第3話 ノクターン
すっかりよそいきの支度を整えた美幸が玄関で手持ち無沙汰にしていた賢治のところに現われた。
「中でお待ち下さいってママが言ってます」
「ありがとう」
「スリッパをお使いください」
大真面目な物言いにこみあげてくる笑いを抑えこむ。おすまししている姿は愛らしい。会うのは二度目だから慣れていないのは仕方ない。普段、中に人を通すことないのだろう。
香織と美幸のマンションの居間は小奇麗に整っていた。背の高い家具を置かずに壁を広く見せている。香織のセンスだ。
新入社員だった香織がオフィスを心地よい空間に一変させたことを思い出す。実用一点張りでスチールのロッカーと棚を並べただけのオフィスは、殺風景なだけでなく、息が詰まるほどの圧迫感に満ちていた。あの頃、一緒に会社を起こした自分も北村も栗原も、居心地なんてどうでもよかった。それを香織は、まるで魔法のように、いとも簡単に変えてしまった。
窓からは東京湾まで見渡せる。晴れ渡ったいい天気だ。これから三人で乗りに行くつもりの観覧車が遠くに小さく見えている。
美幸は部屋の真ん中に置かれた大きなソファーにお行儀よく座り、テーブルの上の本を手に取った。しおりの紐を挟んであった読みかけのページを開く。来客を気にしているのか、それとも本の世界に没頭したいのか。
「何の本を読んでるの?」
「エルマーのお話」
丁寧にしおりの紐を挟み直してから本をテーブルの上に置き、目を合わせてから話す。そんなちょっとした仕草で、ちゃんとした子なんだとわかる。考えすぎかも知れないが。
「どんなお話?」
「エルマーが竜とお友達になるの」
「竜と友達?」
「そう、竜とお友達」
「面白い?」
言葉を返す代わりにこっくりと大きくうなずき、また本に手を伸ばした。どうやら本当に夢中で読んでいたらしい。お邪魔をしてしまったようだ。
手持ち無沙汰になって部屋の中を見渡す。ライティングデスクに飾られた一輪挿し。なんという種類かはわからないが、鮮やかな黄色の花が飾られている。気が利いているのにもほどがある。田や畑の作物はともかく、花屋に並ぶ花の名前には関心のない人生を送ってきた賢治には、花を飾ろうなどという気持ちはまったくない。
出来のいいお嬢さんのまま歳を取ることができたのは育った環境なのだろう。皮肉でもなんでもなくそう思う。お茶やお花、ピアノといった習い事だけでなく、一般常識や礼儀作法といったありとあらゆる面での隙の無さは、いい意味での育ちのよさが下敷きとしてある。間違いない。鼻につくこともあるが、そうした隙の無さと優雅さと余裕には、どちらかといえば脱帽している。
幸せなだけの人生を送ってきたわけではないことも知っている。留学の直前に父親が倒れ国内の短大に進路を変えたこと。それまでが良過ぎたというと酷だろうか。一生ものとなる類のお稽古ごとは、単に親の愛情のひとことでは片付けられない。親なりに、何かあった時足しになるかもしれないと、打算も計算もあったのだろう。
農作業に明け暮れる父親との二人暮らしだった賢治には習い事の経験はまったく無い。その代わりというわけではないが、親に頼らずに生きていけるたくましさだけは意識している。ひとりだけで生きていけるとは思わないが、ひとりでできることはひとりでやりたい。反発していたはずなのに、そんなところだけは父親とそっくりになってしまった。
これから家族になる美幸とどんな時間を共有することができるのか。不安はある。与えられるだけの豊かさを持ち合わせているのかどうか。家族というものと距離を持たざるを得なかった自分にとっては到底越えられない高さの壁だ。香織と美幸の新しい家族に値する人間なのか。そうなろうと決める前から、ずっと自分に問いかけ続けている。答はまだ見つかっていない。
「おまたせしました」
奥の部屋から出て来た香織は相変わらず敬語だ。今はまだそのほうがお互いしっくりくる。
今日は海沿いの水族館で巨大な水槽を回遊するマグロの群れを見てから公園の観覧車に乗り銀座で寿司を食べる予定だ。家族で一緒に水族館に行ったことのない美幸のために香織が考えたコースだ。賢治も同じだ。賢治も家族で水族館に行ったことはない。美幸のためにと言いながら間違いなく賢治のことも考えている。働いていた時も香織はよく気が回った。仕事もできた。ダントツだった。やはり香織にはかなわない。
車は日本を出た時に手放していた。香織が家族用のワンボックスタイプを借りている。いつもと違う車に美幸が浮き浮きしているのがわかった。
「ママったら、自分ではやんないんだよ」
車の中で、つい最近まで公園の鉄棒で逆上がりを特訓した話をしてくれた。
「だってママ、もうおばさんだからお尻が重たいの。ママだって子どもの頃はできたわよ」
美幸と話す時は敬語じゃないんだな。当たり前か。
「おじさんは四年生になるまでできなかったな。体育で鉄棒だけが苦手だった」
「えー、四年生で逆上がりできないなんて信じられなーい」
「美幸だって三年生になってママが特訓に付き合ったからようやくできたじゃない」
「そっか」
何に納得したのか、ルームミラーに映った神妙な顔を見て和んだ気持ちになる。他愛もない会話で心がほぐされる。距離が縮まっていくのを感じる。
お行儀の良さをすっかり忘れて口を半開きにした美幸がマグロの回遊する巨大な水槽に張り付いていた。その無邪気さが嬉しい。水槽の中の水そのものが発光しているかのような青い光が美幸のシルエットを際立たせる。今この瞬間、美幸は光り輝く水槽を独り占めしていた。
その姿をふたりで見守っていた。平日の昼間だ。他に誰もいない。香織の手をそっと握った。
「次に来てくれる約束、美幸と。お願いしますね」
香織が小声でささやいた。
「わかってるよ」
わざと唇を耳に触れるほど近づけて返事をする。香織がほんの少しだけ肩を持ち上げた。
寒風に身を縮めるどころか逆にそれに向かって誇らしげに毛を膨らませてそそり立つペンギン達を見た後は食事の時間だ。外でお弁当を食べるには向かない時期だった。風も強い。強い日差しも寒さにはかなわない。用意した暖かい飲み物で震えを抑える。風が止んだ。天気さえ香織の思うままなのか。
「美幸の好きなものばかりよ」
二段重ねの重箱の中味は一つひとつに手が込んでいた。
「お世辞抜きで美味いよ」
香織の手料理は初めてではない。今日は特に念入りだ。
「ママのお料理、最高なんだよ」
美幸の顔が誇らしげに輝いていた。
