第2話 デュランのワルツ

 緑が澄ました顔でピアノの前に座った。ようやくしっかりとペダルに足が届くぐらいになった。

「いい? 今度の発表会で弾く曲だからね」

 予想していたより確かなタッチで曲が始まった。

 本当に驚いた。あの曲だ。一度だけ聞いた、あの曲。タイトルも覚えていないというのに、曲の旋律が記憶の奥底に残っていた。すぐにそれとわかった。

 思わずソファに座っている聡子を見た。目を合わせた聡子は何も言わず小さくうなずいた。

 知っていたのか。そうか。

 広い体育館の天井から眩しく降り注ぐライトと、じんわり汗ばんだ手のひら。

 あの夏、二人は大学生だった。




 一番町の南の外れ、片平キャンパスの近くにある風呂なしキッチン・トイレ付きの木造アパートから理学部まで自転車で通っていた。夏になればできるはずの地下鉄も、南北に走る路線では広瀬川の西側に通うのには使えない。山がちな市内西部を行き来するには原付や車が便利だ。

 免許を取ったら世界が広がるのだろうかと思いながら丸三年、賢治は自転車に乗り続けていた。高校生の時に使っていたボロボロのロードレーサーを横須賀から輪行袋に詰めて夜行列車で運んできた。実家に置いて錆びさせてしまうのは忍びない。こっちで買ったほうが楽だったことに気がついたのはだいぶ後になってからのことだ。

 川内の教養部に二年、理学部へはさらに山道を上っていく。急な坂ばかりの横須賀と比べると仙台は随分と楽だ、と思う。仙台でバスを使ったのは、入試の時に駅からと入試を終えて駅までの二回だけだ。

 大学とアパートとアルバイト先をぐるぐる回り、たまに一番町の大きな本屋に行く。市内から遠くないと聞いている温泉にも海にも松島にも瑞巌寺にも、橋を渡ってすぐのはずのベニーランドにも、行った事は無い。何度か誘われたことはあった。バイトがあるからと断っているうちにそんな誘いもなくなった。

 アパートの近くでは一本違う道に入ってしまうといまだに迷う。数日前も何となく曲がった道で方向がわからなくなり途方に暮れてしまった。周囲をよく見ていない。だから、覚えられない。同じアパートの他の住人は三年の間にころころと変わっていった。学生風もいれば年をくった会社員風もいる。歩くだけでミシミシと軋む古びた廊下で軽く会釈をする程度のお付き合いしかない。

 毎日真面目に通っている大学でもそうだ。学部の同期であれば顔と名前は大体わかっている。新歓コンパや追い出しコンパにはいちおう顔は出す。友達付き合いは苦手だ。ひとりで苦にならないというより大勢だと落ち着かない。エンジョイ・キャンパスライフ、みたいな話は別世界のことだと割り切っていた。

 料理はともかく、掃除や洗濯がこれほど面倒だとは。一人暮らしの気分はそんな感じだった。それも三年も続けると惰性になる。コインランドリーでは本を読みながら待っているのが習慣になった。慣れてしまえばどうということもなかった。

 一度ひどい風邪をひいてしまった時は友達を作っておけば良かったと心の底から反省した。実家であれば親が面倒を見てくれるが、一人暮らしでは風邪をひいてもひとり。下がらない熱に心細さは募った。直ってしまえば忘れた。

 学校での付き合いを避ける理由は苦手な人付き合いの他にもあった。考えるだけで憂鬱な学費と生活費のことだ。仕送りだけで足りないことは最初からわかっている。将来のことを考えて丸々貯金に回していた育英会の奨学金は三年経つとそこそこの金額になっている、溜まってしまうと怖くて手をつけられなくなる。淡々とアルバイトをこなしながら不足を補う。遊びに行ってる暇などなかった。

 アルバイトも色々やった。家庭教師や塾講師も何度か試してみたが、やる気の無い中学生や高校生に勉強を教えるのは性に合わなかった。いや、性に合わなかったというよりは、あまりにうまく教えられない自分に嫌気がさしてしまったのが本当のところだ。求人誌で見つけた居酒屋のバイト、皆は仕事の後につるんで飲みに行ったり休みの日に遊びに行ったりするために稼いでいるそうだ。三日で辞めた。他人と話さなくてもいいだろうと始めた深夜のコンビニバイトは、日曜の早朝に必ずやってくる少年野球チームに負けた。

 試行錯誤の結果、アパートの近所の配送センターでのバイトに落ち着いた。何も考えずに荷物を上げたり下ろしたり。引越し先でも言われた通りに家具を運んだり。楽だ。本当に楽だ。バイトの給料日になんとなく皆で飯でも食いに行こうかと誘われることもあったが、勉強が大変なんで、と断り続けているうちにこれも誘われなくなった。ホッとした。

 正直、入る前は大学生活なんて気楽なもんだろうと思っていた。毎日勉強なんて生活は高校生までで終わり。親からの仕送りでバイトも適当に済ませてダラダラと過ごせる。そんな学生生活を思い描いていた。

 配送センターのバイト連中からは単なる逃げ口上だと思われていたが、勉強が大変だというのは、まんざら嘘でもなかった。講義の予習や実験の下準備など、予習復習は欠かしていない。遊んでいる暇などなかった。疲れていても眠くても、テレビも見ないで勉強をする。バイトのない日は文学部にある大きな図書館で閉館まで粘ることも多かった。図書館はアパートの部屋より快適だ。夏はクーラーがある。冬は暖房がある。勉強をするはずなのにカップのコーヒーを飲みながらだらだらと新聞や雑誌を読んで過ごしてしまう日もある。図書館でしか目にすることのないマイナーなグラフ雑誌を見てると時間はあっという間に過ぎていく。

 もう少し仕送りが多ければとは思う。が、実家から通える大学を受けなかったことで親から随分となじられたことを思い出すと、気軽に仕送りを増やしてくれとは言い出せなかった。家賃が安く済む学生寮に住めと言われたのも断っている。高校生の頃は大学に入ったら寮に住んでもいいかと思っていた。志望する大学を卒業した進路指導の教師にその話をしたら、あの大学の寮にはいまだに学生運動とかやってる奴いるから、経済的な事情はわかるけどよく考えたほうがいいぞと親身に忠告されてしまった。学生寮で過ごせば学費以外の生活費は奨学金で賄えるはずだった。かなり悩んだ末に学生寮には申し込まなかった。学生運動がどうこうとかいう話を親に説明してこれ以上複雑になるのも面倒だった。育英会の奨学金ももらう、大学の近所のアパートの方が通いやすい、アルバイトもする、それでなんとか押し通した。その結果が大学とバイト先を行ったり来たりの学生生活だ。

 その学生生活も残すところあと一年を切ろうとしていた。親から今度は就職をどうするんだと散々言われている。実家のある横須賀から通える首都圏の会社にしろと言う。うるさい親と同居するのは憂鬱だ。

 もうすぐ四年になるというのに、賢治はまだ自分がどこに就職するのか、何を仕事にしたいのか、まったく決められずにいた。早い奴はとっくに内定をもらっていた。青田買いの風潮が問題になっても、それが建前なのは暗黙の了解だ。アパートにも電話帳のような分厚い資料が嫌というほど送られてくる。地方とはいえ旧帝大、選ばなければ就職先に困ることは無い。どこかに就職はできるだろうと、あまり真剣に考えていなかった。

