Good-bye tears



 母が倒れてから二ヶ月、まだ目を覚まさない。


 俺も完全ではないけれど、心身共に少しずつ快方に向かっているようだ。薬にはまだ頼らざるを得なかった。


 接客も少しだけ愛想が出るようになった。南さんや竜胆さん曰く「クールさが抜けて、必死なところが可愛らしい」とのこと。


 二人はよく店に来るようになった。南さんは単独でも来るようになり、常連さんとなっている。


 竜胆さんは南さんほど頻繁に来るわけではないけど、部活が休みだったり休養で休んだりするときは午後の時間に顔を出してくれる。


 ねえさんは二人がわざわざ俺に会いに来てくれるということで、彼女らを気に入っていた。


 ねえさんの心労も消えたのか、俺との間にあったぎこちなさは無くなっている。

 今にして思えば、本当に迷惑をかけてしまった。その分働いて恩を返そうと思う。


 尽にいさんも俺が持ち直したことに安心したようで、毎夜様子見することはなくなった。逆に俺から顔を出してご飯を食べさせてもらってる。彼はラーメン屋を経営している。屋台で出品しながら、とある人に気に入られて店を構えたんだそうだ。

 にいさんのこだわりの一杯は本当においしい。


 というように、良いことばかりが起こっているわけだけど、突如ねえさんが言った一言で、俺は頭を抱えることになる。


 それは――




「なあ、北司。アンタ学校とかどうすんの?」


 俺が朝キッチンに入って、少しの雑談の後ねえさんが訊いてきた。


「考えてなかったな……どっちかっていうと就活のことばかり考えていたから」


 母の入院費はねえさんが持つということになっていたが、俺もできる限り母さんの為にお金を作りたい。


「別に急かすわけでもないし、アンタには自由にしてもらいたいけどね。アンタは勉強が好きだったろ? 成績も良い方だったし、もったいないかなってさ。余計なお世話だけどな」


「今から入っても一年生から再スタートか……」


「それはしょうがないな。少しブランクがあるし、耐えるしかないね。それが辛いってんなら学校に行かなくても良いし」


「それはまだわかんないけど……学費がさ」


 元々金がある家じゃないので、それも復学を諦めている理由の一つだ。


「そんなん気にすんな。アタシが払ってやるからさ」


 叔母は何も心配すんなと、言い切った。


「でも母さんはきっとそんなこと許さないと思う」


「姉さんはアタシらに気を遣って、何も言わなかった。だからアンタのことに関してはアタシも姉さんに何も言わずに勝手にやる。それでダメならケンカする」


 ねえさんの口調には強い意思が込められていた。母が倒れたときに何も出来なかったことが余程悔しかったらしい。


「でもねえさんは俺と母の治療費まで肩代わりしてくれてるじゃないか。これ以上は……」


「そういうのはアンタが自立してから言いな。子供が迷惑なんて考えるんじゃないよ。だいたいアンタは良い意味でも悪い意味でも良い子過ぎたんだ」


「……」


 その言葉に俺は言葉を失う。多分母に似ているのだと思う。


「これからは私にいっぱい頼るんだ。いいな?」


 ねえさんは俺を強く見つめる。俺は頷いていいかどうかわからず、


「俺……いつかねえさんに恩返しがしたい」


 そんなことを言った。ねえさんは求めていた答が返ってこなかったらしく、頭にはてなを浮かべていた。

 そして、困ったように笑ってから、


「アタシはね、ねえさんからもアンタからも大事なものをもらったのさ。だから恩を返さなきゃいけないのはアタシの方なのさ」


 はて、母はきっとねえさんに色々してあげたんだと思うけど、俺がねえさんに何かしてあげたことなんかあったかな。


「アンタは覚えていないかもしれない。アンタがちっちゃい時の話だからねえ」


「そうなの?」


「はは、アンタの何気ない一言がアタシにこの店を開かせる決心をさせたのさ」


「へえ……」


 全く思い付かない。


「ま、この話は後々考えることにして、開店の準備だ。きばっていくよ!」


「はい、店長」


そうして俺の一日が始まる。


 店先に看板を出す。メニューもそろそろ秋から冬に移行し始める。


 旬のものが少しずつ変わっていくなかで、メニューも同調させる。

 ねえさんの店は健康的なものを指標としている。店の名前は『のーざ』。

 由来はなんとなくわかっている。少し恥ずかしい。


「ほーすけー! おっはよー!」


 竜胆さんが元気一杯に挨拶してくる。彼女は今日も快活だった。彼女は俺をほーすけと呼ぶようになった。


「おはようございます、竜胆さん。……今日は少しお早いですね」


「うん、ちょっと朝練でもしようかなって」


「へえ……お疲れ様です」


「でもほーすけも早いね?」


「メニューの一部が入れ替わるので、少し早く出勤なんです。旬の素材は入れ替えです」


「えー! もしかしてカボチャのプリン終わっちゃうの?」


 竜胆さんは眉を八の字にした。余程気に入っていたらしい。


「残念ですけど今日で最後ですね……名残惜しいですが、来年に期待です」


「うー、まあ、ここのスイーツはどれも美味しいから問題はないかもしれないけどさ……」


 そして新たなメニューに目を通していく竜胆さん。


「おっ!?」


 目を輝かせました。どうやら気になるものがあるようです。


「これも! これも! みんな気になっちゃうよー!」


「そうですか、それならお待ちしております。何時でもどうぞ」


 恭しく頭を下げる。


「……ああ、でもカボチャのプリン。愛しい愛しいカボチャのプリン……」


 落胆している彼女が気の毒だった。


「じゃあ、是非今日いらしてください」


「そうしたいけど……部活忙しいからさ。行けるかどうか。はあ……」


「店長に言って、竜胆さんの分を確保しておきます。多分竜胆さんなら店長も良いって言うと思いますし」


「本当!?」


 竜胆さんが俺の手を取り、ぐっと近づいてきました。


「は、はい……」


「やった! ありがとうほーすけ!」


 手を握られてドギマギしてしまう。慣れていないので、顔を赤くしてしまう。


「およ、どうしたほーすけ? あっ……照れてるんだ?」


「……あの、手を離してもらえると」


「ふふん、おねーさんの魅力にやられてしまったかな? なんてね、それじゃあ、夜に行くね!」


「は、はい」


 竜胆さんは元気よく走っていきました。学校つくまでに疲れないのかな。

 キッチンに戻ってねえさんに話すと、


「あーあの嬢ちゃんな。わかった、じゃあ取っとけ。常連の頼みは無下にはできないからな」


やはりねえさんは簡単に承諾してくれた。


「ありがとうねえさん」


「いいのさ。それよか、アンタがそうやって言ってくれたことの方が嬉しかったよ」


「え?」


「ふふっ、気にすんな。アタシが勝手に喜んでるだけだ」


「そう?」


 つまり叔母は何が言いたかったのか。俺はあまり考えないことにした。


「ああ。そうだ、これは半分冗談だけどさ。あの嬢ちゃんや背の高い嬢ちゃん同じ学校だろ? その二人から学校のこと聞いてみたらどうだい?」


「あそこって確か私立だったような気が。元が女子校で、最近共学になったって言う……あんまり縁が無さそうだな」


「そうかい? アタシは結構良いところだって聞いたよ」


「え? 誰から?」


「姉さんから」


「え? 母さんてあの学校……名前なんだっけ?」


「確か明桜学園(めいおうがくえん)だったな。ねえさんはそこの出身さ」


「そうだったんだ……母さん俺に教えてくれなかったな」


「そりゃアンタが県立で絞ってたから余計なこと言わなかったんだろうよ」


 母はあまり過去には触れない人だった。訊いたら母はなんでも答えてくれただろうけど、母が大変な人生を歩んできただろうことは小さい頃からなんとなくわかっていた。だから俺は母に過去を尋ねることはしなかった。


