ピアノ  発表会で、なに弾こう?

澄川三郎

第1話 コンスタント・ベイス

 テーブルの上に去年までの発表会のプログラムと何冊もの楽譜が広げられていた。

「お、今年もそろそろ発表会の選曲の季節か」

 スーパーで買い物をしてきた良明が、頬杖をついて楽譜を眺めている美紗子に声をかけた。

 ベランダに面した窓の手前に置かれたグランドピアノの蓋の上にも楽譜が散らばっている。

「今年も大変なのよ。もう決まってる子はいいけど。まだの子がいるから」

 美紗子は軽くため息をついた。

 発表会の選曲は毎年恒例の悩みのタネだ。習いに来ている子ども達それぞれの進度に合わせるのはもちろん、聞き栄えや親の要望も考えなければいけない。弾きたい曲を持ってくる子も多い。本人の希望はなるべくかなえてあげたいというのが美紗子の気持ちだ。

 とはいうものの、極端に易しい曲を持ってこられても困る。自信がないのがわかるだけに複雑な気持ちになる。逆に自分の弾けるレベルをはるかに超えた難度の曲を得意満面の表情で持ってくる子も。親や本人が今の力をわかっていないことを思い知らされてこれはこれで憂鬱な気持ちになる。それでも、挑戦したいという心意気だけはなんとか生かしてあげたい。

 だから、弾きやすくアレンジもする。移調したり音数を減らしたりして楽譜をパソコンで浄書する。そこから先はいつもと同じことの繰り返し。練習してこない子は練習してこない。発表会までに完成できそうにないなら曲を変えることもある。心を鬼にするしかない。そんなことを、もう何年も繰り返してきた。

「発表会の時期が近付いてくると雄大君のこと思い出すなあ」

 買い込んだ野菜が次々と冷蔵庫にしまいこまれていく。

「雄大君ねえ。格好よかったのにね、ギロックの『コンスタント・ベイス』」

 美紗子は遠くを見るように目を細めた。


 三年前の発表会、少し大きめの坊主頭のお兄ちゃんが照れながら登場した。客席へのお辞儀もそこそこに、椅子は前の子の使った低い高さのまま、調節もなにもせずに腰を下ろす。躊躇なく弾き始める。

 ジャズなのか。ざわついていた客席の空気が一変する。勢いのあるフレーズと左手で刻むベース音。何より本人が乗っている。クラシックとは明らかに違うスイング感。弾いている間は夢中だったのに、最後の音を弾き終えて顔を上げるとまた照れていた。


「でもねえ、あの年が最後の発表会だったのよね」

「お爺ちゃんにはだいぶ褒められたんだろ」

「そうなのよ。お爺ちゃんに格好いいって言われたって。ピアノ弾いてお爺ちゃんに褒められたの初めてだって喜んでたわよ。本人も満更じゃなかったと思うのよねえ」

 美紗子は残念そうに首を振った。




 初めて教室にやってきた日、妹の裕香ちゃんと一緒に連れてこられた雄大君は部屋の中をうろうろしながらピアノの方をあまり見ようとしなかった。裕香ちゃんは幼稚園の年長、雄大君は小学三年生。美紗子が鍵盤に触れると、雄大君はその度に立ち止まる。帰る間際にキラキラした目で、ちょっとだけ弾いていい、と聞いてきた。

 興味がないのではなく興味津々なのだ。美紗子はかまわなかったが、お母さんが、あんたが習いに来るわけじゃないのよと止めた。男の子がピアノを習いたいはずがないと思い込んでいる親もいる。雄大君のお母さんも最初はそうだった。

 普通なら体験レッスンは一度だが、裕香ちゃんのお母さんは電話でもう一度頼んできた。二回目の体験レッスンにも雄大君はついてきた。この子も習いたいとか言い出しちゃって、こんな坊主頭でねえと、お母さんは明るく笑った。雄大君は照れくさそうに頭をかいていた。

 ある程度の年齢になってからピアノを始める子は、やる気を溜め込んでいることが多い。その分、弾ける嬉しさに勢いがついてしまえば一気に伸びていく。そんな子を何人も見ている。雄大君もそのひとりだった。