最高のママなんだな。自分は最高のママに釣り合う最高のパパになれるだろうか。家族を持つことが、いや、父親になることが怖い。
家族での楽しい食事の記憶はない。母親が出て行く前にはそういうこともあったかもしれない。もう覚えていない。朝は農作業に出る前に父親が食卓に用意しておいた握り飯をひとりで食べる。雨の日も風の日も父親は必ず農作業に出た。昼食は学校の給食か、そうでなければ漬物か何かで簡単に済ませる。夜だけは二人で食卓につく。だいたいいつも焼き魚と菜っ葉の味噌汁と漬物と白米だ。父親は食後に湯のみに満たした日本酒を一杯、つまみもなしに飲み干した。
どんな気持ちで一緒に夕飯を食べていたのだろうか。母が出て行った理由をなぜ教えてくれなかったのだろうか。父は出て行った母のことをどう思っていたのだろうか。
今までに何度も自分に問うたその質問を、また繰り返してしまう。今日はそんなことではなく美幸と香織のことを考えなければいけない。
蓮根の揚げ物を箸でつまもうと真剣になり過ぎて口を尖らせている美幸の表情で心がここに戻ってきた。
子どもがこんなに可愛いいとは。そんなことは今までに一度も考えてみたことが無かった。
食後、森の中を走り回る美幸をおいかけて公園を一回りする。砂浜にも行った。水はさすがに冷たそうで手で触れるのもやめておいた。野鳥の観察施設では神妙な表情の美幸と一緒に双眼鏡を覗き込んだ。細い足で立つ水鳥がくちばしだけで器用に貝を食べるのが見えた。
そろそろ観覧車に乗ろうかと美幸に聞いてみた。
「美幸は前に別の観覧車に乗ったことがあるよ」
お台場のものだと香織が教えてくれた。
「じゃあ、この公園の観覧車からも見えるんじゃないかな」
美幸が目を丸くした。
無邪気とはこのことか。
自分が子どもの頃はそんな仕草をしたことは無かった。可愛げのない子どもだった。仏頂面の男親と可愛げのない男の子の食卓。つまらない組み合わせだ。
観覧者に乗る人々の長い列に三人で並んだ。香織が手袋をとり、寒さで赤くなった美幸の耳を両手で覆う。
「ママの手、あったかーい」
まるで夢だと思う。こうして香織と美幸と過ごすこの一瞬一瞬の全てが経験したことの無いまったく新しいことに思える。家族の幸せとはこういうものなのだろうか。
確かにお台場の観覧車まで見渡せた。西に大きく傾いた陽射しが地上の建物の立体感を不自然なほど強調している。町並みの全てが作り物に見える。目が離せない。
子どもの頃に読んだコペル君の話を思い出していた。徐々に赤みを増していく陽射しに照らされ小さく見える建物のひとつひとつに観覧車の中でこうして街を眺めている自分達と同じ今を生きている人々がいる。それぞれの生活がある。コペル君は中学生だったろうか。何もかもが近くて遠いのか、それとも遠くて近いのか。
コペル君が登場した本の内容はよく思い出せない。読んでいる最中、ずっと不安だった。幸せを感じなければいけないはずの瞬間にふと感じる寂寞とした気持ちに懐かしさすら感じる。無限という概念を理解し始めた子どもの頃、永遠を思って漠然と抱いた焦燥を思い出す。
美幸は観覧車の窓ガラスに顔を近付け、食い入るように町並みを見つめていた。この小さな女の子は、いつかこの風景に興味を失くしてしまうだろうか。それとも人の営みの儚さと虚しさと優しさを心のどこかに保ちながら成長していくのだろうか。
大人になった美幸と今日のことを語り合えるかもしれない。そうである未来は、薔薇色とまではいかないが、憂鬱な灰色というわけでもなさそうだ。そう思うと、少しだけ希望が湧いてくる。
観覧車から降りてから振り向くと、地平線に残っていた太陽のかけらは空をひときわ朱に染め、直後にあっけなく沈んでいった。雲の下を照らす夕陽の余韻を眺めているうち、また寒さが身に沁みてきた。
美幸は車に乗るとすぐに大きなあくびをかいた。香織が美幸の口を押さえながら笑った。もうクタクタのはずだ。それでもまだ寝ないで頑張っている。これから夕飯、もうちょっと眠れない。
寿司にしたのは美幸の希望だ。気にかけてくれた恩人のひとりと何度か一緒に来たことのある小さな店を賢治が予約した。美幸の実の父親である北村が通いつめていた超のつく高級店ではないが味は保証済だ。オヤジさんが亡くなっていなければの話だが。
「らっしゃい」
戸を開けると張りのある懐かしい声が聞こえた。
椅子に座ろうとした賢治を見てオヤジさんが手を止めた。
「おや、お兄さん、久しぶりだね」
本当に覚えているのか、それとも適当に愛想を振舞っているのか。どっちなのかはわからない。それでも声をかけてくれる心遣いが嬉しかった。
「お、今日は別嬪さんと一緒だね」
賢治と香織に挟まれて座った美幸にオヤジさんが声をかけた。
「どれでも好きなもの頼んでね」
美幸はちょっと不安気に香織の様子を伺う。本当に大丈夫、とでも言いたげな表情を見て香織は、ちょっと笑顔で首を傾ける。ママがそうする時は大丈夫ということを美幸は知っている。早速、身を乗り出して、店に入った時から気になっていたガラスケースの中に目を凝らす。名前も知らない綺麗なネタがずらり並んでいる。
北村が美幸と一緒に寿司を食べに行ったことは無いと聞いていた。美幸が生まれてすぐに北村と香織は別居していた。
ネタに目を凝らす美幸の様子に、これはしばらく決まりそうにも無いなと思った賢治は人差し指でゆっくりとイクラを指差した。目を輝かせ、大きくうなずく。
「あいよ」
頼まなくても、オヤジがイクラに手を伸ばした。
「お嬢ちゃん、甘エビは好きかい」
イクラを食べ終えるのを待ってオヤジは次のネタを勧めてくれた。美幸の大好物だ。口に入れる前も、口に入れた後も、いい表情だった。
鱈腹食べた美幸がお手洗いに行っている隙に、香織がまた耳打ちする。
「わかってますか、次の約束」
「わかってるよ」
「車に乗ったらすぐに眠っちゃいますよ」
「大丈夫だって」
少し回り道して近所の大きな本屋に寄らないかと言ってみる。美幸が、確認するように香織の顔を覗き込む。
「ちょっとだけね」
しょうがないわねといった感じは美幸ではなく賢治に向けてのものだ。回りくどい。
お目当ての本は児童書売場で見つかった。美幸が居間で読んでいた本の続きだ。棚から抜き出して手渡す。大袈裟なぐらいに喜んでくれたのが嬉しい。店員に頼んでプレゼント用に包装してもらう。可愛いリボンもつけてもらった。
「次に会ったら、この本のお話を聞かせてね」
「うん」
両手で大事そうに本を抱えていた。
「さあさあ、急いで帰りましょう」
