第35話
ぽう、と緑色の光がオルレニアの視界を通りすぎた。
直後、暗い馬車の幌幕の中に、くすくすと幼い少女の笑い声が響く。
対面に座るユエンの目が光を追っているのは、それがオルレニアの幻覚でないことを示していた。
「オルレニア、今のは何かな」
ユエンがひどい隈がかかった目を見開いて、口角を吊り上げる。
それと対するように、オルレニアの表情がより一層険しくなった。緑の魔法が発動するということは、オルレニアにとって、願わざる事態が起こったということだ。
「ルフィアの身に、何かがあったらしい」
「ほう? 今のは、そういう魔法なのかね」
「ああ。我がルフィアに掛けた物だ」
狭い幌屋の中でオルレニアが立ち上がると、窮屈に感じるほどの圧迫感が生まれる。
ユエンは立ち上がった彼を見て、にたりと口角をより一層上げた。
「我は行くが、貴様はどうする」
「行けるなら着いて行こう。魔法を使うのかね?」
「ああ。ただの人間ならば、少々身体に負担がかかる」
「負担なんて、気にしないさ。命と引き換えてでも研究するのが私達錬金術師なのだよ」
大げさな身振りをするユエンに、ふんと鼻を鳴らしながら、オルレニアは幌屋の暗幕を閉じた。
光が完全に閉ざされ、真っ暗な空間が広がる。
その中で、オルレニアの周囲の闇。黒い空間が、歪んだ。
「”描き換えろ”」
言葉に従うように、黒色が二人を飲み込んだ。
◎◎◎◎
アルテが振り向くと、片腕にユエンを抱えたオルレニアがいた。
長方形の煉瓦造りの部屋は、壁にさまざまな剥製が飾られている。暖炉も真っ赤な火を灯し、長机と椅子しかないこの部屋を充分に温めていた。
そんな、裕福とはいえ質素な部屋の中に、いつの間にかオルレニアが立っていた。
それ自体は驚くべきことではない。屋敷は広く、隠密も得意なオルレニアがアルテの気づいていないうちに帰ってきて、この部屋にいてもおかしいことではなかった。
「おかえりなさいませ、ヴィエナ様」
アルテが驚いたのは、まるで暖炉の火が消えてしまったのかのように、底冷えするような冷たい殺気が部屋に充満したからだ。
肌が冷たいナイフで切り裂かれたようなそれは、怒気を孕んだオルレニアから放たれていた。
「ルフィアはどうした」
「今は、ノーグ商会で素材の受け取りをしているはずですが」
「アレに掛けた、“警鐘”の魔法が発動した」
アルテは、自分の顔から血の気が引くのを感じた。
オルレニア不在の時にルフィアを一人にするのはまずかったかと過去の自分を悔いるが、それどころではない。
先ほど出ていったウラガーンは間に合わなかったのだろうか。
「どう、なさりますか」
「我はノーグ商会へ向かう。アルテよ、お前はお前の妹を守るがいい」
「しかし、大事があっては」
「我一人で充分だ。それと、此奴の守りもするがいい」
アルテの意見を聞こうとすらせずに、オルレニアは片腕に抱えていたユエンを地面に放り出す。
どうやら気を失っているようで、いつも上がっている口角が下がったまま、目を閉じていた。
アルテはユエンに向けた目をもう一度オルレニアへ向ける。
「ヴィエナ様、失礼ながら、ウラガーンが向かっております。かの狼が戻るのをお待ちになってはいかがでしょう」
「我自身が行ったほうが早い」
「……わかりました」
オルレニアに譲る意思がないと見たアルテは、頭を下げた。
「気を付けろ。『崩れた色彩』が来るやもしれん」
「その場合は、全力をもって殲滅いたしますわ」
「頼む」
短い言葉だけを残して扉を開けると、オルレニアが部屋を離れて行く。それは彼が、アルテのことを信頼している証なのだろう。
床に投げ捨てられたユエンが呻く声が聞こえるまで、アルテは頭をあげなかった。
「ひとまずは、この男ね……」
倒れているユエンを起こそうとしたアルテは、まるで動かせず、自分の非力さに歯噛みする。まるで力を使うことのない生活をしていたことが裏目に出た。
それから頰を叩いたり、耳元で拍手をするなどの策を図るも概ね失敗し、むっとした表情でアルテはユエンの頭に手を置いた。
「“起きなさい”」
ほのかに赤い光と共に魔法を使い、ユエンを強制的に目覚めさせる。
長い睫毛がぴくりと動いたのち、ユエンの瞼がゆっくりと持ちあがった。