 就職ではなく大学院へ進む道も考えていた。親には伝えていない。教養課程の段階から専門の講義を取ることができる。思っていた以上にピタッとはまった。修士までなら進んでみたい。博士はまだわからない。就職するにしても、修士を終えてからでもいいんじゃないか。勤め先を決めあぐねていただけではない。高校の延長の単なる勉強から専門の研究への変化がはっきりと面白くなっていた。子どもの頃からなんとなくぼんやりとしか考えていなかった研究者という道、この大学ならその道を選べる。その環境も整っている。

 その気持ちをどうやって親に伝えるのか、それを考えると急に気が重くなる。いい案は浮かんで来なかった。




 四月にJRに生まれ変わったばかりの仙台駅の西側に仙台市の中心が広がっている。定禅寺通り、広瀬通り、青葉通りといった大きな通りが東西に走り、県庁や市役所などの官公庁や地元有力企業、百貨店や商店街もある。そのあたりの区画が整理されているのは戦時中に空襲にあったからだ。被害を免れた仙台駅の東側、鉄砲町や二十人町などいかにも城下町といった名前のついた一角では、いまだに細い迷路じみた路地が延々とつながっている。さらに東に抜けしばらく行くと港にたどり着く。

 仙台駅から西に進むとやがて広瀬川を越える。広瀬川の西にある広大な東北大のキャンパスを後にして山道を登る。険しい山道を登り続けると峻険な谷に出る。目のくらむ高さの橋を越え、聡子の住む八木山に至る。

 山の上の住民にとって、日常の足は車かバスかバイクか。免許の取れない中学生は自転車も使う。市の中心部に向かうのは下りだから楽勝だが、帰りの急な上り坂は延々と自転車を押すことになる。冬になって雪が降ると下り坂は命がけのコースに変わる。高校生になったら原付免許を取りに行く。男子女子問わずごく普通のことだった。聡子も十六歳の誕生日を迎えてすぐ、わざわざそのために貯めておいたお年玉で原付免許を取り、中古のスクーターを買って目玉のシールを貼った。

 スクーターでも雪の日の下り坂が危険なことに変わりはない。運悪く上り坂の途中でガス欠になってしまい必死で押し続けたこともある。それでも慣れてしまうとバスに乗る気にはなれなかった。高校までの通学にスクーターを使うことは禁止されていた。渋々バスに乗る。休みになると乗りたくなる。自由に風を感じるのが好きだった。

 子どもの頃からスポーツ漬けだった。スイミングスクールでは選手に選ばれ、毎日通った。全国の大会にも何度か参加した。意識が遠くなる寸前まで自分の力を出し切る。充実感のあとにやってくる敗北感。上には上がいる。嫌というほど思い知らされた。中学から始めた陸上でも県大会の常連になった。ここにも上がいる。全国まではどうしても届かない。高校ではソフトボール。一年生からレギュラーになって県大会にも出場した。けれど、二回戦を突破することはなかった。

 小学四年生の時、おたふく風邪にかかって学校とスイミングスクールを休んだ。暇で死にそうだった。父親が箱入りの立派な文学全集を買ってくれた。適当に読んでいるうちに、『ボートの三人男』という話にはまった。イギリス紳士、身近にはいない。何やってるんだろう、このひとたち。

 それ以来、本を読むのも大好きだ。部活の大きなバッグには必ず何冊か文庫本が入れてあった。練習が終わって一緒に帰る友達を待つ間、朝練に早く着きすぎてしまった時、ぽかっと空いてしまった時間。体育館の壁に背中を預け両足を投げ出して本を読む。練習疲れや日焼けでなかなか気持ちが落ち着かない夜も、本を読む。朝錬だから早く寝なきゃと思いながら、ついつい布団の中でページをめくる。

 大学生になったら本屋でバイトをしたい。憧れのバイトだった。入試を終えた足で求人情報誌を買った。一番町の、何度も行ったことのある大きな本屋がアルバイトを募集している。合格発表の日に電話した。「大学生?」と聞かれ、「合格しました」と、答えたら笑われた。




 連休は実家に帰るか、それとも仙台で自動車学校に通うか、賢治は悩んでいた。

 大学に入ってから正月とゴールデンウィークと夏休みには必ず帰省している。休みだからといって特にやることもない。実家に戻れば、少なくとも食事や洗濯は母親に任せてのんびりできる。

 今年は就職のことをグチグチ言われるに決まっている。地元の国立なら金もかからないところをわざわざ地方の大学に行かせてやったのにという父親のいつもの小言に加えてだ。そんな話をくどくどと聞かさせるぐらいなら免許を取るという口実で帰省しないほうがマシだ。

 3月から4月の引っ越しのシーズンにまとめて運送屋のバイトをしたおかげで、手元には久々にまとまった金がある。免許を取るか、それとももう少し貯めて夏休みに海外にでも行くか。大学生協の入口にベタベタと貼ってある格安海外旅行のポスターはいつも気になっている。それとも院に進んだ時のことを考えて手を付けずにいるか。

 数日前にも、ゼミの教授から聞かれている。まだ決めていないんですと、返事をするしかなかった。本当に決められない。免許がどうこうの前に、就職するのかそれとも大学院に進むのか、考えるのも面倒になっていた。

 大学生になっても実家で暮らし続けるのは嫌で嫌でしょうがなかった。親元から離れたい一心で無理をして地方に出た。まさか、そこで大学院に進みたいと言い出すとは。合格したと伝えた時の両親の驚きの表情を賢治は忘れることができない。少しも喜んでいなかった。父親が小さく舌打ちしたこと、母親がお金どうしましょうと言って目をそらしたこと、忘れてはいない。

 留年はするなと何度も念を押された。何度も念を押す両親を見ているとますますうっとうしい気分になる。そんなに金のことが気になるんだったら大学に行けとか言うなよな。

 そんな気持ちもあって、今さら大学院に進みたいとはどうしても言い出せなかった。

 実家に帰らずに過ごすならいっそのこと仙台で行ったことのないあちこちに行ってみるというのはどうか。パーッと、というほど大金ではないが、散財してみるのもいいか。松島で牡蠣とかどうなんだろうか。塩釜なのか。それとも女川とかあっちのほうだろうか。三陸にまで足を伸ばすのはどうか。

 すぐに現実に引き戻された。

 大学で必要な本の類は高額なものばかりだ。なるべく図書館で借りるか古本屋で探すかしているが、どうしても買わなければならないのもある。他の連中は先輩から譲ってもらったりもしているが、人付き合いが少ないのでそれも期待できない。生協で買えば割引といっても一割安くなるだけ。必要な冊数と金額を考えると焼け石に水だ。

 この春からしばらく大学の図書館は一部の改装工事だかなんだかで休館になるらしい。ということは、夏の間こちらにいたとしても快適な図書館ではなくクーラーの無いこの部屋で過ごさなければいけないということなのか。それはそれでツライ。

 先のことばかり考えて煮詰まった。

 よく晴れた土曜だった。どこか外に出て気分を変えてみるのも悪くない。

 特にどこと決めて出たわけでもなかった。こっちの4月はまだ肌寒いというのに、しばらく自転車を漕ぎ続けると背中にうっすらと汗をかいていた。いい気分だ。しばらく広い通りを走る。

 結局、少し戻っていつもの本屋に行くことにした。

 一番町のこの本屋に来る時は店の表ではなく裏の方の路地に自転車を停める。アパートからさほど遠くないからという理由だけでなく、大学の生協や図書館とは違う意味で落ち着いたこの店の雰囲気が気に入って、たまに来たくなる。