 習い始めてしばらくは触っているだけで楽しい。そのうち、うまく弾けないもどかしさに気づき、とまどう。もどかしさの理由は、教えている美紗子には見えていても、子どもには見えていない。理屈で教えてどうにかなるとは限らない。遅く始めた子どもたちは、自分で弾けるかどうかはさておき、弾きたい曲のイメージを漠然と抱いている。だから、もどかしい。練習でなんとでもなると繰り返し伝える。年の数に二つ足した数だけ練習してごらんなさい。五歳なら七回、八歳なら十回。

 繰り返し練習することで壁を越えていく。弾けるまで弾くことだけが弾けるようになるコツだ。近道は無い。

 ただし、無闇に練習をするだけでいいということでもない。間違った方法で練習しても意味は無い。自己流で変な癖がついてしまうのも怖い。それと、そもそも練習をきちんとこなすためには確実な下地が必要だ。

 だから、ソルフェージュにも力を入れていた。絶対音感を望む親は多い。そのためにも楽譜を早く正確に読む力を付けることは不可欠だ。小さな頃から始めた子どもは楽譜を読むことが習慣になっている。そういう子どもと比べると、遅く始めた子どもは総じて楽譜を読む速度が遅い。身体で覚えるだけでなく考えながら頭でも理解する。そうやって少しずつ進めていく。

 五線譜上の音符を追うのが苦にならなくなるまで読譜のスピードを上げる。そこまでやって初めて余裕が生まれる。指も追いついてくる。読める自信は弾けそうという気持ちにつながる。技術は追いつかなくても、弾きたい曲が増えてくる。それは悪い兆しではない。

 テレビドラマやアニメの主題歌、学校で歌っている合唱の曲、アイドルやスターの歌、ゲーム音楽、ボーカロイド、古い映画の曲。子どもは色んな曲を持ってくる。ピアノには向いていない曲も多い。

 そんな中、雄大君は違った。持ってくるのはどれもピアノ曲ばかり。本人もよくわかっていた。ピアノ曲が弾きたい。ピアノ曲が好きだ。

 学校の音楽室で嬉しそうにピアノを弾いていたら友達にからかわれて落ち込んだりもした。からかった友達の一人が後からこっそり、すごいなと褒めてくれたらしい。めげた気持ちはちょっとしたことで元に戻る。

 めきめき上達していく雄大君を見てお母さんの目の色が変わった。

 雄大君のお母さんは看護士だ。お父さんは製薬会社で働いている。飛び抜けて裕福ということではないが生活に困っているわけでもない。それでもピアノを買うかどうかはかなり悩んでいた。

 習い始めて最初に買ったのは八十八鍵が揃っていないキーボードだった。雄大君はピアノを習い始める前からスイミングスクールと少年野球に、裕香ちゃんはスイミングスクールとバレエ教室に通っていた。スイミングスクールはともかく、野球とバレエは意外とお金がかかる。ピアノを習い始めてもすぐにやめてしまうかも知れない。だから、とりあえず安いので充分だろうと考えたお母さんは電子ピアノとも呼べないキーボードを選んだ。動かせるから置き場所にも困らない、そう思ったそうだ。

 雄大くんが物足りなく思うまでにさほど時間はかからなかった。

 雄大と裕香のためにピアノを買いますと言うお母さんの決意は固かった。ピアノを買うとなると家の中での置き場所も含めて考えることは色々ある。美紗子もピアノ選びを手伝った。空調の効いた大きな展示場に並んだ中から少しでも状態のいいものを選ぶ。美沙子も真剣だった。

 雄大君は毎日練習した。宿題を忘れるほど熱中してお母さんに怒られることもあった。それでも雄大君は大真面目に弾き続けた。

 その雄大君が、突然、ピアノを辞めるかもと言い出した。

 水泳のオリンピック選手になるのが雄大君の夢だった。そのために、スイミングスクールで選抜コースに選ばれなければならない。有名なスイミングスクールだった。そこで選ばれることは本当にオリンピック選手への道につながる。雄大くんも口では大きいことを言っても実際は無理だろうと思っていた。そんな矢先、コーチがもう少しで選手になれそうだと声をかけてくれた。選手に選ばれるためにはもっと練習しなければいけない。雄大君は悩んだ。野球は友達も一緒だから辞められない。それならピアノを辞めるしかない。真剣に考えた末の選択だった。

