心リマンド

敦賀八幡

Nobody's Perfect


 高一の春、県下一の高校に入学した。女手一つで育ててくれた母はすごく喜んでくれた。

 それなりに友達も出来て、勉強を頑張って順風満帆に思えた。趣味の合う男同士で過ごしていた。仲の良い女の子もいて、とても楽しかった。

 特に仲の良かった女の子は西原美保(にしはら みほ)という髪の長い女の子だった。彼女は級長を務めていた。整った容姿に加え、性格も優しいと、人望もあった。そんな彼女と友人であることが嬉しかった。

 勉強を教えあったり、一緒に寄り道したこともあったり、少し特別な関係に感じることもあった。

 これからもこの娘と仲良くできたらいいなと思っていた。

――彼女が俺を退学に追い込むまでは。



イジメで、とある罪の濡れ衣を着せられた俺は母と共に退学の取り消しをお願いしに回った。

相手は学園のトップに並ぶ権力者達。その中で俺を真っ先に退学に追いやったのは同級生の西原の母親だった。


その母親に、親子共々ボロクソ言われた後、なんとか退学を取り消してもらえた。


全てを終え、外に出ると雨が降っていた。まるで罰のように降り注いでいるみたいで気持ち悪かった。その中を母と共に歩き出した。


謝罪に周り、冷たい雨に晒された俺も母も心身共に疲弊していた。頭は変に冷静だった。


「母さん……ごめん」


「……」


横に並ぶ母に謝った。他の人はいなかったこともあり、雨音がこの場を支配していた。母から返事はなかった。


「ごめん……」


罵詈雑言の嵐の前で、俺の前で土下座する母の姿は見るに耐えず、強く握った拳は行き場がなくどこまでも無力だった。


「ごめん、なさい……母さん……ごめん……」


「…………」


一向に返事のない母に目を向けた瞬間――



「かあ、さん……?」


母は力なく倒れていった。そしてそのまま動かなくなった……。


「え……?」


母の顔からは生気が感じられなかった。

母子家庭なので、母は無理して一日中働いていた。

それに加え今回の事件。限界まで磨り減らした母の心は折れてしまった。


同時に、母が倒れたことで、俺の心も決壊してしまった。


――俺の、せいだ。


――俺の、せいで、母さんが。


――俺のせいで、母さんが……。


母さんがいなくなる?