香織が二人を急かした。いつもならとっくに美幸を風呂に入れている時間だ。
「今日は楽しかった?」
賢治が聞いても、とろんとした目の美幸の返事は大きなあくびだった。
「来週の日曜は美幸ちゃんのお家でおじさんが料理作ろうと思うんだけど、一緒に食べてくれるかな?」
返事は帰って来ない。半分以上寝ているに違いない。
「来週、また来るね。約束だよ」
声を大きくした。
うなずくと同時に大きく首を垂れた。次の瞬間、寝息が聞こえた。もう眠っていた。
「間に合わないかと思った」
安心した表情の香織が、起こさないように小さな声で言った。
「俺も」
マンションの前に止めた車から香織がぐっすり寝ている美幸を抱え出す。荷物を抱えた賢治が後に続く。
「今日は本当にありがとうございました」
「俺の方こそ」
「後で電話します」
「待ってるよ」
ひょっとすると美幸はこの会話を聞いているのかも知れない、そう思って顔を覗きこんでみた。静かな寝息が聞こえた。寝たふりをするような子じゃない。よかった。
「じゃ、また」
「また」
手を振って別れた。口元がほころんでいるのが自分でもわかった。油断してると笑い出しそうだ。最近まったく感じたことの無い気分だ。一滴も飲んでいないのに、ひょっとすると酔っってしまったのかもしれない。
パエリヤにするかパスタにするか、それともまったく趣向を変えてお好み焼きにするか。散々迷った挙句、賢治は餃子の材料を揃えてやってきた。
「美幸ちゃんも手伝ってくれるかな」
「いいの?」
香織の様子を伺う。
「いいわよ。お手伝いしてあげて」
しょうがないわねと聞こえてきそうだ。
「やったー」
ソファに乗って飛び跳ねる。可愛らしい。
小一時間もすると、食べきれないほどの数の不揃いな餃子が大きな皿の上に並んだ。鼻の頭を真っ白にした美幸が満足げに出来栄えを見守っている。
「でも、今日食べない分はどうするの?」
「作った餃子は冷凍しておけばいいのよ」
香織はホットプレートを用意していた。
「冷凍にできるんだあ」
美幸が目を丸くした。
「ママと料理は作らないの?」
賢治の鼻にも打ち粉がついていた。
「うん」
そう言ってから慌てて付け加える。
「でも、ママ、お料理とっても上手なの。いっつもすぐに作ってくれるの」
料理が上手なことはよく知っている。それより一緒に料理をしないことが意外だった。母親になっても完璧であろうとしてるのか。
「一緒に作ると楽しいね」
嫌味のつもりはない。
「うん」
目が輝いていた。
「今度は何作ろうか?」
「うーん、でも、お腹空いちゃったから先に餃子食べたーい」
「こんなに並んでると食べちゃうのもったいないぐらいね」
美幸をじらすようにわざと香織が言う。
「えー、お腹すいたよー」
「そうだ、写真撮ろうよ」
賢治がカメラを取り出した。
若い子たちのようにカメラを持った右手を前に伸ばし自分達にレンズを向ける。大皿を両手で抱えた美幸を中心に三人で顔を寄せた。いい写真が撮れた。
ホットプレートに並べた餃子から香ばしい香りが漂ってきた。熱々の餃子に箸を伸ばす。普段はこんなお行儀の悪いことはさせてもらえないのだろう。美幸がはしゃいでいた。
家族というものを思う。こんなに楽しい時間を過ごせるものなのか。
「目の前で焼くとこんなにおいしく食べられるのね」
香織の声も弾んでいた。
「一緒に作ったからじゃないかな」
本当にそう思っていた。一緒だと楽しい。
食べ切れないかと思った量を平らげてしまった。よく笑った。幸せな時間は過ぎていくのが早い。不思議だ。
食後、美幸が賢治にゲームの相手をせがんだ。
「後片付けは?」
「ママがやってくれるって」
香織が甘やかしているのがよくわかる。甘やかす理由も、なんとなく分かる。
「おじさんが片付けるからママとやりなよ」
「えー、だってママじゃ弱すぎるんだもん」
香織にも苦手なものがあったのか。
「おじさんもゲームは得意じゃないんだ。おじさんの家は田舎だったから近くにゲームセンターなんてなかったし、家にもゲーム機はなかったからね。おじさんの子どもの頃はまだこういうゲーム機は無かったんだ」
家庭用のゲーム機が発売になったのは高校生の頃だったろうか。結局、ゲーム機は買わなかった。大学生になってから寮の部屋に誰かが持ち込んだゲーム機でちょっとだけ遊んだぐらいだ。
「おじさんが美幸ちゃんぐらいの頃はテレビもまだリモコンじゃなかったし、白黒テレビの家もあったんだよ」
賢治の家がそうだった。
「白黒?」
「そう、白黒テレビ。色がついてなくて白と黒」
「でもそれじゃ、キャラクターの色を変えてもわからないね」
そういう発想はなかった。白黒テレビは想像がつかないのだろう。そして、そんなことよりどうしても一緒にゲームがしたいと言う。
しぶしぶ対戦した賢治だったが、美幸が操るゲームのキャラクターに手も足も出せずに完敗だった。
「もう一回」
今度は賢治が頼みこんだ。
「いいよ」
美幸は勝者の余裕でその申し出でを受け入れた。
「美幸、発表会の曲、練習しなくていいの?」
化粧の途中の香織が声をかけてきた。
「はーい」
何の躊躇も無くゲームを中断しコントローラーを片付ける。賢治の方が少しやる気になっていた。香織のしつけがこんなところまで行き届いていることに苦笑してしまう。
居間に置かれたアップライトのピアノは掃除が行き届いていた。美幸は観客に見立てた賢治に向かって両手をお腹の前で揃えた丁寧なお辞儀をしてから椅子に座った。
ゆったりとした旋律で始まる曲だった。途中から雰囲気が変わる。真剣な曲調から少し重みのある感じへ。何度かそうした変化を繰り返し、大きな盛り上がりの後に穏やかなメロディに戻る。それからさらにピークを迎え、透明な余韻を残して終わる。
弾き終えた美幸の両手がそっと膝の上で揃えられた。
思わず拍手をしていた。聞いていた以上の出来だ。
曲の終わりを待っていたかのようなタイミングで玄関のチャイムが鳴った。美幸の祖母、香織の母親がやってきた。
香織の母親と会うのは二度目だ。初めては一ヶ月ほど前、神保町の交差点近くにある中華料理店だった。賢治は最近まで暮らしていたドイツでの暮らしぶりなどを話した。美幸は初めて見るというアミガサタケを美味しそうに食べていた。
ぎこちない会食ではあったが、悪い印象は持たれなかった。後で香織からそう聞いてホッとした。柄にも無く緊張していたのは自分のほうだった。
「じゃ、お母さん、美幸をお願いね」
すっかり支度を整えた香織が玄関に向かう。