それから何度か周囲を確認するように瞳が動き、自分を見下ろすアルテに向いた時点で制止する。
「これが、移動の魔法かね」
「ヴィエナ様の魔法に巻き込まれて意識を失ったのなら、そうでしょうね」
「そうか。私はどれほど寝ていたのかな」
「すぐに起きたわ」
「ならば、わずかの時間差もなかったという事だね。見事なものだ」
起き上がり、ガラス窓の外へ目線を移したユエンは気持ちの悪い笑みを浮かべた。それを見たアルテは、起こさない方が良かったかと若干の後悔を覚える。
「そんなことはいいのよ。ユエン、あなたには聞かないといけないことがあるわ」
「さて、なにかな?」
「あなた、『崩れた色彩』の仲間なの?」
ルフィアが商会へ向かう前に言っていた、ユエンの集めた素材の問題だ。
全ての素材に魔術がかけられ、『色』の力が流れることを阻害していた。そしてその実験を知っているのは、アルテとユエン以外には存在しない。
こっそりと探るには時間がかかるため、アルテは直接問いを投げた。
ユエンの目が、徐々に見開かれていく。
「それは、私が君たちに反旗を翻したと?」
「元々『崩れた色彩』の仲間であった可能性も疑っているの。あなたが集めた素材は、ルフィアさん曰く黒の力で細工されていたみたいだから」
むくりと起き上がり、軽く立ち眩みを起こしながら、ユエンは首をかしげる。
目立った反応は目を見開いている程度だが、若干うろたえているようにも見えた。
もっとも、この男に限ってそんなことはありえない。半分以上、演技も混じっているはずだ。
「その場合、私は殺されるのかね」
「ヴィエナ様とわたくしによって、出せる限りの情報を絞り出されてから死ぬわ」
アルテは手元に強い炎を作り出し、深紅の長髪をたなびかせた。今ここで戦闘をした場合でも、確実に勝利して殺すと威嚇しているのだ。
ルフィアはアルテのことを不完全で弱っていると考えていたが、それでもアルテは古代から生きてきた『色の騎士』である。
この場でユエンを捻りつぶすことくらい、造作もないのだ。
「いくら私でも、君たちと戦おうとするほど愚かではないさ。それにリスクの高い『崩れた色彩』よりも、君たちの手伝いをした方がいいのは明白だろう?」
「潔白の証拠はないのかしら」
「今ここで私を焼くか、あるいは命令でもしたらいい」
アルテのルビーのような瞳が、炎に照らされて煌めいた。
そんな瞳を真っ向から、ユエンのエメラルド色の瞳が見返す。炎の熱で、血色の悪い頬を汗が伝った。
身長はアルテより頭一つ分高いが、到底オルレニアのように均整の取れた肉体とは言えない。『崩れた色彩』からすれば、密偵以外ではまるで価値がない男。
そもそも、ユエンの協力がなければアルテの研究は数段遅れていた。『崩れた色彩』であるならば、それはむしろ好都合のはずだ。
「……まあいいわ。ヴィエナ様が戻れば、あなたが隠し事をしようとも関係なくなるもの」
「くく、確かにそうだ。私なぞ、君たちのつま先にも及ばない存在だからね」
「今ここで燃やしてもいいけれど」
「燃やせば真実はわからなくなるがね」
ユエンは立ち上がると、深緑の前髪で目元を隠した。
軽く汗をぬぐい、改めてアルテの方へと視線を向ける。じっとしたまま動かないアルテに疑問を抱いているようだった。
「わたくしは今、動けないの。もしものことがあったときに、カフリノを守らないといけないから」
「ルフィアさんを早く見つけた方が安全性は高いと思うのだが、捜索の魔法などはないのかね?」
「オルレニア様が見つけられないなら、わたくしでは難しいわ」
突き放すような物言いだが、事実としてアルテにとって優先すべきは
ユエンもそのことを心得ているのか、わずかに首を傾けただけで、それ以上何も言うことはなかった。
そんな彼を見ながら、アルテはふと、思い出したように言う。
「そういえばユエン。カルロスが来たわ」
「ほう、今度はなんと言っていたのかな?」
「錬金に成功した、なんて言ってたわ」
普段からカルロスを嘲笑うように、ユエンはにやにやと彼の話を聞くことが多い。カルロスの実験がユエンの一歩あとを辿っていることもあるが、純粋に遊んでいるのだ。
