第2話
――絶望。虚無感。諦念。
その時の心情を表すには、その程度の言葉では足り得なかった。
真正面から敵う事のない絶対的な力に押し潰される恐怖は、あまりにもか弱い自分という存在が消えていく様な錯覚を覚えた。
そして。
――安堵。安心。安楽。
またその時の心情を、その程度の言葉で表すことは出来ないだろう。
絶対的な死を目の前にして助かったという安堵は、逆に心を壊してしまいそうな程の安らぎだった。
若き傭兵、ルフィアはその時。
他の誰もが味わった事が無いであろうその安らぎを体感し、感動に打ち震えたのであった。
◎◎◎◎
『グ、ォオォ……!!』
前足を切断され、魔獣は怒りの篭った咆哮を上げた。
常人ならば、恐怖に身が竦んでしまうだろう物だが。
それに一切怯む事なく、一つの影は暴れ狂う魔獣の攻撃をかい潜り、一太刀、一太刀と確実に傷を与えていく。
どんな荒くれ者でも出会う事を恐れ、どれだけ無敗の王者であろうと敗北を教える怪物。それが魔獣という存在だ。
しかしルフィアの目の前の光景は、それがまるで嘘だと告げる様に雪原に朱の色を作り出していた。
『ォオオオオオオッ!!!』
巨体を活かした体当たりを紙一重でかわし、すり抜けざまに一太刀。
魔獣の体に、遠目にわかるほど大きな傷が出来る。
『グ……ァァ』
幾度も切られ、次第に弱って行く狼の魔獣は、カタカタと足を震わせながらルフィアに視線を送った。
助けてくれ。
その視線は、まるでそう言っている様だった。
先程まで自分を殺そうとしていた魔獣が、殺そうとしていた獲物に救いを請うたのだ。
当然ルフィアにこの魔獣を救う義理もなければ、意味も無い。
理性は、そう告げた。
「ま……待って、ください!!」
だが、咄嗟に体が動いていた。
魔獣の瞳に先程の自分と同じ、死の恐怖を目の前にした悲しさや後悔、苦痛を見たからだ。
謎の男の剣撃が止まり、その視線がルフィアへと向けられた。
今更ではあるが、この男は味方では無いかもしれないという、その可能性を考えたルフィアは、尻すぼみに小さくなる声を上げた。
「そ、その魔獣を……殺さないであげて、下さい!!」
情けない。
自分でもそう思うほどに情けない声ではあったが、男は攻撃を止め、心なしか首を傾げると。
「何故だ」
と、そう言った。
人間であるのだから話せるのは当然なのだが、ルフィアはその事に少々では無いほどに驚きを覚えた。
そして恐ろしく冷淡であるその声に恐怖を覚えたが、体は勝手に動き、声を発する。
「その狼は、もう動けないほどに弱ってます。殺すまでしなくても……良いんじゃ、ないでしょうか?」
人とは、家畜を飼い、殺して食べる生き物である。
そこに特別罪悪感の様な感情は覚えず、その行為をする事が、同族を殺す事と同等の物とは思わない。
この魔獣もそうなのだ。森に現れた獲物を殺しても罪悪感は覚えず、飽くまでそれは獲物であった。
だが、突然現れた敵に殺されかけて、魔獣は人の存在を認識した。
手を出してはいけない存在だと、認識したのだ。
「……ふん」
男はへたり込む少女を冷ややかな目で見下ろすと、狼に手を翳した。
殺すつもりか、と思わずルフィアはそれを止めようとする。
その時、ルフィアは初めて本当の驚きを覚えた。
男の手の平のから放たれた緑の光が魔獣を包み、その全身に付いた傷がみるみる内に塞がったのだ。
そしてルフィアが何かを口にするよりも早く、無言のままに男はその場を去って行った。
後には、男が来る前の状態のみが残っていた。
◎◎◎◎
少女はこの日、幾つもの未知を既知に変えた。
一度目の未知は、魔獣という存在。
圧倒的な強さを、思い知った。
二度目の未知は、生と言う物に対する感情。
死の恐怖と生の幸福を知った。
三度目の未知は、剣士が使った不思議な力。
常識を外れた力を知った。
一時間にも満たない雪の森での経験は、どれも少女――ルフィアの予想を超える物であった。
『グ……』
魔獣は自分の身に起きた事が理解出来ていないのか、ゆっくりと立ち上がって唸ると、目の前にへたり込んでいる少女に近づいた。
「っ……ぁ……殺さないで、ください」
『グ…?』
急に怯え始めた「元」獲物であり、命の恩人である少女を不思議に思いながらも、魔獣は顔を寄せ、擦りつけた。
すると少女も、恐る恐るその顔に触れ、ふ、と息を吐くと、そっとその鼻面を撫でる。
それがくすぐったく。落ち着くように感じ、狼はゆっくりと地面に寝転んだ。
「こ……怖かったね……」
ふと、少女がそんな事を言った。狼である身だが、魔獣となる程までに成長したこの狼は人語を解したのだ。
「もう大丈夫だよ。怖くない。……私はまだ、ちょっと怖いけど。」
包み込まれるような心地良い響きの声に、狼は心が洗われるような感覚を味わった。
そしてゆっくりと少女の元に頭を垂れ、地面に身を下ろすと、狼は久方振りと言える安らぎに目を閉じる。
その時、四度目の未知が少女の眼の前で既知となった。
狼の体を包んでいた暗色の瘴気が晴れ、その中から美しい銀色の毛並みを持った――先程と比べれば――小さな狼が現れたのだ。
だが、寝息を立てながら自分に身を預ける狼を起こさないように、少女は驚きを隠してその上質な毛並みを軽く撫でるのだった。
◎◎◎◎
「チオルさん。守れなくてごめんなさい」
