第40話
襲い来る影を、石槌が吹き飛ばした。
等身大の鉄棒の先端に大きな石球が付けられたそれは、どのような当たり方をしても致命傷である。
ドルフに抱えられているルフィアは、感嘆の息を洩らした。
「あなたとやり合わなくてよかったです」
「俺も、お前ぇとやり合わなくてよかったと思ってるぜ。まさか、こんなことになるとはな!」
職人区は、酷い有様だった。
あちこちに設置された錬成炉の炎がおかしなほどに燃え上がり、石畳の道まであふれ出していた。
そしてどこからともなく現れた『崩れた色彩』の影たちが、人々へ無差別に遅いかかっている。それと必死に戦うのは、金槌や粗悪な剣を持って戦う職人たちと、わずかばかりの衛兵だ。
『崩れた色彩』が動き出した。
ルフィアだけが、わずかに状況を理解していた。
「とりあえず、錬金術師のところに行けばいいんだな!?」
「はい。この状況をなんとかできる人たちがいるはずです」
影たちも、決して弱い存在ではない。
一対一では有利であっても、数に押されれば負けてしまう。この状況をなんとかするには、オルレニアたちの力が必要だった。
辺りを見る限り、職人区以外も襲われている状況だ。錬金術師の特区も同じならば、すでに対応は始めているはず。
「エメレイ!」
「任せろ!」
ドルフの背後から迫る影を、エメレイが放った矢が貫く。
大振りな戦い方をするドルフは、素早い相手に対応することが難しい。槍と弓を操るエメレイは、その器用さで上手く補助を担っていた。
即興で組んだという二人だったが、相性はいいようだ。
本来ならばゲルダンと組んだ時も、エメレイの役割はそこにあったのだろう。オルレニアがいなければ、相当厄介な相手になったはずだ。
「それにしても軽いなぁお前ぇ。剣に振り回されてそうだ」
「あなたと違って、筋肉ばかりじゃないんです」
「筋肉は便利だ。持っておいて損はないぜ」
「付きにくい体なんですよ。それに、努力はしています」
ルフィアは視界を回すと、ぺし、とドルフの丸太のように太い腕を叩いた。
ドルフは顔を向けることもせずに石槌を振り回し、迫ってきた影を吹きとばす。
ドルフの死角から迫る敵を、ルフィアが報せる。さまざまな問題を抱えていても、戦闘において貢献できないほど衰弱しているわけではない。
ルフィアもできることはやるつもりだった。
「そういえばドルフさん、わたしの装備は」
「雇い主に隠せって言われたんだが、面倒くせえからいつもの酒場に預けちまった。取りにいくか?」
「道中、できれば」
「お安い御用ってもんよ」
職人区を抜けて、ようやく見たことのある道が遠くに見えた。
近道を使ったのか、ドルフとエメレイの体力の賜物か、ルフィアの想像よりも淀みなく進めている。
逃げ惑う人々や家々を襲う影たちに構わないのは、薄情というよりも、優先度を考えてのことだ。
時間をかければかけるほど、街の状況は悪くなる。まだ被害が少ないうちに、オルレニアたちの手伝いに回ったほうがいい。
問題は、そこに行くまでに面倒が起きた場合だ。
悪魔や、ルフィアを襲った鎧騎士が現れれば、街の衛兵だけでは対処しきれないだろう。
戦わずに通り抜けるという選択肢は、ずいぶんと難しくなる。
ルフィアが考えているうちにも、ドルフは路地裏を走り回り、普段からたむろしている酒場の裏口へ回り込んだ。
「おい! 大丈夫か!」
どんどんと裏口の扉を叩き、恫喝とも取れそうな大声で呼びかけると、すぐに扉が開いた。
すっかりおびえた顔の店主が顔をのぞかせて、はっとした顔でドルフを見上げた。
「ドルフ! 助けにきてくれたのか!?」
