第18話 十六杯目✿大人の味

 六年前〜絢の視点〜


 

 あたしは歌が好きだった。


 寒い田舎街で生まれて、高校を卒業した後、バイトとバンドを続けたが、

 うまくはいかなかった。

 20歳の春に、革ジャンと、少しの着替えだけを持って上京した。


 あたしは歌が好きだった。


 それは、子供の頃からの夢だった。

 父の古いレコードがあたしの遊び相手で、

 いつも一人で聞いていた。

 50年代からの古いロックンロール。

 酒やドラッグに溺れて死んだ、孤独な歌姫。


 小学校のころには、クラスのなかになじめなくなった。

 くだらない腐った女達には、私は格好の、いじめの対象だったことだろう。


 高校の頃から、年上の男達と付き合い始めて、ライブに繰り出し、大人の世界に入り込んだ。

 慣れない化粧をして潜り込んだ。


 バンドを始めた。

 そこで三年間近く、地元では有名になった。

 それなのに、卒業を間近に、みんなそれぞれの道に行くからと解散。

 あっけないものだった。

 結局、本気だったのは私だけだったんだ。


 家族に相談もなく、寝台の列車に飛び乗った。

 厳しい両親はどうせ、何もわかってくれない。


 眠くなるまで、古いロックンロールを、口ずさんだ。


 散々男達と関わってきたあたしは、知り合いの男の家に行くことにした。

 そいつは顔も良くて、凄腕のギタリストだった。

 今はもう、ロックンロールには縁のない男になったらしい。

 あたしがかかわってきた、数いる男達の中で、ただ一人寝てない。


 マンションの前までは、年賀状の住所を頼りにきた。

 こういうことだけはきっちりしなきゃ気持ちが悪い性格なんで、

 必ず出すようにしていてよかった。


 まさかの留守だった。

 春とはいえ、夜の東京も風が冷たいはずだが、あの頃のあたしは、とてもあたたく感じていた。

 マンションの庭にしゃがみ込んで、どれだけの歌を口ずさんだろうか。


 千鳥足の酔っ払いが、やっと帰ってきた。


「おう!?これはこれは、どこのお姉さんかな!?

 わたくしめになにかごようかな!?うぃ〜♪」


 呂律の回っていない彼は、全身、蛇のタトゥーだらけで、タンクトップにボウリングシャツ、ガラの悪い、リーゼント男に支えられていた。


「ねえちゃんハルちゃんの知り合い?んじゃあとたのむ!」


「いやっ、ちょっと!」


 ハルはベルトを緩めて、トイレでもないのに、ようをたそとしていた。


「おい!!馬鹿ー!ここでするな!

 鍵は!?これか!ってまて!まだだすな!」


 なんとか部屋に入り込み、トイレにハルを連れて行った。

 なんでこんなことに。

 トイレから出てきたハルは、ソファーにうつ伏せに倒れこんだ。

 私は、あいているベットに潜り込んだ。


 ハルの匂いがした。


 翌朝、早起きしたあたしは、冷蔵庫をあさって、キュウリのサンドイッチを作った。

 コーヒーだけは、どこかのコーヒー屋の、オリジナルの袋に入った豆があったので、ミルでくだいてドリップした。


 なんだかフラスコみたいな、変わった形の器具。

 フィルターも自分で折りたたむタイプで、やたらと時間がかかった。

 フィルターの横に、英語で説明があったのでたすかったのだ。

 英語だけは、学生時代からほぼ満点だ。


「うーん。うーん。

 あー……おはよう」


 ゾンビのように、フラフラと起き上がる。


「ねえ大丈夫?」


「飲みすぎたなー記憶がまったくねーな。

 君がいったいどこの誰なのか思い出せない。

 おこるなよ?

 俺はよく、知らんやつを連れてくることがあるんだ。

 だから、悪いんだけど、君も適当に帰ってね」


「いや、そうじゃなくて!

 私のこと、おぼえてないのか!?

 絢だよ!ア!ヤ!」


「!?アヤ?へー!!

 大きくなったな、乳なしのおてんば!

 乳は、あいかわらずだな」


「あんたは、乳のことしか、いえないの?」


「んなこといっても、まだガキじゃねえかよ。

 俺は、学生は大人だとは認めん。

 ガキは乳がでかくなって、卒業してから来い」


「もう卒業したよ。

 それで上京してきたんだよ」


「そうか!それはわるかったな。

 俺も、二十四だもんな」


  ハルはコーヒーをのんでから、嬉しそうに


「大人の世界にようこそ。


 ……レディ」


 この時、あたしは初めて


 大人として認めてもらったのだ。


「んでレディ、

 俺になんのようだったん?」


「しばらく泊めてよ。

 あたしじゃ、まだ部屋借りれないんだよ。

 親にもなにも言わずにきたから!

 お願い!なんでもするから!」


「いいよ」


「え?本当に?」


「ああ、そのかわり、

 キュウリのサンドイッチとコーヒーを、

 もう一杯入れてくれ。

 すきなんだよ、それ」


 あたしは、少し年上の男と同棲を始めた。

 あっさりと、嫌われ者のあたしを受け入れてくれた彼は、

 何事もなかったように、

 優しい曲を、弾き始めた。


 シューマンの謝肉祭。


 台所に戻った私の顔は、

 誰にも見せられないくらい、乙女のものだったことだろう。

 そして、

 この時、いたずらな恋の矢も、私に刺さったのである。


 初恋だった。


 私の恋する彼のすきなコーヒーの味は、


 まだ私には少し苦い、


 そんな大人の味がした。

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