後を追う賢治の肘を香織の母親が掴んだ。思いがけず強い力で。
香織の母親は賢治の目を正面から見ていた。
「よろしくお願いしますね」
深々と頭を下げる。
恐縮した賢治も慌てて頭を下げた。
何かがつながっていく。そのつながりの中に、美幸だけでなく香織の母親も、間違いなく含まれている。
香織の運転でクルマに乗るのは初めてだった。運転席の香織からは香水の甘い匂いが漂っている。部屋に残っていた餃子の匂いはまったくしない。何をやらせても隙が無い。
「あの曲、なんて曲なのかな」
「どの曲ですか?」
「美幸ちゃんが練習してた曲」
「ああ、ランゲの『花の歌』ですね」
運転は苦手だという割に、質問にこたえる余裕はあるようだ。
「『花の歌』っていうのか。いい曲だね、あの曲」
「発表会の定番ですよ。お聞きになったこと、ありませんか?」
「いや、無い。んー、でも、聞いたことがある気もするな」
角を曲がる。
周囲に注意を払っているのか、それとも言葉を捜しているのか。
「何か気になる?」
聞いてみた。
「ええ。ひょっとしてお母様のピアノじゃないですか?」
母親との記憶の中に残っているピアノ曲はあまり多くはない。多分、違う。
「わからない。覚えていないな。でも、何かこう、初めて聞いた気がしない曲だった」
「そうかもしれません。懐かしい感じがする曲ですから」
懐かしい曲。ピアノ曲。
ピアノ曲には思い出がある。
何度も思い出したあの光景が脳裏によみがえっていた。叩きつける吹雪と締めつけられる寒さの中で聞いた母のピアノ。東京の人間が思い描くロマンチックな、柔らかく降り積もる綿のような雪ではない。日中の日差しで儚く消えてせいぜい道路を濡らす程度の弱々しい雪でもない。本物の雪は厳しい。硬い結晶は鋭く皮膚を刺す乾ききった針となって地面から舞い上がる。絶え間なく吹き続け二重になっている窓ガラスのわずかな隙間から家の中を侵食してくる。どれだけ厚着をしても手足の先端からしんしんと冷たさが身体を責め続ける。背骨の奥の芯に届くところまで震えを伴いながら確実に沁み込んでくる。やがて不安に変わる。心が支配される。理不尽な暴力の如く、立ち向かうものを打ちのめす。
薄い壁の内も外も狂おしいほどの冷気に満たされていた。わずかな熱気を求めてストーブに近付く。家の中だというのに震えていた。胴体が赤くなるほど熱されたストーブの上では蒸発皿がけだるく湯気を立てていた。ストーブの横に黒いコークスが散らばっていた。黒く汚れた壁にデレッキが立てかけられていた。
部屋の中は様々な音に満ちていたはずだ。なのに、その音は覚えていない。まったく覚えていない。風と雪の音も、ストーブの音も。ただ、ピアノの音だけを覚えている。母親のピアノの音だけが静寂の中に満ちていたことを覚えている。
今でもはっきりと聞こえる。何度でも思い出す。
「覚えてますか?」
香織が賢治に聞いた。
「えっ?」
何を考えているのか見透かされた気がした。
「十年前の夜、大学の寮でピアノを弾いたこと」
「ああ」
うなずいた。
「あったな、そんなこと」
大学時代に暮らした学生寮が廃寮になると聞いて二人で夜中の食堂を見に行ったことがあった。十年前はふたりとも独身だった。
「お互いすっかり変わりましたね」
「うん。いや、どうかな、変わってないこともある」
「私はすっかり変わりました。おばさんになりました」
ハンドルを握る横顔は大真面目だ。香織がどこまで本気なのか、時々わからなくなる。真顔で冗談を言うのは昔からだ。
商社に同期入社した北村と取引先の技術者だった栗原、それと賢治。三人で立ち上げた会社に新人としてやってきたのが香織だった。インターネットが普及し始めたばかりの頃。Webデザインとサーバー管理だけでも充分にIT企業としてもてはやされた時代。IT関連の雑誌にはしょっちゅう取り上げられた。テレビにも何度か取材された。
「青春だったんでしょうか」
「え?」
思わず香織の顔を見た。
笑っていた。邪気のない笑顔だった。
「すみません。色々思い出して」
「いいよ。オレだって色々思い出す」
過去の価値は振り返った時にしかわからない。確かに面白い時間を過ごした。それは否定できない。あれから色々あった。今、こうしてここにいる。
「寮の食堂のこと、覚えてますか」
「もちろん。北村が辞める前だったよな」
北村が辞めると言い出したのはいつ頃だったろう。急速に規模を拡大する競合他社にクライアントごと籍を移すつもりなのは、うすうす分かってはいた。
「あの池の横の道、真っ暗でしたね」
「そうだ、あそこでヒールがはまっただろ」
「はい」
「あそこは舗装なんかされてなかったからなあ」
「その先に寮の食堂が」
「そうそう。よく覚えてるな。寮があって、寮の食堂があって。その横には風呂もあったんだ。あの風呂が、いつ入ってもぬるくてさ」
「その話、聞きましたよ、あの時も」
「そうだったかな。で、食堂はあの時よりだいぶ前からやってなかった」
「でも、片付いていましたね」
「誰が片付けてたんだろうなあ。寮の連中かなあ、寮の学生は、俺なんかもそうだったけど、みんなずぼらだからな。掃除なんかしてたのかな」
「ピアノがありました」
「そう。ピアノがあった。アップライトのピアノが」
どうしてそこにピアノがあったのか。賢治が学生の頃は無かった気がする。食堂の半分が小劇場として使われていた頃の名残なのだろうか。
二人で入った深夜の食堂で香織が鍵盤の蓋を開けた時の微かに軋んだ音まで思い出す。ピアノを弾く香織の向こう、窓の外からは、青白い月の光が差し込んでいた。
香織もあの光景を思い出しているのだろうか。
香織が遠慮がちに弾き出した曲を聞いて息を飲んだ。あの吹雪の夜に母親が弾いた曲だ。その曲を香織が弾いていた。
香織のピアノはあれから二度と聞いていない。
「あの夜、どうして寮に一緒に行ったんでしたっけ」
「どうしてだったかな」
「みんなで飲みに行ってたのは覚えています」
「そういえばそうだった」
「仕事が終わってから皆でよく飲みに行きました」
「飲みに行くっていうか、そうだなあ、皆よく食べたからな。遅くまで仕事してたし」
「学生みたいなノリで」
「そうだ。学生みたいなノリだった」
「ベンチャーでしたから」
「ベンチャーねえ。まさにそうだったわけだけど、今となってみると何もかもがちょっとほろ苦いな」
「私もです」
北村のことを考えているのがわかった。
「ごめん」
そんなつもりはなかった。
「いえ、いいんです。もう」
次の信号まで言葉が途切れる。