「金もよこさねえで助けてくれとは贅沢なことだなァ。残念だが、預けてたもんを取りに来た」
「くそッ、やっぱりかよ。あぁ、ちょっと待ってな!」
悪態を吐きつつも、最初から大して期待はしていなかったらしい。すぐに店主は顔を引っ込めた。
傭兵というのは、非常時に頼りにならない者たちとして有名だ。金が絡むなら命もささげると豪語するものは多いが、金が絡まないことに命をささげる者はわずかしかいない。
そのわずかな者たちも、つまり義理や恩を売ることが目的のため、真っ当に人助けをしてくれるなどと期待するだけ無駄であるのだ。
「ほら、これでいいか?」
「ルフィア、確認しな」
ドルフの肩から降ろされて、ルフィアは荷物を確認する。
不備はなかった。ルフィアが普段から身にまとっている外套から愛用の剣まで、ドルフは本当にすべて預けていたらしい。
路地裏に置かれた木箱の上に荷物を置くと、白いドレスから着替えようとして、ルフィアは動きを止めた。
「あっち向いててください」
剣に手をかけると、あわてて男たちはルフィアに背を向ける。
べつに見られて減るものではないが、見られて心地のいいものではない。
それが知り合いであれば、一層心地は悪くなる。
傭兵として活動するなかで、迅速な支度は何度も経験してきた。ルフィアは素早く着替えを終えると、ベルトに剣を備え、外套を羽織る。
しっくりくる感覚に、すこしだけ安堵した。
「もういいですよ」
「ったく、大したもんでもねえだろうが……」
「やめとけ、ドルフ」
やれやれと後頭部をかきながら振り向くドルフに、すこしだけ複雑な感情を覚えながらも、ルフィアはため息一つでそれを流した。
貧相だとは自覚しているが、それとこれとはべつの話だ。
じぃっと睨みつけてから、ルフィアは店主に歩み寄った。
「店主さん、ご迷惑をおかけしました。もし最悪、逃げる必要に迫られたら錬金術師の特区に来てください。きっと他よりは安全です」
「あ、あぁ。お嬢さんこそ、大丈夫なのかい?」
「気にする必要はねえよ。気に食わねえが、この小娘は俺らより強ぇからな」
ルフィアは不安そうな顔をする店主の前で剣を抜くと、三度、空を斬って見せる。
それからにこりと微笑めば、呆気にとられていた店主は、思い出したかのように目を丸くした。
「あんた、ちょっと前に来た……」
「その際は、ご迷惑をおかけしました。さ、行きましょう」
素早く謝り、ドルフたちに声をかけた。
以前はオルレニアのお陰で強引に収拾がついたが、改めて弁償を要求されては、断りにくい。
これからあの酒場に行くのはむずかしいな、と思いながら、ルフィアは走り出す。
錬金術師の特区は高い壁で仕切られており、入り口は限られている。
大通りから分道に入った先が最も早い道であったが、そこは半狂乱のあり様だった。
至るところに現れる影に、逃げ惑う人々と、必死に抵抗する衛兵たち。
状況が呑み込めていないのか、立ち尽くす老人もいる。
逃げる人々も行く先に迷っているようで、上手く動けていないようだ。
「おい、嬢ちゃん。あれはなんだ」
エメレイが指をさし、ルフィアはその先を見る。その先には特区への入り口があったはずだったが、言っているのは別のものだ。
恐らく、衛兵たちの統率が取れていないのは、それが原因だった。
「悪魔……!」
人の三倍ほどの身長と、それに比例する体躯。
黒山羊の頭は牙を剥き、その両手からは鋭い爪が伸びている。体は人だが、まるで人の容貌ではない。
ヴァロータで出会ったものよりはひと回りほど小さいが、その姿はまさしく悪魔だった。
「悪魔だと? あれが、ヴァロータに出たってやつか」
「ほぉ、強そうじゃねえか」