 けど、少しずつ立ち直ってきた今、学校という言葉に心が魅かれている。


「……南さん達から話だけでも聞いてみようかな」


「ああ、良いと思う。何度でも言うけど、学校に行きたくなったら言え。アタシはアンタの姉であり……家族なんだからな」


「え? 最後なんて言った?」


「何でもないよ」


「……ありがとう」


「聞こえてたのかよ……」


 ねえさんが俺に渋い顔を見せた。俺は少しだけ笑った。



 休憩の時間、俺は尽にいさんの店に来ていた。店の名前は「きたつか」。これまた気恥ずかしくなる名前だ。


「にいさん、特製味噌一つ」


「はいよ、待ってな」


 14時を過ぎると客足も落ち着いてきたのか、にいさんと話す余裕があった。


 にいさんの店は口コミで広まり、日を重ねるごとに客足も増えてきたそうだ。

 そんな中、足繁くねえさんの店まで俺の様子を見に来てくれたことに申し訳ないと思いつつ、本当に感謝している。


「――お待たせ」


 待つこと数分。この店の定番のメニューである特製味噌ラーメンが運ばれてきた。とても良い香りで、スープは思わず飲み干したくなる。


「ありがとう」


「ああ、ゆっくりしていけ……と言いたいが、その格好を見るに休憩中だな?」


「うん。こうじゃないとにいさんの店くる機会がないからね」


「こうやって来なくても言えば作りに行くぞ?」


「にいさんには店があるからさ。俺に気を遣わなくていいよ。あ、それでさ、ねえさんとも話したんだけどさ」


「ん?」


「ねえさんに学校に行かないかって言われてさ」


「ふむ」


「それでどうしたものかと思ってさ」


 ずるずると面を啜る。この太麺が上手い。しかして、この店の味完璧に俺の好みと合致している。これ以外食べる気にならない。


「お前が行きたいなら行けばいいさ。京奈自身がそうさせたいっていうのもあるだろう」


「とは言うけど、俺としては母さんの入院費もねえさんに任せてるから……あんまりそういう気にもならなくて」


「そのことはあまり京奈に言わない方が良いだろうな」


「どうして? いや、確かにねえさんは気を遣うなって言ってたけど……」


 その問にすぐ答えず、にいさんは少し宙を見てから、


「言って良いのかはわからないが、京奈は家出に近い状態で店を構えたんだ。その時に大分美樹さんに世話になったらしい」


「……」


「だからな、あいつは美樹さんやお前のために何かすることを惜しんだりはしない。あいつにとってはそれが美樹さんへの恩返しだからな」


「そうなんだ」


「ただ美樹さんは京奈からの援助はほとんど断っていたらしい。お前の面倒を見てくれてるから十分だって言ってな……すまない、これは余計な話だったな」


「ううん、やっぱり母さんは母さんだなって思えたからさ。教えてくれてありがとう」


 母さんは誰にも心配かけないようにして、無理して頑張って……それでも母さんは俺の前では笑ってた。今、その笑顔を見ることはできないけど……。


「すまない、やはり余計なことを」


 黙った俺ににいさんが落ち込んだ声で言った。


「え? 違う違う。気にしないで」


「そうか? ……学校の話だったな。どこか行きたい学校はあるのか?」


「知り合いが明桜学園てとこにいるから話を聞いてみようかと思って」


「明桜……美樹さんが言っていたところだな」


「やっぱりにいさんも知ってたんだ」


「ああ。美樹さんが高校生のときは俺も京奈もガキだったからうろ覚えだが……すごい人だったらしい。逸話がいくらかあったみたいだ。流石にその伝説も今は風化したとは思うが……」