「あの夜、どうして寮に一緒に行ったかって話だったよな」
「覚えてますか?」
「覚えているような、そうじゃないような」
「どっちですか」
「何となく、見せたかったんだな、あの寮を」
「何となく、ですか」
「うん、まあ、何となく。あの寮はさ、オレが大学の頃に住んでいただけじゃなくて、子どもの頃にも行ったことがあってさ。前にも言ったかもしれないけど、親父も同じ大学だったからさ」
「伺ってます」
「今日、着いてから話そうかと思ってたけど、先に話しておくことにするよ。親父と母親のこと。親父もあの寮で暮らしてたんだ」
「そうだったんですか」
「いや、それだけじゃなくてさ。母親もあの寮にいたんだな」
「男子寮なのに?」
「そういうことじゃなくてさ。キミは自宅から通っていたから知らないかも知れないけど、昔の学生寮っていうのはさ、自治寮って言って、なんて言うかな、一種の解放区みたいな気分があってさ。いい悪いとかじゃなくて、オレの親父はともかく、母親も一時期ほとんどそこで暮らしてたんだよね。もちろんオレが生まれる前の話。でも、オレが生まれてから子どもの頃も何度も寮に連れて行かれた。仲間がいたからね、両親の。その話はしたと思う」
「学生運動とか政治とかの話ですね」
「そう、母親が捕まる前の話」
十年前のあの夜、もっと話したいことがあったはずだ。思い切って話していたら何もかもが違っていたかもしれない。
赤信号で止まった。だいぶ前にやめた煙草を無性に吸いたい気分になっている。
交差点を右折し、両側に寺が立ち並ぶ長い坂を上りきったあたりで左に曲がる。事前に調べておいた駐車場は幸い空いていた。
「お花、買わないといけませんね」
「入口の前に店があったはずだ」
車のドアを開けただけで澄んだ空気の中に漂う線香の香りを感じる。身が引き締まる気がした。
古い寺と少々くたびれた住宅が並ぶ下町の一角に、目的の墓地があった。入口の前に数軒、墓前に供える花や線香を売っている古びた木造の店が並んでいる。一軒だけが営業していた。墓前に添えたいと告げると店員が手際よく花をまとめてくれた。店員はその花を、はい奥さんと言って香織に手渡した。
「ありがとうございます」
香織は余裕のある笑顔で受け取った。
すぐそばに山手線が走っている場所とは思えない。静かで穏やかな緑に囲まれた空間だった。歴史のあるこの墓地の名前は知っていても足を踏み入れたことはないと香織は言っていた。
背の高い木々の間に整然と綺麗に清掃された墓が並んでいる。ところどころにある大きなものは無名の個人の墓ではないのだろう。大きな通りに沿って並ぶ墓には個性がある。磨き上げられた石の表面に彫られた文字には、多分、歴史や時代が刻まれている。
不思議と寒さは感じなかった。
気がつくとしばらく何も話さずに歩いていた。
「もうすぐだと思う」
「思ったより広くて」
「疲れた?」
「いいえ。空気が澄んで気持ちがいいです」
「そうだな。確かに空気が澄んでいる」
用意したメモでもう一度場所を確認した。並木道から逸れて墓石がひしめくあたりに入る。このあたりは一般の墓地になっている。大きな通りのあたりとは違う雰囲気だ。今頃になって墓地の上に電線が無いことに気づく。空が広いのはそのせいか。雲ひとつ無い青空が、またぐんと広がった気がした。
「空が」
香織が見上げた。
「広いね」
同じことを考えていたのだろうか。
何の変哲も無い四角い区画に立てられた墓石だった。
賢治にとっては二度目だ。が、墓石に刻まれた名前を見ても、こみあげてくるものは特にない。賢治には馴染みの無い名前が刻まれている。
母親の本名を知ったのは大学に受かって東京に出てきた春だった。
線香の匂いがまた流れてきた。人の姿は見えない。どこかで誰かが墓の前で手を合わせているのだろう。それとも周りの寺で法要でも行われているのか。
「梅の香りがしますね」
墓に向かって手を合わせていた香織が顔を上げた。
線香の匂いにすっかり気をとられていた。そう言われて息を吸い込んでみる。確かにどこかから、ほんのりと梅の香りが漂っていた。
「お父様はこちらには?」
「いや、父はここには来たことは無いと思う。うん、どうかな。オレが聞いたことだけが本当なのかどうか、もうオレにもよくわからないんだな。父親とは母の墓の話なんかしたことがないからな。もしかしたら単に父親から聞いていないだけかもしれない」
細かい話をしようとするとどうしても言葉がもつれる。知らない事実がいくらでもあるのだ。いや、事実がなんだったのか、誰に聞けばいいのかすら曖昧だった。
「キミが、あの小さかった賢治クンか」
昔話はだいたいその台詞から始まった。教員たちは賢治の名前を知っていた。
学生が安田講堂で放水され連合赤軍が浅間山荘で機動隊と衝突する、そんな時代はとっくに過ぎていた。それなのにまだ熱い余韻がくすぶり続けている場所は日本中にいくつもあった。幾つかの大学の学生寮は過激さを増す活動家たちの拠点のひとつとなっていた。
田舎から出てきたばかりの賢治の父親が入寮したのも、そんな場所のひとつだった。娯楽の無い田舎で本の虫だった父親が政治の衝動と向き合うまでに、さほどの時間はかからなかったのだろう。
「キミのお父さんはキレ者だった」
ゼミの教授の言う人物は、本当にあの無口な自分の父親のことなのだろうか。にわかには信じられなかった。
ひとくちに学生運動と言っても、地下に潜って活動を続ける過激な一派と学生寮で酒を飲みながらくだを巻いている連中とではまったく違う。天下国家を論じる学生連中にうんざりしていた賢治の父親は次第に過激な一派に接近していった。
その中に、母親がいた。
「キミのお母さんはみんなのアイドル、いや当時の言葉だとマドンナだった」
テレビでも顔をみかける解剖学の教授は賢治の母親に憧れていたことを隠そうともしなかった。彼にとっては何もかもがよい想い出なのかも知れない。
まだ学生だった頃の彼を賢治はかすかに覚えている。寮の高い天井。タバコの煙に満ちた部屋。寮の学生はよく賢治の相手をしてくれた。学生たちは高校を出たばかり、まだハタチ前だった。子どもだった賢治には途方も無く大人に見えた。自分がその年になるなんてことは想像もできなかった。