「嫌だ……母さん、待ってよ……」


「一人に……しないで。頼むから目を開けてよ! ねえ、母さん、母さん……!」


必死に体を揺すった。母の体からは体温が抜けきっていた。雨は降りやまない。冷たくなる体とは逆に心はパニックになっていった。声は寒さか恐怖か、震えていた。


「――落ち着きなさい」


誰か、若い女の人の声がした。この時はあまり覚えてはいなかったが、どこかの制服を着て、漆黒の髪に端正な顔立ちだったことは微かに覚えていた。


「どきなさい」


その人は母の状態を確かめると直ぐ様携帯電話を取りだしどこかに連絡し始めた。


「……たす、けて」


俺はただ呆然と立ち尽くし、彼女の介抱を見ていることしかできなかった。

その後のことはあまり覚えていなかった。



気がつけば、助けてくれた少女と共に病院の待合室にいた。


「ほら、あなたも体を拭きなさい。そのままでは冷えるわ」


タオルを頭にかけられた。けれど、もうどうでも良かった。母への贖罪をひたすら考え、どうすれば戻って来てくれるかを自分に問い続けた。


その答は全てこれに収束する。


「――俺の……せいだ。俺のせいで母さんが」


全てが自分のせいに思えた。

間違っていた、ではない。イジメにあったのも母が倒れたのも全て俺のせい。


そう思った時、前がぼやけて霞んだ。何も感じない中で、熱さを感じた。

涙だ。泣きたいんだと思った。


けれど……俺にそんな資格などない。お前が駄目にしたくせに泣くことなど許されない。

だから必死に涙を堪えた。


泣くな、お前は何様だ。


そう言い聞かせた。


「事情は知らないけれど……今は無事を祈りなさい」


少女はそう言って宥めてくれた。ただ、祈ることも後ろめたかった。


「……はい」


「ほら、貸しなさい」


無気力な俺の頭をタオルで拭いてくれた。

されるがままに、ただ、俺は自分を責め続けた。


「俺のせいだ……おれの、せい」


それはもう壊れたラジオのように、口から音を出し続けた。



「しっかりなさい――」


ぱん、と甲高い音が響き渡った。

頬に確かな熱を感じる。


少女が俺を叩いたのだ。


「またこんなことがあったらあなたはどうするつもりなの? また名前を呼ぶだけなの?」


少女に襟首を捕まれ、顔で向かい合う。

ボロボロな視界から見えた彼女の瞳はどこか激しかった。


「俺のせいなんだ……全部、俺のせいで母さんが倒れた。俺のせいで」


「……ならばあなたが今度は誰かを助ける側に回りなさい」


彼女は宥めるように、諌めるように諭してくれた。

その言葉も耳をすり抜けて行った。誰の言葉も耳には入らない。


「――北司!」


「北司? ……北司?」


叔母の京奈(けいな)さんと昔からお世話になっている岩屋尽路(ごうや つきじ)さんが息を切らして走ってきた。

二人とも体を濡らして、傘すら使わずに急いできたようだった。


叔母と目を合わせることが出来なかった。ひたすら申し訳なくて、俺は謝罪の言葉を並べた。


「ごめん、ねえさん、……ごめん。俺のせいなんだ」


「北司、何があったんだ?」


京ねえさんは座る俺の肩に手を置いて屈み、向かいあった。

顔を合わせるとねえさんは一瞬驚き、慎重に、訊ねた。


「何があった」


「…………ごめん、なさい」


「責めている訳じゃない。状況がわからないから、教えてほしいんだ」


「私がお答えしますわ」


「君は?」


「私は彼とそのお母様を見つけた介抱した東(あずま)という者です」


「そうかい……すまない、ありがとう」


ねえさんもにいさんも彼女に頭を下げた。


「いえ。……彼は今とても疲労しているようなので、少し落ち着いてからお話した方がよろしいかと思います。私が見た時もかなり取り乱していました」


「……そうだな。京奈、今は少し北司を休ませよう」


「そうだね。北司……ここはいいから家に戻るぞ。尽路、ここは任せていいかい?」


「ああ、北司を頼む」


「では私もそろそろ」


「あんた……東さんだったね。本当にありがとう。助かったよ」


「いえ、……お大事に」


その少女を見送った後、俺はねえさんに付き添われて自宅へ向かう。


ふらふらとする体をねえさんに預けながら、それでも口から出る言葉は、


「ごめん、本当にごめん」


謝罪ばかりだった。ねえさんは辛そうな顔をして、俺の体を引っ張っている。この人の顔を暗くしているのも俺のせいなんだ。


全て、俺のせい――


泣くことも忘れ、その事実だけを心に刻む。

自分には何の価値もない、息をしているだけの人間みたいなもの。


そう思うと、心が楽になっていくような錯覚に陥る。

価値がなければ誰に見られることもない、期待されることもない、誰かを不幸に陥れることもない。




そう、きっと最初から。




「……はは、はは」


「北司?」


立ち止まって、笑みがこぼれた。自分を笑った。


きっと最初から間違っていた。生まれたことすら間違っていたのだ。


「おい、どうしたんだ」


ねえさん……叔母さんは俺の体を揺すってくるが、俺は笑った。壊れた笑顔で笑った。


「おい、しっかりしろ! どうしたんだ!」


「あは、ははは……」


「おい、北司!」




「――どうしたんですか、叔母さん。私は大丈夫ですよ」




「……え?」


叔母さんは驚愕の表情になった。俺は何を驚いているのだろうと首を傾げた。


「もう、一人で帰れますよ。大丈夫、心配はいりません」


「お前……どうしちまったんだ……こんなときに冗談いってる場合じゃないだろ!」


「冗談? どこにも冗談なんかありませんよ?」


「アタシのこと……いつもみたいにねえさんって呼べよ!」


そんなことは許されない。俺がこの人をそんな馴れ馴れしい名称で呼んでいいはずがない。



――お前はずっと孤独でいなければならない。



「何を言っているのかわかりません。だって伯母さんは叔母さんじゃないですか」


「ちょっと待て! 本当にどうしたんだよ! お前らしくないぞ!」


俺らしさ……うん、俺はゴミのような人間だから、もっと人目につかないように生きなければいけないんだ。


「そうですね、叔母さんに迷惑をかけないようもっと頑張らないといけませんね」


そう、もっと、もっと、誰にも必要とされない人間になろう。それが俺の役目なんだ。


だから早く家に帰ろう。帰って誰にも会わなければいい。そうすれば誰も傷つけない。


それが俺が今やるべきことだ。


「叔母さん、俺は大丈夫です。だから岩屋さんのところへ……美樹さんのところへ戻ってください。俺は大丈夫ですから」


「駄目だ、今ここでお前を放っておいたら……お前が駄目になる」


叔母は強い眼差しのまま俺の腕を強く掴んできた。でも、俺に価値はないのだから、素直に美樹さんの方へ行って欲しい。


「あんたがどんなに言ってもアタシはあんたを連れて帰るよ」


「……わかりました。家までは一緒に行きましょう」


叔母さんは何も言わずに俺の手を握ると、幼子の手を引くように先を行く。


握りあったその手は、この冷たい雨の中でまともに温度を感じることができるものだった。


ただ、彼女の手から伝わる震えがどういう意味を示しているのか、わかりようがなかった。


今は叔母さんに全てを任せた。


謝ることしかできない俺が叔母さんに対して何も出来なかったから。


雨は止まず、俺の体を濡らし続けた。




「――ほら、食べな」


家に着いた後叔母が夕食を作ってくれた。


「…………」


お腹は空いている。けど、食べる気も起きない。胸が苦しくて箸を手に取れない。


体が求めているのは確かだ。それでも心は食べることを拒否していた。


「いいから今は食え。アンタが倒れたら姉さんも悲しむ。姉さんのことは尽路に任せて食事をしてゆっくりやすむんだ」


「そうすれば……償いになりますか?」


何をすればいいかわからない。何も思い付かない。


「償い?」


テーブルに向かいあって座る叔母さんは険しい顔つきになる。反面声はどこか恐れが含まれていた。


「俺の……せいだから。美樹さんが倒れたのも、京奈さんと岩屋さんを困らせているのも……全部……俺の……せい、だから」


「頼む、何があったか教えてくれ。事情を知らないことには……何も言えないんだ」


叔母さんは励ますように俺の手を握ってきた。

俺のせい、という理由だけでは満足出来ないみたいだ。


「……同級生に嵌められて……俺がその子を変なところに……連れ込んだって、疑いかけられて……そんなところを何故か写真で撮られてて……俺は何もしてないのに…………学校を退学することになった」


「…………」


叔母は堪えるように、更に手を強く握ってくれた。何か悔しいのだろうか。


「それを……退学を取り消してもらう為に……母さんと一緒に、偉い人達に……謝りに行った。母さん頭、何回も下げてた、土下座までして……そしたら母さんが倒れてた……」


その時視界がぼやけた。

目に涙が溜まっている。


――駄目だ、泣いては……。


思い出すと、本当に悔しい。何も悪いことはしていないのに、俺だけでなく母さんまでもが屈辱的な目にあった。


「……だから、全部……俺のせい……」


「違う……!」



「え?」


叔母が泣きそうだった。

戸惑った。彼女は嗚咽を漏らさぬように口を硬く結んで、そのまま静かに下を向いた。


「叔母さん……俺のせいで」


「アンタの……せいじゃない。悔しいのさ。アンタを、ここまで追い詰めた奴を、……ぶっとばしてやりたい」


「……どうすれば、償いになりますか。どうすれば……泣き止んでくれますか」


心が折れそうだった。叔母さんを泣かせているのは俺だ。

叔母さんは涙を拭うと、立ち上がり私を抱き締めた。


「北司。頼むから……いつものお前でいてくれ。今回のことはお前のせいじゃない、……お前のせいじゃないんだ。姉さんは必ず元気になる。……だからお前も元気を出すんだ」


「…………」


元気になれば、償いになるのだろうか。


いつも通りってなんだ。それが許されるのか。


泣き続ける叔母に俺は何も出来なかった。


「大丈夫……アタシはアンタの味方だ。尽路だって。だから……安心しろ。お前は一人じゃない。側にいるからな。ずっと、側にいるから」


「…………」


――どうして、泣くことを耐えるのはこんなに辛いんだろう。





一睡も出来なかった。不安と恐怖に襲われ、胸を焦がしていくばかりだった。

そして気がつけば朝だった。


外を見やると、晴天だった。青空は澄んでいて、雲1つなかった。朝日が本当に目に辛い。


「…………起きるか」


休息が与えられなかった体は、立ち上がることも面倒に感じていたようだ。


トイレで用を足してから、洗面台へ向かった。

歯を磨こうと、歯ブラシを取ったときだ。


「……ひどい顔だ」


鏡に映る自分の顔から精力が感じられない。

目は充血し、顔色は自分でわかるくらいに蒼白だった。


少し長めの髪は寝癖があったが、そんなこと気にならないくらいに、力を失っていた。

リビングへと入ると、


「――ああ、わかった。すまないね、ありがとう。アンタにも店があるのに」


叔母が誰かと電話していた。

叔母は昨日一緒にいてくれた。自分の店を休みにするつもりのようだ。


また、俺のせいで……。


電話を切ると、叔母は俺に気付いて、


「ああ、おはよう。……調子はどうだい?」


「……大丈夫、です」


「尽路が、母さんは落ち着いたって言ってたよ。後で私と一緒に様子を見に行こう」


「…………」


「どうした?」


「……俺は行かない」


「……何だって?」


叔母の目付きが少し険しくなった。少しビクッとなった。


「俺が行ったって……母さん……美樹さんは、俺のせいで倒れたから……行ってどうすればいいのかわからない、です」


叔母は厳しい目のままで俺を見つめている。それを真っ直ぐに受け止められず、俺は目線を外した。


「姉さんは……アンタが悪いなんて思っちゃいないよ」


「……でも、俺がいなかったら叔母さんも岩屋さんも、美樹さんだって……、こんなことにはならなかった」


――また、目頭が熱くなってきた。

駄目だ、泣くな。泣いてはいけない。そんなこと許されない。


「……あんたが母さんに会いたくないってんなら、せめて顔だけは見ていくんだ。会話なんかしなくていい。こっそり見ていればいい」


「…………それは、償いになりますか」


「償いじゃない、これは姉さんの息子としてのアンタの責任だ」


息子を辞めたいと思った。許されないことをしておきながら、そんなことをしなければならないのか。


「……わかりました」


叔母の目付きに逆らえなかったのか、それとも償いになると信じて疑わなかったのか。


どちらにせよ、俺は母さんに許される筈がない。




「――来たか」


美樹さんがいるだろう病室の前で岩屋さんが俺達に気付いて、軽く手を挙げた。


「美樹さんは大丈夫だ……ただ、疲労が大分溜まっていたらしい。入れ、今は眠っている。……北司?」


落ち着きのない俺に異常を感じたのか、岩屋さんが屈んで俺の顔を覗き込む。彼は長身かつ、その年齢に比して荘厳な面輪と短く刈り込んだ髪型が無自覚に相手に脅威を与える事が多い。