 のほほんとした母さんにそんな伝説があったのか……信じられない。


「お前の思ってる通りだよ。俺だって本当かと疑ったもんだ……けど、お前の為に頑張っている姿は本当に憧れた……。お前の母さんはとても強い人だ。だから必ず戻ってくる」


 にいさんは優しい口調だった。


「うん。俺もそう思う……もし俺が明桜に言ったら親子で同じ学校……そういうので割引利かないかな」


「そもそもあそこ女子校じゃなかったのか?」


「ああ、なんか共学になったらしいよ」


「そうなのか。なら考えてみてもいいかもしれないな。なんせ美樹さんと同じ学校だからな。記念になる」


「まあ、考えてみるよ……」


 取り合えず麺が伸びきらぬうちに一気に食べてしまおう。

 勢いよく食べて、スープも飲み干す。本当は体に良くないんだけどね。にいさんのラーメンだけは味わって食べたい。


「よし、にいさん、ごちそうさま」


「ああ、お代は出世してからにしてくれ」


「それ、普通俺のセリフだよね……? でもありがとう。いつか払うから、ちゃんと覚えといて」


「ああ。またいつでも来い」




 午後。外では帰宅部であろう高校生達が流れていく。

 来店を知らせるベルが鳴った。そっちを見やると、南さんが軽く手を振っていた。


「や、相馬くん」


「南さん……、その、いらっしゃいませ」


 俺は少し緊張していた。南さんの前に向かい合うとどうも彼女の前ではうまく話せない。しどもろもどろで彼女を席に連れていく。


「それじゃ、取り合えず紅茶をもらおうかなー」


「かしこまりました」


「あ、それとさ。つぐみねーちゃんさ。もしかしたら今日行けないかも知れないって言ってたよー」


「そうですか……」


 それは残念に思った。竜胆さんの美味しそうに食べる姿はなんだかほのぼのする。ねえさんの料理がすごいのだと思えるから。


「なんかものすごく残念そうだったよ~。つぐみねーちゃんは部長だからね~、仕事が増えちゃったみたい」


「そう、ですか……ふむ」


「どうしたの?」


「いえ、竜胆さんお気に入りのメニューが今日までなんで、一応用意しているのですが……今日来れないのであれば、どうしようかと」


「んー、それはまいったね~」


「――お、嬢ちゃん、いらっしゃい」


 ねえさんが奥からやってきた。それから唐突に、


「嬢ちゃん、悪いんだけどさ。アンタんとこの学校、偏差値どのくらい?」


「ちょ、ちょっとねえさん! 急に何を」


「アンタだと話が進まないからね」


「どういうことですか?」


 南さんが興味深そうに聞き返した。俺は気まずくて、紅茶を作りにキッチンに入った。カウンターから覗くと、二人とも何だか盛り上がっている感じだ。


 自分のことが自分の知らぬ間に進んでいくのが心配で、足早に戻った。


「南さん、お待たせしました。紅茶です」


「おー、ありがとー。相馬くん学校に行きたいんだー?」


 南さんはとても楽しそうに言った。


「……まあ、その……そうです、ね」


「ふー、なら今から見学行ってみない?」


 南さんはずずっと紅茶を啜った。それからほー、と一息吐いた。


「今から……ですか?」


「うん。つぐみねーちゃんにもさっき言ってたやつ届けに行けるし」


「そんな……突然部外者が」


「だいじょーぶ、だいじょーぶ。私に任せなさーい」


 南さんは何も心配要らないと微笑む。


「いんじゃね、行ってきなよ」


「ねえさん……大丈夫なの?」


「その嬢ちゃんが大丈夫って言うんだから大丈夫だろ」


「いやそうじゃなくて……」


「あん? ……ああ、店なら大丈夫。アタシは元から一人で回してたからねえ」


「……」


 複雑な気分だ。


「ああ、勘違いされても困るから言っとくけど、アンタが居ないと困るのは本当だ。アンタありきでスケジュール考えているからね」


「……わかった、なら行ってくる」


「行っておいで、あの元気な嬢ちゃんのお気に入りも忘れんなよ。……嬢ちゃん、こいつのこと頼むよ」


「はい、お任せくださいませ~」


 南さんは紅茶を一気に飲むと、


「おいくらでしたっけ?」


「いや、お代はいいよ。学校案内の分ってことでさ」


「そうですか? ありがとうございます、おねえさん」


「……助かるよ、本当に」


 ねえさんは聞こえるか聞こえないかの声だった。


「北司、菓子を少し多目に持っていけ。こういうときは媚びるに限る」


「媚びるって……そういう柄じゃないんだけど」


「いいから持ってきな」


 ねえさんはそれでもと菓子を押し付けた。焼き菓子を多目に持たせた。ポテトのクッキーなんか俺が貰いたい。


「でも格好どうしよう……まともな服ないし」


「そのままでいーと思うよ。なんだったら移動販売ってことにすればいいし」


「そんな簡単に済む話なんですか?」


「いーよいーよ。気にしないで」


 南さんはどうしてここまで大丈夫だと言い切れるのか……不思議だ。けど何だかこの人の言うことなら本当に大丈夫な気がする。


「まあ、いいか……」


「そうそう、気楽に行こー」


 ということで、南さんの通う明桜学園へと向かうことになった。



 徒歩で学園へと向かう。隣の南さんは少し近づきすぎじゃないかと思う間隔で歩いている。南さんはやっぱり背が高い。


「あの、南さん」


「んー何かな?」


「……病院では、失礼しました」


 あの時のことを思い出すととても恥ずかしかった。それ以上に嬉しかったのは確かだけれど……。


「謝る必要なんかないよ~?」


「いえ、でも……」


「何があったかはわからないけどさ。私は相馬くんが好きだから、全然構わないよ?」


 笑顔を向けながらそんなことを言われて、俺は顔を背けた。そんな意味はないだろうけど、面と向かって好きだと言われると恥ずかしい。


「あ、相馬くん顔赤いね~」


「……」


 からかうように顔を近づけてくる南さんに胸が勝手に早鐘を打つ。違う、……違う。勘違いするな。


 南さん優しいから俺に学校を案内してくれるんだ。俺を嵌めようとしたり、利用したりしようとはしないハズだ。


「と、ところで、南さん。南さんの学校は男子が少ないと噂で聞いたのですが……」


「そーだねー、男子は少ないね。クラスに一人か二人いるかいないか」


「やっぱり……共学になったばかりだから、そうですよね」


「これから増えていけばいいけどねー、やっぱり女子の意識が高いから男子が通いにくいかもしれないね」


 それだけでもう、明桜に行く気がなくなっていく。いや、まだ学校に行くかどうかも迷っているところだ。


「ねえ。相馬くん」


「はい?」


「もし相馬くんが学校に行くんだったら、明桜に来てほしいなー」


「え……?」


それはまた意外な一言だった。


「相馬くんと学校に通えたら、きっと楽しいだろうなーって思う」


 この言葉を素直に受け止められない。


「……そんなことないですよ。きっと、他の人が行った方が南さんにとっても学園にとっても、有意義ですよ……んぐっ?」


 南さんは俺の頬を指で突っついてきた。


「こら、そういうのは駄目だぞー」


「いや、だって」


「キミ『が』いいんだよ~? そこ勘違いされると私はとっても悲しいな」 


「そんなこと言われても……」


 嬉しいんだか、信じられないんだか……。


「相馬くんは私のこと嫌い?」


 どうも煮え切らない俺の言葉に、南さんは心持ち真剣な顔をした。


「へ? いや、私は……南さんを尊敬しています」


「尊敬?」


 南さんは小首をかしげた。


「いや、その……私にとって南さんは恩人なんです」


「恩人? ……んーよくわかんないなー。私何かしたっけ?」


 うーんと顎に指をあてる仕草で南さんは目線を右上に向けた。心当たりがないらしい。


「変、……ですよね。すみません。忘れてくだ」


「聞きたい」


「いや、でも」


「教えて」


 真面目に言われた。これは言わないと終わらない流れだ。


「……色々あって、落ち込んでいたんです。人に騙され続けて……それが人助けが原因で起こったことだったから」


「だから、相馬くんにとって私を助けることは簡単ではなかったわけだね」


「……平たく言えばそうですね」


「ふむふむ、そんなキミが勇気を出して私を助けてくれた」


「私の失敗で大事な人が傷ついてしまって……それ以降、人を助けることに懐疑的でした。誰かを助けてもいいのか? 意味はあるのか? ……って」


 母さんの笑顔が思い起こされる。俺が母さんから笑顔を奪ったのだと思うと……いや、駄目だ。そんなことを考えてはいけない。


「人を助けたら傷つくかもしれない。否定されるかもしれない。そんな想いばかりが巡って……だから南さんに声をかけて、病院で会ったときに……その」


「その?」


「ありがとう、という言葉に救われたんです。それと……南さんの笑顔に」


恥ずかしい。


「……」


 南さんは呆然としている。南さんに心当たりがないのは当然だ。俺が勝手に救われたと思っているからだ。


「私は笑顔一つで救われるちっぽけな人間なんです……だから」


南さんはクスッと笑った。


「あの、南さん?」


 やっぱり変なこと言ってしまったかな……。


「いや、ごめんね。なんだか、不思議だなって思ったからさ」


「不思議?」


「だって、助けられたのは私なのに、そんな風に考えてくれるんだって」


 そりゃまあ……そうだな。俺は何を言ってるんださっきから。


「でも嬉しいよ。キミみたいな尊い人に出会えて」


「私にそんな……いや」


口癖にしかけているその言葉を飲み込む。


「……私だって、……嬉しいです」


「え、なになに~?」


「いや、その……」


「ふふ~ん、笑顔なら幾らでも見せてあげるからね~」


満面の笑みを向けられる。それが本当に綺麗で見惚れてしまう。


「…………」


「ん?」


「いえ、……何でもないです」


 安易に言葉にするのは恥ずかしいものだから、何も言わなかった。



 明桜学園の事務で南さんが何か適当に話したら、すんなりと通行証がもらえた。簡単すぎる。南さん……一体何者なんだろう?


「ふふー、女の子は秘密がいっぱいなのだよ」


 軽い歩調で進む南さんに着いていく。


「しかし、広いところですね」


 学生玄関は見上げれば、ガラス張りの天井が光を集めている。高いな……。


「ほらほらー。取り敢えず、つぐみねーちゃんのところに行こー」


 南さんに手を引かれる。その様を下校中の生徒に見られる。噂に違わず、女子ばかりだ。ものすごく恥ずかしい。なんだか自分が珍獣のように思えてきた。なるべく視線は気にしないようにした。

 格好が格好だけに、テニスコートまで行くまでに、色々な視線に晒されまくった。逐一神経が反応するあたり、まだ完全には治ってないみたいだ。

 やっとの想いでテニスコートに出た。その一角でとても俊敏な動きをする人がいる。


「お、あれつぐみねーちゃんだね。行こっか」


「え? 入っていいんですか?」


「邪魔しなければだいじょーぶ~」


 南さんが入っていくといろんな人が挨拶してきた。

 顔パス?

 でもその人たちの挨拶が「ごきげんよう」って……差を感じる。執事とかメイドとかも構えているのかな……。


「はあ、それじゃ……失礼します」


 小声で入っていく。邪魔にならぬように動きながら、すれ違った人から好奇の視線を浴びる。


 つ、辛い……。女子しかいない気がする。それはまあ、昔はテニスって淑女のものだったというし……ここは女子が多いからしょうがないかもしれないけどさ。

 竜胆さんが休憩に入るまで隅で南さんと見学することにした。


 テニスのことなんかさっぱりわからないけど、真剣な竜胆さんはすごくかっこよく見えた。動きも素人目でも早いように感じる。実際相手からバンバン得点を奪っていってるから、強いんだとは思う。