しかしそんなユエンがこの時は、ばさりと外套を翻して、勢いよく振り返った。
「なんだって?」
「錬金に成功したと、そう言ったのよ」
前髪の隙間から覗く目が、細まった。
それはアルテが今まで見たことがないほどに、感情を露わにした目だった。
「アレが、失敗したのか? まさか」
「どうしたの?」
「それは実験に失敗したときのための、合い言葉だ。幼い頃のね」
ユエンは懐を探ると、銀色に輝く注射器を取り出した。
「この言葉を使う事態では、『満天』のを一刻も早く処理する必要がある」
アルテも知るそれは、動物を殺すときなどに使う、劇薬の入ったものである。その中でも特に長く、まるで人を刺すために作られたようなそれを、ユエンは指揮棒のように摘まんだ。
「ルフィアさんが調べたけれど、彼、黒に侵されていたそうよ」
「なるほど、それなら確かに、私に助けを求めるのも納得がいく」
部屋の扉を開けてユエンが玄関に向かうのを、アルテは追いかける。
ぼんやりとオレンジ色の光で照らされた玄関で、ユエンは衣装掛けに掛かった黒い外套と烏を模した仮面を身に着けた。
「殺すつもりなの?」
「それをする必要があるから、彼は私の元を訪ねたのだよ」
あまりに早い決断に、アルテはわずかに狼狽えた。
命を奪う必要はないのではないか。そんな恐れとも言える感情が、アルテの口を開かせる。
「待ちなさい、ユエン」
「なにかな」
思わず緊張してしまうほどに、ユエンの声は冷たいものだった。
この情報は与えるべきではなかったか、そんな判断の間違いまで考えてしまう。
「何とかする手段は、まだあるわ」
早くも玄関に手を掛けていたユエンの動きが、ぴたりと止まる。
「ヴィエナ様の力があれば、まだ助かるかもしれない」
「手遅れになったら、どうするつもりかね」
常にどこかふざけているようなユエンの高い声が、ずいぶんと低かった。
「我ら錬金術師は苦難に曝されてきた。ようやく見つけた、この場所だけは守らねばならないのだよ」
「ならばこそよ。今あなたが刺激する事で、彼は悪魔として完成するかもしれないわ」
ゆっくりとユエンに歩み寄り、アルテはその肩に手を置いた。
とても、力が入っている。それは彼がこのプラーミアという居場所を守ることに本気だということを如実に示していた。
「今は、待ちましょう」
「……万一の対処は君に任せるよ」
ユエンの扉に掛かった手が離れる。
アルテに背を向けて部屋の中へと戻っていくその後ろ姿には、まだくすぶる炎のような感情がありありと見て取れた。
◎◎◎◎
薄暗い、石造りの部屋だった。壁にかけられた蝋燭だけが照らすその部屋には冷たい空気が漂っている。
オルレニアは振り返り、眉間に深く皺を寄せたサイラスを見下ろした。
「私が扉の外にいると、中からルフィア様の声が聞こえてきて、逃げろ、と」
「ウラガーン、匂いはどうだ」
オルレニアがノーグ商会に着くと、人の姿で門の側に座り込むウラガーンと、それに寄り添うサイラスがいた。
異常を認識していたオルレニアは、すぐさまサイラスの案内でルフィアが襲われたという地下室へ案内されたが、そこには何も残っていなかった。
『ルフィアの匂いと、別の匂い……悪魔の臭いがする』
「移動した痕跡はあるか」
『突然匂いが消えている場所がある。色の力でも、使ったか』
「ふむ」
ウラガーンが示した石の床を指先でなぞると、他の場所とはわずかに違う触感があった。
それは固いもの同士がこすれ合い削れた、ざらりとした触感だ。
戦いがあったのならば、相応に動くはずだ。その影響だろう。
「サイラス。この商会に、鎧を着た者はいるか」
「深夜の見張りでしたら、あるいは」
ただの見張り程度に、ルフィアが敗れるとは思えない。
相当の手練れか、あるいはそれなりの『色使い』か。
思考を巡らせながら、オルレニアは部屋の中央付近に落ちていた麻袋を開く。
「これが、届いた素材であるな」
中には主に青い素材が入っていた。アルテの妹であるカフリノは『青』の力を使うため、必要となるものも、おのずと青色が多くなるのだ。
品質は良く、恐らくは注文したものはすべて届いている。オルレニアたちがヴァロータに帰還したよりも、さらに早く着いたとは驚きだ