キレイ好きが震え上がる程度に散らかった部屋の中、饐えた匂いのするこたつの上には使ったままの食器が積み重ねられ、ベッドの横には既にかび臭くなりつつある洗濯物が無造作に投げ出され、部屋中のあらゆる場所に、びっしりと文字の書かれたいかにも難しそうな本から裸の写真が載った雑誌まで、無数の本が放り出されている。夜になると学生たちが集まり酒盛りが始まる。こたつではマージャンを打っている。部屋の中が白くなり目に沁みるほどのタバコの煙。クラシックからロックまでひっきりなしにかけ続けられるレコード。何かのきっかけで議論が始まる。酒の匂い。溢るほどの吸い殻が乗せられた灰皿。話し声。
輪の中心には父親がいた。父親は学生達の中で何か特別な存在になっていた。父親の隣にはいつも母親がいたはずだ。多分、そうだ。もう忘れた。
酒を飲みタバコを喫っている母親の姿だけが鮮明に記憶に残っている。立ち上がると父親と同じぐらいの背丈だった。寮のベッドに腰をかけ、くせのある長い髪を揺らしながら口を開けて大きな声で笑っていた。指に挟んだタバコには真っ赤な口紅がついていた。手に持ったグラスの氷がキラキラと光り輝いていた。
母が何かを言うと周りを囲んだ学生がどっと盛り上がる。女王だった。母もまた、父親と同様に特別な存在だった。
東京での母の記憶はそれぐらいだ。他は覚えていない。それからすぐ、北海道に引っ越した。炭鉱の町だった。衰退しつつある炭鉱の町で思い返す東京の記憶は夢よりもさらに不確かなものでしかなかった。
今となっては炭鉱の町の記憶も曖昧なものでしかない。立ち並ぶ平屋建ての住宅。彩りの少ないセピア色の光景。隙間風の吹き込む六畳の居間に置かれたアップライトのピアノは、同じ造作の建物に住む人々には場違いだったろうか。薄い壁越しに家の外にまで漏れ聞こえるピアノの音はどう思われていたのだろうか。
父親が留年を重ね八年かけて卒業した後に選んだ職場は炭鉱の町の中学校の数学教師だった。先生の家は奥さんと子どももちょっと違う、そう言われていた。吹き荒れる嵐ほどの身近さも無かった。完全な孤独。多分、賢治だけではなく、父親も、そして母親も、三人とも孤独の中で過ごしていた。
家にピアノがやってきたのはいつだったろうか。狭苦しい居間にピアノを入れてしまうとくつろげる空間はほとんど無かった。
ピアノを持っている家は近所には無かったはずだ。父親の教える中学校の生徒でピアノを弾ける子はいたのだろうか。
ピアノが来た日から、その前の椅子が母親の定位置となった。古びたステレオで毎日聞いていたLPレコードの音は母親が弾くピアノの音に取って代わられた。母親は何時間でも引き続けた。モーツァルトやベートーヴェンを、シューマンを、ショパンやリストを、ラヴェルを、ドビュッシーを、飽きることも疲れることもなく弾き続けた。母親のピアノを聴くのは苦痛ではなかった。むしろ、もっと弾いて欲しいと思っていた。ずっと、いつまでも聞いていたかった。
土に生きると言い出したのは父親だった。中学教師の仕事を捨て、夜逃げ同然に炭鉱の町から去った。
鈍く光る雲に覆われ空と海の区別もつかなくなった中を大きく揺れながら船は進む。船酔いに苦しみ青い顔の母親の横で父親は何も言わずに酒を飲み続け、時折トイレに向かった。酒に酔って吐いているのか、それとも船に酔って吐いているのか。生気の無い顔で酒を飲み続けている男は父親の他にも何人もいた。畳の敷かれた大部屋は清潔だった。けれど匂いは鼻をつく。毛布に沁みた汗と子どもがズボンに散らした小便とコップからこぼれた日本酒と拭っても洗っても消えない吐瀉物の匂い、それと消毒薬の匂い。匂いを避けようとデッキに出るとそこは寒い。厚く垂れこめた雲の向こうにある太陽の位置さえよくわからないまま震える。船の揺れに合わせて時折潮の匂いが塊になって襲ってくる。
母親はデッキに出ようともしなかった。大部屋で吐き気をこらえながら虚ろな目で横たわっていた。
もうすぐ終わりだということを知っていたのだろうか。
そして間もなく、本当に終わりはやってきた。
大洗で船を降りた母はバスに乗らなかった。
動き出したバスの窓から立ち尽くす母を見た。強い風が黒く長い髪を乱暴に乱していた。賢治のことを見つめていたはずだ。何度も髪をかきあげる母の目は濡れていたのかそうでなかったのか。バスはすぐにその場を離れた。
数年後、母親は死んだと父親から聞いた。中学生だった賢治は父親の前では涙を見せなかった。寝る前に一人で泣いた。
どうして父と同じ大学を選んだのか。父を越えたいという気持ちが無かったと言えば嘘になる。父と同じ寮に入った。父の生き方に反発しながらも、父の見た世界をなぞることになるであろう道を選んだことに悔いはなかった。キャンパスで話しかけられるまでは。
キミがあの小さかった賢治クンか。
なぜ、自分の名前を知っているのか。声をかけてきたのは新入生のオリエンテーションの場で話をしていた教官の一人だ。
キミのお父さんとお母さんのことはよく知っているよ。本当に懐かしい。何もかも、本当に。
母の本当の名前を知った。震えが止まらなかった。昭和の歴史の一部とも言える事件の当事者だった。その時点で母親はまだ生きていた。
なぜ、父親は嘘をついたのか。本当のことを話そうとしなかったのか。
怒りがこみあげていた。土に生きると言った父親の生き方についていけずに逃げ出し一人で寂しく死んだのだと思いこんでいた。
事実を知った夜、わざわざひと気の少ない通りにある電話ボックスから父親に電話をした。長距離通話用の百円玉が何枚も飲み込まれた。何が本当で何が本当でないのか。知りたいのは本当のことだけだ。泣き叫ぶ賢治に対して父親が重い口を開いた時には深夜を過ぎていた。
あくまで一面的な真実でしかないと父親は言った。北海道に行ったのは事件で指名手配された母親を守るためだったと。福島に移ったのは危険が迫ったからだとも。
「じゃあ、なんで母さんは出て行ったんだよ」
俺にもわからないと言う。
「嘘だ。父さんは俺に嘘をついていたんじゃないか」
父親は不機嫌そうに明日も早いから切るぞと言うと賢治の返事を待たずに電話を切った。
受話器を持っている左手が痺れているのに気がついたのはしばらく経ってからのことだった。
次の日から獄中の母親に会うための手段を探した。道はすぐにつながった。多くの支援者の中に、大学の教官たちも含まれていた。
会って何を話したいのか、何を話せばよいというのか。刑務所の小さな面接室までやってきても気持ちの整理はついていなかった。
刑務官に連れられて小柄な初老の女性がやってきた。
その姿を見た瞬間から、記憶の中の母の姿が遠退いていく。本当の瞬間が記憶を塗り替えていく。全く覚えていなかった母親の声。新しい記憶が上書きされていく。