「……すごいですね、竜胆さん」


「つぐみねーちゃんはエースだからね~」


 部長なのだから、名実ともにエースなんだろう。


「……あれ? ほーすけ? なんでこんなとこにいんの?」


 コートから竜胆さんが出てきた。休憩らしい。


「いや、それが、なんか、ややこしいことになって」


「簡単に言えば学校見学。許可は取ったから」


「へー……ほーすけこの学校に入るの?」


「まだ決めたわけではありません。ただ、参考にしようかと思って」


「どうせならそのまま編入しちゃえばいいのに」


「いや、資金的な話もあるので」


 母が倒れた今何もできない。収入がない。


「そっか、ここ私立だもんね」


「はい。あ、それとこれ、どうぞ」


 持ってきたクーラーバッグの中からカップに入れた状態のかぼちゃのプリンを渡す。


「え! 持ってきてくれたの!?」


 竜胆さんの目が輝く。


「え、ええ……ついでみたいになってしまいましたが」


「ありがとう~ほーすけー!」


「い、いえ……喜んでいただけたようで何よりです。ん?」


 いつの間にか、俺たちの周りに他の女子生徒が群がっていた。俺は一気に硬直し、言葉を失う。

 皆ヒソヒソと何かを話している。


「――部長はあの殿方とはどういう関係で」


「――二和様も一緒にいるし」


「――……素敵な殿方ですわ」


「――あの格好……シェフかしら。でも若いわ」


 こ、これは辛い。魚のように口をパクパクさせるだけで、言葉が出てこない。


「もしかしてほーすけ、人混みとかこういうの苦手?」


「……いいい、いや、その、あの、ええと」


 濡れ衣を着せられたときの記憶が甦ってくる。密やかに響く他人の声が俺を笑っていたのだ。

 嫌な記憶が思い起こされた。閉じ込めていた悲劇が逆流しようとしている。


「ほーすけ?」


 その時手が柔らかいものに包まれた。


「相馬くん、落ち着いて。女の子いっぱいだからって緊張しすぎだよ~」


 南さんの手は女子特有の柔らかさを秘めていた。


「みなみ、さん……?」


「だいじょーぶ。皆キミのことが気になってるだけ。かっこいいから」


「……ええと、そうなんですか?」


「うん、あ、そうだ。相馬くん、あれだよあれ」


「あれ?」


「お姉さんが持たせてくれた……」


「ああ……」


 クーラーボックスとは別のカバンから焼き菓子の塊を出す。ポテトのクッキーだ。


「あ、あの。これもしよろしければ、……み、皆さんでどうぞ」


 と誰に向かって渡すわけでもないが、頭を下げながら、まるで懇願するかのような姿勢で差し出した。


「「……」」


 き、気まずい。


「ほーすけ? これって商品?」


「い、いえ。これは単純に好意として……美味しいと思うので、皆さんに是非」


 なんかもうしどろもどろでヤバい。


「へえー、もらっちゃっていいんだ」


「は、はい。竜胆さんにはお世話になったんで、そのお礼の意味も兼ねまして」


「そっか……ありがとう」


 竜胆さんはそれを受けとると、


「みんなー差し入れ入ったから休憩しよー!」


 とよく通る声で部員を集めるとクッキーを配っていく。ねえさんが多めにもたせてくれたので、十分に行き渡りそうだ。


「――あら、不思議な味」


「――けれど、じゃがいも特有の臭いもなく、爽やかですわ」


「――なかなか癖になりそうです」


 など、それなりに受けは良さそうだった。これは嬉しい。


「へへー、私はこのかぼちゃのプリンをば」


「あー部長ばかりずるいですわ!」


 こっそりと一人プリンを堪能しようとした竜胆さんに部員の一人が声を上げる。


「のんのん、これは私がこのイケメンの少年、相馬北司くんにお願いしていたものだから、ずるくはないのだ!」


「ちょ、ちょっと竜胆さん……!」


 そんな大々的に変な紹介しないでくださいよ……。


「相馬様、私も是非ともあれを食したいですわ!」


「私も!」


「アタイも!」


 複数の女子に囲まれて、汗が出てきた。どうやら竜胆さんが食べたことにより、余計に興味が湧いたらしい。


「いや、その、皆さん……これ今日までのメニューなんで、申し訳ないのですが」


 それでしゅん、と何人かが肩を落とした。


「このクッキーが絶品でしたから是非味わいたいと思ったのですが……」


 うっ……それを言われると本当に申し訳ない。


「うーんおいしー♪」


 竜胆さんは美味しそうにプリンを食べている。空気読んでください。


「ねえ相馬くん。何とかならない?」


 南さんに言われてうーんと考える。ねえさんに連絡してみるしかない。


「……あの、皆さん。そのプリン食べたい方は何人ほどいらっしゃいますか?」


「はい!」


「私も!」


 とすぐに二十人ほど手が上がった。これはすごい。これだけいればもしかすれば。俺は携帯を取りだし、叔母に電話をする。


『あん、もしもし?』


「あの、ねえさん。かぼちゃのプリン明日20個近く作れる?」


『は? 20?』


「……うん」


『アタシは媚を売れとは言ったが商品を売れとは言ってない。しかもよりにもよって販売終了するものを……』


 ねえさんはぶつくさ言ってから、


『……まあ、いいさ。誰が客かは知らないけど完全予約制で代金もしっかり払ってもらうよ、いいね?』


「うん、わかった。ありがとうねえさん」


『しょうがない……売上が上がるんだからいいよ。それじゃゆっくりと見学してくるんだよ』


「うん」


 通話を終了して伝える。


「あ、あの、皆さん。もしよろしければ、なんですが……明日20個ほど、販売させていただこうかと……」


「本当ですか!?」


 一人が声を上げる。


「あ、はい」


 そこで部員が沸く。どうしてこんなにうちの店のモノ一つだけでこんなに盛り上がるんだろう。


「あの、南さん……」


「ん?」


「どうして、こんなことになっているんでしょうか」


「んー、つぐみねーちゃんが人気者だから、かな」


 竜胆さんに目を向けると、彼女は部員に囲まれ未だにプリンを守っていた。


「憧れの人が好きなものはさ、きっとみんな気になるんだよ」


「そういうものなんですか」


「そういうものだよ」


 よくわからないけど……多分南さんが言うならそういうことなんだろう。竜胆さんはこの部活の中で誰もが憧れる人なんだろう。


「おーい、ほーすけ! 明日よろしくね!」


「はい」


 竜胆さんが人気なのもわかる。そんな彼女と変わった繋がりがあるのが不思議だった。人助けで繋がりが出来るなんて思いもしなかった。



 そうしてテニスコートから離れて教室棟を歩く。


「……南さん?」


 途中、短髪で長身、美人な人に出会った。顔つきはクールで少しつり目なのが印象的だ。


「本郷先生、お疲れ様ですー」


「どうしたんですか? 帰宅したのでは……ん? そちらは……?」


「あ、えっと、その……」


「先生、この人はお菓子の移動販売をしている相馬北司くんです」


 口ごもる俺の代わりに南さんが紹介してくれる。


「そうですか、はじめまして。私は本郷春美(ほんごう はるみ)です。唐突ですが、何か販売していただけますか?」


「えっと、それでは、こちらのクッキーはいかがですか?」


「へえ……じゃがいものクッキーですか。珍しいですね。おひとつよろしいですか?」


「あ、あの実はこれ。値段をつけてないんです」


「と、言いますと?」


「……お近づきの印、ということで出会った方にお渡ししているんです」


「それで、本郷先生、お願いがあるんですけどー?」


「何ですか、南さん?」


「実はこれこれこういうことで」


 と南さんがわかりやすく簡潔に説明してくれた。俺は緊張してうまく話せないので本当に助かる。


「ふむ……そういうことでしたか。ならば私もお供しましょう。その後で私でよければ相談に乗ります」


「あ、その、……ありがとうございます」


 会釈する。


「ふふ、どういたしまして」


 綺麗な笑みだ。こんな風に笑うんだ……。


「意外でしょ。本郷先生は笑うととってもキレイなんだ~」


「こら、南さん。意外とはなんですか。私だって人間なんですからね」


「先生はもっと笑えばいいのに」


「私は別に普段から仏頂面なつもりは……まあ、いいんです、いいんです。どうせ私なんて」


 彼女の雰囲気がずんと重くなった。あまり……余計なことは言わない方が良さそうだな。同時にコンプレックスを抱えているこの人に対して共感を抱いた。


「気をとりなおして……。こほん、それでは、行きましょうか」


 本郷さんは一気に教師の顔となった。なんだかこの人は好きになれそうだった。



 その後色々なところを周り、この学園の凄さを知った。人口もさることながら、施設の数もまたすごい。寮も完備で、部屋事態も設備が整っていた。学園が一つの街みたいだ。この時点でもう、自分は違う世界を覗いているのだという錯覚に陥りそうだった。

 一通り見回った後、南さんの教室に落ち着いた。


「お疲れさまでした相馬さん。南さんも」


「あ、えと、ありがとう、ございます。その、本郷……先生」


 すごく照れ臭かった。俺の先生じゃないし。


「……♪」


 南さんはそんな俺を慈しむように見ている。何故だ。


「それで、何か気になることはありますか?」


「えーと……偏差値はどのくらいですか?」


「そうですね……これをご覧ください」


 本郷先生はファイルから一枚の紙を出した。


「これくらいですね」


「……」


「相馬くん?」


 偏差値は……前の学校と似たり寄ったりだった。


「相馬さん……差し支えなければ通っていた学校を教えてもらえませんか?」


「その、……白亜です」


「白亜ですか。ちなみに成績は?」


「半期だけで見れば10位以内でした」


「ふむ、それなら、この学園の試験にも通ると思いますよ」


「相馬くん、頭よかったんだね~」


「南さんはもう少しがんばりましょうね」


「はーい」


 南さんは気の抜けた返事をした。本郷先生ははあ、と息を吐いた。


「仕事なのはわかりますが、もう少しだけお願いしますね。けれど決して無理はしないように」


「はーい、がんばりまーす」


 仕事? そういえば倒れたときも仕事だって言ってたな。


「相馬さん、他にはどうですか?」


「あの、学費って……」


 俺が渋い顔をしたのを見て本郷先生は少し困ったような顔を見せた。


「このくらいですね……」


「……」


 先生の気落ちした声と共に見せられたその額に無言になってしまった。


「これはその……」


 さすが私立というべきか……少しの希望も持てなかった。この額をねえさんに払ってくれとは言えない。これは諦めるしかない。


「厳しいですか?」


 本郷先生からは慎重に問われ、俺は頷く。


「……はい」


「奨学金制度もありますが……」


「すみません、母子家庭な上に母親が倒れていて……叔母に世話になってる状態でして」


「そう、でしたか……」


 俺の言葉に先生もそれ以上は言えないようだった。


「相馬さん、特待生制度を目指してみませんか?」


「特待生?」


「はい。学年の成績優秀者は事情にも寄りますが学費が免除になる場合があります。その制度を利用してはみませんか?」


「そんな制度が……」


「ただ、その為には入学試験である程度の成績を修めること。そして高い順位を継続することが必要となります」


 突如与えられた選択肢に戸惑う。


「相馬さんの成績は、県立では一番の学校であり、成績も上位だったわけですから、この線で行くのが最良かと思います」


「……」


「ただその反面、常に順位をキープしなければならないというプレッシャーがあり、制約もできてくるかと思います」


「……」


「それでも、あなたがこの学校に通う意思があるなら、挑戦してみませんか?」


 本郷先生の真剣な瞳に俺は思わず、はいと言いそうになったが、


「……すみません、考えさせてください」


 これしかなかった。こんなに真摯に向き合ってくれる人がいるなら、なんて考えもする。けど、考えることが多すぎる。ただでさえ人間関係で揉めていた俺が、多くの人がいるという不安の中でやっていけるだろうか。


「もしかして他にも何か悩みごとが?」


 そう問われた時、俺は南さんを見た。自分の中にあるこの疑問を彼女に委ねようとしたのだ。けれど南さんは首を横に振った。


「それはね、相馬くんにしかわからないことだよ。キミがどうしたいかを自分で決めないと、傷つくだけだと思う」


 南さんは真面目な顔だった。きっと真剣に考えてくれていたのだろう。俺は南さんに対して軽く頷くと、待ってくれている本郷先生に目を向けた。


「本郷……先生。私は……その、人が恐いんです」


「人が恐い……ですか?」


「えと、その、前の学校を辞めた原因がそれで……」


「それは……何か対人的な問題だったのですか?」


 口の端に慎重さを乗せながら本郷先生が訊ねてくる。


「単純な話で……イジメに遭ってしまい、大分精神的にやられてしまったんです。医者に行って……薬をもらってるから、なんとか動けるんです」


「そう、だったのですね。たしかに……その状態で通学することは恐いことだと思います」


 何だか自分がとても弱い人間に思えた。色々なことに飲まれて、自分を失うのではないかと。


「相馬さん……これは主観なので、あてにはなりませんが……」


 本郷先生が一言入れてから、続けた。


「この学園は意識の高い人が揃っています。それなりの立場の方もいます。そういう人達は人の本質を見抜こうと、偏見を持たないようにしていると思います。もちろん、そんな人だけでないのは当然のことです」