 お母さんは困ってしまった。学校のプール授業で困らなければ程度の気持ちで通わせていたスイミングスクールよりピアノを習わせたい。その気持ちを雄大くんにどうやって伝えたらいいのか。

 美紗子は口を挟まなかった。もともと、習いに来た子ども達に無理にピアノを続けてもらうつもりはない。趣味で弾くことについても何も問題はないし、辞めたくなったら辞めても構わない。常にそのつもりでいる。でないと、やってられない。

 そうは言っても、本当は、もう少し弾けたらもっと世界が広がることを伝えたい気持ちもある。広がった先の、そこにたどり着かないと体験することができない世界。その世界の一部を知っている美紗子には、手前で辞めてしまう子どもたちがもったいなくてしょうがない。あと少しを積み重ねるだけ。それだけなのに。

 お母さんが、猛然と反対を始めた。何があってもピアノを続けて欲しい。水泳を辞めてもいい。

 結局、その年の発表会までは頑張ることになった。発表会が終わったらピアノは終わり。そう決めたまさにその週に、雄大君はスイミングスクールの選手に選ばれた。

 発表会が終わって、目を真っ赤にした雄大君のお母さんが美紗子に頭を下げた。本当にありがとうございましたと。その横で雄大君も目を少しだけ赤くしていた。




「本人に満足感だけが残って終われたんだから、結果的にすごくよかったと思うのよね。やりきったっていう気持ちで終われることってないわよ、なかなか」

「そうだな。いい顔してたよ、雄大君」

「それでね、実は、続きがあるの」

「え、どういうこと?」

「来年高校受験だから、水泳は辞めたみたいなのよ。選手にはなったけど、大会で成績残すのは大変だったって。厳しいのね」

「まあ、厳しいけど、そりゃそうだろうな」

「裕香ちゃんによると、雄大君、最近はピアノ弾いてるって」

「あ、そうなんだ」

「本人は受験勉強の息抜きだとか言ってるみたいだけど、この前はショパンの楽譜、自分で買ってきたって」

「やる気満々だね」

「そう、だから、裕香ちゃんに、ピアノ弾きたいなら発表会に出てもいいよって雄大君に伝えてって言ったら笑ってた。出ないと思うって」

「残念だね」

「それがね、そうでもないみたいなのよ。この前お母さんにも会ったから聞いてみたの。そしたらお母さんは発表会だけでもいいから出させたいって」

「いや、それ、本人的にはどうだろうね」

「ダメかなあ。雄大君弾いてくれると男の子だし、目玉になると思うのよねえ。やっぱり発表会だけって無理かなあ」

「無理無理。無理だよ、それは」

「じゃ、かわりに」

「あのさあ、去年はつい乗せられたけど、今年はさすがに無理だよ」

 去年は美沙子に説得されてアコーディオンを抱えてステージに乗った。人生初の発表会。教えてもらったとおりに必死で指を動かした。楽譜もへったくれもない。とにかく指とタイミングだけ。

「えー、また一緒に何かやってよぉ」

「無理だって。それに今度もまた楽器買おうとか言い出されても困るし」

 アコーディオンを買うならと、つい言ってしまったのが去年の敗因だ。

「え、何か買うならいいの?」

「いや、だからそうじゃなくてさ」

「今度は小太鼓とかどう? ボレロやらない、ラベルのボレロ」

「延々と小太鼓叩くのかよ。いや、乗せられないよ、今年は」

 良明はしょうがないというふうに首を振り、立てていたまな板を取り出した。

「じゃ、晩飯はジャーマンポテトな」

「ありがと。よろしくね」

 シャープペンシルをくるくると回しながら美紗子はまた楽譜に向かった。

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