「冗談ではありません。放っておくには、あまりに危険です」
さすがに経験の多い傭兵だからか、ドルフとエメレイが臆する様子はない。しかし、だからといって勝てるかと言われれば、難しい問題だった。
ヴァロータでは、戦える環境が整っていた。ウラガーンやジャックなど、悪魔に対抗できる人員がいたことも大きい。
対して、今は影たちに加えて、逃げ惑う人々がいる。
戦うには、厳しい相手だ。
「どうしましょう」
「いずれにせよ、倒さなきゃ進めねえだろ?」
「あぁ、ドルフの言う通りだ。あんたを運んで金を貰うためなら、やってやるぜ」
相手の強さを理解しているのか不安だが、思い切りのいい言葉が返ってきて、ルフィアは覚悟を決める。
「では、行きましょう」
おう、という返事を聞きながら、気を切り替えた。
ルフィアは剣を構えると、路地裏から飛び出し、衛兵と向き合っていた影を切り捨てる。
そのまま、痛む足で地面を蹴り、悪魔の元へと走った。
「わたしが一撃を入れます。二人は、追撃を」
状況は不利にある。悪魔にまだ気づかれていないうちに、最大限の傷を与えるべきだ。
身を低くしながら、ルフィアは剣を握る右腕を大きく引いて、左手を添えた。
狙うのは、ふくらはぎのあたり。
「行きますッ!」
人混みをすり抜け、悪魔の間合いに入った。
走る勢いをそのまま利用して、最後の一歩だけは思い切り地面を蹴りつける。
視界がゆっくりと流れているように錯覚するなかで、ルフィアは目を見開き、確実な一斬を放った。
悪魔の肉体は硬い。
だが、鉄より柔らかいなら切ってみせる。
片脚のふくらはぎに剣先が入り、ルフィアはそのまま勢いを緩めず、反対側の脚まで切り裂いた。
悪魔の巨体が膝を着き、ずしんと音が鳴る。
「おらよッ!」
そこへドルフが間髪入れずに石槌を振るい、悪魔の頭を打ち砕く。
エメレイはその後ろから滑り込むように現れ、倒れ込む悪魔の勢いを利用して、鉄槍をその胸に突き立てた。
示し合わせたかのように、完璧な動きだ。
「まだです、油断しないで!」
『何者だ、貴様ら……!!』
エメレイの槍が突き刺さってなお、悪魔はつぶれた頭から唸るように声を上げた。
強靭な体に高い生命力と再生力は、単純で厄介だ。
ドルフとエメレイがいるならば、なんとか抑えきることはできるかもしれない。
だが、倒しきることが難しいとはわかっていた。
「ドルフさん! エメレイさん!」
胸の槍を引き抜きながら振り返る悪魔の片足を斬ると、ルフィアは叫んだ。
「逃げましょう!」
膝を着く悪魔の脇を抜けて、ルフィアは特区の門をくぐった。
困惑を露わにしつつも、ドルフとエメレイはついてくる。
目的は悪魔の無力化ではなく、ひとまず注意をそらすことだった。
追いかけてきたならば、ウラガーンと合流して迎え撃つ。
仮に追いかけてこなかったとしても、即座に離脱を選んだルフィアたちを警戒して、悪魔はうかつに動けなくなるはずだ。
『逃がさぬ!』
案の状、悪魔はついてきた。
大きさゆえに速さはあるが、大振りな動きしかできないのが、悪魔の欠点だ。
ルフィアたちが回避に徹しながら逃げれば、屋敷まで行くのは難しいことではない。
「おい、嬢ちゃん!」
頭を回転させながら走っていたルフィアは、ふいに腕を引かれて転びかけた。
驚きながら視線を回すと、腕を引いたのはエメレイだとわかる。
しかし、悪魔はまだ後ろのはずだ。
そこまで急いでルフィアの腕を引く理由など。
「くそっ、新手かよ!」
ルフィアの立っていた場所に、大きな瓦礫が突き刺さっていた。
ドルフが足を止め、顔をしかめる。
屋敷へ続く、特区の本通り。