「だから、大丈夫だと……?」


 先生の言葉に半信半疑。


「いえ、そうは言いません。人との衝突は避けられないこともあります。けれど、それで相手を見限る人も少ないはずです」


「……」


「誰もがあなたの敵になるわけではありません。味方になる人もいます。……何より、こうやってあなたのことを支えてくれる人がすぐ隣にいるのでは?」


 隣の証人が笑って見せた。そんなの当たり前だ、と顔に大きく書いてある。


「そーだよ、相馬くん。私がついてるじゃないかー」


「南さん……」


「南さんはおおらかで嫌味のない人です。ふふっ、そこまで信用されているのですから、私がわざわざ言う必要もないとは思いますけれど」


 茶化すような口調で本郷先生が笑う。南さんも俺に微笑んでくれた。この笑顔に救われて、今また力をもらっている。


「けれど、意外ですね。南さんにこんなに親しい男性がいたなんて」


「え?」


 意外だ。南さんは本当に綺麗な人だし、俺に対してここまでしてくれるのは優しいからだと思っていた。


「それはですねー、ふふっ」


 とか言って本人は流していた。


「相馬さん、この時期だと編入か年度跨ぎか曖昧なので、早期復学を望むのであれば、出来れば早めに決断をお願いします」


「……わかりました」


「けれど、決して焦らないでください。今のように辛いときは自分が楽になることだけを考えてください。あなたが学校を辞めてしまったことは何も悪いことではありません。寧ろ正しかったと思います。だから……って」


「……?」


 本郷先生が言葉を止めた。


「あ、あの……私何かしてしまいましたか?」


「え?」


「相馬くん……頑張ったねえ。偉い偉い」


 南さんに目元をティッシュで拭かれた。どうやら泣いていたらしい。


「あ、すみません……」


「相馬さん……その」


「本郷……先生、違うんです。前の学校だと誰にも信じてもらえなくて……こういう人が先生だったら良かったなって」


「相馬さん……」


 先生がガシッと俺の手を掴んできた。力強い。


「相馬さんも私の生徒です。例えあなたがこの学園の生徒でなくても」


 熱いまなざしに俺はこの人に心を許していた。この人の元で何かを学べるなら、それはとても意味があることだと思う。


「ありがとう、ございます。その、本郷……先生」


 俺は下を向きながら言う。顔を見られるのが恥ずかしかった。


「何時でも来てください。相談に乗りますから」


「はい……ありがとうございます」


 お礼を述べてから、俺はバッグの中からクッキーを出して本郷先生に渡した。


「あの、これ、お礼にはなりませんが……」


「いいんですか?」


「はい……もしお嫌いでないなら」


「ありがとうございます。甘いものは好きです。今度お店の方にもお邪魔させていただきますね」


「はい……是非、いらしてください。お待ちしております」

  

 この日はこれで解散となった。



 学校を出たのが、18時過ぎだった。夕日が眩しい。もう何日かしたら真っ暗かな。とりあえず店に戻ることになった。俺がお礼に何かを奢ろうと思ってのことだ。


「あの、南さん。ありがとう……ございました」


「んー? どういたしまして~」


 南さんはにこりと笑うと、突然俺の手を握ってきた。


「み、南さん?」


 声が裏返った。立ち止まって向かいあう。


「私はがんばるキミが好きだよ。一生懸命で、勇気をもらえるからね~」


「そ、そうなんですか……どうもです」


 照れ隠しで、パッと手を離し、歩みを再開する。


「そうやって、謙虚なところもね~」


 これは勝てない。彼女に翻弄されているのではないかと思う反面、この人を信じたい気持ちでいっぱいだった。

 何故か俺を簡単に学校に通してくれたり、よくわからない仕事をしていたり……って、よくよく考えたらおかしなことばかりだ。不思議すぎる。


「あの、南さん。南さんは何のお仕事を?」


「気になる~?」


 そりゃまあ、気になる。俺は自分のことを知られ過ぎているので、バランスが悪い。


「あんなに辛そうな状態だったので……もしかして過酷なお仕事を……?」


 遊園地で出会ったときは本当に辛そうだった。俺の心配とは逆に南さんは平然としている。


「うーん、単純に私の体が弱いってだけだねー。時間をかければ治るからそんなに心配はいらないみたいだけど」


「そうなんだ……良かった」


 思わずそう呟いていた。自覚なしの言葉は南さんの耳にはしっかり届いていたらしく、


「んー……?」


 楽しそうに口角を上げて、少し前屈みになり上目遣いで見つめられる。これが無自覚ならば恐ろしい人だと思う。威力は十分過ぎて、俺は硬直しそうになる。


「心配してくれるんだー?」


「それは……心配しますよ。いつか治るって言っても、それまでは苦しみ続ける訳だから……」


 俺の言葉に南さんは困ったように笑い、次に、


「……相馬くんさ。自分のことも労ってあげなきゃ駄目だよ?」


「……」


 そうだ、俺は完治したわけではない。再発の可能性もある。


「私のことを想ってくれるのは嬉しいけど、まずは自分から、ね」


「……」


 諭すように言われ、言葉を失う。自分がまともではないのに思い上がってしまった。


「すみません……私」


「んーん、そーじゃない」


 南さんが首を振る。


「純粋に嬉しいよ。二度も助けてくれた恩人に心配してもらってるから。多分それがキミの人となりだろうし」


 ねえさんもにいさんも同じようなことを言っていた。俺はそんな自分を否定し続けた。そして今、およそ望まれているだろう自分に戻ろうとしたのだと思う。


「私もね、相馬くんのことを心配してるんだ」


「南さん……」


「それと同時に私はキミから元気をもらってる。今日一緒に過ごして、不器用でもがんばるキミはとてもかっこよかった」


 自分が人に勇気を与えることはないはずだ。それどころか、悪影響ばかりを撒き散らしているのだと自覚している。


「相馬くんにとっては迷惑な話だけどさ、……だからキミの側にいたいんだよね」


 これがどういうことなのかと、自分に問いかけた。人に愛される資格はないと思って過ごした数ヵ月、ねえさんもにいさんも悲しい顔をしていた。今は二人とも笑っていることが増えた。

 多分……きっと……俺は俺になりたいんだ。失ってしまった自分を取り戻したいんだ。人のために一生懸命だった自分に。


「南さん……うまく、言えないんですが」


俺はそう切り出した。伝えなければならないことが考えてもまとまらない。けど、伝えなければならない。南さんが言った「無器用な俺」として。


「私は……今だって、自信なんか、持てなくて、でも、それでも……私は昔の……昔の俺になりたいんです。だから……」


 声がか細くなった。勇気が消えそうになる。


「うん。ちゃんと伝わってるよ」


彼女の相槌に、ふと心が軽くなる。


「私が南さんに、勇気を、与えられると言うなら……私も南さんから、勇気をもらって、一緒にがんばりたいんです」


 言葉が纏まらずに口から出た。雑に皿に入れられた、言葉のサラダだ。


「ふむふむ。それはそれは……」


 南さんは真剣な顔で頷いてから、


「うん、じゃー、そーしよー」


 いつも通りに緩くなった。


「キミと私は一緒にがんばっていく。それでいーよ、……んーん、それがいーよ。そうしよ~」


 こんなのでいいのか? と思いつつ俺自身が安心しているのだから、なんとか伝わったのだろう。 


「あ、はい、その、よろしく、お願いします、南さん」


「うん、よろしく。相馬くん……いんや、北司くん。違うなー……ほーくん、うん、これがいい。よろしくほーくん」



 その後南さんに夕食を奢り、俺はいつも通り仕事を終えた。ねえさんの自宅でもある店の二階の部屋で今日のことを伝えた。ねえさんは焼酎を飲んでいる。


「ほーん。で、アンタはそんな青春をしてきたというわけだ。まあ、年頃だしな」


「いや、そういう意識はなかったけど……」


「いいのさ。ところで嬢ちゃんは何の仕事をしていたんだい?」


「あ、結局聞きそびれた……」


「ま、いつかわかるだろ」


 ねえさんのカップに焼酎を注ぐ。これが俺の役目と化していた。


「で、アンタはあの学校に行きたいのかい?」


 それは酒を飲みながらも、濁りのない声だった。


「行きたい……と思う。でも実際問題難しいと思う」


「そうだな……転入どころか編入だもんな。難しい、というか普通はありえない」


「そう、だよね……学費だって」


「それは心配するなっつってんだろ。そういうのはどうでもいいんだ。……まず編入試験を受けさせてくれるかどうかわからない。親がいないって、アタシとアンタの関係を邪推されて後ろ指さされるかもしれない。それでアンタが傷つくのが嫌だ」


「……」


「それでもさ。がむしゃらにやってきて、素敵な女の子と素敵な先生に出会えたんだから、きっと意味はあるよ。アンタが行きたくないならそれでいい。でもアンタが行きたいなら全力で応援するよ」


「ねえさん……」


「ダメでもいいからやってみな。どうせダメ元だと思って受けりゃ、傷が浅くて済むからね」


 それはねえさんなりの励ましだった。ぶっきらぼうな言葉は優しさだ。


「あーあ、柄でもないこと言っちまった。酒入ると少しおしゃべりになっちまうよ、あー、もう、寝るか」


「そうだね……それじゃ」


 俺はねえさんとはいつも別の部屋で寝る。


「おい、待てよ」


「え……? ってうわ」


 ねえさんが俺の腕を掴んで引っ張り、俺を巻き込んで寝転がった。唐突な動きに動けずに俺は、されるがまま。


「ちょっと、ねえさん、なに、離してよ」


「いいじゃないか。昔はこうやって一緒に寝てたんだからよー」


「それ、俺が小さい時の話でしょ……」


「いいんだよ。今じゃアンタの方がデカいからさ、抱き締められる側になっちまった」


 ねえさんは感慨深そうに言った。酒臭い。


「今日は付き合え。一緒に寝ろ」


「ええ……この年でねえさんと寝るのはちょっと」


「馬鹿言え。アンタは今までもこれからも、私にとって甥であり子供なんだよ」


「何言ってるかわからないよ……」


 ねえさんは今日は悪酔いでもしたのだろうか。普段は酒が強くて、にいさんと三人で食事したときも、付き合わされるにいさんが大変そうだった。彼は下戸ではなかったけれど、ねえさんほどの酒豪ではなかった。