昔から慣れ親しんだ顔も今は俺を責めているような気がする。そんなことはない筈なのに、自分を信じてやれない。


「……寝てるだけならいいだろ。北司、アンタも来るんだ」


叔母にほぼ無理矢理腕を引かれ、少しの抵抗心も息を潜めた。

叔母はなかなか上を向かない俺の頭を掴んで、母の方へ向けさせた。


「…………」


美樹さんは仕事や養育の束縛から解き放たれたからか、とても静かに、穏やかに眠っている。


「ほら、アンタの母さんは強い人だ。アンタを置いていくわけがないだろ?」


叔母に頭をわしわしと撫でられ、思わず、


「よかった……」




――なにがよかったというのか。




俺がいたから美樹さんはこうなったのに、……お前に安心することなど許されない。


「……俺、帰ります」


「北司、一体どうしたんだ?」


岩屋さんが俺の肩に手を置いて、できる限り優しい口調で訊ねてきた。


その優しさも罪悪感を加速させる一方だった。


「……俺のせいなんです。母さんがこうなったのも……二人を困らせているのも全部俺のせい」


「聞かせてくれ……何があったのか」


より慎重に岩屋さんに見つめられて俺は尻込みして、


「いいよ尽路、アタシが全部話す。北司、辛かったらアンタは少し出てな」


「…………すみません。お願いします」


岩屋さんの手を払い、立ち上がる。体が重い。

思うように動かない。


「……ごめん、母さん」


最後に一瞬だけ、美樹さんの顔を一瞥し、呟くように発した。

最後だ、これで最後だから、これが別れだから。


最後に一言だけ許してほしい。


――ごめん……ごめんなさい……母さん。




病院の待ち合い室でボーッとしていた。椅子に座り項垂れている。

何をすればいいかわからない。なにをしていいのかもわからない。


何が許されて、何が償いになるのか。


自分がおかしいことはなんとなくわかる。


本当は何をすべきかもわかっている。


母の看病をして、母親の入院費を稼いで、……。


けれど、その資格が俺にあるのか。


俺がいなければこんなことにならなかった。


「――ふぅ」


隣に同じくらいの女の子が座ってきた。髪の長い背の高そうな人だった。髪色は少し茶色っぽかったが、自然な髪色だと思った。顔も綺麗だった。


唐突に現れた少女を見て気晴らしにしようとしたのだ。

俺が見るなんて失礼すぎる。


「ねえ、君、どこかで会ったことない?」


隣の少女にいきなり話しかけられて、俺はのっそりと顔を向けた。


やはり綺麗な顔だった。


「俺……私ですか?」


「うん、前にどこかで会ったことないかなーって」


そう言われても誰かわからなかった。

こんなにのんびりとした口調だと記憶に残っていそうなものだけど……。


記憶を漁るのも辛いことを思い出しそうで、努力もしなかった。


「……覚えがありません。多分、別の人です」


「うーん……そっかぁ。あの時は確か――」


「南さーん?」


「あ、はーい。ごめんねー、変なこと訊いて。じゃーねー」


隣の人は看護師に呼ばれて行ってしまった。


「…………」



飄々とした人だ。



「……北司」


岩屋さんと叔母さんが戻ってきた。


「北司……辛かったな」


岩屋さんは大きくて固い手で頭を撫でてくれた。

駄目なのに安心してしまう……。


駄目だ、許されない。俺は……許されない。


「北司……お前が責任を感じる必要はない、……と思う」


「……俺のせいだよ。今だって二人に迷惑をかけているじゃないですか」


岩屋さんは隣に座って手を握ってくれた。

勇気を手渡してくれるような力強さだ。


「迷惑だなんて思ってない。昔からの付き合いだ。お前が苦しんでいるなら放っておけない」


「……いいんです、放っておいてください。苦しいのはきっと罰だから」


「お前が罰を受けるようなことをする人間じゃないことは俺も京奈も知っている」


「……罰なんだ。俺が騙されてなかったら、母さんは倒れなかった……」


「それは違う。アンタがいたから母さんは頑張れたんだ。アンタが大切だから……ちょっと無理をしただけだ」


「それって、俺がいなければ母さんは倒れなかったってことじゃないか……」


その一言に叔母は悲しそうな顔をして言葉を失った。

俺はまた、誰かを悲しませてしまったのか……。


「……ごめん、叔母さん。ごめん、俺がいたから」


「もう、止めてくれ……。止めてくれ」


叔母は下を向いてしまった。

俺の……せいだ。


「俺がいたから、俺がいなかったら、……俺が産まれてこなければ」


「それは違う……!」


両肩を掴みかかかった岩屋さんの強い眼差しに気圧された。強い眼差しは少し震えていた。


「……誰もそんなことを思っていない。そう思っているのはお前だけだ」


「……あの時、母さんは死ぬんじゃないかって。そう思うと本当に怖かった。何もできない自分が本当に悔しかった……」


あのときのことがハッキリと甦ってくる。

動かない母さんの体、何もできない自分……。

夢だったらいいと何度思ったか。


「北司……アンタも看てもらおう」


「え?」


叔母は泣きそうな瞳で俺と視線を交わす。


「アンタも医者に看てもらうんだ。今のアンタはおかしくなっちまってんだ! 薬をもらって、ゆっくり疲れをとるんだ!」


「叔母さん……」


「俺もその方が良いと思う」


「岩屋さん……」


岩屋さん、と呼んだ瞬間岩屋さんは確かに切なそうな顔をした。俺はもうこの人を「にいさん」と呼んで良い筈がない。


「アンタだってこのままじゃおかしくなっちまう」


その叔母の危機迫る表情に流されて、俺は頷いた。




連れていかれたのは心療内科だった気がする。


先生と幾らか会話をした。叔母さんもその場で話を聞いていた。

俺は上の空で、二人の会話をよく覚えていなかった。


確か、


「お子さんは気分障害で――」


「今は薬を飲んで、ゆっくりと安静に――」


「彼から目を離さないで下さい。無気力だから無事なだけで、少し元気になった瞬間にもしかしたら――」


どれもこれも自分には全く関係のないことのように思えて、右から左へと全てが流れていった。微かに覚えているくらいだった。


院から出たとき、叔母さんはとても悲しそうだった。


「アンタさ、しばらくはウチで暮らしなよ」


「迷惑をかけたくないです……俺は大丈夫ですから」


「駄目だ。今のアンタを放っておけない」


叔母さんの言う通りにしないと、この人は多分悲しそうな顔をするに違いない。


「……わかりました」


その後、外で待っていてくれた岩屋さんと一緒に帰路に就いた。


「よし! 今日は仲良く手を繋いで帰るよ!」


そう言って叔母は私の右手と自分の左手を繋いできた。


「ほら尽路、アンタはそっち」


「ああ……少し面映ゆいがたまにはこういうのも良いだろう」


岩屋さんは俺の左手に自分の右手を重ねてくる。


「懐かしいねえ……昔もこうやってアンタを挟んで帰ったねえ」


「そうだな……今またこうしているのが何だかおかしいな」


二人は微笑んでふらつく私の手を引いてくれる。


この二人はどうして俺にここまで接してくれるのだろう。


どうして優しくしてくれるのだろう。


仲の良かった人達だったのはわかる。けど、他人にすら感じるこの距離を埋めることは難しそうだった。


今はただ手を引かれていようと思った




それから2週間が経った。睡眠不足が祟り、昼夜が逆転しかけていた。


頭痛が多くなり、体調が良くない日が増えた。


便秘や下痢もあり、腹は何も食べなくても常に膨れた感じがあった。

だから、何も食べないようにしていた。自律神経がどこかイカれているらしい。


そんな俺が今何をしているか。


俺は今、


「――北司、次はこれ切っておいてくれ」


「……はい」


叔母から野菜を渡され、それを切る――


時刻は朝の八時。一睡もしないで俺は叔母の店の手伝いをしている。


何をすればいいかわからない俺は役目を与えられた……いや、与えてもらったのだ。


これが償いになるかはわからない。


けれど、今は仕事があるから、それだけを考えていればいい。


まるで逃避のようだ。

この思考が罪悪感を募らせていく。


「いや、しっかし助かる。アンタを雇って良かったわ」


叔母は鍋を見ているので背中を向けている。


叔母は笑いながらお玉を回す。


俺は淡々と野菜を切る。ボーッとしていても腕が勝手に包丁で小気味良い音を立てる。手入れが行き届いているので、切れ味が良い。


「…………」


「…………」


空気が重い。

きっと叔母もそう感じている。

けれど、どうしようもない。


「北司」


「はい?」


「アンタ、行きたいところはあるかい?」


「行きたいところ、……ですか?」


「何かしたいことでもいいよ。今度の休みにさ、何かしようよ」


「……何も思い付かない、です。でも、どこかに行くなら、……私が必要なら着いていきます」


「そういうんじゃないんだけどねえ。まあ、色々考えておくよ。楽しみにしてな」


それは俺に気を遣っての言葉なのだと直感的にわかった。


「…………」


「あ、そうだ、そろそろ看板出してきてくれるかい?」


「わかりました」


日替わりメニューが書かれたボードを外に出しに行く。


一応飲食店の装いだが、昼から夕方にかけて喫茶店に近いメニューなので時折、高校生や大学生らしき人も利用する。


売上はそこそこで、安定していると叔母は言っていた。


その中に俺が組み込まれたのだ。損失が出ないように必死でやらなければならない。



入口にボードを置こうとしたときだった。


曲がり角から一人の女子が飛び出してきた。


「あー! どいてー!」


「え?……うわっ!」



避けきれずに押し倒される形となった。


「んん……」


顔の上に柔らかいものを感じる。これは……。


「いってて……あ、ごめんなさい! 大丈夫!?」


「ええ、大丈夫です……」


その人は立ち上がって俺に手を出してきた。

彼女はどこかの制服を来ていた。雨の日に助けてくれたあの人と同じ服だ。

髪を二つに分けて前に垂らしている。声の良い張りに見合った快活な顔つきだった。


背負っているカバンは所謂ラケットバッグだ。

きっとテニスか何かをしているのだろう。


「…………」


俺はその手を受け取らずに、自分で立ち上がる。何だかこの手からの好意を受け取る気にならなかったのだ。


彼女は申し訳なさそうに、


「もしかして、歳上の方ですか? 私17なんですけど……」


「……15です。お気になさらずに」


「そっか、キミ高校生?……なわけないか、この時間に働いてるってことは社会人だよね」


年がわかるやいなや、砕けた口調になった。


「あれ、もしかして……怒ってる?」


無意識に愛想のない顔になっていたようだ。


「いえ……」


「そう……?」


気まずそうに私からずれた彼女の視線はボードに向かいました。

まじまじとメニューに目を通しています。


「へえ……こんなのがあるんだ。これもなんか気になる……」


「あの、お急ぎだったのでは?」


「へ? ……あ! ヤバッ!? 遅刻だー!」


勢い良く走り去って行きました。


その背中が見えるか見えなくなるのかのとこで彼女は振り替えって、


「今日キミんとこのお菓子食べに行くからねー!」


元気な人だ……。

でも、俺とぶつからなければ、こんなことには……。


店に戻ると、叔母が心配そうにこう訊いてきた。


「なんか物音したけど大丈夫だったかい?」


「はい……制服を着た女の人とぶつかりました」


「そりゃ災難だねえ、可愛かったかい?」


「……さあ、綺麗な人だったとは思います」


「そりゃ、ラッキーだったね」


「……ラッキー?」


「可愛い娘に偶然ぶつかられるなんて、漫画チックな話じゃないか。ラッキーだよラッキー」


ラッキー……幸運、俺が感じてはいけないもの。


「あの人……学校に遅刻しそうでした。俺とぶつかったから……」


きっとそうなんだ。俺のせいなんだ。


「誰か大声出してたみたいだけど、その嬢ちゃんだろ? 何て言ってたんだ?」


叔母は俺の言葉を聞かなかった振りで続ける。


「時間があれば、……食べに来ると行ってました」


「そうかい、……客が増えるのは良いことだ。よくやったな北司」


叔母は優しげに微笑んだ。


「え……?」


なぜ褒められたのかわからない。


わからないまま、仕事に戻った。



やがて開店の時間を迎え、少しずつお客さんが入ってくる。


「あんたはオーダー取ってくれ。昔から手伝いでやってたし、大丈夫だ」


「はい」


これは失敗できない。売り上げが下がれば、それは俺のせい。


伝票を手に取り、客の元へ向かおうとした時だ。


「……北司」


「はい……?」


「アンタはさ、笑顔になれるんだ。今はそれを忘れちまっているだけだ」


「……?」


よくわからない。


「ゆっくりでいいからさ。今は笑顔の練習だ。変な顔でもいいから、何も気負わずにやってみな」


穏やかな笑みが何故か胸に刺さる。


叔母の言っていることがいまいちわからない。俺は失敗してはいけない筈だ。


「……努力、します」


今はどうすれば、貢献できるかを考えることしかできない。

失敗しないよう接客し、失敗しないように商品を持っていくだけだ。


「――いらっしゃいませ」


この一言だけはやたら流暢だった。

懐かしさもあった。


ただ自分でもわかるぐらいに愛想は無かった。




――忙しいお昼のピークタイムが過ぎて緩やかな午後。


これといった失敗はないと思う。

ただ、淡々とした接客ではダメなことはわかった。


だけど心は愛想笑いすらしない。やり方を忘れてしまったのだろう。


笑う……わらう?