その道の先に、石のような灰色の肌をした悪魔が立っていた。
『逃がさぬと言っただろう? 愚かで矮小な人間め』
背後からゆっくりと迫る悪魔が、ルフィアたちをあざ笑った。
はさみ打ちだ。
『崩れた色彩』は、ずいぶんと戦力を用意したらしい。
「どうする、嬢ちゃん」
隣でエメレイが、弓を構えながら言う。
状況は、想定よりもはるかに悪かった。
ヴァロータで戦った時も、結局悪魔に勝ててはいない。それどころか、オルレニアの助けがなければ全滅していたところだった。
それが、二体もいる。
仮に屋敷に辿りつき、ウラガーンの力を借りたとしても、二体の悪魔を相手になどできるわけがない。
必死に頭を回しても、打開策は浮かんではくれない。
「おい、嬢ちゃん! 雇い主はあんたなんだぜ」
エメレイに怒鳴られ、ルフィアは赤い目を震わせた。
戦うしかないのは、わかっている。
でも、ドルフとエメレイがいたとしても、足を負傷している状態で勝てる見込みはない。
『少しは待ってやろう。この俺に傷を与えた分だけはな』
背後から迫る悪魔に比べて、立ちふさがる灰色の悪魔は静かだ。
しかし腕を組んで待ち構えるその姿勢は、明らかに隙がない、
考えを巡らせた上で、ルフィアは判断した。
「逃げられ、ますか?」
縋るように、エメレイに問う。
苦虫をかみつぶしたような顔で、エメレイはクソ、と小さく悪態を吐いた。
「おい、ドルフ! 逃げられるか!?」
「無理だなァ!」
「そういうわけだ、嬢ちゃん」
傭兵特有の、思い切りのいい返事だった。
ドルフもエメレイも、気のいい人たちである。ルフィアの持ち掛けた交渉も、ほとんど彼らの気の迷いで通ったようなものだ。
唇をかみしめ、剣の柄を強く握りしめる。
「わたしの全力で食い止めます。二人はなんとか逃げて、この先の、明らかにおかしな屋敷から、助っ人を連れてきてください」
悪魔二体を同時に相手して、どこまで戦えるかはわからない。
それでも一体だけならしばらくの間、かわし続けられるという自信はあった。
その隙に二人を逃がせば、なんとか屋敷に辿りつく程度の時間は稼げるかもしれない。
まともに戦えば負けるのは明白だが、時間稼ぎだけなら、できるかもしれない。
「本当にいいのか、それで」
「わたしも助かるためには、たぶんそれが一番です」
エメレイはルフィアの目を見つめたあと、うなずいた。
つい先ほどまで、ルフィアと殺し合う関係だった男だ。
金のつながりというものを、ルフィアは信じていた。
『話し合いは十分か?』
「ぜんぜん足りていませんけれど、待ってくれるのですか?」
『ハッ! 待つと思うか?』
「思いたいのですが」
『残念ながら、その義理はない』
悪魔は両手を大きく広げて、腰を落とした。
突進してくるつもりだろう。
「わたしが一撃を凌ぎます。その隙に、行ってください」
小声でエメレイに言うと、すぐにエメレイがドルフに伝える。
悪魔の脚に力が入り、ぐぐ、とわずかな痙攣を見せた。
ルフィアは大きく腕を引き、左手を刃に添える。
一撃目に、全力を込めるのだ。
『ゆくぞッ!!』
悪魔が飛び出し、ルフィアが刃を走らせた。
その瞬間、視界が真っ白になった。
『ヌォォッ!!?』
真っ暗な夜空から落ちた一筋の光が、悪魔を撃ち抜く。遅れて、周囲に空気がさけるような音が鳴り響き、強風が吹き抜ける。
光を受けた悪魔は、体から白い煙を上げながら吹き飛ばされていた。
悪魔の胸に大きな焦げ跡が残っているのを見て、ルフィアは目を丸くした。
「落雷……!?」
雷とは、嵐のなかで鳴り響くもの。
空を駆け、その力強さをもって、戦を鼓舞するもの。