「今は二人きりの家族なんだよ……いいじゃないか」


 その言葉で気付いた。ねえさんには俺だけのことじゃない。母さんや店など、色々な事情がある中で俺を守ってくれていた。ねえさんにとっても大切な母さんが倒れたとき、ねえさんは口や顔には悲しみを出さないようにしていたんだ……きっと、俺のために。俺が自発的に動くようになって、ねえさんはようやく一息吐けたのだろうか。

 いや、……俺は迷い続けているし、これからもねえさんに沢山の迷惑をかけてしまうだろう。どうしたらねえさんを楽にしてあげられるだろうか――


「ひやっ……!」


 頬を摘ままれた。


「こら、アンタまたつまらないこと考えてるだろ」


「いや、そんなことは……」


「顔見りゃわかる。どうせアンタのことだ。自分のせいでアタシが苦しんでるとか思ってんだろ」


「違うよ。……どうしたらねえさんが楽になれるかって思って」


「だから、それがつまらないって言ってんだ。あんたはまだ子供だ。子供なりにできることを果たせばいいんだ。アタシみたいな大人が抱えてる問題をあんたの問題と混同しちゃいけない」


「……でも、ねえさんだって母さんが倒れたとき辛かったでしょ?」


「辛かったさ。でも、アンタを守らなきゃならなかったからそんなこと言ってられない。これが大人ってやつさ……時にはすぐに切り替えなきゃいけない」


 俺は大人になれるだろうか。このままで行くのが不安に感じる。


「なんて偉そうなこと言っても、アタシだって自分が大人かどうかなんてわからない。辛い経験もあったけど、結局はなんだかんだ自分がやりたいようにやってきて、今がある。気づいたらあっという間さ。……北司、焦らなくていいんだ。失敗しても良いことが一つでも上回れば悪くなかったって言えるはずだ」


 良いこと……。


「ねえさん」


「……すかー」


 寝てしまった。身動き取れない。まあ……今日ぐらいは。



「や、ほーくん。お疲れ~」


 翌日の午後。明桜学園テニス部にカボチャのプリンを販売するために、俺は学園の校門前で南さんと待ち合わせした。一人であの花園へ行くのは勇気がいる。


「すみません、南さん。わざわざ」


「んーん。気にしないで~」


 そして合流してから昨日の流れでテニスコートへ。到着して見渡せば、昨日と変わらずに皆熱心に練習している。そのうちの一人が俺達に気付き、


「あ、相馬様!」


 その一声が次々と人の動きを止めさせ、俺の前に整列した。え、何これ……。


「いやー、ほーすけ大人気だね」


 竜胆さんが笑いながら俺の肩を軽く叩いた。


「はあ……とりあえず、皆さんお一つ200円でいかがですか?」


 少し安くしてある。元はもう少し高い。


「あら、お安いんですのね」


 という声があっちこっちから聞こえた。そりゃ、まあ、個人経営な上に、一般人の店ですから。それを考えると竜胆さんの態度はどうもお嬢様というそれではない。南さんもそんな感じだし……。


 そんな野暮なことを考えつつ、手渡していく。

その際、やたら恥ずかしそうに接する人が多くて、こっちのが恥ずかしい。


「まあ、ここ男子少ないからね~」


 と南さんがぼやく。


「しょうがない。ほーすけはかっこいいから」


「はあ、それはどうも」


 どの意味で言ったかは知らないけど。


「――あ、あの。相馬様はいったいどこの国の出身なのでしょうか?」


「……日本です」


「――あ、あの、おいくつですか?」


「……15です」


「――部長とは一体どういうご関係で」


「……常連さんです」


 こんな問答が続いたもので、やりづらい。温度差というか、視点に相違がありすぎる。竜胆さんや南さんはそのフィルターとして本当に助かる。



「――私にも一つ頂けるかしら?」


 突如凛として耳に響いた声に反射的に振り向く。


「はい、200円です――」


 漆黒の長髪。そして、はっきりとした顔立ち。大和撫子と形容するのが正しい肌の白さ。俺はその人を知っていた。あの雨の日、母を介抱し、俺に言葉をくれた人だった。


「あら、どうしたんですの?」


「い、いえ、……」


 俺は焦りながらも、プリンを渡し、御代を受けとる。


「一縷(いちる)様! 一縷様よ!」


「ごきげんよう、一縷様」


 など、辺りから、歓声が上がった。


 テニス部員達が頭を下げた。一縷様と呼ばれた人はにっこり微笑み、


「ごきげんよう皆様。練習の邪魔をしてしまい、申し訳ありません。私は、すぐに去りますので」


「あー、別にいいよ一縷。それよかそれ美味しいからさ。是非食べてみてよ」


 竜胆さんがいつも通りに接している。他の人の反応を見るに、一縷様はけっこう有名な人みたいだけど……。


「ええ、わかりました。あとで部屋で頂きますわ」


 それにしてもすごい口調。冷静だし、それがまたこの人の美貌をさらに良くしているかのような。淑やかさが溢れている。南さんとは違う方の美人さんだ。そう言えば南さんは、


「……」


 少し怒ってる? 目付きが少し鋭くなっている。それを知ってか知らずか、一縷様は南さんにも会釈した。


「二和さんもごきげんよう」


「……」


 南さんは答えなかった。この二人、どこか因縁でもあるのだろうか。しかし当の一縷様は何も気にする様子がない。彼女は俺の方に向き直ると、


「受付や本郷先生からお聞きしました。あなたが相馬さんですね。この学園に興味を持っていただいたようで、ありがとうございます。つきましてはご相談も兼ねて、私の部屋ーー会長室へいらっしゃいませんか? ご要望もお聞きしたいと思いまして」


「あ、え、いや、その……」


 なんでこんな流れになっているんだ? なんかこの流れだと、俺がこの学校に編入することを考えているみたいに思われてる。まだ決めた訳じゃないのに。


「よろしいかしら、二和さん?」


 なぜ南さんに訊く……。


「……どうせ、ダメって言っても、連れていくんでしょ?」


 南さんはやたら攻撃的だ。こんな南さん初めて見る。


「無理強いはしませんが……どうでしょう相馬さん?」


 どう、……って言われても。昨日見学したばかりでそんなぐいぐい来られても。


「……まあ、話だけなら」


 けれど、俺はこの人に見つめられてなんだか断りづらくなってしまった。


「ありがとうございます。それでは……」


 テニス部員達に挨拶してから一縷様の後ろに着く。去り際、南さんが、


「気をつけて」


と小声で伝えてきた。……何を?


 よくわからないまま、俺は一縷様に着いていく。



 会長室はそれなりの広さを持った部屋で、接客用に誂えたであろう机やソファーは高そうだ。


「それでは、そこにおかけ下さい」


「……失礼します」


 南さんが気を付けろと言ったので、少し警戒心を持つ。けれど、この人からは危険な感じはしないけど。


「ところでお母様は元気かしら?」


「はい。って、……え?」


 唐突なことに思わず即答してしまった。


「あの時の死んだような顔をした男子がこの学園で商売をしていた。不思議な話ね」


 一縷様は向かいのソファに腰かけると、気安く足を組んだ。タイツを履いている。


「やっぱり……。あの時は、ありがとうございました」


 嬉しかった。恩人にまさか再会できるなんて。


「本当にあの時は助かりました……母はあまり良くないですが、その、……一縷様のおかげで」


 郷に入りては、と思い一縷様と呼んだ。


「様付けで呼ばないでもらえるかしら。そう呼ばれるのすごく嫌なのよ」


 笑顔なのに、迫力がある。


「それじゃあ……東さん、で」


 確かそんな姓だった覚えがある。


「却下」


「いや、却下って……」


 どうしろと。


「東様?」


「呼び方が問題ではないのよ。東という名前がそもそも嫌いなの。私のことは一縷さん、と呼びなさい」


「はあ、……わかりました」


 なんかさっきと口調とか雰囲気とかが違う。さっきはザお嬢様みたいなのだったのに、今はまるで冷たい鬼のような……。


「……失礼なこと考えてないかしら?」


「は? いえいえ……なんか随分と人が変わったなあって」


「隠す必要はないでしょう? だってあなたにはもう知られているのだから」


「ええと……それはつまり」


「あんなの演技に決まっているじゃない。何が楽しくてあんな振る舞いすると思うのか理解できないわ」


 これはまたスレているな……。


「まあ私のことなどどうでもいいわ。大事な話をしましょう、相馬くん」


「あ、はい」


 なんの話をするんだろうか。南さんの気を付けろという言葉がここら辺で活きてくるのだろうか。


「――あなた、前の学校で随分とやらかしたみたいね」


 にっこりと笑顔でそんなことを言われた。俺は頭が真っ白になり、


「え……?」


 としか言えなかった。なぜこの人がそんなことを知っている。


「何故知っているか、とでも言いたそうね? 調べたからに決まってるじゃない。なんせあの二和が連れてきた男子ですもの」


 南さんとこの人がどういう関係かはわからない。考える余裕すらなかった。この人当たりの良い笑顔が俺を追い詰める嗜虐の笑みへと形を変えていくように見えた。次第に俺の手は震えだした。