 背中が冷えてくるのを感じながらレジ前の平台に並べられた新刊の中から数冊を手にとった。今日はバイトも無いから本をゆっくり選べる。目にとまった本のオビに書かれた宣伝文句と内容紹介はなんだか刺激的だ。ページをめくって中味を斜めに読んでみる。そんなことを何冊か繰り返しているうちに背中の汗はすっかりひいていた。

 久しぶりに街の本屋に来てみると、何かこう図書館の広い空間でゆっくりというのとは違う意味で、読み応えのある、それでいてエンタティンメント性のある、そんな本を自分の部屋でじっくり読みたい気持がふつふつと沸いてくる。娯楽大作、そう、これでもかというぐらいの娯楽大作を読みたい。それもできるだけ長いものを。話題の新刊やベストセラーでも定番の名作でもなんでもよかった。フィクションでもノンフィクションでもどっちでもいい。とにかく夢中で読みふけってしまう本が読みたい。

 改めて考えてみると時間を忘れるほど夢中になって本を読むという経験が最近はほとんどなくなっていた。受験のために予備校に通い始めるまではそこそこ本は読んではいたつもりだったがのに。

 小学生の頃に夢中になって読んだのはドリトル先生やシートン、ファーブル、アーサー・ランサム。近所の図書館で借りて読む箱入りの全集物がお気に入りだった。

 中学の頃は科学読み物を中心としたノンフィクションを読み漁った。親戚からもらった段ボール箱の中から地球科学の本を見つけたのは中学二年の時だ。それがきっかけで理学部に進むとはその頃はまったく思っていなかった。

 高校時代の数少ない友人の金子は、海外の科学者が書いた定番の本を沢山教えてくれた。金子がそれらの本と一緒に勧めてくれたのがカート・ヴォネガット・ジュニアのSFだった。学校の図書館にあるノンフィクション全集を全巻制覇するつもりで読み進めていた賢治にしてみると、正直、SFにはあまり食指が動かず、強い勧めにも関わらず結局一冊も読まなかった。今となってみるとあれだけ熱心に勧めていたのにはそれなりの理由があったのかもしれない、そんな気もしてくる。これから買う本の候補に入れてもいいかもしれない。

 それでも読みたい本は なかなか 決まりそうにもなかった。以前に読んだ本をもう一度読んでみるかと思って作家順に並んだ文庫本の棚の前を何度行き来してみる。世の中には読んでいない本がこんなに沢山あるのかと、よく考えれば当たり前のことに感心したりしてみる。こんな有名な本も読んだことがない、でも外国文学は登場人物の名前を覚えるのが大変なんだ、ロシア文学とは特に、名前が覚えられないと話もすんなり入ってこない、歴史的な背景が理解できないと小説でも読むのは辛い、でもそういう本のほうがちゃんと読めた時ぐんと面白かったりする。棚の前を行ったりきたりしながらそんなことを考える。いつまで経ってもこれだという本を決められそうにもない。しょうがない、家にある本でも読み直してからまた出直すとするか。

 店の出口に向かってから急に思い直し、SFが並んだ文庫の棚に戻った。カート・ヴォネガット・ジュニアの『スラップスティック』を手に取ってみた。

 本には出会うタイミングがあるというのが金子の口癖だった。金子は東京の私大に進んだ。高校卒業以来、音沙汰は無い。大学でも読んでるんだろうか、本。

 近所の定食屋で食べてから部屋に戻った。敷きっぱなしの布団に転がって文庫本を読み始める。

 朝までかけて一気に読むなんてことは本当に久しぶりのことだ。とてつもなく面白かった。次は何を読もうか。

 でも、その前にちょっと寝よう。




 最近よくSF文庫の棚の前で思い悩んでいる学生と思しき男性客の姿を見かけた遅番の聡子は、その棚の辺りを大回りしてレジに向かった。熱心に本を探しているお客さんからのお問い合わせは思いもかけない無理難題だったりすることも多い。接客が嫌いなわけではないが、熱心さが募りすぎているきらいのあるお客さんの質問は避けたいと思うこともある。

 レジの中には店長しかいなかった。

「おはようございます」

 声をかけられるより先に聡子があいさつをした。

「おはよう」

 返事を返してはいたが、心ここにあらずという感じで何かを探している。

「何かお探しですか?」

「あ、いや、出版社から来たFAXを探してんだけどね。どこやっちゃったかなあ」

 新刊の書籍やベストセラー、マスコミで話題になった本などを紹介するために出版社から送られてくるFAXのことだ。そうしたFAXは不定期で送られてくるものも定期的に送られてくるものもある。中には毎日送られてくる手書きの有名なFAXもあった。

 来る日も来る日も膨大な数が送られてくるFAXや郵便物に目を通してこれはと思われる本を見つけ出すのも書店員の仕事の一つだ。まず店長が目を通して重要度を赤鉛筆でチェックする。それからそれぞれのジャンルの担当者が重ねてチェックする。店長がチェックした重要度のランクは最重要が花丸、これは担当者もその気ならレジ前か店舗入り口正面の新刊台、つまり店の中で一番いい場所の新刊台のどちらかまたは両方を使って複数の平積みを行なってもいいという印だ。店長が花丸をつけた本が売れなかったことは無かった。二重丸はレジ前か店舗入り口正面のどちらかを使っても良いという印。この場合は担当者の意向が大きく反映され、実際には元棚、つまりその本が元々置かれるはずのジャンルの棚での展開のみになることも多い。赤鉛筆の丸印は元棚で確実に平積みしておいての印。新刊の確保は担当者だけでなく店長にとっても大きな課題だった。特に地方の書店の場合は新刊の確保は死活問題だ。出版社の多くが東京にある。書籍や雑誌の流通も東京を中心に組み立てられている。だから、店長が血眼になってチェックするのは、地方の書店で新刊を確保し売上を確実なものにするためには必然と言えば必然なのだった。

 その店長がそれだけ必死になって探しているということは、かなり大事なFAXなのだろう。

「わたしも探すの手伝いましょうか?」

「あ、いや、それよりちょっとここのレジ見ててくんない。事務所の方も見てきたいから」

 一人でレジに入るのは嫌いじゃなかった。どうせ、もうしばらくすると他のアルバイトか社員がやって来る時間だった。

「木村君が来るまでよろしく頼むわ」

 木村君という男性社員は遅刻の常習犯でもある。

「ところで店長、何のFAX探してるんですか?」

「いや、河出のサラダ何とかってタイトルの短歌の本なんだけど、ちょっと気になってさ。さっきレジでチェックしたつもりなんだけど、どこやったかなあ、見つからないんだよね。事務所にありゃいいんだけどね」

「短歌、ですか」

「うん、そう。なんかでもね、ちょっと新しい感じなんだよね。気になっちゃってさ」

 聡子の訝しげな顔を見て店長が言い訳気味に言った。

「わかりました。私も見つけたらお知らせします」

「うん、よろしくね」

 案の定、時間を過ぎても木村さんは来なかった。聡子が一人でいるこのカウンターはメインのカウンターから離れたところにあり、客が混みあう平日の夕方からと土日だけ社員とバイトの二人で開ける。店長は木村の代わりにレジに入ってくれるつもりだった。このままだと木村が来るまではずっと一人でレジに立ち続けることになる。幸い客が来ないので聡子はせっせとカバーを折り続けていた。

 ぶつぶつ言う声が聞こえて顔を上げた。さっきの客が首を傾げながら何かつぶやいていた。一瞬どうしようかと思ったが、避けられない。社員に振ろうにもその社員がいないのではしょうがない。なるべく普通に接することを心に決め、平静をよそおいながら声をかけた。

