らく『崩れた色彩』が近くまで迫っているのだろう。
しかし、驚くほど周囲の音は耳に入ってこなかった。
目を閉じたまま、まどろみに似た感覚のなかで、アルテは空間に漂う青白い糸を指に掛けて一本の大きな糸に絡み合わせていた。
糸は、カフリノの生命を作る『青の色』である。
軽く、繊細なものだ。すこしでも間違えたら簡単に千切れ、魔術が崩れてしまう。
だからこそアルテは、自分を守る者たちを信じて、たった一つの失敗さえ犯さないようにしなければいけない。
丁寧に、指先の感覚を間違えないようにしながら、アルテは思考の片隅で、古い記憶を思い出していた。
――アルテとカフリノは、物心ついたときから、ずっと一緒だった。
初めの記憶は、『赤の王』が統治する王国の貧民街から始まった。身寄りがなく、幼い娘だった二人には、歌の才能だけがあった。
譜もなにもない歌を紡げば、余裕のある人間はわずかな金銭をくれた。
二人は片時として離れることはなく、飢えと渇きに苦しむ貧民でありながら互いを思いやり、そうやって生きていた。
それから奴隷として買われ、わずかな『色の力』を使って道化を演じるときも、必ず二人だった。
才を見出され、『色の憲兵』になったときも、『色の騎士』として大成し、大戦に身を投じたときも、ずっと一緒だった。
大戦を終わらせるため。悲しき時代に終わりを告げるために立ち上がったときも、アルテとカフリノは二人で一人の『歌姫』だった。
だから、死ぬときも一緒だと思っていた。
大戦の半ば、『青の王』との戦いの最中、カフリノはアルテを庇って命を落とした。圧倒的な力を持つ『色の王』を相手に、カフリノは自らの命を犠牲にしてまで、アルテを守り抜いた。
そしてアルテだけが生き残った。
あらゆる苦境を共にした片割れを失った事実は、万年の時を超えてなお、アルテに蘇生の魔術を研究させる糧となった。
非道な実験を行ったこともある。猛毒で死にかけたこともあった。
アルテはどれだけの苦痛を経験しても、ただカフリノのためだけに生き、利用できるものをすべて利用して、環境を整えた。
そして、ようやく辿り着いたのだ。
目の前に用意された肉体は、かつてのカフリノを限りなく忠実に再現したもの。
魂とは、生命を形造る『色』の塊だ。
それさえあれば、簡単な蘇生は行える。虚弱で、生命として最低限の能力を保った存在として蘇らせることはできる。
しかしアルテは、完全な蘇生を望んだ。
ただの人でもなく、凡庸な『色使い』でもなく。
『色の騎士』としての、完全なカフリノの蘇生を求めた。
それは古き大戦の時代でも、一度として行われることはなかった魔術。
最も賢き『色の騎士』を以ってして、不可能とまで言わしめた魔術。
その想いに不可能はない。
必ず、成功させてみせる。
『
絡み合った糸たちが、アルテの体に入り込んだ。
針金で体内を掻きまわされるような激痛が走った。アルテは微動だにせず、その痛みを耐える。
そうしているうちに、糸はアルテの体内を駆け巡り、カフリノが蘇った瞬間、思考にかかる負担を軽減するための情報を運んでいく。
たっぷりと長い時間をかけて、糸はアルテの体から離れて、カフリノの体へ入っていく。
これで、蘇生の下地はすべて整った。あとは、『不思議の者たち』から少しだけ手を借りるのみ。
口を開き、腹から押し出すように力を流す。
『”語るは青”、”不確かなる水の調べ”
”舞いに舞う砂々、空へ上る大滝”』
アルテの口から、歌声が紡がれた。
全身からあふれ出る『青』が、大きな海、煌めく砂、上に流れる滝を形作る。
『”弱き者は呑まれ、強き者は静まれ”
”ただ許されるのは、音の波よ”』
陽炎が揺らめくように、アルテの周囲の空間が波状に揺れる。それはカフリノも包み込み、二人を外から隔絶した。
『”あなたを創る力を述べよう”』
アルテはゆっくりと、間違いがないように一言一言をかみしめていく。
『
『
『
『
『
すぅ、と息を吸い、目を開けた。
『
カフリノの体が、ぼんやりと『青』に輝いている。神々しさまで感じるその光景に緋色の目を輝かせて、アルテは微笑んだ。
愛しい愛しい妹が、遠くから戻ってきたことに。
『
周囲で起きていたすべての異常が、カフリノの身体へと吸い込まれていく。あちこちに置かれた素材が霧のようになり、渦を巻くように、流れ込んでいく。
人形のようだった肉体は血の色を取り戻し、暗い青色の長髪が、光に煌めくアクアマリンのように煌めき始める。
すべてが吸い込まれた直後、今度はカフリノから、青い光が放たれた。
それはまるで太陽の光のように、アルテの身体に当たると、熱い痛みを走らせる。痛みは水が布に染みこむように、じわりと身体に染みこんだ。
部屋のなかが、光に当たったところから青くなりはじめた。灰色だった石壁も、茶色の棚も、壁に掛かった燭台も、青に染まっていく。
その光は少しずつ収まり、完全に収まったことで、カフリノの完成を表した。
カフリノは立ちながら眠っているように、目を閉じたまま佇んでいる。
「カフリノ?」
自分でも驚くほど怯えの混じった情けない声でアルテは呼びかけた。
もし、失敗だったなら。
カフリノの魂は使ってしまった。もう、二度と蘇生の機会は訪れない。
そんな恐怖が、声にまで載ってしまったのだろう。
「カフリノ」
もう一度呼びかける。
――青いまつげが、ぴくりと動いた。
アルテが一歩踏み出すうちに、瞼が持ち上がっていく。
「ぁ……?」
長い眠りから目を覚ましたような眼で、カフリノの口から小さな声が紡がれる。
「姉さま……」
思わずアルテは、カフリノを抱きしめた。
「カフリノっ!」
突然のことにカフリノはたじろぎ、何度も目を瞬かせる。最低限の情報は魔術の最中に入れたとはいえ、状況が理解できるわけがない。
それでもアルテは、自分の衝動を止めることができなかった。
アルテの瞳から溢れた雫が、カフリノに着せられた青いドレスに染みを作る。
本来、ありうるはずのない再会。
驚いた素振りもすぐに消え、カフリノはわずかに微笑みを浮かべた。
「……ただいま、アルテ姉さま」
そして優しく抱きしめ返して、カフリノはアルテに、そうささやいた。
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