「この商会に、貴様以外に色の力を知る者は?」
「おりませぬ。せいぜい、ヴァロータでの悪魔騒動を聞いた程度かと」
「見張りは何者だ」
「傭兵でございます。一応、信頼できる筋から雇った者ですが……」
表情から嘘を読み取ろうとするが、サイラスの顔にその兆候はない。
小さくオルレニアの口からため息が漏れた。
「仕方あるまい」
かがみこむと、床に手のひらをつけて目を伏せる。
「”探せ”!」
黒いベールのように、『黒』の色が部屋内を這うように広がっていく。
同時にオルレニアの脳内に、『黒』が通った場所の情報、情景が映しだされていった。
石壁の部屋を出て、複雑な通路を駆け巡り、商会全体へ。
そのまま商会を超え、周辺の建物の情報を読み取っていく。
騒ぐ傭兵や、何かに嘆く職人。カラスと睨みあう猫。一人でたたずむ、大柄の男――
バチンと、情景が突然弾けて消えた。
「やはり阻害されるか」
「オルレニア様、今のは」
「色の力でルフィアを探したのだがな。途中で食い止められたわ。勘のいい色使いが居るらしい」
立ち上がり、オルレニアは拳を握りしめた。
麻袋を掴み上げ、部屋の扉に手を掛ける。
『崩れた色彩』にとって、恐らくオルレニアたちは明確に敵である。ヴァロータに現れた悪魔と戦っていたことは知られているはずだ。
つまりそれは、ルフィアの身が安全である保障はないということにつながり、わずかな焦りにつながる。
『待て、オルレニア』
「何だ」
振り返ると、ウラガーンが床の一点を見つめて立ち止まっていた。
匂いを嗅いでいるわけではなさそうだが、その視線の先には、ただ灰色の床が広がっているだけだ。
『ここに、なにかがある』
数歩歩くと、ウラガーンは見つめていた付近を前足で踏んだ。
するとまるでなにかに当たっているかのように、わずかだけその足が浮いている。
それは明らかに演技ではなく、足と床の間に、なにかぶつかるものがあるのだ。
オルレニアはそこに近づくと、ウラガーンの前足の付近に手をかざした。
「”退け”」
一言で、背景に同化するようにしてそれを隠していた『色』がはがれた。
現れたのは、断ち切られ、鎧から離れた指甲冑である。
「これは、鎧の一部か」
『指か? すこしだけルフィアの匂いがする』
「その様だな」
炎の光に当てられて黒光りするそれは、間違いなく全身鎧の小指の甲冑だ。
オルレニアの指でさえ収まってしまいそうな大きさは、そのまま装着者の体の大きさを表している。
その中に指は残っていない。強引に断ち切られたようなその断面を見る限り、恐らくルフィアが断ち切ったのだろうが、もともと中身は無かったのか。
「良くやったウラガーン。手がかりと少しの時間さえあれば、見つけられよう」
『私よりも、後でルフィアを褒めてやれ』
懐に指甲冑を入れ、オルレニアはカツンと音を立てて振り向く。
「サイラス、気を付けるが良い。貴様が狙われる可能性もある」
「心得ております。商会の見張りも増員するとしましょう」
「怪しい者は全員詰問せよ。『崩れた色彩』を捕らえた場合は、言葉を話せぬようにして拘束しておけ」
サイラスは静かに頭を下げる。
先ほどのオルレニアの捜索を受けて、『崩れた色彩』は動き始めるはずだ。
サイラスが襲われた場合、ノーグ商会という強大な後援の力が削られることになる。最悪の場合は何とかなるだろうが、万が一があってはならない。
扉を開けて外に出ると、オルレニアは目を細めた。焦りは落ち着き、静かな怒りだけが残っている。
『緑』の魔法はまだ完全に
今は目前に現れない『崩れた色彩』へと、その怒りは溜めておくばかりだった。
◎◎◎◎
身体の芯まで冷えてしまう、凍えるような寒さで瞼を上げる。眠りから覚めたばかりで、まるで頭が回らない。
冷たい木板が敷かれた石床と、色のくすんだ石の壁が目に入る。
視界の端をちらつく明かりに目を向けると、壁に掛かった松明は、鉄格子を越えた先にあった。
「ろう、ごく」
じわりと、感覚が戻ってきた。
殴打によって割れた額と、鎧の蹴りで骨まで軋んだ腹部が、急激に痛みはじめる。
「そっか」
負けたんだ、と声にならない声が出た。