「ああ」

 客は少し外れた感じで声を出した。声をかけられるまで自分が独り言を話していたことに気づいていなかったようだ。

 客は賢治だった。

 賢治は思い切って店員に聞こうか迷っていた。なるべく声もかけたくないし声をかけられたくもない。洋服を買いに行ったりするのと違って本屋が落ち着くのは店員が声をかけて来ないからだということを賢治はよくわかっていた。

「そちら、お買い上げですか」

 賢治が手に持った本を目で示しながら聡子が聞いた。

「おっ」

 別の事を考えていたせいで賢治の返事はまたおかしな感じになってしまった。

 聡子は努めて平静を装っていたが、早く会計済ませて帰ってくんないかな、というのが正直な気持ちだった。独り言もそうだが、それからの反応がちょっと不気味、と思っていてもそんなことはおくびにも出さない聡子だったが。

「ああ」

 ええっと、オレは何を言おうとしてるんだ? そうだ、本の事を聞こうかどうか迷ってたんだ。

「すいません、本があるかどうか調べてもらっていいですか?」

「あ、本をお探しですか。どうぞ」

 何か考えている風だったのは在庫の有る無しを聞こうとしていたのか。そういうお客さんはけっこういる。聡子の気持ちは少し落ち着いた。

「何をお探しですか」

「いや、文庫の棚に揃ってない本があるんだけど、どこか他に在庫とかってありますか」

 賢治が手に持っているのは今日買うつもりのカート・ヴォネガット・ジュニアの『タイタンの妖女』だ。それはいいとして、次に買おうと心に決めていた『猫のゆりかご』がいくら棚を探してもみつからないのだ。

「申し訳ございません。在庫は棚にある書籍だけとなっております」

「いや、でもよく店員さんが棚の下とかから取り出したりしてませんか? ああいうところにあったりしないかなあと思って」

 足繁く本屋に通っていると店員が棚の下、ストック、から在庫を取り出して棚詰めしているのを見かけることも多い。どこにあるかはわからないがどこかにあると思われる倉庫から本を満載した台車、ブックトラック、を押してきて、その上で本を整理したりいった作業もよく見かける光景だ。だから、棚にない本でもどこかに在庫があるのではないかと賢治が思うのも不自然な話ではなかった。

 ちょっと困っていた。文庫の棚の下のストックに在庫があるかどうかは自信がなかった。自信があっても無くてもちゃんと調べないといけないのだが、あいにくレジにはひとりで空けるわけにもいかない。無難な対応を選ぶしかない。

「申し訳ございませんが在庫は」

「あ、そうですか。ならしょうがない」

「あの、ご注文いただければ出版社に在庫を確認いたしますが」

「いや、また来るんでいいです」

 お客さんは文庫本をレジ台に乗せた。

 そういえばこのお客さん、この前も似た装丁の文庫本を買っていた気がする。カート・ヴォネガット・ジュニアっていうのかあ。読んだことのない作家だった。

 淡々とレジを打ち、お釣りを乗せたトレイを前に置く。すっかり慣れた手つきでシオリを挟み込んでからカバーをかけて輪ゴムを回す。両手を添えてさしだす。

「ありがとうございました。またどうぞお越しくださいませ」

 お客さんに向かって頭を下げた。何かモゴモゴ聞こえたのはありがとうだったのかもしれない。腹を立てている様子は無かった。とりあえず、ホッと胸をなでおろした。




 棚に『猫のゆりかご』が無かったのは残念だった。それはそれとして今日買ってきた『タイタンの妖女』を読まなくては、と気ばかり焦る賢治だったが、風呂にも行かねばならない。賢治が通っている近所の銭湯は、よくある大きな日本家屋風の造りではなく雑居ビルの一階にある小さなものだった。狭い洗い場と数人しか入れない小さなサイズで普通の銭湯よりだいぶ深めの湯船が二つ。そのうちひとつはいつも漢方薬の匂いのする湯が張ってある。その漢方薬の湯につかりながら、ふと、院試のことを思い出す。もうすぐ4月も終わりだ。いつまでもぐずぐずと引きずっているわけにもいかない。

 帰り道、近所の手作りパンの店に寄って明日の朝に食べるパンと牛乳を買う。仙台に出てきてすぐの頃は仕送りやバイトのやりくりがうまくいかず、月末になると金欠になることも多かった。そんな時、このパン屋で何度もパンの耳を買った。大きい袋にたっぷり入って30円。それと水道の水だけで3日は食いつなげる。休日の前に金を卸すのを忘れてその30円すら財布にないことも何度かあった。銭湯にも行けずパンも買えず、不安で眠れないまま夜中の散歩に出た近所の公園のベンチで朝を迎えた夜もあった。

 幸いなことに、最近は少しは計画的にお金が使える。そう思っていた。仕送りが少ないことにもすっかり慣れた。慣れというのは怖ろしいもので、少しぐらい懐が暖かくなってもそれを使おうという気があまり湧いてこない。やりくりに慣れる前は部屋に帰るまでの途中にあるコンビニでもよく買い物をしていた。最近は前を通過するだけだ。

 濡れた髪のまま部屋に戻り、布団にもぐりこんで本を開く。一気に読み終えるつもりだったが布団に入って読み続けているうちに眠ってしまった。気がつくと朝だった。

 朝からバイトの予定だった。バイトをサボったことは数回しかないが、今日はちょっとサボりたい気分ではあった。実際、他の学生バイトは気軽に休んでいる。そんな気軽な感じのバイトだから長く続けられているのかもしれない。

 今日はどうするか。もう一度寝るか。このまま布団に転がって続きを読むか。それとも起きてバイトに行くか。

 自分の将来がどうこうということは全然考えていなかった。ただなんとなく、わずかな金額でも通帳に金が貯まっていたほうが落ち着いて一人暮らしができるということはこの3年間で学んだ。しみったれの両親が老後のことばかり言って貯金をしている気持ちも少しばかりわかってきた。テレビに映る景気のいい世の中の話は絵空事だ。地味な生活、それが現実だ。

 でも、悪くない。

 10分後、自転車のペダルを漕いで配送センターに向かっていた。




 4月も半ばを過ぎると引越しの件数がガクンと減ってしまう。配送センターで延々と荷物を捌いているよりトラックに便乗して引越しの手伝いに行くほうが楽だ。3月は引越しで随分稼がせてもらった。引越し先で缶コーヒーをもらったり直接お礼を手渡されたりすることも多い。一回目が早く終わると次は飛び入りで一日に二回、引越しに出向くこともあった。逆に荷物が多くて終わりの時間が伸びてしまうこともある。エスカレーターの無いマンションで5階までタンスを運び上げることもある。配送センターだと仕事に切れ目は無いが休憩は確実に取れるし終わる時間も正確だ。荷物が残っていても次の当番に任せて終了する。今日は引越しは無かった。久々の配送センターはきつかった。

 仕事が終わって事務所で待っていると、いつも何も言わずに給料を手渡してくれる事務のオヤジが珍しく声をかけてきた。

「おう、あんちゃん、酒は飲めるか?」

「え、ああ、まあ少しは」

「どうだ、たまには」

「え、ボクですか?」

「なんか用あんのか」

「いや、そういうわけじゃないですけど、ちょっと、大学の勉強とかあるんで」

「そうか、いや真面目によくやってんなと思ってな」と、オヤジは別に残念そうというわけでもなく、ただにやりとして言った。

「彼女か?」

「はい?」

「バイトして、終わったらさっさと帰ってなあ。可愛い彼女でも待ってんだろ」

「いや別にそういうわけじゃ」

 本を読みたいから早く帰るという雰囲気ではなかった。

「まあ、とにかく、たまにはつきあえや。今度また、な」

 オヤジが嫌味ではなくそう言ってるのは伝わった。

 事務所のオヤジ達は月曜日が休みのことが多い。ひょっとするとオヤジはおごってくれるつもりだったのかも知れない。それならそれでも良かったかもなあ、とは言うものの、もう断ってしまった以上とっとと帰る以外の選択肢はなかった。