何を話したのか思い出せない。面接時間の限り何かを話し続けた。うんうんとお互いに頷き続けていただけではなかったはずだ。覚えていない。
耐えられないほど大きく膨らんでいた期待に応えることも無く、面会の時間はあっけなく終了した。横を向いた母親の目が濡れていたのは気のせいか。確認する暇も無かった。
それが、生きている母親を見た最後の瞬間となった。
次の日、母親は獄中で首を括った。
本当のことは何一つ聞けなかった。
それ以来、父親とも会っていない。
「家族が怖くなった」
賢治が言った。
「怖い?」
「そう。家族が怖い。家族がいるから、こんなに怖い思いをするんだって、そう思ったんだ、俺は」
真実を知ってどうなったか。記憶は上書きされ、幸せな想い出は消えてしまった。悲しくてたまらないのに涙は出てこない。声を上げて泣きたいのに、そうすることもできずにただ震えていた。目を閉じると疲れた表情の年老いた女性が奈落の底に落ちていく。怖くて目を開ける。家族というものとは二度と関わるまいと固く誓った。父親とも。
「結局、その年はほとんど大学に行かなかったからね、一年留年した」
卒業して官僚になるか迷った挙句、商社に入社した。仕事は退屈ではなかった。けれど、独立の機会を探してもいた。チャンスはすぐにやってきた。気の合う仲間と会社を興した。その会社に香織が入ってきた。仲間だったはずの北村が裏切った。
香織と寮の食堂に忍び込んだのはそんな頃の話だ。
香織がショパンのノクターンを弾き終えてすぐ、食堂の外から誰かの物音が聞こえてきた。ヒールを手に持った香織と一緒に急いで食堂から逃げ出した。笑いをこらえていたと思う。林の中、裸足の香織を支えるつもりが、気がついたら抱きかかえていた。
キスをしたかもしれない。
息が弾んでいた。苦しくなって唇を離した。いや、苦しくなって離れたのではなく、香織が賢治の胸を押していた。
「ごめんなさい」
香織が言った。
「何が?」
「私、結婚するんです」
すぐに事情は飲み込めた。
「ごめん」
抱いていた両手を広げた。
ついさっきのあの昂揚した気持ちはまだ治まらなかったが、もう流れは変わっていた。北村と香織の関係に気がついてもいなかった自分の間抜けさが情けなかった。うつむいたままの香織をタクシーで送ったことを覚えている。ひと言も交わせなかった。馬鹿だった。
数日後、北村が正式に会社を辞めることと結婚することを伝えてきた。
「家族じゃないから腹も立たないさ」
負け惜しみではなく、心の底からそう言って北村と香織を送り出した。家族を持つ不幸よりも家族を持たない幸せを自分は選ぶのだと、そう思っていた。
はずだった。
何かがわだかまっていた。
ほとんどのクライアントが北村の後を追った。ITと言ってもやっぱり人のつながりだったんだなと苦笑いしながら、急速に崩壊していく会社の業績をなんとかしようと踏ん張った。が、うまくいかなかった。栗原はアメリカの会社に引き抜かれ、去っていった。一時は株式公開も考えていたというのに、ダメになる時は本当にあっという間だ。蜘蛛の子を散らすようにヒトが離れていく。
まだ整理する財産があるうちに会社を畳んだ。自主廃業。最後まで残ったアルバイト数名と空っぽになったオフィスで缶ビールを飲んだ。
それでおしまい。
ドイツの製薬会社の日本法人に転職した昔の上司が、事務所のシステム管理を任せる日本人を探していると声をかけてきてくれた。ウチの連中はみんなコンピューターを使っているくせにネットワークやPCのセッティングとなるとからっきしでねと上司は言った。遊んで暮らせるほどは出せないが住む場所と食うに困らないぐらいはなんとかしてやる。
そんな都合のいい話があるものか。ひょっとすると北村が昔の上司に頼み込んでお膳立てしてくれたのかも知れない。それぐらいのことはしそうだ。それでもかまわなかった。とにかく日本を離れたかった。
十年はあっという間だった。
ハノーバーの見本市にやってきた日本人商社マン達とランチを取っている最中に香織からの電話を受けた。
北村が首をくくって死んだ。
三日後には日本に戻っていた。
葬儀は大雨の中、小さな寺で執り行われた。カリフォルニアの大学で情報工学を教えている栗原は戻ってこなかった。近親者だけの葬儀だ。初めて美幸に会った。まだ小さい美幸には悲しさがわからないのだろう、明るく振舞っているのが健気に思えた。が、それは賢治の勘違いだった。香織は美幸が生まれる直前から北村と別居していた。美幸は父親である北村と一度も同じ家で暮らしたことが無かった。ほとんど会ってもいなかった。美幸が悲嘆に暮れていたとしたらそれは年相応とは言えない演技力ということになってしまう。あっけらかんとした美幸の態度こそが年相応のものだった。事実のほうが悲しい。
会社の不祥事に絡んで死んだのだと、葬儀に参列していた親族の誰かが小さな声でささやくのを聞いた。大々的に葬儀をやらない理由はそういうことなのか。人に弱みを見せるタイプではなかったはずだ。
一緒に働いていた姿を思い出していた。口は達者ではなかったが人当たりは悪くない。頭の切れる男だった。一度決めてしまえば迷わず行動するタイプだが状況が変われば方向を変えることにも躊躇はない。即断即決。不言実行。そんな言葉が似合う。
会社を立ち上げるまでは栗原と三人でよく一緒に飲みにいったものだ。賢治の思い付きを栗原が形にし北村が売り込む、話が尽きずに昂揚した気分のまま朝まで飲み明かしたことは一度や二度ではない。
母親のことをひきずっていた学生時代より、三人で仕事をしたあの頃のほうが賢治にとって青春と言える時期だったのかもしれない。何もかもが充実していた。会社を作り上げ仕事を積み重ねていくことが面白くてたまらなかった。夢中だった。
香織の採用も三人で決めた。面接が終わってから、俺のタイプど真ん中だよと大騒ぎする北村を見て、栗原も賢治も、それなら採用決定だなと無邪気に笑った。
自分の知らない闇を北村はいつから抱え続けていたのだろうか。香織と別居していたことすら知らなかった。
別居の理由は賢治には思いつきもしないものだった。
美幸を賢治と香織の間の子どもだと思いこんでいたのだという。疑いを抱き始めてからは何を言っても無駄でしたと香織が言った。
日本にいない賢治の存在にずっと苦しめられ続けていたのだろうか。なぜそんなつまらない間違いが生まれたのか。なぜその間違いを拭い去ることができなかったのか。何もかもが馬鹿馬鹿しく、ただただ悲しい。もし自分が日本から逃げ出さずにいたらどうなっていたのか。北村は死なずに済んだのか。