笑うってどういうことだったっけ……。


わからないならそれでいい。


俺の役目は損失を出さないことだ。


「北司、ちょっと」


「はい?」


「ちょっと買い出し頼んでもいいかい?」


「……ええ、わかりました。何を買えばいいんですか?」


叔母はメモを一枚渡してきた。


「そこにあるものを買ってきてくれ。今日の分がちょっと不安になってきたんだ」


そこに書かれた可愛いげのある文字に目を通す。


「ふむ……行ってきます」


「悪いね、助かるよ」


「……俺ができることはこれぐらいだから」


「それはあんたがそう思ってるだけさ。あんたは料理は出来るし、大柄でもないのに力も強い。それに困ってる人を放っておくような人間でもなかった」


「……」


その像が今の自分にとっては、離人症でも患ったのではないかと思うほどに自分ではないのだと感じた。


他人に思えた。


「アンタが人を助けまくったお陰で客は増えた。現に感謝していたヤツだっている。……あんたはね、安っぽい人間なんかじゃないよ」


「人を助けていた……?」


それに関する記憶が微かに頭に飛来した。


追憶の画が、現実味を持って知らさせてくる。


ーー誰にでも優しく、良い顔をしていたからこうなってしまったのだと。


思い出すことを躊躇い、欠片ほどしか過去に触れられない。

恐怖に気圧され、向き合うことすらできない。


「アンタは昔からお人好しでさ……損ばっかりしてたかもしれない。けどね、そんなアンタがアタシはカッコ良くて好きだったんだよ」


叔母の誇らしげな口調は私を責めているようにも聞こえました。


「すみません……わかりません。行ってきます」


「ああ……行ってらっしゃい。気を付けてな」


ドアノブに手をかけた時でした。


「あ、そうだ!」


「……?」


「久々にアレ使ったらどうだい? アンタ好きだっただろ」


「アレ?」


「店の後ろにあるアレだよ、バイク」


「ああ……ありましたね」


「気晴らしにもなりそうだしさ、乗ってけ。もしアンタが仕事に慣れればそれで出前も出来るしな」


「……はあ、わかりました。久々なんでゆっくり行ってきます」


渋々裏に置いてあるバイクのカバーを取ると、レッドの2輪が現れた。デザインが流線型であり、優雅さを演じている。

しかし引き締まった赤の配色は精悍さをも醸し出していた。


「やっぱ……かっこいいな」


無機物だからこそ、感じることもあると思う。

罪悪感が入り込む隙はなかった。




久々の運転は気持ちの良いものだった。

モノだからなのかはわからないけど気兼ねしなくて良いから本当に気が楽だ。


目的地まで距離があるわけではなかったから、少ししか走れないのが残念だ。


目的地のスーパーでおつかいを済ませ、ヘルメットを被ろうとしたときだ。


目の前の横断歩道で荷物を重そうに持っていく妊婦が見えた。信号が点滅し、赤に切り替わりそうだが、どうも間に合わなそうだ。


「……」


こういうとき、俺はどうしていたんだろう。前の俺ならこんなときどうするのだろう。


どうせ、優しくしたところで、……意味なんてない。

メットを手にして静観している。


「--お母さん、ほら、私が荷物持ったげるから! はい、いち、に」


この快活な声には聞き覚えがある。

俺と朝ぶつかった人だ。


彼女は妊婦の荷物を持って一緒に信号を渡った。


妊婦に頭を下げられた彼女は、


「もし良かったら家まで持ちますよ!」


と申し出たが、妊婦は首を横に振り断った。

そしてそのまま妊婦を見送ると、信号が青になって信号を渡ってきた。


その際、俺と目があった。


「およ、朝の少年じゃない。お仕事?」


眩しいくらいの笑顔だ。適度に日焼けした肌は、俺よりも健康そうだった。


「……ええ、買い出しです」


「そっかー、今からキミのお店行こうと思ってたんだよね」


まだ15時くらいだけど部活とかはないのだろうか。


「そう、ですか」


「うん。何だったら一緒に行かない? あ、おつかいだっけ? なら早く戻らなきゃね」


「…………」


こういうときどうすればいいのだろう。

俺と一緒に行っても、面白いことはない。ただただ不快にしてしまうだけだ。


「……すみません、店でお待ちしてます」


「うん、待ってて」


ふふ、と彼女の微笑みに思わず見いってしまった。この人は裏表がなさそうだ。知らない人だから、そうだとは限らないけれど。


「では……ん?」


よく見るとガソリンがない。そう言えば久々に乗ったせいかまともに確認していなかった。


「どったの?」


「いえ、燃料切れなんで、その、……引いて帰ります」


「あら、それじゃ、一緒に行こうか」


「……はい」


他に断る理由がなかった。


店までの帰路に二人で就く。

彼女はバイクを引く俺の少し遅い歩調に合わせてくれている。


「あの……」


俺から話題をふった。


「うん、何?」


「その、いつもああいうことをしているんですか?」


「ああいうこと? ……あ、さっきの? 見られてたか」


「はい」


彼女はんーと唸ってからニシシと笑った。


「私さ、困ってる人放っておけないんだ。だから、うん、そうだね。いつもしてる」


「……見返りがないのに?」


俺はそういうことを訊いてしまった。


「うん、そうだよ」


キッパリと彼女は答える。


「人助けってさ、見返りを求めた瞬間に気持ちがどっか行っちゃう気がするんだよね」


「……?」


「そりゃまあ人助けって言っても損することもあるよ。助けようとしたら怒られたこともあったし、まず声をかけるのに勇気がいるし」


「それでも、助けるんですね」


「うん。それは私がそうしたいから」


彼女はそれを誇っていた。彼女はそれを自分の行いとして受け入れているんだ。


「私は、そうは考えられません」


だけど俺は過去の自分を肯定できない。


「それはしょうがないよ。みんながみんなそういう人間ではいられないからさ」


この人は俺とは違うのだとわかった。俺とは違い、わかった上で行動している。俺なんかとは違う。


「私のことさ、バカって思う?」


「え?」


唐突に奇問を投げ掛けられて、思わず間抜けな声を出してしまった。


「人助けばかりして損をし続ける私はバカなのかな」


責めるような口調ではなく、普段の声音で問われる。顔も普段と変わらない。


「いや……そんなことはないと思います」


「キミ、色々考え込んでるみたいだから、何を思ったのかなって」


「……私は諦めたんです」


「諦めた?」


「良かれと思ってやったことが、巡り巡って最悪の事態になってしまったから……人に優しくすることにも罪悪感がある」


それが母を……美樹さんを結果的に追い込んでしまったのだ。不用意な優しさなど投げ捨てるべきだ。


「だから……俺は諦めたんです」


「そっか、諦めちゃったんだ」


落胆の声でもなく、また不審に思える声でもなく、彼女はただ事実を復唱した。


そうして、そこで店に到着した。




バイクは店の前に置いておいた。どうせ後でガソリン入れなきゃいけないし。


彼女を二人席に座らせて、メニューを渡す。


「んー……どれもこれも気になるな。オススメってなんかある?」


「……かぼちゃのプリンとお茶のセットは如何ですか?」


俺も昔からよく食べていたはずのもの。それが頭にパッと思い出されたので、取りあえず言ってみた。

叔母が作るものはおいしい。


「……値段もカロリーも抑え気味なので、おすすめです。他にはトマトのゼリーとか……トマトは疲労回復にも良いと言われています」


「ふーん、じゃあその二つで」


「……かしこまりました」


「ねえ、キミさ」


「……はい?」


叔母にオーダーを伝えに行くところで、呼び止められた。


「どうして、疲労回復のものを薦めてくれたのかなって」


「……そのカバンです」


ラケットバッグを見て、なんとなくそれがいいと思ったから。スポーツをする人なら極力カロリーは減らすべきだし、疲労も貯まっているはずだ。


「あー、そういうこと。……うん、キミは人のことを考えてくれるいい子だ。おねえさんは嬉しいよ」


ハキハキと騒がしく喋る人だ。


--嬉しい、か……何が嬉しいんだか。


「……少々お待ちください」


予想外だった言葉に気をとられて反応が遅れてしまった。


席から離れてキッチンにいた叔母にオーダーを伝えた後、彼女は俺に、


「仲良さそうだったじゃないか?」


叔母はニヤニヤしていた。何かを楽しんでいるようだった。


「別に……おすすめを訊かれたから答えただけです」


「あの嬢ちゃんやたら声が通るからさ、話が聞こえたんだよ。アンタが何を言っているかはわからなかったけどな。そんで、メニューは……へえ」


叔母は僅かに口角を引き上げた。


「…………」


「いいチョイスだ、すぐ作るから待ってな」



そうして、五分ほどで盆に品物が置かれた。


「頼む、これ持っていってくれ」


「はい」


「……北司」


「はい?」


「何だったらあの娘と話しててもいいぞ?」


「……は?」


叔母の言葉の意味を考える。


「少しくらいなら構わないよ。きっとアンタの為になるからさ」


それがどういう意味を持つのか。なぜ俺の為になるのか。

俺は自分のことなんてどうでもいい。この店の為に何ができるかを考えるだけだ。


「……取りあえず運んできます」


母から逃げるように背中を見せる。

思考を放棄した。彼女の言葉は俺にはわからなかった。


そんな不安定な気持ちのままで、携帯を弄っているあの人の元へ 。


「……お待たせしました」


「お、待ってました。うーん、すごく美味しそうだね」


携帯をしまうと、彼女はおしぼりで手を拭きなおした。


「多分……お気に召していただけるかと」


何故かそんなことを言った。

多分、俺が叔母の料理が好きだからだろう。何かの弾みで出たんだと思う。


「ではでは、期待しながら……はむ」


彼女はまずカボチャのプリンを先に口に運んだ。それからゆっくりと咀嚼し、味を楽しんでいる。

俺は何故かそれを見ている。戻ればいいのに、叔母の言葉が引っ掛かってどうにもうまく動くことができない。


「あの、……どう、ですか?」


「うーんとねー」


彼女は不満げな顔だ。


「どうしてもっと早くにこのお店知らなかったんだろうなーって後悔してるとこ!」


「え?」


「すっごくおいしいよ、これ」


続けて彼女はトマトのゼリーにもスプーンを持っていきました。


「んー! こっちもおいしい!」


彼女はサムズアップした左手を私に示してきた。


「あ、ありがとうございます」


彼女の勢いに圧されて、少し下がってしまった。

もしかしたら苦手なタイプの人かもしれない。


「それでは、ごゆっくりどうぞ」


俺は今度こそ定位置であるレジスターの前で待機するつもりだったが、


「ねえねえ」


呼び止められた。


「……なんでしょう?」


「キミさっき諦めたって言ってたでしょ」


「……はい」


「きっとキミには人助けでいっぱい辛いことがあったんだと思う。だからそれでもいいと思う」


「それでも、いい……?」


「人を助けて自分が苦しいのなら、自分のことも助けてあげなきゃ。キミが選んだことを否定していい人間なんかどこにもいないよ。ううん、居ていいはずがないから」


「…………」


「いつも人を助けているのか、ってキミは訊いてきたね。それを訊いたってことはもしかしたら、キミはまだ迷っているのかもしれない」


「俺が……迷ってる?」


「これで良いのか、それとも良くないのか」


迷ってなんかいない。俺が誰かを助けていいはずがないから。

それなのに、いつの間にか彼女の話を傾聴していた自分に驚いている。


「……どうしたって、俺にはわからない。俺が誰かを助けたところで意味がない」


「意味はないかもしれない。けど、キミがしてきたことで誰かは救われていたかもしれない」