 外に出てから窓越しに事務所の中を伺うと、タバコを加えながらこっちを見て手を振ってるオヤジがいた。賢治が気がついていなかっただけで、オヤジはいつもそうして手を振ってくれていたのかもしれない。自転車に乗ってから振り返って見るとオヤジはまだ賢治を見送っていた。何がなんだかよくわからなかったが、急に恥ずかしい気持ちになり賢治は慌ててペダルを漕ぐ足に力をこめた。角を曲がって大きな通りに出ると事務所はもう見えなくなった。




 連休が明けたらもう少し暖かくなることを期待しながらも連休中に稼いでおける5月のバイト代で革ジャンでも買おうかどうか迷いつつ今のところは二年物の既にだいぶ薄くなってしまったダウンジャケットで我慢しながらスクーターでバイトに通っている聡子だった。

 連休前の日曜日だった。日曜のバイトは早番のシフトで入ることにしている。

 バイクや車で通勤しているバイトや社員がいないわけではないにも関わらず、建前上はアルバイトの通勤はバスが原則ということで、社員やアルバイト用の駐車場や駐輪場はちょっと離れたところにしかない。面倒でもそこに停めるしかなかった。

 春休みの間は朝十時から夜五時までの早番でバイトに入っていた。大学の授業が始まってからはそういうわけにもいかず、夕方五時から九時までの遅番のシフトで入っている。

 久しぶりの早番だった。

 早番のバイトは社員を手伝って棚詰めや新刊出しの仕事をさせてもらえることもある。遅番のバイトはほとんどがレジ打ちだ。たまに手伝うことがあってもせいぜい店が終わってからの棚整理と売れた分の品出し、そうでなければ翌日の雑誌の品出しに備えて返品期限の近い雑誌の抜き取り、とか。そんな仕事でもやらせてもらえるのはまだましで、忙しい日はレジから離れる暇もない。そういう時に限ってカバーが足りなくなる。レジに入りながらカバーを折ることになる。

 カバー折りは苦手だった。自分では大雑把な性格だと思っていたが、カバー折りをしていると一度に大量の枚数を折った時に折り目が少しずつずれてしまうのが気になってしまう。聡子だけではなく、カバー折りが苦手な社員やバイトは他にもいた。もっとも、先輩バイトの鈴木さんや山中さんは他のアルバイトと無駄話をしながらお客さんの動きを眼で追いつつまったく手元を見ずに正確にカバーを折っていく。自分もいつかそんな神業の領域に達することがあるのかと思うと何となく嬉しくなる。名人とか達人という類の言葉の響きが好きだ。

 とにかく、今日は早番で、聡子はスクーターで出勤した。いつもの場所でヘルメットはスクーターのシートの横に留める。ハンドルロックした後、前輪にチェーンロックをかけた。

 本屋の社員の多くが腰痛持ちだなんてことはアルバイトをしてみるまで想像もしていなかった。一冊一冊の本の重みはそれほどではなくても大きな段ボールに詰めて抱えたりするとその重さに驚く。台車やブックトラックを使うとは言っても、荷物の上げ下ろしは腰に来る。アルバイトにはいいけど本屋の社員になるのは考えたほうがいいよ、と聡子に忠告してくれる社員がほとんどだった。アルバイトをしている姿はともかく、社員として働いてレジのお金を管理したり売上目標の数字で悩んだりしている自分を想像することは難しかった。聡子自身は大学を出てから本屋に就職して社員になるとか、そういうことはまだ考えたことがなかった。

 早番で入った日、夕方五時に遅番のバイトと交代するころには、すっかり足がむくんでいる。本屋の仕事は基本的に立ち仕事だ。聡子は若いからまだ平気だったが、冬靴のシーズンにはサイズが変わるぐらい足がむくんでブーツが入らなかったと嘆く女性社員も多い。男性社員でも朝と違って夕方には革靴が窮屈に思えてしまうこともあるそうだ。

 それなのに、ほとんどの社員は残業している。ついこの前までは残業代もしっかりついていたが、最近は早く帰れと言われている。そう言ってもみんな帰ってくれないんだよね、とぼやく店長が実は一番残業しているのは誰もが知っていた。

 アルバイトは逆に、鈴木さんや山中さんのように棚の担当を持っている古株を除くと、基本的に残業は無かった。

「ついこの前まではね、けっこうバイトも残業してたのよ」

 鈴木さんが教えてくれた。

「だから、山中君なんか休日出勤でほぼ毎日残業だったから、下手な社員より手取り多かったんじゃないかな。ま、今は違うけどね」

 古株のバイトが追い出されるという噂は常に流れていた。今の店長はともかく、前の店長とは二人とも折り合いが悪かった。

 一度、一緒にレジに入った時に思い切って鈴木さんに前の店長のことを聞いてみたことがある。

「あのオッサンのことはもういいの」

 それ以上深くは聞けなかった。




 時間通りに仕事を終えた聡子は、私服に着替えてから、気になっていた最近の新刊を社割で買い店を出た。やはり2割引は嬉しい。足のむくみも少しだけ忘れられる。

 聡子がスクーターを停めたのは賢治が本屋に来る時に自転車を停める場所のすぐ近くだった。

 本屋にやってきた賢治が自転車を停めたそのすぐ傍らで、聡子は朝停めた場所にスクーターがないことに気がついて慌て始めていた。本当に慌ててしまうとつい「どうしようどうしようどうしよう」と小さな声で繰り返してしまうのは聡子の子どもの頃からの癖だ。もっと落ち着きなさいと親にも学校の先生にも友達にも言われたのに結局直っていない。今、まさに慌て始めている。

 何度あたりを見回してもスクーターは影も形もなかった。いつもと違う場所に停めたのかもと思い込もうとしても、そうじゃないことははっきりと分かっている。盗まれたのかもと思うとますます何も考えられなくなってしまう。考えない。探したら見つかる、かも。

 でもどうやって?

 次に何をしたらいいのかがわからないまま、何度もあたりを見回した。

 たまたま聡子のほうを向いた賢治と目が合った。

 このヒトに聞いてみる?