「どうしたの? 寒いの? もう秋頃ですものね」


 言葉を使い、俺を弄する。


「いや、その、あの」


 震えを隠しきれない。この人が怖くなってきた。


「あなたみたいな人を誰が受け入れると思う?」


 それは唐突に放たれた言葉の刃だった。彼女は普通の声音ではあったが、俺を脅すには十分な言葉選びだった。


「けれど、学力に関してはなかなかね。これだけ見れば是非とも学園に欲しいわね」


 落として上げる、なんて優しいものは感じなかった。どちらかと言えば、品定めをされているように感じる。


「あなたの意思も聞いておきましょうか? 一体あなたはどうしたいのかしら」


「どうしたいも、何も……どうしようもないじゃないですか」


「これでもそれなりの立場なのよ。私の一存で物事が決まることもあるわ。ふふっ、漫画みたいでしょ」


 笑えない。


「あなたが願うなら上に打診しましょう。男子が少ないのは事実だし、それなりにはうまくいくかもしれないわね。まあ、あなたの過去がそれを許すかどうかだけど、ね?」


「……それは、その」


「反論したいなら構わないけれど? 誰かに嵌められたとか、自分は騙されただけとか、ね」


 全てを知っているかのような振る舞い。この人の眉は読めない。反論できるはずがない。それに俺は自分が違うとかそういう否定をしたいんじゃない。あの事件から離れたいんだ。だから誰にも知られたくなかった。竜胆さんにも南さんにも……。


 あまりの無力感に俺は俯く。


「……何もしなければ始まらないわ」


 それはふと耳に届いた柔い声だった。沈んでいた目線が上を向く。彼女から笑みが消えていた。


「私はあなたにチャンスを与えているのよ。それなのにあなたは何もしないのかしら?」


「……それは」


「答えなさい。あなたがどうしたいのか」


 その瞳は俺の言葉を待っている。その声が俺の意思を促す。


「俺は――」


 意を決する。


「私はこの学校に通いたいです」


 俺はそれだけを伝えた。これ以上に言葉を繕えなかった。


「どれくらい本気かを教えて頂戴」


「必ず卒業します。何があっても諦めません」


 一縷さんは十ほど俺と目を合わせていた。俺は目線を逸らすことができなかった。


「よろしい。……それが聞きたかったわ」


 一縷さんはそれから真剣な空気を弛緩させた。


「相馬くん……私はあなたの事情をほとんど知っているわ。あなたを嵌めた西原美保(にしはら みほ)達についてもね」


 その名は俺にとっては忌々しい名前であり……忘れたい過去の汚点でもある。


「私は天才だから、あなたの苦労や努力なんかわかりっこない。けど……だからこそ、見せて欲しいわね。どん底から這い上がり、無様で情けない、けれど進むことを止めない、そんなあなたを、ね」


 俺は彼女にどんな姿を求められているのか。その検討もつかぬまま、話は先へ行く。


「試験を受けさせてあげるわ。私が声をかければ上は二つ返事で許可を出すでしょう。これはいいわ。問題は」


「……学費」


「そう、私立に違わず、ここも安くはないわね。本郷先生から幾らか聞いたとは思うけど、成績優秀であれば学費は免除。それなりであれば、授業料は軽減。あなたが必死で勉強すれば、そこまでの費用はかからない」


「あの、……私の編入試験はどうなりますか?」


「来年の春からが良いでしょう。前の学校の成績を加味して、試験を作らせる。あの娘と……二和と学びたいのならば、頑張ることね」

 

 できれば南さんと一緒の学年、一緒のクラスならいいなと思ったけど……それすら読まれていた。


「必死になりなさい。遅れを取り戻す為に、ね」


「はい」


「ふふっ……良い返事ね。……あ」


 何かを思い出したかのように一縷さんはぼやいた。


「私の正体については隠しておくように。もし誰かに話そうとしたら」


 空気が寒くなり、ゆらっと鬼が見えた。悪鬼羅刹の類いかはたまた……。


「あなたまた変なこと考えてるんじゃない?」


「いえ、何も! 誰にも言いません」


「よろしい。……行きなさい。あの娘が待ってるでしょうから。ふふっ、気に入らないわね」


「……?」


 何の話かわからずに、俺は頭を下げて部屋を出た。



「大丈夫、ほーくん?」


 南さんの顔が不安そうだ。


「ええ、なんとか」


 南さんと二人で帰路に就く。長居する必要もなくなった。


「何か変なことされなかった?」


「変なことはされませんでしたが……南さんが言ったことはわかりました」


「……猫被ってたでしょ、あの人」


「そう、ですね。ああいう人いるんだなって」


 南さんは知っているんだ……。


「気を付けなよ。これからどうなるかわからない。あの人は私が絡むと、とても嫌な人間になるから」


 不機嫌な南さんの声に俺は一縷さんの言葉を思い出す。


『ふふっ、気に入らないわね』


 どんな関係なんだろう……あまり詮索しない方がいいだろうか。


「……」


「ほーくん?」


「あ、はい?」


「どうしたの、ぼーっとして」


「いえ、その、年度末に編入試験を受けさせてもらえそうです。これからは勉強の日々になりそうです」


「そっか、良かった~」


「でも成績もそれなりじゃないと学費の問題も出てくるので、がんばらないといけませんね」


「ふーん。ほーくんなら大丈夫な気がする」


「どうでしょう……でも、がんばったら」


「がんばったら?」


 南さんと一緒に勉強できるかもしれない。けど、何だかそれは恥ずかしいから、


「秘密、です」


「え~、気になるよ~、教えてよ~」 


 南さんは口を可愛らしく尖らせた。でも俺は言いたくなかった。まだ、確定したわけではないし。


「教えることは出来ませんが、南さんにはとても感謝しています。きっと、あなたがいなかったら、私はこうはなっていなかったと思います」


「ふふー、そうかなー?」


 言葉とは裏腹に満足そうな声と顔だ。


「はい。だからがんばります」


「んーん、違うよ」


 立てた人差し指を軽く振ってから、


「『一緒にがんばろう』だよ」


「そう、でしたね。共にがんばりましょう」


 それは約束にも近い何か。俺がこの先も歩いていく為に必要な言葉。そんな気がする。



「いらっしゃいませ……って」


 それは夜の客入りが落ち着いたときのことだ。


「一縷……さん?」


 私服姿の彼女が入口にいた。


「あら、相馬くん。ごきげんよう」


「え? ……とりあえず、こちらへどうぞ」


 一縷さんを席まで連れていき、


「あの……なんでここに?」


「あら、客としてくるのはおかしいかしら?」


 わざとらしく訊いてくる。これは何か狙いがありそうだ。


「おかしくはないですけど……なんか意外だったので」


「お嬢様なんていうのは一種の肩書きね。正直堅苦しい食事は嫌いなのよ」


「……そうなんですか」


「それより、メニューをもらえるかしら?」


「あ、はい。どうぞ」


「それじゃ……これをもらいましょうか」


 それは唐揚げの丼だ。ご飯に唐揚げを乗っけて味噌ダレを使った豪快なメニューだが、俺の好物でもある。


「少々お待ちください」


「ええ、いくらでも」


 ねえさんにメニューを伝える。


「はいよー……ってあの娘、あのときの」


 ねえさんも覚えていた。


「不思議な縁だね……ここで会えるなんて」


 ねえさんはそうぼやくと、調理に入った。俺は後片付けを始める。皿を数枚洗い終えると、丁度一縷さんの頼んだものが出来上がったので、それを持っていこうとしたら、ねえさんが運んでいた。俺も着いていく。