「……」


ただ、惑う。


彼女はただ真摯な瞳で俺を見つめている。それが肯定にも否定にも受け取れる。


「わからないです」


「そっか。でも私はね、キミみたいな子が居てくれて良かったと思うよ」


「どうしてですか……?」


「キミは多分私の気持ちに近い人だから。良いことも悪いことも知っているはずだから」


「……」


もしかしたらこれは彼女が俺を助けているのかもしれない。

そう思うとこの問答の理由もなんとなくわかった。

きっと彼女の『困っている人を助けたい』という本分から来ているのだろう。


「なんか、その……ありがとう、ございます」


お礼が必要なのかどうかはともかく優しくされたので、一応言葉だけでも。


「うんうん、おねえさんはキミみたいな人を応援しちゃうゾ」


この調子だけはいまいち噛み合わない。


彼女はその後少し冷めただろうお茶を飲んだ。


「お、これもおいしー♪ これおかわり良いかな?」


「……はい、少々お待ちください」


カウンターで待っている叔母は俺が戻ってくるのを楽しみにしていたようで、


「なあ、何の話だ? さっきとは違ってあの嬢ちゃんおとなしい声だったからアンタらが何話してるのかよくわかんなかったわ。あ、追加の声は聞こえたからこれな」


「……別になんてことはないです」


ただ優しくされただけだ。でも俺にはそんな価値なんてない。

俺とあの人が近いわけがない。


尊敬できるような人と、少し近づけたと思っても結局は俺は誰も救えなかった。一番大事な人を傷つけた。


思い上がりも甚だしい。


「……持っていきます」


俺はただ、与えられたことをこなせばいい。必要なときだけ生きればいい。

叔母の店に損失を与えないように、ただ、それだけを考えればいい。

他人のことなどどうでもいい。


「…………?」


そうして盆に茶を乗せようとしたとき、カップを掴む手が震えていた。

けれど、それがバレないように、手早く盆に乗せ、足早に彼女のもとへ向かう。


「……あっ」


がくっ、と足がふらつき彼女の前で転倒した。

盆から出たカップが地面に落ちて割れ、中身は彼女の脚にかかってしまった。


「熱っ!?」


「あ……」


頭が真っ白になった。何も考えられなくなった。体が震えだす。


やって……しまった。


「すみません! ごめんなさい!」


「いや、私はだいじょ」


「ごめんなさいごめんなさい! すぐ、すぐ片付けますから!!」


彼女の声は聞こえなかった。割れたカップを素手で掴み、盆の上に乗せていく。緊張している手は血にまみれ、なかなか手放すことが出来ない。


失敗してしまった……早く、早く片付けないと。店に損失を与えてはならない。潰れたらどうする。叔母が生活できなくなったらどうする。


その衝動に叩かれ、動悸が激しくなっていく。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」


もう、それしか出なかった。汗が大量に噴き出ていて、体は段々と冷えていく。それでも、早鐘を打つ胸は体温すら感じさせない。


「北司!」


思いきり肩を引かれた。振り向けば叔母が俺の顔を見て、目を丸くした。


「もういい、もういいから……アンタはその手を何とかしな」


震えたまま握っているその破片を反対の手でほどく。欠片を手放した後も血は止まらなかった。


目の前でそれを見せつけられた少女は状況に困惑しているようだった。


その表情に罪悪感を抱き、ただそこから逃げるように奥に引っ込んだ。




手から熱を感じる。

指の間接、掌から出血していた。

血を拭い、損傷箇所にガーゼをあて、包帯を軽く巻いてからアクリル手袋を装着した。


ひどく取り乱してしまった。

その後店はなんともいえない雰囲気になっていたが、少しずつ元の空気を取り戻していた。


あの少女は茶のおかわりを飲むことなく帰っていった。


店の夜のメニュー入れ替え時、少し空いた時間に叔母に問われた。


「アンタ……気負いすぎてるんじゃないかい?」


「…………」


「アンタに完璧なんか求めちゃいないよ」


「でも、俺……私が失敗したら店に損失が……」


絞りだした声は掠れていた。

乾燥しているようだ。


「心配すんな。アンタの失敗ぐらいでこの店は潰れたりしないよ」


叔母は笑って肩を叩いてくれた。


けれど今はその笑顔が辛かった。本当はそんなわけない。

叔母は俺の為に気を遣ってるだけなんだ。だから本当は迷惑なんだ。


「気にせずにさ、気負わないでやってみな。……あの嬢ちゃんがまた来るってさ。その時に変に落ち込んでたらあの娘が気にするぞ?」


「……」


「もしかしたら自分のせいかもしれないって言ってたんだが……」


「違います。……私のせいなんです。あの人のせいじゃありません」


「そうかい? 」


「俺が……」


それ以上の言葉を続けられなかった。


「アンタもしかして調子悪いのかい? ちゃんと寝れてるか?」


「……はい」


「嘘つけ。アンタ実は寝てないだろ 」


「……そんなこと」


「うん?」


ぐいっと顔を近づけてくる。その瞳を見るに、既に色々と見抜かれていたようだった。


「すみません……実はうまく寝れないんです」


「やっぱりか……どうする? 今眠いかい?」


「いえ、大丈夫です。まだ、……やれます」


「わかった。けど無理はするな。辛くなったらすぐに言え。働く上で重要な『報連相』ってやつだ」


「わかりました……気を付けます」



そうして夜の部で俺は失敗を繰り返した。


その度に気にするなという叔母の言葉が、刃のように心を切り裂いていく。自分自信が許せないからなのか、優しいはずの言葉はどこか鋭利さを見せつけていた。



そうして、緊張しすぎた俺は閉店の時間を迎えた直後にぶっ倒れたのだった。



いつの話だったかは覚えていないのものの、俺は確かに誰かを助けていた。


「君、大丈夫?」


俺は学校の帰りに道端で踞っている人を見かけた。その路地は細く、車が通るには窮屈そうだ。


声をかけた人は、歳が近そうな茶色の長髪の少女だった。


「……大丈夫、だから。放っておいて」


彼女は辛そうな顔でそっけなく返してきたけれど、俺はそれでも引き下がらなかった。


「駄目だ、放っておけない。こんなところに一人になんて出来ないよ」


「なんで、……そこまでするの? 偽善?」


「知ってしまったから。それだけだ」


彼女はその言葉にただ呆然としていた。


「変なの……キミ、損するタイプの人間だね」


この場面でそんな悪態吐かれるなんて思いもしなかった。


「構わないよ。君を助けられるなら、どうなってもいい」


「……バカだなー」


「それで、どこが痛いの?」


彼女はそれでもう諦めたようだ。はあ、と呆れ混じりの溜め息を吐いた。


「……胸が痛い」


「わかった。じゃあ」


俺の彼女の前で屈んだ。


「ほら、乗って」


「は?」


「いいから。医者に行こう。どこか行き着けの病院とかある?」


「……いいよ、別にタクシーで行くから」


「良くない。ここから近くなら俺が運んでいくから。遠ければタクシー呼ぶ。それでもここは狭いから大きい通りでないと時間がかかる」


俺は彼女を強く見つめた。彼女は俺の根気に負けたのか、


「わかった……場所は--」


場所を聞いてすぐ、彼女を通りまで運び、それからはグッタリとするこの人と共に病院に向かった。


その際タクシー代を俺が負担した。今月の小遣いが丸々なくなった。

少し切なくなったものの、これでよかったと思った。



俺は夕飯を作らなければならなかったので、彼女を病院に送ってからすぐ帰った。



「……」


浅い眠りから覚めたように気づく。

俺は店の椅子を並べた上に横になっていた。


変な夢を見ていた。


「北司……?」


「尽……岩屋さん」


岩屋さんは毎日夜は俺の様子を見るために店に来てくれる。

俺のせいでこの人まで……。


「良かった。京奈が取り乱していてな……大変だったぞ?」


冗談ぽく言われた。きっと俺に心配かけさせないようにしてるんだ……。


「叔母さんは?」


「あいつは焦って救急車を呼ぼうとしたんだ。……けれど、お前の呼吸は正常に行われていたし、話を聞く限り過労で倒れたんじゃないかと思って、様子見していた。だから落ち着かせるために別の部屋に行かせた」


「そう、だったんですか……」


「ああ……北司」


「はい……」


「お前頑張ってたよな?」


「……自分が出来る限りは」


「それで失敗したから京奈は怒らないんだ。お前に気を遣ってるからじゃない。お前が本気でこの店を想ってくれるから、あいつなりに応えようとしているんだ」


岩屋さんは優しい口調だった。でも今はその優しさが……辛い。


「気負うなとは言わない。色々なことがあったからな……だが、何か悪いことが起きてもお前のせいじゃないんだ。それはわかっておいた方がいい」


「……」


俺は答えられない。俺のせいじゃない……ならどうして美樹さんは倒れたんだ。

無言の俺に穏やかに岩屋さんが笑みを向けて、


「今すぐ京奈を呼んでくる。待っていろ」


軽く頷く。岩屋さんが別の部屋にいる叔母を呼びに行ったあと、時計を見ると二十一時過ぎだった。


体を起こして、キッチンの様子を見ると、俺が倒れたせいで、後片付けがまともに終わっていなかった。

直ぐに取りかかろうとした時、あるものが目に止まった。

それを手に取り寄せる。


銀色に鈍く光るそれは――包丁だ。

今この手の中で光る刃に何故か心は高鳴っていた。


手入れが行き届いており、とても切りやすいのは使っていてわかった。


「……」


これさえあれば、どうとでもなる気がした。


これさえあれば、終わらせることができるような気がした。


これさえあれば、苦しみから逃れられるような気がした。


持ち手と反対の腕に刃を這わせ、位置を決めかねている。


何処を狙えば一撃で終わるか。

もう頭の中はそれしか考えられなかった。


これで誰も傷つけない。誰の迷惑にもならない。


それ以上の最善を見つけられない。これこそ正しい。これしかあり得ない。



疑うことすらしない。

ああ、わかった。楽になりたいんだ。


優しさが辛い。

何故誰も俺を責めない。


お前のせいだと。お前が全て悪いのだと。


どうして俺に優しくする……もう、嫌だ。逃げ出したい。他のことなどどうでもいい。これで終われるならそれが贖罪になるならば。



「もう……いいよ」




だってさ、俺が今までしてきたことは無駄だったんだから。

何を求めて人を助けていたのだろう。

きっと理解もせずにそんなことをしていたから、それが巡り巡って罰に変わった。



そうだ。何も間違ってない。俺が悪かった。


だから終わりにするんだ。


これで全てが終わる。


ドタドタと駆ける音に振り向くと叔母と岩屋さんがどこか安定しない目をしていた。俺は包丁を隠さずに持って腕にあてている。


「ほく、し……?」


よくよく考えればおかしい。


「おい、包丁置けよ」


「……」


叔母の声が微かに震えている。俺は包丁を手放さなかった。


「北司……ッ!?」


俺は刃を二人に向けた。向けてしまった。


歩み寄ろうとした二人はそこで脚を止める。


「もういい……もうたくさんだ」


突きだした凶器は震えている。


何故こんなことになっているのか……善悪の区別がなくなっているみたいだ。



「もう辛いんだ……もういいじゃないか。俺が居なくたって、何も変わらない。なら居なくてもいいじゃないか……」


「本当にそう……思っているのか?」


岩屋さんは目を細めた。叔母さんは目を見開きただ怯えている。


「そうだよ。もう何もかもうまくいかない。眠れない。頭が痛い、腹が痛い、胸も痛い。痛いことばかりだ。辛いんだ。それにやる気もでない。ああ自分は何て駄目な奴なんだと思うと苦しくて苦しくてしょうがない」