静かに眠る狼をそっと除けて。ルフィアはチオルであった死体を橇に積まれていた火打石と松明を使い、燃やしていた。
たった一日の付き合いであり、ルフィアを危険な依頼に引き込んだ張本人であった男だが、悪い人物では無かったと思う。
そう考えると自身の背後で眠る狼に対して複雑な心情を抱いてしまうが、狼もチオルに比類するほどの恐怖を経験したのだからとこちらを悪く言う事も出来なかった。
「そういえば、さっきの人は一体……?」
やや独り言としては明らさまな様子でルフィアはそう呟いた。
余りにも静かすぎる森の中で死体を燃やす作業というのは、少なからず心に来るものがあったからだ。
「今は、そんな事を考えている場合じゃないか。……何とかしないと」
橇は破損しているが、積荷にある道具で修復すれば何とかなる。ただ、先程傷を縫っただけの馬は恐らく諦めるしか無いだろう。
そうなるとルフィアは徒歩で橇を引いて目的地に向かうか、元来た道を引き返すか。
しかし場所は道の悪い森の中で、そもそもルフィアは負傷している。
更に極寒の北の地であるこの場では、行くにも戻るにも、夜になれば凍え死ぬ可能性すらあった。
「割と不味い状況、ですね」
幸いというべきか、未だ日は目に入る高さだ。考える時間は、まだ残っている。
そうしてルフィアは思考を巡らせ、ある一つのことを思い出した。
「さっきの人」
ふと、ルフィアの脳裏に先程の剣士が浮かんだのだ。剣士は街に向かうでもなく、森の中へと駆けて行った。
「方向は、わかってる……」
この森は比較的規模の小さな森であり、ルフィアの知る限りでは剣士の向かった方向には奥行きの無い、崖へと向かう道だ。
「よし、行こう」
長い髪を一つに纏め、水と食料を橇の荷から回収すると、ルフィアは走り出した。
ジン、と身体を地面に打ち付けられた際の痛みが蘇るが、足は止めない。
倒木を越え、獣の声に足音を抑え、再び木々の合間を縫って。ルフィアはある目印をアテにしてひたすらに走る。
そうして時が経ち、日が傾き、凍てつく寒さが歩みを進める頃。
「あった……」
ルフィアは一軒の小屋に辿り着いたのだった。
◎◎◎◎
その小屋は、白雪の積もる森の中には似合わない、暖かな灯りを洩らしていた。
ルフィアはそこで安堵の一息を吐くような事はせず、緊張した面持ちで小屋の扉をノックする。
「すみません。誰かいらっしゃいますか?」
声を上げてから、まるで童話の様だと思い、僅かに口角を持ち上げる。
すると、扉がゆっくりと開かれた。
「……なんだ。先程の娘か」
暖かな光と共に小屋の中から姿を現したのは、先程魔獣を圧倒した男であった。
予想出来ていた事ではあったが、ルフィアは驚愕の思いを抱かずにはいられない。
「外は冷えるだろう。入るが良い」
数拍の間、呆然としていたルフィアに、男はそう声を掛ける。
「え、と」
上手く言葉が出て来なかったルフィアは、ボソボソと囁くような声で応じると小屋に入った。
「…っわぁ……!!」
そして次の瞬間、緊張や疲れなども忘れ、思わず顔を明るくして感嘆の声を上げた。
そこに、どう見ても外観からは想像出来ない美しい広間があったからだ。
天井には鹿の角を合わせて作られたシャンデリア、壁を飾るのは淡く光る花の蕾、床に敷かれているのは一枚の栗色の絨毯である。
その空間は素朴ながらも美しいの一言であり、また、
「我が家が気に召したか。客人」
「はっ……はい!!」
少し穏やかな男の声に、広間に見惚れていたルフィアはビクリと身体を震わせ、頷いた。
「ならば良かった。今時の村や街の流行など分からん物でな」
男が少し頬を緩めると、初めてルフィアはその容姿に目をやった。
光を呑み込みそうな黒の髪を撫であげ、広間の内装とは合わないが、質の良さそうな服に身を包んでいる。
狩人では無いだろうが、かといって何処かの貴族という様子でも無く。
言うなれば、放浪騎士の様だった。
「あの……あなたは、一体?」
何者、とは言わない。何故ここにいるのか、あの強さは何なのか。そういった疑問も纏めて、ルフィアは問い掛けた。
「ふん」
だが、剣士は暖炉の前の椅子に腰掛けながら不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「人に物を訊く前に、まずは自分の紹介をすべきではないか?」
落ち着いた声で、しかし咎める様な口調。
ルフィアは一瞬言葉に詰まったが、すぐに口を開き、声を上げる。
「わ……私は、傭兵です」
「ほう、傭兵か」
少し警戒して、職業だけを伝える。
すると暖炉の中で燃える火を眺めていた男が僅かに振り向き、ルフィアの言葉を復唱するように呟き、目を細めた。
「悪いですか?」
「そうではない。ただ、奇妙な縁だと笑ったのだ」
馬鹿にされていると思ったルフィアが眉間に皺を寄せると、男はそれを軽く否定し、椅子から立ち上がる。
「さて。我が何かと聞いたな」
一度相手の容姿を意識すると、自然とそちらに目が行ってしまう。
自分より一回りは大きい男に見下ろされ、気圧されながらルフィアは問いに頷いた。
「我も、傭兵である」
そして昔を思い出すように笑みを浮かべつつ、男はそう言ったのであった。
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