剣を握っていた右手の筋が痛んでいることがわかる。本当の実力差で負けたことに、ルフィアは唇を噛んだ。
そして悔しさに目を下へ向けると、ふわりとしたスカートがあった。
「また、こんな服……?」
思わず呟いてしまう。
あちこちにひらひらとしたフリルの付いた貴族が着るような白いドレスを、ルフィアは着せられていた。その白さに嫌悪感を覚えて脱ごうとするが、あまりの寒さにドレスを掴んだ手を下げる。
一体なんの意味があるのか、ノーグ商会に捕らわれた時も同じようなドレスを着せられていた。
「服には色の力を増幅する意味があるんだと、あいつらはそんなことを言っていたな」
気配を感じて顔を上げると、鉄格子の前に茶色の長髪を持った男が立っていた。
胴には革鎧を、全身の急所には甲を着け、片手に持っているのは鉄製の短槍である。
鼻筋は通っているが、どこか素朴な顔をした男は、ルフィアが知っている顔だった。
「あなたは、あの時戦った」
「ああ、そうだ。あんたに負けた槍使いだよ」
ヴァロータの事件で、ケビンを追った際にゲルダンと共に待ち構えていた男である。
名前すら知ることなく終わった相手ではあったが、命をかけたやり合いをした以上、ルフィアの記憶にはしっかりと残っていた。
「エメレイ・アヴリコーソフだ。こんな場所だが、よろしくな」
男、エメレイは槍を肩に担ぐと、小さく笑みを浮かべる。
しかしルフィアはそれに笑みを返せるほどの余裕をもってはいなかった。
「あなたは、『崩れた色彩』だったんですか」
「ケルミデ……ああ、俺は雇われただけだ。あいつらと個人的な関わりはない」
「本当に?」
「疑わないでくれよ、あんたのその目は怖いんだ」
男は槍を身体に立てかけるようにして、両手を挙げた。
一度ルフィアに斬られたことを覚えているからだろう、揺れる青い瞳が心の内を語っている。
全力で殺気を込めていたルフィアは、両手を胸に当てて、小さく息を吐いた。
「よかった。少なくとも、殺す必要はないんですね」
「かわいい顔して物騒なことを言うな、あんた。安心しろ、俺はただの見張りだよ」
物騒とは失礼な、と思いつつも、事実としてルフィアの思考は傭兵なのだ。
むしろ自分を斬った相手に対して、かわいいなどという言葉を投げかけられるこの男がおかしいのかもしれない。
「ああ、逃げるなら止めるぜ? その怪我で武器もないなら、俺が勝つだろうしな」
槍先がルフィアの顔に向いた。
確かに武器もなく、怪我を負っている状態で勝つのは難しい相手だ。
しかし、侮られる訳にはいかない。ルフィアは立ち上がり、近づこうとして動きを止めた。
「足枷も着けられて、ずいぶんと危険人物扱いだな」
「そう、ですね」
背中を、嫌な汗が伝う。
エメレイの軽口に返す余裕さえ忘れて、じんわりと恐怖が広がっていくのを感じた。
狭い牢の中で、足枷を着けられ、鉄格子に触れることすらかなわない。
自分の力ではどうすることもできない状況だった。
「諦めたほうがいい。他に捕まってるやつも少ないからな、話相手くらいにはなってやるよ」
「おいしいご飯は出るんですか?」
「あんたには利用価値があるらしいから、悪くない程度のものは出ると思うぜ」
利用価値があるという情報に、ルフィアは眉を顰めた。
その価値が発揮されるまでは自分は殺されない、という安堵も得られたわけだが、その内容によってはより悪い方向に進むかもしれない。
改めて、足枷に手を伸ばす。
輪の大きさはぎりぎり足が抜けない程度で、鎖の先は壁につながっている。
「じゃあ、暇なときは呼びますね」
「飯を食ってるときに呼ぶのはやめてくれよ」
精一杯の笑みを浮かべて、小首をかしげる。
ルフィアの心境を思ったのか、エメレイは廊下の先へと歩いて行った。
足首に触れて、関節の位置を確かめる。
最悪の手段を、視野の内におさめておくべきだろう。痛む腹を抑えながら、ルフィアは部屋の隅にある藁へ体を倒した。
「この服、いくらくらいするんだろう……」
気を紛らわせるようにドレスを撫でて、さらりとした触り心地を感じながら、ルフィアは灰色の天井に向かって小さく呟いた。
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