体が重い。またふらつきそうになっている。


「……お前は本当に辛かったんだな」


岩屋さんの言葉は顔に反して、優しい。優しいけど、そんなもの意味がない。


「優しくされる度に嫌な気分になる。気を遣われているんだと、……疎ましく思われているんだと。だから、……俺なんか居なくたっていいじゃないか。どうして駄目なんだ」


涙が出そうだ。泣きたかった。けれど、それだけは許せなかった。

泣いて相手を困らせるくらいなら今ここで全てを終わらせればいい。


「北司……包丁を離すんだ。それはお前を傷つけるものじゃない」


「いや、だ……」


首を横に振る。


「それは京奈が誰かを食事で幸せにするために使うものだ。お前を傷つけることに使われてはいけない。ましてや、自分で自分を傷つけるなんて悲しいことだ」


その言葉に胸の鼓動が治まっていく。全身から汗が吹き出した。


「……でも、俺は母さんを守れなかったんだ」


悲しみや罪悪感でもう押し潰されそうだった。いつ心がおかしくなるかわからない。


「『こんな子を産んだあんたは病気だ』、『障害児を作るなら子供なんか産むな』。母さんはそれでも必死に謝ってた。俺……泣くことしか出来なかった」


駄目だ……、泣いてはいけない。俺は泣いては駄目なんだ。


「北司……お前は優しい。誰も責めない。逃げてもいいのに、逃げなかった。けれど、お前は背負いすぎている。一人で抱え込んで身動きが取れないんだ」


「……」


「だから、俺に……俺達に荷物を分けるんだ。お前だけに背負わせたりしない。お前は……一人じゃない」


「……俺の、命一つくらい、どうなっても」


それが最後の抵抗だ。

もう言葉が思い付かない。


「……北司」


叔母は涙を流しながら俺の方へ歩いてくる。


「ねえ……さん」


そして静かに俺の手から包丁を取り上げた。俺はそこで脱力して地面に腰を下ろした。


もう何が何だかわからない。自分が何をしていたかわからない。


「……ごめん、なさい」


それしか出なかった。自分のしたことが信じられなかった。俺はこの人達に包丁を向けた。それが今罪悪感となり後悔として押し寄せてくる。


叔母は俺を抱き締めた。汗で冷えきった体は叔母の温もりで少しずつ温度を取り戻していく。


ああ、あったかい。安心する。心が平静を取り戻していく。


「北司、命が大事な訳じゃない。アンタが大事なのさ……」


「……」


ああ、駄目なのに安心する。母さんは今でも苦しんでいるのに、自分だけが楽になろうとしている。


誰かにすがりたい。苦しみから解放されたい。


心がその想いで満たされた瞬間、俺は叔母に--抱きついた。しがみついたという方が近いかもしれない。


「今度さ、……一緒に出掛けよう。そうだね……おいしいものを食べに行こう」


「……嫌だ」


「うーん……どうしたものか」


「二人のご飯以上にご馳走なんか……ない」


「そうか。それならしょうがないな」


わしわしと叔母が頭を撫でてくる。これが昔から好きだった。


「可愛いこと言うじゃないか……ったく。本当に、あんたはさ……」


さっきよりも強く抱き締められる。

嬉しい。嬉しい……けど、痛い。叔母もそれなりに腕力あるから……。


「お、おい、京奈」


「……」


「京奈」


「……なんだい、野暮だねえ」


青ざめていく俺を見かねて、岩屋さんが叔母に訴えてくれるけど、感極まった叔母は俺を離してくれない。


「いや、北司が危ない」


「え?」


「……うっ、ばたん」


「あ、おい、北司、ダメだ! 死ぬな、死ぬな!」


「いいから北司を離せ! お前が絞めてるんだ!」


「あー、北司! 北司ー!!」




一月後の休日。


「ほら、北司! 次はあれだ!」


「待って……」


「ほら、行くぞ、北司」


へたる俺の手を岩屋さんが引いていく。


俺と叔母と岩屋さんは近くの遊園地に来ていた。絶叫系が苦手なことを知っているくせに、二人とも楽しんじゃってる。


「うう……もう絶叫系は……」


「ふっ。お前面白い顔してたな」


「からかわないでください。待ってるから二人で仲睦まじく行ってきてください。二人きりの時間も欲しいでしょう?」


「ば、バカ! 変な気回すんじゃないよ!」


「どうした京奈? 俺とは嫌か?」


「このバカ! アンタまで悪乗りしてんじゃないよ!」


岩屋さんが俺の頭をポンと叩くと、したり顔をした。彼にはこういうお茶目なところもある。


「とまあ、冗談は置いておいてな。北司、疲れたなら休むか?」


「いえ、俺のことはいいから、行ってきてください。俺は邪魔だから」


「そんなことはないぞ。俺も京奈もお前が大好きだからな。京奈も言っていたが、変な気遣いはいらない」


「でも……」


俺が渋り続けると、岩屋さんは軽く笑った。


「わかった。ならお前の気持ちを汲んで……京奈、行くか?」


「いや、その、……北司がそこまで言うなら、しょうがないけどさ」


叔母はまるで生娘か何かを思わせる面輪で、顔を紅くしてた。

この二人はいつ交わるのだろう。

俺が知る限りでも10年は一緒にいるのに……。


「北司、少し休んでてくれ。行くぞ、京奈」


「って、あんた!? 手!」


岩屋さんが叔母の手を取って先を行く。

年齢を重ねても乙女な叔母は初々しくてこちらが恥ずかしくなる。


そんな二人を見送ってベンチに腰かける。


――あの包丁事件の後、俺は少しだけ楽になった。薬の効果もあると思う。二人の励ましのお陰でこうやって外に出ることもできた。

母のことを忘れようとした訳じゃない。けど、今は自分が元気にならないといけないのだと段々と自覚し始めていたんだ。


こうなるまでに日数を必要とした。医者に通いながら、二人に助けられながら、思考の歪みが矯正されきたように思える。


けれど今でも思う。

母は俺のせいで倒れたのではないかと。きっとその事に変わりはない。

どうやって向き合えばいいのかを、今も模索している。


「駄目だ、また暗くなってる」


飲み物でも買ってこようかと、席を立ったとき、前方で人が踞っている。



「……はあ、はあ」


辛そうに息を吐くその人は喧騒に掻き消されてしまって誰の目にも留まらない。


「……」


俺は胸の中がジリジリと焼けていくような感覚になる。

俺はどうすればいい……? 叔母も岩屋さんもいない。


でも誰かが、あの人を助けるかもしれない。


だから……動かないのか?


『ならばあなたが今度は誰かを助ける側に回りなさい』


俺を助けてくれた人の言葉が反芻される。


俺が誰かを助けるのか? 助けても意味はあるのか?