神の槍とも称される、偉大なる自然の暴力。
「でも、どうして」
雷は雨が降っている、もしくは曇り空のなかでしか起こらないとルフィアは知っていた。
しかし空は雲一つなく、雨も降っていない。落雷が起きる条件は整っていないはずだった。
「寄って集って少女を虐めるとは、感心しないな」
突然、空からしわがれた声が響いた。
見上げると、まるで見えない足場の上に立っているかのように、人影が宙に浮かんでいた。
ルフィアは思わず自らの目を疑う。
それは、逃げ惑う人々のなかで立ち尽くしていた老人だった。
ぼろ切れのような服をまとい、貧者という様がありありとわかる老人は、その見た目にそぐわない流れるような動作で、ルフィアに頭を下げる。
「だ、誰ですか……!」
「失礼、この姿ではわからないな」
老人は身にまとっていたぼろ切れを掴むと、ぼそぼそと何かを口にしてから、ばさりと脱ぎ去った。
驚くルフィアの前で、炎の明かりに金色の髪が煌めく。
白い燕尾服に、腰に備えた細剣。
身長はルフィアよりも頭一つ分ほど高く、碧眼は理知的な光を湛えている。
ヴァロータにいるはずの、ロンバウトがそこにいた。
「なぜ、ここに……!?」
「君たちがこのプラーミアに向かった後、私の元に崩れた色彩の情報が入ったのでね。行かせた手前、責任を取らなくてはいけないと参った訳だが」
ロンバウトの冷ややかな眼が、ルフィアの背後に向く。
振り返ると、灰色の悪魔はルフィアのすぐ真後ろまで迫っていた。
「少し遅れたようだ。すまない」
ロンバウトの引き抜いた細剣が、金色に輝いた。
灰色の悪魔が振り下ろした腕が、落雷によってちぎれ飛ぶ。
「色の力、ですか?」
「ああ。私も色使いなのでね」
怯んだ悪魔たちへ、幾本もの雷が降り注ぐ。
ロンバウトの言葉が真実であるなら、これは彼の『色の力』によるものなのだろう。
軽く見る限りでも、ルフィアが敵う力ではない。
真実はどうあれ、ひとまずロンバウトが味方であることに感謝した。
「さて、行きたまえ。今、オルレニア様はアルテの元にはいない」
「ロンバウトさんは、行かないんですか!」
「生憎、アルテには嫌われていてね」
悪魔は起き上がろうとしているが、体に衝撃が響いているのか、ふらつきを見せている。
ロンバウトがどれほどの実力なのかをルフィアは知らなかったが、オルレニアの言っていた『色の騎士』の一人であるならば、かなりの実力者であるはずだ。
ルフィアは剣を納め、唖然としているドルフとエメレイの元に駆け寄った。
「おい嬢ちゃん。ありゃ何モンだ?」
「強力な味方です。悪魔は彼が相手するらしいので、先に行きましょう」
「ほお、そりゃあ良い」
「俺には、どっちも悪魔みたいだがね」
傭兵といえば、適当が売りのようなものだ。
いまいち納得のいってない顔をしながらも、ドルフとエメレイはうなずいた。
特区の大通りは、なだらかな坂道で、うねるように続いている。
まだ屋敷は見えないが、ロンバウトの言う通りならウラガーンだけでは苦しいものがあるはずだ。
落雷に吹き飛ばされる悪魔の隣を通り抜け、ルフィアは石畳の道を走る。
正直、体力はもう限界だった。
足首の痛みもじわじわと強くなってきている。気力がなければ、今すぐにでも倒れてしまいたいくらいだった。
それでも一人の傭兵として、ここで音を上げるのだけは、絶対にごめんだった。
「もうすぐです……!」
プラーミアに来てから、何度も目にした、ユエンの屋敷の屋根。
暗闇のなかで不気味に映るそれを見て、ルフィアはわずかにやる気を上げる。
「指示は任せたぜ、嬢ちゃん」
「敵らしいのを、倒してください!」