「アンタ……東さんって言ったね。あの時はありがとう、助かったよ」


 一縷さんは営業スマイルを浮かべ、


「お礼など……。人として当然のことをしたまでです。お気になさらないでください」


「いいや、これは通さなきゃいけない筋だ。とりあえず、今日の分はアタシの奢りだ」


「そんな……申し訳ありませんわ」


「いいんだ。寧ろ物足りないくらいさ」


「そうですか……では、すみませんが、彼を少しだけお借りできませんか?」


 一縷さんはよくわからないことを言い出した。


「ん? まあ構わないけど」


 ねえさんは疑問に思いながらも、その頼みに簡単に頷いた。


「北司」


「ええ……」


「恩人の頼みならしゃあない」


 とか言い残してねえさんは奥に戻っていった。


「ほら、座りなさい」


 それからは素の一縷さんだ。


「なんだか……すごいものを見た気分です」


「処世術よ。恩は出来る限り売るし、利用できるものは何でも利用する。そして私は私のしたいようにする……それがスタンスね」


 そうは言うけど俺はあの時、この人に助けられたときにそんな裏は感じなかった。当時は精神的にまいっていたから、ハローエフェクト的な効果があったのかも……。


「ところで……何をしに来たんですか?」


「あら、だから食事に、ね。まあ二和がいないのは幸いだったわ。あの娘がいたんじゃ食事ができないもの」


 本当に食事なのか……? しかしそれよりも問わなければならないのは、


「あの、気になっていたんですけど、南さんとはどういうご関係で?」


「知りたい? 本当につまらない話だけど」


 それから一縷さんは食べ始めた。彼女が嚥下し終わる度に言葉を返す。


「気にはなりますが、……デリケートな話ならば結構です」


「追求しない……あなたは随分とネガティブになったのね。事件の前は底抜けに明るくて、人間関係にもそれなりに積極的だったようだし」


 あの一件が俺の心にそれほどまでに影を落としていたのだ。一縷さんは全部知っているのだろう。けれど、何故俺の過去まで調べたのか。


「あの、美樹さんの子供であれば、気にもなるわね」


「母さんのこと……知ってるんですか?」


「知っているわ……目標にした人だもの」


 その言葉に嘘は見えない。


「相馬くん。憧れの人の息子であるあなたには是非とも学園に入ってもらいたいものね。これは私個人の言葉として受け取ってもらって結構よ」


 一縷さんがわからない。なぜそんなことを言う。


「二和がどうしてあなたに夢中なのか不思議、というのはあるかもしれないわね」


「夢中……?」


「まあ、私と二和の関係は色々とややこしいのよ。今はあの娘の為にも黙っておくけど」


「そう、ですか」


 一縷さんは食べ終わると、


「まあ、なかなか美味しかったわ。食事はここら辺がいいところね」


「ありがとうございます」


「それと、あなたにはこれを渡しておくわ」


一縷さんがバッグから取り出したものは――


「これは……」


 問題を集めたプリントだった。全科目入っているのか、少し厚い。


「あなたが二年生から再開したいと言うなら、その範囲だけは確実に解けるようにしておきなさい。それとこれ」


「これって……制服?」


「目立つのは嫌だろうから、一応。渡しておくわ。あなたの背丈を考えて、既存のサイズで用意してみたわ。合わなければ言いなさい」


「あの、どうしてこんなこと……」


「これは私個人としての行動よ。会長の私ではない」


 立派な屁理屈だが、助かる。


「それと、通行証を作っておいたわ。一部施設も入れるようになってるから、必要なら利用しなさい。わからない問題があったなら、聞きに来なさい」


「どうして、そこまでしてくれるんですか?」


「は? さっき言ったじゃない。あなたに恩を売っているのよ」


 一縷さんは当然のように言い放った。


「……そうでしたね」


「まあここまでお膳立てさせておいて、ダメでした、じゃ、洒落にならないのだからしっかりやって頂戴」


 そう釘を刺されると気も引き締まる。


「ま、制服を着ていようが男子というだけで注目されるだろうけど、我慢なさい。それよりも学生気分を味わってみることね」


「学生気分……」


 口にしてみても現実味はなかった。学生らしいことはしていなかったし、前の学校の生活を思い出すことは極力避けていたから。


「女子が多いから、試験に通ったら選り取りみどり、ね」


 そういう話題が苦手だから、あまり考えたくない。


「それとも、二和がいるから関係ないのかしら?」


「いや、それは……」


 南さんがいると安心はする。共に努力することを約束した。


「南さんがいるとがんばれます。でも彼女に依存する気はありません」


「そう? なら構わないけど」


 一縷さんは素っ気なく笑う。


「今のあなたの発言は、あの娘に負けてるように感じてとても不愉快だけれど、ね」


「あの……それはどういうことですか?」


「言葉通りだけど? 学園の地位では私があの娘より圧倒的だけど、あなたみたいに二和にお熱な人がいるのは何だか気に食わないのよ」


「そんなこと言われても……」


 本当に困る。二和さんに夢中かと言われるとそれもまた違う。


「……一縷さんと南さんに優劣はありません」


 それは本当のことだ。一縷さんは興味があるように耳を傾けた。


「なら、その真意を教えてもらいましょうか?」


「あの日、一縷さんに助けてもらったことは覚えています。あの時の言葉が俺の行動の指針になっています」


「さて……何だったかしら」


 覚えているか忘れているか、どちらとも取れない口ぶりを残念に感じたものの、恩を売る為にそういうことを常に行っている彼女には些事でしかなかったのだろうと思う。


「それでもいいです。あなたが覚えていなくても私は覚えています。あの日のあなたの言葉は私にとっては必要なものだったんです」


「……ふぅん」


 一縷さんは呟いた。珍しいもので眺めるような好奇な視線を向けられた。


「西原美保にもそうやって嵌められたのでしょうね」


「それは……」


 言葉に詰まる。それを持ち出されると本当に弱くなる。


「『ならばあなたが今度は誰かを助ける側に回りなさい』だったかしら。こんなありふれた言葉が甘言と成り得るなら、簡単に人を利用できてしまうわね」


 要は、お前はアホだと言われているわけだ。


「人を疑うことね。私だけでなく、……二和やつぐみに対しても、ね」


 彼女は薄笑いしながら、真面目に言った。それが見下されてるかどうかわからないが、とかく彼女の言葉は耳に優しくない。


「私は天才だから、無様なあなたが気になるのよ。あなたみたいに逆境にある人間がどうやって進化に深化を重ねていくのか」


「俺にどんな価値を求めているんですか……」


「それも言ったはずよ。みっともなく足掻け、と。過去の自分と向き合い、背水に立たされたあなたが、どう進むのか」


「……」


 一縷さんは涼しい顔のまま立ち上がってから、会計を済ませた。

 別れ際、振り向いて、


「何度も二和を助けてくれたこと、礼を言うわーーありがとう」


「……はい」


 その声に乗せられた色は白か黒か、どうにもこうにも理解しがたい。


「ふふっ、それじゃあ、これからもよろしくね、北司」


 最後に名前で呼ばれドキッとなる。楽観的な響きが不安を予感させた。



 その夜。制服を確かめる。全身鏡に映る自分は何の心配もなくサイズが合っていた。


「おお、似合ってんじゃん」


 ねえさんの感心する声に複雑な顔をしてしまう。前の学校が学ランだったこともあり、ブレザーやネクタイに手間取った。


「なんか、動きづらい……。学ランのが良いな」


 まだ癖のないブレザーは体に馴染まず、動きが妙に制限される。


「慣れろ」


「まあ、そうなんだけど……」


「姉さんがいたらめちゃくちゃ喜んだだろうよ。まさかアンタが母校に通うなんて思いもしなかったろうさ」


「母さん、か……色々巡り巡って不思議なことになったね」


「今日来た嬢ちゃんがまさかあのときの、しかもお偉いさんの子供なんてなあ」


「驚いたけど、良かったかもしれないね」


「そうさ。悪いことがあったら良いこともあるんだ……。きっとこれから良いことがたくさん待ってるよ」


 ねえさんは俺の頭を撫でた。


「そう、だね……そう思うことにするよ」


「ああ……さて、アンタのシフトを考えなきゃな」


「できる限り手伝うよ」


「アンタは学生だ、勉学に励め。勉強第一だ」


「でも大変な時くらい手伝うよ。俺は……まだねえさんの側にいないとダメみたいだから」


 その言葉にねえさんは呆気にとられたようで、真顔になった。


「……ほーん」


 ねえさんは微笑んでから、俺の頬に触れた。感慨深そうに穏やかに口許を緩めている。


「……顔色が大分良くなったね」


「ねえさん達のおかげだよ」


「そうかい? なら……アタシの側に居るんだ。ここにいるだけで元気になるなら、いつまでも居るんだ」


「……もう少ししたら、家に戻るよ」



 その言葉にねえさんは少しだけ寂しそうだった。俺だって寂しい。会おうとすればすぐに会えるけれど、一つ屋根の下で共に過ごしたこの短期間は特別な時間だった。ねえさんもそう思っているのだろうか。


「でも、本当はね、もう少しねえさんと過ごしていたいんだ。ねえさんの前では、俺は俺らしく居られるから」


 ねえさんはふう、と息を吐くと、


「まったく……しょうがないねえ。ほら」


 ねえさんが俺に両手を伸ばしてきた。俺は招かれるままにねえさんに抱きついた。


「こんなに未熟なんだ。アンタからはまだまだ目が離せないよ」


  呆れつつも包んでくれることに俺はただ口角を上げた。


「だからゆっくり進もう。アンタは勉強して学校に行ってアタシの店でバイトして……幸せになるんだ」


 叔母の温もりが、強すぎる腕の力が、荒々しい優しさが好きだ。本当に安心する。


「本音を言うと、ちょっと寂しいさね。今までよりもずっと一緒だったわけだろ」


 昔から母さんが仕事で家にいないときはねえさんやにいさんに構ってもらっていた。でも成長するに連れて二人にも色々な事情が見えてきた。


 だから俺は途中から一人で過ごすようになった。母の帰りを一人で待つようになり、家事も全て一人でこなすようになった。


「俺も懐かしかった」


「アンタが余計な気を回すから……まったく、変なところで強がるんだからさ。そういうのは姉さんに似なくていいっての」


「……善処します」


「少しは甘えることを覚えろ……今みたいにな」


「こうするのも、なるべく控えたいけどね」


「せめて母さんが戻るまでは良いじゃないか。恥ずかしくないよ。あんたは今までできなかったことをしてるだけだよ」


「…………」


 俺は何も答えず、ただそのままだった。今日はよく寝れそうだった。





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心リマンド 敦賀八幡 @turuga

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