『意味はないかもしれない。けど、キミがしてきたことで誰かは救われていたかもしれない』


それでも、大切な人を守ることはできなかった……。


俺は、……。


「はぁ……はぁ」


目の前で誰かが苦しんでいるのに、動かないのか。


自問自答が続く。


『人を助けて自分が苦しいのなら、自分のことも助けてあげなきゃ』


そうだ……俺は傷つきたくない。いいじゃないか……俺はもう、がんばったんだ。


いいじゃないか……。



『変なの……キミ、損するタイプの人間だね』


そうだよ。俺はそういう人間なんだ。もう嫌なんだよ。


「……うぅ」


俺は……。


ごめん、……母さん。


「あ、あの、だだ大丈夫?」


自分に嘘は吐けなくて、俺はその人に声をかけた。この茶髪と綺麗な顔立ちに見覚えがあった気がしたけど、それは頭の隅に追いやった。


「……キミ」


「とりあえず、あそこに座ろう……」


その人の手を引いて、ベンチまで誘導していく。


「……救急車? いや、それより、係りの人に?」


戸惑っていると袖を引かれた。


「……あのさ、私は大丈夫だからさ。落ち着いてよー」


「いや、でも、すごく苦しそうだったし……!」


「まあ、そうなんだけどさー。心配してくれるなら、もう少し……側にいて」


「……」


緩い口調で、懇願するような視線を送られる。かなりドギマギして顔と視線が硬直してしまった。

けれどよく見ると汗をかいている。


「あの、これ、ハンカチ。汗、拭いてください」


「キミが拭いて」


「え……?」


「んー?」


顔を寄せられる。


「心配してくれるんでしょー……?」


上目遣いにそんなことを言われ、抵抗する気も無くす。


「……わかりました」


額の汗を拭き取り、首筋の汗も拭き取る。


「もう少ししたら落ち着くハズだからさー……」


「そう、ですか。あの、誰か家族は?」


「あー……ここには仕事で来たから」


「そう、ですか」


「ちょっと、ごめん。疲れた」


といって頭を俺の肩に預けてきた。

俺は何事かとビクッとしたが、彼女はまた青ざめていく。


「大丈夫ですか? やっぱり誰か人を呼んだ方が」


「いいから……別に、平気」


強がっていても、顔はごまかせない。


「ダメです。何かあってからじゃ遅いんだ……!」


母さんの姿が思い起こされる。目の前で誰かが苦しむのはごめんだ。


「……キミはどうしてそんなに必死なの?」


その問にふと思い付いた答がこれだ。


「知ってしまったから……です」


「ふーん、そうなんだ」


「……」


彼女は俺のことをどう思ったのだろう。やはりバカだと思ったのだろうか。




「……カッコいいね」




意外な一言だった。そんなこと言われるなんて思いもしなかった。



「――二和!」


スーツ姿の女性がこちらへ駆け寄ってくる。


「ああ、マネージャー。ごめんなさい」


「戻ってこないから、心配したじゃない! ……あなた、ごめんなさいね、二和(にお)が迷惑かけたみたいで」


「い、いえ……すみません、彼女をお願いします」


「本当にごめんなさい。二和、病院行くわよ」


「はーい」


二和と呼ばれた少女の体を支えながら、マネージャーに彼女を任せる。ふらふらする二和を支えながらマネージャーは二人で歩き去っていく。



「……」


どっと脱力した。柄にもないことをしたせいか、疲労がすごい。


「母さん……ごめん。俺自分に嘘吐けなかったよ……」


少し眠くなってきてウトウトする。


「おーい北司!」


叔母の声だ。叔母はどこか満足そうだった。


「待たせたな、北司」


「いえ、大丈夫ですよ。……どう、でした?」


「ああ、楽しめたよ。今度は三人で楽しめるものにしよう」


「はい……」


軽く目元を擦ってから立ち上がる。




それから数日。

俺は覚悟を決めて母の病室を訪れた。


なぜここに来たのか……懺悔かもしれない。けれど無性に母の顔を見たくなったのは確かだ。

そんな希望と罪悪感に板挟みにされながらも、俺は母を求めた。


こっそり母の病室を覗くと、母の姿はなかった。どうしたのだろうか。検査でもしているのだろうか。

普段から母の様子を確かめていた叔母や岩屋さんも母が目を覚ましていないと言っていたし、一人では動けないはずだ。


空振りとなってしまったので、俺はどうしようかと通路に出た。


ふと、自分も病気であることを思い出した。気にしないようにしているだけで実際は、危ないラインだと思う。


少し待ってみても、母が戻ってこないので、仕方ないと思ったときだ。


「――あー、あのときの人だ~」


「え?」


遊園地でぐったりとしていたーー確か二和と呼ばれていたーー少女が目の前にいた。病衣を着用しているので、入院しているらしい。


「やー、どうしたの~?」


「人に会いに来たんですけど……空振りだったんで帰ろうかと」


「そっか~。あっ」


彼女は何か思い付いたように軽く笑った。

軽い調子でぐっと近づかれて思わずドキドキする。


「キミ、今は暇?」


「え? あ、まあ、そうですね……」


唐突な問に、ごまかすことを忘れてしまった。


「そっか、なら私のとこまで来てよ。退屈だったんだよね~」


「え? っていや、その」


戸惑いの隙に、彼女に手を引かれ、俺はただ引っ張られている。

どうして俺にここまで接するのかを考えながら、俺はただ彼女に任せる。

遊園地で声をかけたときはとても苦しそうだったのに、今はそんなことを微塵も感じさせない陽気さがある。


そうして、階段を数段登って彼女の病室に入り、椅子に腰かける。彼女はベッドから足を投げ出して、俺と向かい合うように座った。


「あ、そうだ、リンゴ好き? もらったから食べようよ」


彼女は引き出しから折り畳み式のハンドナイフを取りだし、展開してリンゴの皮を剥き始めた。


「あれ、……あれ?」


皮剥きが続かない。短く途切れ、なかなか一本に纏まらない。

手つきもどこか怪しい。指を切ってしまいそうだ。


見かねて声をかけた。


「貸してください、私がやります」


「ほえ?」


彼女からナイフを受け取り、馴れた手つきで皮を向く。こういった技術は叔母から教わっていた。


「うわー、上手~。女子力すごそ~」


彼女は満足そうに感嘆の声を漏らした。自分にとっては何でもないことがこうやって絶賛されていることに、ちょっとしたくすぐったさがある。


皮や芯を袋にまとめてごみ袋にいれる。

皿を借りその上に切ったリンゴを乗せる。

ハンドナイフは拭き取り、べたつかぬようにした。


彼女がひょいとその一つを摘まんで口に運んだ。


「うーん、おいし~」


先程から彼女は間延びしたような話し方をする。そのせいかなんとなくこちらの緊張も抜けてきた。知らない人と接するのは常に緊張を伴うものだ。


「あ、そうだ。私は南二和(みなみ にお)。よろしくね」


「相馬……北司です。あの、お体は大丈夫ですか?」


「うん、お陰さまでね~」


彼女は微笑んでから、俺の長い髪を分けて目を覗きこんだ。


「……?」


「――やっぱり、そうだ」


何の話だろうか。


「キミ、この前私とこの病院で会ったでしょ?」


「え?」


何時の話だったか……。ああ、多分母さんの見舞いにきたときだ。


「もしかして待合室にいた方ですか?」


「うん、そうだよ~」


「確かあのときも……一回会ったことがあるって言ってましたね」


思わず声をかけられて驚いたことは覚えているけど、過去に想いを巡らせるのは当時は辛かった。余計なことまで思い出してしまいそうだったから。


「キミは覚えていないかもしれないけど、私はキミに助けられたことがあるんだよ」


「……」