ルフィアは剣を抜きはらい、いつでも斬りかかれるように上半身の姿勢を整えた。
思えば、この街でルフィアを雇っているのは、ユエンだった。
雇い主の希望は、護衛だ。
ようやく戻ってこられたが、少なくともルフィアは、少しの間その役目を放棄していたことになる。
ユエンは気に食わないが、それは間違いなく傭兵としての失態だった。
認めたくないが、ルフィアはまだ未熟だ。
誇れるのは剣の腕だけで、それ以外の点において、傭兵としての完成度はかなり低い。
そして、今回の失敗は、剣の腕さえも不足していたせいで起こった。
――今、ルフィアの自尊心は、激しく傷つけられていた。
剣を構え、鋭い一撃を繰り出すための構えには、普段よりも力がこもっている。
それは無意識でもあり、意識的でもあった。
一人でも多くの『崩れた色彩』を打ち倒すことで、自らの失態を払拭しようとしているのだ。
とても、浅はかな考えではあった。
屋敷の全貌が目に映る。
敵だらけだと警戒していたルフィアは、そこの状況に、先に困惑した。
「おや。これはこれは、自力で戻ってきたのかね!」
色とりどりの霧が、炎や氷の形になって『崩れた色彩』の影たちを襲っていた。
それを放っているのは、烏を模した覆面を顔につけたユエンと、同じ様相をしたもう一人の男である。
屋敷を囲むようにして、数えるのが面倒なくらいの影が集まっている。しかしユエンともう一人によって、かろうじて食い止められているようだった。
ユエンはルフィアのほうに顔を向けながら、両手に持った細いなにかを、辺りにばらまいた。
「実験の途中だ、邪魔はしないでくれたまえよ」
言いながら、ユエンは腰に着けた鞄から、いくつものガラス管を取り出す。
ガラス管のなかには赤や青、緑といった派手な色の液体が入っている。
「嬢ちゃん。もしかしてあれが、錬金術師ってやつか」
「はい、今のわたしの雇い主です」
「この状況で実験たァ、さては余裕ぶってやがるな」
「……アレは多分、本当に実験のつもりでやってるんだと思います」
あまりいい印象ではないらしい。
エメレイとドルフは、うっすらと渋面を作っている。このプラーミアにおいて、錬金術師とはそういう扱いなのだ。
「とりあえず、彼らに近づきましょう」
ドルフを先頭にして、無数の影の間に道を切り開く。
数が多いせいで、逆に影たちは動きづらそうにしている。破壊力だけが取り柄のドルフの石槌は、この状況においては効果的だ。
一直線にユエンのそばに辿り着くと、ルフィアは彼がばらまくガラス管を見て、驚いた。
細いガラス管が影の一人に直撃し、青い液体をまき散らして凍り付かせる。その現象は、とてもではないが常人に起こせるものではなかった。
「色の力、ですか?」
「これは私の力ではないよ。アルテから拝借したものを、すこし弄っただけさ」
「ゆえに危険極まりない。君たちも気を付けるのだぞ!」
錬金術師としては優秀だという一面を、ありありと見せつけられた気がした。他人から借りているとはいえ、人の技術で、『色の力』を扱えるようになるとは。
「特にお嬢さん、気をつけたまえ」
声を聴く限り、ユエンと並んで立っているのは、同じく烏の覆面をつけたカルロスだった。
ルフィアが最後に見た時は首から下がまっ黒に侵食されていたが、平気そうに動いている姿を見る限り、助かったらしい。
人を気遣うだけ、ユエンよりはマシな思考をしているのか。
「お嬢さんの白い体には興味があるのでね」
前言撤回、結局はカルロスもユエンと同類だ。
ルフィアはふざけた考えを切り離し、わずかに息を上げるユエンの側に寄った。
「平気そうにしてますが、実際のところは?」