 あの自転車には見覚えがある、ような気がする。わからないけど聞いてみる。

 普段の聡子なら知らない人に声をかけたりはしないのだが、今日は別だ。緊急事態だった。

「あのぉ、」

 聡子は賢治に近づいた。

 若い女の子が近づいてくるのに賢治は気がついていたが、ひょっとすると自分の後ろに誰かがいてその誰かに声をかけているという可能性もあるのではないか、いやむしろそうであってくれたらこんなに緊張しないのにと思いつつ努めて平静を装おうとしていた。

「あのぉ、すみません、いつもここに自転車停めてますか」

 かなり遠慮がちにそう聞いた。

「エッ、ああ」

 自分でもこれでは返事になっていないとは思ったが、じゃなんて返事すればいいんだ、こんな時。

「あのぉ、ワタシいつもここにスクーター停めてるんですけど」

 聡子はスクーターのあったはずの場所を指差した。

「知りませんか?」

「ハッ? いや、スクーター?」

「見ました?」

「エッ? 何を?」

「スクーター、ワタシのスクーターなんですけど」

「それが?」

「無いんです」

「何が?」

「ワタシのスクーター」

「が?」

「無くなったんです、停めてたら」

 ようやく話が見えてきた。どうやらスクーターを探すために声をかけてきたのだ。理由がわかると少し落ち着く。

「えっと、ここに停めてあったの?」

 逆に賢治が尋ねていた。

「そうです、いつもここに」

「まあ、スクーターは沢山停まってるからなあ」

 同じ話を繰り返しているようで、そうではなかった。さっきはただ声をかけられたことに反応していただけだ。今は、スクーターを探そうとしている。

 聡子の目から大粒の涙が一気にあふれ出てきた。泣き出すともう止まらなかった。

「ウァタシの、ウッ、スクゥータァーアがぁあ」

 そんなに大事にしていたつもりはなかったのに盗られたと思うと悔しいと言うより悲しくてたまらなない。

 いっつも気にしてなくてごめんね。もっと大事にしてなくてごめんね。そう思うとますます涙が溢れてくる。

「いや、泣かれても。警察には行った?

 あ、や、そうか。まだ探してたんだから行ってないよな」

 とりあえずこのままにして放っておくというわけにはいかない感じだけど、一緒にこのあたりを探すべきなのか。本当に盗られた可能性が高いんだったら、とりあえず警察に行くべきか。それとも無理に関わることも無いのか。

 横須賀の高校に通っていた頃、学校の帰りに寄ったスーパーの駐輪場で自転車を盗まれたことがある。停めてあったはずの場所のすぐそばに、力まかせに引き伸ばされて鎖の継ぎ目から外されてしまったチェーンロックが捨てられていた。自転車は一週間後に同じ駐車場で見つかったが、その間の情けない気分は今でも思い出したくない。

 そうか、あの時と一緒なら何かが近くに捨ててある。

「ねえ、チェーンロック、かけてた?」

 聡子が大きくうなずいた。友達に勧められてスクーター用のチェーンロックを使っていた。

「オレ、前に自転車盗まれたことあるんだけど、そん時は外したチェーンロックがそばに捨てられてたんだよね。だから、チェーンロックが捨てられてたら、盗まれてる可能性高いんじゃないかな」

 チェーンロックがあろうがなかろうがスクーターがないことに変わりはないのだが、探すものがはっきりとしただけでも聡子には朗報だった。

 今までウロウロしているばかりだった聡子の目は、まだ涙で曇ってはいたが、捨てられているかもしれないチェーンロックを探し始めていた。

「あー、オレ」

 賢治は言葉を飲み込んだ。それに続けて、本屋に行きたいからこれで、と言うつもりだったのに、違う言葉が出てきた。

「チェーンロック、どんなの?」

「普通のですぅ」

「いや、普通のって言われても、色とか」

「緑っぽいの」

「緑っぽい?」

「クルクルって回して数字合わせるところのあたりが」

 よくわからないがとにかく緑色のチェーンロックを探せってことか。

 犯人が目立つ場所に捨てているとは限らない。ちょっと離れた場所、目立たない場所に捨ててあるかもしれない。いや、その可能性の方が高いに違いない。

「わざと遠くに捨ててあるかもしれないよね、わかんなくするのに」

 賢治にそう言われるとそんな気もしてくる。聡子は米屋の角を曲がる細い路地に向かった。いつもスクーターを停めている通りよりもさらに人通りが少ない道だ。雑居ビルの陰になって少し薄暗い。米屋から漂ってくる籾殻の匂いがより一層強くなった。米屋が配達に使っているバイクが二台止まっている。

 その向こうに、見覚えのあるスクーターが停まっていた。

 聡子が大声をあげた。

 その声を聞きつけた賢治が走ってきた。聡子の目からはまた涙が溢れていた。

「ありましたぁ」

「え、何が?」

「あそこに」

 聡子が指差した先にあるのは大学の構内でもよく見かける目玉のステッカーを貼ったスクーターだった。本人が指差して泣いているんだから間違いないんだろう。

 近付いてよく見るとスクーターにはなぜかチェーンロックがかかったままだった。

 誰がどうやって前輪の動かないスクーターをここまで移動したのか。答はすぐに判明した。

「ああ、そのスクーター、アンタの」

 米屋の中から出てきたオヤジは申し訳なさそうな表情だった。親父が言うには、たまたま米屋の客のバイクが停められなくなって聡子のスクーターを動かしてしまったとのことだ。

「元に戻しときゃよかったんだけどすっかり忘れちゃってさ。わりいね。 盗られたと思って心配した? そりゃすまんかった。 」


「よかったあ」

 聡子の涙はなかなか止まらなかった。

「本当にどうもありがとうございました」

 賢治に何度も頭を下げると、慌しくヘルメットをかぶり走り去っていった。

 展開の早さとあっさりとした感じに若干拍子抜けした賢治も、特に何と言うこともなく見送った。

 考えてみると、盗まれたかも、とか言っていた賢治の予想は全く外れていたわけだ。

「なんか間が抜けてんなあ」

 独り言を漏らしながら、なんとなく今日は本屋に行くのをやめて自分もとっとと自転車に乗って部屋に帰った賢治だった。




 次の日曜日も聡子は早番だった。なるべく米屋から離れた場所にスクーターを停めた。オヤジと顔を合わすのもそうだったが、昨日探すのを手伝ってもらった学生風の男と顔を合わすのも気まずい気がしたからだ。

 ロッカールームでいつもの制服に着替えるともうタイムカードはギリギリの時間だった。

 早番だと朝礼があるが遅番の夕礼は数年前に廃止になったと聞いている。社員や他のバイトに会った時のあいさつは「おはようございます」。夕方でも「おはようございます」なのはおかしいとバイトを始めた当初は思っていたが、そのうちすぐに慣れた。

 店内には夕方からどっと中高生が増える。学生が持っているカバン、中でも部活帰りの学生が肩から下げた大きなカバンは平積みがびっしりと並べられた平台や絵本などが刺さっている回転塔の天敵だった。彼ら彼女らが通路を通る時に何かの拍子で平積みにカバンを引っ掛けて大崩壊を招いたり、友達との話に気を取られて振り向いた拍子に勢いをつけて回転するカバンが三角塔を倒したりすることは思った以上に頻繁に発生している。

 今、まさにその現場に居合わせた店長が、平台の一角を盛大に崩した中学生に「大丈夫ですよぉー、」と営業スマイルで声をかけながら慣れた手つきで平積みを積み直しているのが見えた。

 店長に声をかけようとした聡子だったが、店長のさらに向こう、文庫の棚のあたりを歩いている学生風の男がまさに昨日のあの男だと気がついて動きが止まった。

 まだ聡子に気が付いていない賢治は探していた『猫のゆりかご』を見つけ、一人で満足していた。昨日今日は久々に連続でバイトを入れていない休日だ。帰りにパンでも買って家でゆっくり読むとするか。

 レジに本を出すと店員から思いがけないことを言われた。

「昨日はありがとうございました」

 昨日?

 そう思って顔をあげると本屋の店員がこちらを見ていた。制服だからすぐに気がつかなかったが、よく見ると昨日スクーターを探して泣きそうになっていたあの子だった。

「ああ、どうも」

 盗まれてもいないのにチェーンロックがどうこう言ってたことを思い出してちょっと耳が赤くなった。

「昨日は本当にありがとうございました」

「いやいや、」

 オレは何もしていない。

「私、ここでバイトしてるんです」

「そうなんだ」

 じゃ、もしかしたら今までにも会ったことがあったのかも知れない。でも今までまったく気がついてもいなかった。

「よく来るんですか、このお店」と、聡子が聞いた。

「えっ、ああ、まあ、たまに」

 そういえば何日か前に問い合わせをしてた人だったかも知れないと聡子はうっすら思い出していた。

「ちょっと前に文庫本のお問い合わせいただきませんでしたか」

「ん、ああ」

 何のことだったっけ?