『昔』の俺がこの人を助けたらしい。


「ごめんね、迷惑ばかりかけちゃって」


「い、いえ。それはいいんですけど……」


よくわからない胸のしこりが言葉を濁らせた。


「どうしたの?」


「……本当はあなたを助けるつもりは無かったんです」


「……」


彼女は少し驚いてから、


「そっか」


と呟いた。少し残念そうだった。


「俺が誰かを助けていいはずがないから」


これが多分俺の心に影を落としている。過去の罪から逃げられない。

過去に置いてきた悔しさに、勝てる術などない。


「それでもキミは助けてくれたね」


「あなたを助ける人は……俺じゃなくても良かったんです。少なくとも……俺じゃなければ誰だって」


「そうかな~?」


「……」


俺は気まずくて下を向く。失望させてしまったのだと想い、胸が痛む。


「だって……キミが助けてくれなかったらさ。もしかしたら私は死んでいたかもしれない。他の誰かがあの後に声をかけてくれたって、死んでいたかもしれない」


「でも、……でも。誰かに優しくしたって、嬉しい訳じゃない。満足感や達成感がある訳じゃない。傷ついてばかりです」


そうだ。自分ばかりが損をして、バカみたいだ。


「ううん。キミは言ったよ。『構わないよ。君を助けられるなら、どうなってもいい』って」


俺がそんなことを言ったのか。当時の俺は余程偽善者だったんだろう。痛々しくてやってられなくなる。


「ははっ……そんなご立派な人間居てたまるか」


自分のことを嘲る。おかしな話だ。



彼女が俺の手を握った。


「……?」


「その苦しみがキミの優しさを消してしまう訳じゃないよ」


「……」


彼女の言葉がわからない。けれど、励ましてくれているのだとわかった。


「前までの私ならきっと……キミに声をかけられてもひどい態度を取っていたはずだよ。でもね、キミに初めて助けられたとき、こういう人がいるんだなって、気になったんだ」


彼女はそれを誇らしげに話してくれた。

なんでだろう、胸が少し熱くなってきた。


「そのとき初めて自覚したよ。……一人だとすごく切なくて不安になるんだって。前の私は誰からの助けも受けたくなくて、ずっと一人でがんばろうって思ってたんだ~」


少し恥ずかしそうに彼女は語る。


「だから、それを教えてくれたキミが好きなんだ」


「そんな……俺なんか」


そんな価値はない、と言う言葉が何故か出てこなかった。


「今まで助けてくれてありがとう……相馬くん」


彼女は微笑んだ。


「……」



――ありがとう。


その言葉一つで、自分の中の殻が壊れていくような気がした。凍り付いていた何かがゆっくりと溶けていく感じ。

そして気付く。いつの間にか涙が頬を伝っている。


「……どうして?」


自分に問う。

駄目だ、泣いてはいけない。泣いては……。


けれどもうどうしようもなかった。

堰を切ったかのように涙が止まらない。


「……ッ!」


ああ、と情けない声を出して泣く。


泣いてはいけないと決めたはずなのに、どうしても涙が止まらない。


それどころか勢いが増していく。


遂には声まで抑えが利かなくなった。


「ごめ……なさ」


「いいよ~、ほら。こっちおいで」


南さんが俺を抱き締めてくれる。

暖かい、良い匂いがする。


「よーしよし。がんばったね~」


「ああ、……ああ」


なんとなくわかった。

悲しみの涙は抑えられても、喜びの涙は抑えられない。

多分、そういうことなのだと思う。


彼女に包まれて、俺は今まで我慢してきたものを一気に放出してしまった。



翌日の朝、俺はどこか晴れ晴れとした気持ちでキッチンに入った。

泣くだけ泣いたらスッキリしたらしい。まだ完全に治ってはいないから薬にも頼ってはいるけれど。


「お、髪切ったんだな。似合ってるぞ」


「ありがとうねえさん」


叔母が……ねえさんがピクッと動きを止めた。けどそれは一瞬だった。


「あ、ああ。北司、これを頼むよ。いつも通りにさ」


どこか戸惑いながらも指示を出した。俺は出来る限り、いつも通りに、


「うん、わかった」


俺は卵を冷蔵庫から出し、メレンゲを作った。

そのときに足を滑らせて、メレンゲ入りのボールを顔面に被ってしまった。


「おい、大丈夫か?」


「……ううん」


叔母は心配そうに俺を見る。


俺は顔に着いたクリームを舐めながら、


「うーん、もったいないから俺が食べていい、これ?」


と冗談をかました。


ねえさんはキョトンとした顔を見せてから、一気に爆笑した。


「あーはっは! アンタなんて顔してるんだよ!」


「そんなに笑わなくてもいいじゃん」




「これが笑わずにいられるか! あーはっはっは! ……はは」




叔母は目元を手で隠しながら、何かを堪えるように笑っていた。




19時頃。客も増え少し忙しくなってきた。


新しい客が入ってきたことを知らせるベルが鳴った。


「いらっしゃいませ……って」


「やっほー、約束通りきましたよ、と」


テニス少女でした。そしてその後ろには、


「ここがつぐみねーちゃんが言ってたところ? って、あ」


南さんだった。二人とも制服だ。


「やった~、また会えた~」


南さんが近づいてくる。


「え……お二人とも知り合いだったんですか?」


「そうだよ。二和は私のかわいいかわいい超かわいい後輩!」


と言って南さんに抱きつくテニス少女。

南さんは少し面倒そうにされるがままだ。


「そうなんですか」


「それよかこっちのが驚きだよ。キミと二和が知り合いだったなんて。あ、私は竜胆つぐみ(りんどう)。よろしくね!」


「相馬北司です。よろしくお願いします」


「キミ、なんだかいい顔になったね。あ、顔は元から良かったけどね! 何て言うのかな、うん、元気になったってこと」


「はあ、ありがとうございます」


「ねえ、キミ二和とどんな関係?」


竜胆さんがまじまじと顔を近づけてきます。


「ねーちゃん、ねーちゃん」


南さんが竜胆さんに耳元でこしょこしょと何かを話しています。それに竜胆さんはハッとなって、


「ええ!? 北司二和と付き合ってるの!?」


「……は?」


謎の嘘を吐かれた。


「違います、私と南さんは……ん?」


別に何の関係もないと言おうとしたところ、南さんが俺を微笑んで見つめてくる。


これはどういうことだ。


「……南さんはその、秘密、です」


それが咄嗟に思いついた一言だった。


「えー! 私だけ仲間外れなの!? ねえ二和、何があったの?」


「ふんふーん、これは私と相馬くんだけの秘密だから」


「えー! ねえ、北司、何があったの? ねえねえ」


「おい、北司! 忙しいんだから程ほどにしろよ! っていうかこれ持ってけ!」


「わかった! 竜胆さん、すみません、それはまた後程」


「あ、逃げるな!」


「ふふー」


そこで新たな客がきた。


「お、今日は混んでるな」


「あ、尽にいさんごめん。ちょっと待ってて!」


にいさんは俺の様子に目を丸くした後、気が抜けたらしい。にいさんと呼んだのが久しぶりだったからかもしれない。この人はにいさん、俺の大切な人の一人。


「あ、ああ。……そうか」


尽にいさんは静かに口角を上げた。


ある時はテニス少女に出会い、ある時は病弱な少女と邂逅した。大好きな人たちが支えてくれた。その中で俺は救われ、また歩き出した。こういうことは言葉にしてしまうと、少し恥ずかしく、また若さ故の思慮の浅さがそれを確実に助長していたに違いない。その勢いに任せて言ってしまってもいいかもしれない。


――俺はもっと人を好きになれる。

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