何も変わらなかったのかもしれない。何かを変えるために必要なことを知らずに人は生きている。必然も偶然も無い。わかっていないだけだ。
北村は勝ち、得た。自分は負け、失った。北村は求めた。自分は捨てた。自分が受け入れたくなかったものが何なのか、今ならよくわかる。北村が求めていたものが何だったのか、それもよくわかっている。あの時はわからなかった。
葬儀の後、メールが届いた。アドレスも教えていないのにいきなり送ってくるのがいかにも栗原だ。
久しぶりの日本はどう? オレはもう戻らなくてもいいぐらいこっちが気に入ってる。北村のことだけど、ひどい話を聞いた。あいつが金使い込むなんて考えられない。時が過ぎて人は変わる。だけどそこは変わってなかっただろ。そう思うだろ? 確かにあの会社自体でよくない話も聞いていた。メールって便利だよな。俺たちももう少しサイトじゃなくてメールのこと考えて商売してたら違ったかも。それはともかくさ、北村は色んなことを守ろうとしたんだと思うんだよな、俺は。抱え切れなかったんだろうな。俺たち、力になれなかったな。香織ちゃんは元気か。北村には大事にされてなかったみたいだけど、責任とってオマエが大事にしてやれよ。カリフォルニアに来れたら来いよ。じゃあな。
栗原らしい。
そうか。そう言われると少しは俺も何かしなければという気になる。でも、それは俺に家族を持てということじゃないのか。
考えたことも無かった。自分が新たに家族を持つということ。家族があるから不幸になるのだ。家族が無ければ不幸にはならない。ずっとそう思い続けていた。
香織と連絡を取った。渋谷で待ち合わせ、働いていた頃に通った店で飲んだ。父親の話を聞いた。病に倒れたことが耐えられなかった父親が自殺したこと。しかも、自宅で。
「見たのか」
「はい」
返事を聞いてはっとしたことがある。聞くのは怖かった。が、聞かずにはいられなかった。
「ひょっとして北村も?」
「いつもと違う電話があって。別れを告げるみたいな。何となく胸騒ぎがしたんです。だから美幸に留守番してもらってすぐに家に向かいました」
「見たのか」
香織は泣いてはいなかった。じっと、前を見つめていた。
「私、悔しいんです。二度も目の前で。何も通じなかった。何も伝えられなかった。生きていて欲しかったんです。ただ、それだけ。あのまま行ってもいつか北村とは別れたのかも知れません。でも、生きていて欲しかった。いえ、死んで欲しくなかった。私と美幸と別の人生を過ごすことになっても、生きていて欲しかった。たまにどうしてるかなって思い出したかったんです。今は何してるのかなって。もういないんです。今はいないんです。父を失くした時、思いました。最初からお父さんなんかいなければよかった。そしたらあんなお父さんを見なくても済んだのに。お父さんのことを思い出さなくても済んだのにって。でも、北村を失くしてよくわかりました。一緒に暮らしているかどうかじゃなかったんです、大事なのは」
香織は賢治を真っ直ぐ見つめていた。
「生きてること?」
賢治が聞いた。
「はい」
香織が答えた。
「家族だから。一度家族になってしまったらずっと家族だから、だから、生きていてくれるだけでいいんです。それが、よくわかりました」
「重いね」
その言葉に香織がうっすらと微笑んだかに見えた。
「そうですよ。すごく重い。だって生きていかなきゃいけないから。責任があります」
その夜、すっかり酔って半分意識を失くした香織をタクシーに乗せて送った。オートロックのマンションで香織に言われた部屋の番号を押すと、心配げな美幸がモニターに映しだされた。
「お母さんを連れてきました」
「少々お待ち下さい」
自動ドアのロックが解除される。香織を抱えて十二階でエレベーターを降りると、パジャマの上にダウンジャケットを羽織った美幸が待っていた。
「ママ」
美幸が香織に声をかけた。
「んっ?」
香織が顔を上げた。美幸に気がつくとすぐに母親の顔になって賢治から離れ、しっかりと立とうとした。駄目だった。ふらふらと膝をつく。
「ママ」
美幸がもう一度声をかけた。
「ごめん」
香織が言った。
「ありがとうございました」
そう言って美幸は賢治に頭を下げた。
香織が泣き出すんじゃないかと思っていた。当たった。両手で顔を覆い鼻をすすりながら小さく泣き始めた。
「ママ」
美幸がまた声をかけた。
「うん、ありがとう」
自分はこの場にいてよかったのか。どうしてこの場にいるのか。美幸と香織が堅く結ばれているこの場に。
よくわからない何かに巻き込まれることが、もしかしたら香織の言っていた責任につながるものなのかもしれない。家族だ。
「じゃ、おじさんはこれで」
エレベーターに戻ろうとした。
「ありがとうございました」
美幸がもう一度頭を下げた。
「お母さんのこと、ちゃんと部屋に連れて行ってあげてね、大丈夫?」
「はい。大丈夫です」
エレベーターのドアが閉まろうとする。香織が美幸に抱きつく姿が見えた。不安で、壊れそうな瞬間。賢治も酔っていた。エレベーターの「開く」ボタンを押した。閉じかけたドアが開いた。
谷中墓地の桜はいつが見頃なのだろうか。それほど遠くはない時期に、広い通りの両側の桜が一斉に咲き誇るのだろう。今はまだ、寒さの中でそれを想像するだけだ。
「今度は美幸も連れてきていいですか」
「もちろんだよ」
多分、同じことを考えている。
「ねえ、私、言ってないことがあるの」
いつもと違う香織の口調に少し驚いた。悪い気はしない。
「何?」
「怒らない?」
目が輝いていた。こういうところにやられる。
「だから、言ってくれよ」
「あなたのお父さんに、美幸の発表会にいらっしゃいませんかって連絡してあるの」
そういうことか。
「なんて言ってた?」
「わかりましたって。そう言ってました」
父親と過ごした時間はとても遠い昔に思える。連絡も取っていない。
「何年ぶりかな」
「よかった。怒られるんじゃないかと思ってた」
「いや、そんなことはない」
もうとっくに捨てたつもりだった家族は一度も捨てられることなく自分の中にあり続けていたのかもしれない。生き続けていればまた会える。それが、本当だ。
隣を歩く香織の手を取った。
一緒に歩いて行くのだ。
桜の季節に、美幸も連れてこよう。
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