「棚に補充になってたと思いますけど」

「ああ、これ」

 賢治はレジに置いた『猫のゆりかご』を指差した。

「あ、はい。そうです」

 そうか、見つけられたんだ。よかった。

「この作家の本、よく読むんですか?」

「ああ、最近ちょっと」

「面白いですか?」

「うん、どうかな。オレは好きだけど」

 気がつくと綺麗にカバーのかかった本が両手で差し出されていた。

「ありがとうございました。またどうぞお越しくださいませ」

「どうも」

 賢治は手に持った本を持ち上げ、その本を軽く振った。ちょっと、顔を隠したつもりだった。思ったより耳が熱かった。




 結局、賢治は5月の連休中、実家に帰らずにバイトをしながらほとんど毎日本屋に通った。聡子も連休中は毎日早番に入った。賢治とはだいたい毎日レジで会った。その度、ひと言ふた言、最近読んだ本の話をした。連休が終わる頃には聡子もカート・ヴォネガット・ジュニアを読み始めていた。




 仙台で学生のダンスパーティーと言えば社交ダンスのことだった。

 ダンパは大学や専門学校の学生寮が主催して開催されるものが多い。講堂や体育館といった施設を使って開かれる。賢治の通っている東北大にはいくつも学生寮があり、それぞれが年に一度か二度のダンパを主催していた。ダンパの前には踊れない学生のために簡単な講習会も開かれる。講習会といってもダンパを主催する大学の学生寮やサークルの中のダンス好きが後輩に指導するといった程度のものだ。講習会ではワルツやジルバ、ルンバ、マンボの基本的なステップを教えてくれる。同好会に入っている一握りのダンス好きを除けば、ステップはすぐに覚えられる程度の他愛もないものだ。合コンには縁が無い学生の中にはダンパに行くのを密かに楽しみにしているのもいた。会場によってはステージ上で学生バンドが演奏することもある。アメリカ映画に出てくる五十年代の高校のダンスパーティーをだいぶおとなしめで控えめにした感じのイベント、それが仙台のダンパだ。

 入学以来、何度も何度も誘われては断ってを繰り返しているうちに声もかからなくなった、賢治にとってはまったく無縁のイベントだった。だから、聡子から本棚の陰でダンパのチケットを手渡された時は驚いた。本当に驚いた。

「友達からチケット預かったんですけど、そのチケット預けてくれた友達が行けなくなっちゃって」

「でも、オレ、踊れないよ」

「ワタシも」

 聡子は急いでレジに戻っていった。

 帰り際にレジのほうを見ると、聡子は賢治のほうを見ずに、でも賢治にだけわかるように、小さく手をふっていた。嬉しいけど照れくさい。賢治は下を向いて赤くなる顔を隠しながら店を出た。膝が少しだけ震えた。


 ダンパの会場は何の装飾もないだだっ広いホールで、奥には簡単なステージがあり、フロアの両側の壁にはずらりとパイプ椅子が並んでいた。

 始まる前に簡単な講習会が開かれていた。ぶっつけ本番でなんとかなるさ、と思いながらもどうしても不安が残ってしまう学生達のための最後の救済措置だった。踊りなれた社交ダンス同好会の学生達が緊張した面持ちの初めての学生達に声をかけて簡単なステップを教えている。一張羅のスーツを着て呆然としていた賢治も小柄な女子大生に捕まっていた。

「そうそう、じょうずじょうず。次は右足からこうぐるっと」

 女子大生はワンツースリーとリズムを刻みながらワルツのステップを踏む。予想以上の運動量だった。バランスを失いかけた賢治の足の間にぐいっと足を突っ込んでくる。女子大生の背中に触れた手のひらからも額からも、賢治の身体中から汗が噴き出してきた。

「おや、珍しい奴がいるな」

「牧野クン、牧野クンかい?」

 背中から声をかけられ慌てて振り返った。研究室の助手の大島さんと、やはり同じ研究室で同じ学年の向井が立っていた。

「牧野クンがどうしてここにいんの?」

 向井が不思議そうに賢治を見つめていた。

「あら、大島さんの知り合いなの?」

 賢治を教えていた女子大生は大島さんとは顔なじみだった。

「オレに断りもなくよくここに顔出せるな」

 と、大島さん。

「あ、牧野クン、気にしないで。大島さん、ふざけてるだけだから」

 と、向井。

 二人ともダンパに気後れしている様子はまったくなかった。

「オレはな、この女子大のダンパには毎年必ず来てるんだ。学生の頃からだからもう十年も通ってる」

 大島さんがなぜか胸を張っていた。

「ボクら、ダンスも嫌いじゃないけど本当は素敵な出会いを求めて来てるんだけど、正直さっぱりなんだ」

 向井とはあまり話したことが無かったのでそんな奴だとは思いもよらなかった。

「向井、お前は出会いを求めてきてるかもしれないがオレは踊りに来てるんだ」と、大島さん。

「大島さん、少し身体ほぐしておく?」

 さっきまで賢治の先生だった女子大生が大島さんを誘った。

「そうだな、ちょっとほぐしておかないとな」

 大島さんは彼女とちょうど始まったジルバのリズムに合わせて踊りだした。

 抜群にうまかった。

「それにしても、今まで誘っても来る気まったくなかったのに、なんで今年は来てんの?」

 どこかから飲み物まで持ってきた向井が不思議そうに賢治を見ていた。

「いや、ちょっと」

 賢治が口ごもっていると、増えてきた人ごみの中から聡子が手をふりながら近付いてきた。

「なるほどね」

 向井はメガネの真ん中を右手の中指で押し上げた。

「来てくれると思ってた」

 聡子の声が弾んでいた。

 アナウンスがそろそろダンパが始まることを告げていた。照明が徐々に暗くなり、フロアで練習していた学生達も思いおもいに散らばっていく。

「じゃ、あとで」

 友達の輪に戻った聡子は、また小さく手を振った。賢治は耳まで赤くなった。

 いきなり肩を強く叩かれた。賢治が振り向くと、大島さんが憤怒の表情を浮かべて仁王立ちしていた。

「あんな可愛い子。オレが許さん」

「牧野クンいいなあ。ボクもあんな素敵な彼女、見つかるといいなあ」

 その向こうで向井が言った。

 一同が椅子に座るのを待って会場のアナウンスがダンパの開会を告げた。

「いいか、踊らない女は壁の花だけど、踊らない男は壁の染みだからな。お前らとっとと踊ってこい。畜生、オレも踊るぞ」

 大島さんはと向井はフロアに飛び出していった。賢治はその後についていった。足元ばかり見ていた。

 暗いフロアで顔を上げた賢治の視線のその先に、聡子が座っていた。賢治が来るのを待っていた。

 ダンパでは左手を差し出してこう言うのだそうだ。ついさっき教わった通りにやろうとしても声がなかなか出てこなかった。

「踊っていただけますか」

 その左手に右手を差し出し、軽くうなずきながら、聡子はゆっくりと椅子から立ち上がった。

 三拍子のリズムに合わせ、聡子がリードしてステップを踏み始めた。

 なんだよ、踊れるんじゃん。

 心臓が喉から飛び出してくるかと思った。

 聡子の右手を持つ賢治の左手も、聡子の背中に回した右手も、また汗ばんでいた。

 それから二人はぎこちなく、ゆっくりと、何度も何度もつっかかりながら、それでもフロアを回って。足元を見ながら汗をかいて。たまに目を合わせて。

 自分が自分の人生の主人公なのかどうか、そんなことはわからない。でも、誰かの物語の背景でしかないはずなんてない。誰かの物語の背景でしかない人生なんて無い。いつでも、誰かが誰かを見つめている。いつか出会うこともある。そうじゃないこともある。