「私の体力では、そろそろ限界だ。蓄えも残り少ない、とっておきを出した時点で、私は無力になる」
「屋敷の中の状況は」
「面白くない問いかけをしてくるね。さて、何人かはあの銀狼の餌食になったのではないかな」
「なるほど、時間の問題ですか」
いくら錬金術師としては優秀でも、戦闘は不得手だろう。
『色の力』の暴力によってなんとか耐えていても、じきに押しつぶされるのは目に見えている。
「アルテさんは、なにを」
「私の持つ知識が正しければ、そろそろ復活の魔術を完成させる頃だ。今は魔術に集中していて、無力だがね」
オルレニア曰く、歌姫は二人で一人。
先ほどのロンバウトを見る限り、『色の騎士』の戦闘力は絶大だ。もしもアルテが本来の力を取り戻したのなら、この形勢を逆転できるだろう。
ルフィアはわずかに疲れを見せるドルフとエメレイに振り向いた。
「この錬金術師を手伝えってことだろ?」
「任せて大丈夫ですか」
「きつくなったら逃げるさ。傭兵ってのは、そういうもんだ」
ユエンの口ぶりから察するに、すべての敵を抑えきれるわけではない。
屋敷のなかにも入りこんでいて、それを抑えているのはウラガーンだけという状況にある。
いくらウラガーンが強いとはいえ、無防備なアルテを守り切るのは、簡単なことではないはず。
「お願いします。時間さえ稼げば、勝算はありますので」
「おうよ。ただ、報酬はすこし値上げしてくれよ」
にやりと笑うドルフの言葉に、ルフィアは苦笑を浮かべた。
やり取りは一瞬。すぐに走り出し、屋敷の敷地へ飛び込む。
振り向くことなく、背後から響く戦いの音を聞きながら、玄関扉を開けた。
蝶番がきしむ音を聞きながら、屋敷に初めて入ったときの気分を思い出す。
信頼できなかった相手に、背中を預けるようになることもある。
敵だった相手と、手を組むことだってある。
関係というのは、よくも悪くも面白い。
しかし、『崩れた色彩』において、それは見込めない。
罪なき人々を脅かし、無作為に化け物を作り出す。
ルフィアの知識が浅いせいで、目的はいまいちわからない。ただ、それでも、彼らが倒すべき敵であるということだけは、理解している。
屋敷のなかに入り込んでいた数人の影を、奇襲の形で仕留めていく。
視界が通ったところで、広間の床扉の前に四つ足で立つ、美しい狼と目が合った。
『ルフィア!』
「なんとか戻りました、ウラガーン」
『さすが、わたしが認めるだけはある』
駆け寄ると、ルフィアの胴ほどもある頭をこすりつけてくる。
ウラガーンもまた、敵だったところから味方になった存在だ。背中を預けるという一点において、これほど信頼できる相手もいないほどに。
二階から、戸を打ち破る音が聞こえる。
風が流れてくるのは、屋敷の破損が大きいから。それだけ、敵が多いからだ。
肉体は限界でも、影程度に負ける気はしなかった。
ウラガーンのふわりとした毛並みを撫でて、ルフィアは心を落ち着かせた。
「まだ、戦えますか?」
『私を嘗めるなよ。まだまだこれからだ』
階段を飛び降りて、目の前に五人の影が現れる。
前傾姿勢で、手足が妙に長いのを見る限り、通常の影とは違うようだ。
ルフィアがかかってこいと笑うと、影は両手から伸びた長い爪を構えた。
「わたしも、まだまだこれからです」
牢屋のなかで、無力を感じた。
運ばれるなかで、守られるなかで、無力を感じた。
――自尊心を取り戻すのだ。
紅の瞳が黒い影を捉える。
ルフィアの構える剣が、銀閃を走らせた。
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