 広い体育館の天井から眩しく降り注ぐライトと、じんわり汗ばんだ手のひら。

 今この瞬間がいつまでも続く気がした。そんな気が、確かにした。

 ダンパが終わるのとほぼ同じタイミングで大島さんに捕まった賢治はそのまま研究室の連中が集まっている居酒屋に連れていかれた。そこで次の日のバイトにいけなくなるぐらいまで飲まされた。




 それから、生活が少しだけ変わった。

 大島さんには、仙台で暮らす大学生が免許を取らないというのは怠慢ということだと叱られ、蔵王での合宿免許の申し込みに生協まで連れて行かれたりもした。

 夏休みの間に免許を取って仙台に戻ると、大島さんが自分で乗っていた車を格安で譲ってくれた。が、本当にボロボロだった。よくエンストした。その度に暇な向井を呼び出す。スクーターに乗って現われた向井がエンジンをかけるとなぜか動く。

「もともと大島さんに車買ったらモテるぞって言われて僕が中古で十万円で買ったんだよね。でもさあ、車あっても出会いがないとダメだよ。だから大島さんに五万円で売ったんだよね。ボクも大島さんもその辺、全然わかってないと思うよ。そんなんだからいつまで経っても牧野クンの彼女みたいな可愛い女の子と出会えないんだよね。ツライよね」

 その車に乗って聡子と二人で松島にも行った。日本三景、島だね、と賢治が言うと聡子は噴き出していた。風が気持ちよかった。

 バイト先のオヤジにまた声をかけられた。

「おう、若いのたまにはどうだい?」

「すみません、彼女と約束あるんで」

「じゃ、しょうがねえなあ。頑張れよ、若いの」




 研究室の芋煮会も松島だった。鍋を囲んだ夜、紅一点の里中さんから、牧野クン彼女いたんだ、とちょっぴり悲しそうに嘆息され、それを見た大島さんからは、どこまで本気かわからないが、オレの里中には手を出すな、などと絡まれたりもした。向井によると大島さんはかなり里中さんに入れこんでいた。

「そのわりに本人にそういうことは言わないんだけどね。大島さんっぽいよね」

 大学院への進学も大島さんに相談した。強く勧められた。結局、親には何の相談もせずに一年留年してから改めて院を受けた。聡子が大学を卒業するまで仙台にいたかった。そんな理由、親には絶対に言えなかった。学費のことは心配するなと親には電話で伝えた。

「そんなことは気にするな」

 意外なことに留年したことを父親はまったく責めなかった。大学院に進むことを聞いて態度が変わった。学者になるのが父親の子どもの頃の夢だったそうだ。後になって母親から聞いた。

 大島さんが紹介してくれた予備校の講師のバイトのおかげで院を卒業するまで金に困ることもなくなった。運送センターでの最後のバイトの日、バイト先のオヤジにおごってもらった。焼肉の後に冷麺を食べた。




 聡子は卒業するまでずっと本屋のバイトを続けた。足繁く通ううち、店長ですら賢治が来ると聡子を呼んでくれるほどになった。そのまま本屋に就職するかどうか迷った聡子だったが、親の勧めもあって地元の銀行に就職した。就職祝いの夜、店長と山中さんがおめでとうと言いながら少しだけ泣いていたと、鈴木さんが後からこっそり聡子に教えてくれた。

 賢治は大島さんが私大の助教授に転進することで生まれた助手の空き枠に応募し、大島さんの推薦が効いたのか、それとも運なのか、ともかくなんとか採用された。助手の給料だけじゃ結婚できないぞと大島さんからは散々言われた。確かに予備校講師より苦しいぐらいだった。それでもその三年後、賢治と聡子は結婚した。

 家族が欲しいと聡子は言った。子供はすぐにできるものだと思っていた。生まれた子どもと三人で暮らすことを考えて間取りに余裕のあるマンションを借りた。広瀬川のほとりの、眺めのいいマンションだった。

 しかし、兆しはまったくなかった。それでも焦ることはないと思っていた。少なくとも賢治は。

 検査を受けたいと言い出したのは聡子だった。消毒薬の匂いのする病院の診察室で聞いた検査の結果、聡子には不妊治療が必要だということがわかった。

 五年間はあっという間だった。治療後の聡子の辛そうな姿を見て、もういいんじゃないかと言いたくなる気持ちを賢治は押さえ続けた。病院に行った後の数日は体調不良で仕事も休みがちになる。治療のことは聡子の会社にも同僚にも伝えていなかった。休みが増えていくにつれ職場の目も厳しくなっていく。賢治が東京の私大の助教授の口を得たのを機に、聡子は仕事を辞め治療に専念した。転居の前に何とかしたいと思っていた。

 そんなに無理しなくていいよ、と賢治は言いたかった。けれど、聡子の気持ちを知っている賢治には、言い出せなかった。




 緑が生まれた日、長時間の出産で疲れ切ってはいたものの、聡子はおだやかな笑顔を浮かべていた。そこに涙はなかった。ただただ、喜びだけがあった。

 出産から一週間後、何重ものタオルケットにくるまれた赤い顔の緑を抱いてマンションに帰ってきた夜、緑を部屋の隅に置いたベビーベッドにをそっと横たえ、柔らかな掛け布団をかけて寝かしつけた。口から自然に子守歌が出てきた。

 はじめは声を出さずに、次第に大きな声をあげながら、賢治の胸にすがりついて、聡子は泣いた。五年分の辛さも何もかも全てを洗い流すかのように、夜が更けても涙は止まらなかった。

 やがて朝日が部屋に差し込んできた。お腹を空かせた緑が、か細く、泣き声をあげた。その声を聞いて聡子が泣きながら笑った。




 「ミドちゃん、この曲はね」と、賢治が緑に話しかけるのを、口に手を当てた聡子がさえぎった。

「練習が終わってからね、パパ」

 聡子は覚えているだろうか。あの時、初めて踊ったワルツは確かこの曲だった。こんな踊りにくい曲を誰が選曲したんだろう。あの時は本当に何がなんだかわからなくなるぐらい緊張して背中まで汗だくになった。踊るというよりは聡子につかまってぐるぐると回っていただけだ。けれど、この曲は耳に残った。

 いや、本当は今になって聞くまで忘れてた。

 聡子が椅子に深く座り直し、賢治を見ながら右手を前に差し出していた。あの日、椅子に座った聡子が賢治が差し出した左手にその手を乗せた時のように。

 ずっと覚えていたんだな。

「どうしたの、ミドちゃん」

 緑の手が止まっていた。

「パパとママ、なんだか嬉しそう」

 賢治と聡子は顔を見合わせた。

「ちょっとね、素敵な話なんだ」

 賢治が言った。

「そう。でもそのお話は後で。昨日、先生が教えてくれたところ、ちゃんと覚えてる?」

「うん」

「じゃ、もう一度」

「はーい」

 まだ拙くても音楽を感じさせる何かが三人を包み、部屋の中をゆっくりと満たしはじめた。

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