第4話 イージー・ウィナーズ
テーブルの周りを美紗子がうろうろしている。
「ねえ、ここに置いてあったはずの楽譜、見なかった?」
「さっき冷蔵庫の前に行った時に持ってたみたいだぞ」
良明はソファに寝転がって本を読んでいた。
「冷蔵庫?」
美紗子はいぶかしげな顔をしながらキッチンの冷蔵庫に向かう。
「あった! あったよ、楽譜。マグネットでとめてた。ありがとね」
手にはびっしりと書き込まれた楽譜があった。
「誰にあげた曲?」
「奈々ちゃんの曲、『エンターティナー』」
「ああ、『スティング』って映画の曲だ」
「その映画見たこと無いからわからないけど、ジョプリンは好きで自分でもよく弾いてたのよね。オクターブ届かないけど」
「オレ、高校の学園祭で実行委員やってた時、『スティング』の16mmフィルム借りて上映会やったことあるんだ」
良明が身体を起こした。
「なにそれ。そんなの初耳よ」
「オレも忘れてた。懐かしいなあ。弾いてみてよ」
「この楽譜は奈々ちゃん用にアレンジしてあるからオクターブ無くて簡単なのよね」
ほどなく、聞き慣れたメロディが流れ出していた。
「奈々ちゃん、ついこの前までアニメの曲とか言ってたのに、こんな曲を弾くんだ」
「そうよ、そろそろこういうの弾いてもらわないと。でも、ジョプリンの曲ってけっこうテレビコマーシャルで使ってたりするのよね。テーマパークでも使われてたりするし」
「え? テーマパークで?」
美紗子が別の曲を弾き始める。流れてきた一節に納得した。古き良きアメリカの町並みを模した場所で聞いたことのある、軽快でいてどこかアンニュイな、あの曲だ。
「んー、やっぱりちょっと音が悪いわね。今度の土曜に調律の田端さんに来てもらうことになってるから、パパ、その前に掃除お願いね」
「またオレがピアノの掃除するのかよ。どうしてお前は自分で掃除しないんだ」
「子どもの頃から嫌いなのよね、ピアノの掃除。何回も言ってると思うけど、母親に掃除しなさいって言われるのが嫌で嫌でしょうがなくって」
「自分の楽器ぐらい自分で手入れするのは普通だろうが」
「いいのよ、今はパパがやってくれるから」
発表会の曲は絶対にクラシックのピアノ曲にしてくださいという親がいる。モーツァルトやベートーヴェンでなければダメだという極端な親には、親自身が名前を聞いたことが無い作曲家でもそれなりのピアノ曲を勧めないといけない。
紹介できる曲のストックをなるべく増すために楽譜をどんどん買う。良明も止めなかった。楽譜はますます増えていく。
「ジョプリンはオクターブでガシガシ弾いたほうが聞き栄えするんだけど、菜々ちゃんはまだ無理よねえ」
美紗子の手も小さい。自分の手がこれ以上大きくならないこと。もっと難しい曲を弾くためには手が大きくなければいけないのに大きくならない、それに気がついたのは中学生の時だった。
「有名なピアニストはね、ものすごく手が大きいの。現代に近ければ近いほどそう。CからCまでなんかじゃなくてCからEとか、普通に届いちゃったりするのよね。男のピアニストが多いのって当たり前よね。そういう楽器なのよ。届かないならって指の間を切って広げたりする人もいるのよ。ワタシも考えたわよ。けっこう真剣にね」
「指の間はなんかやだなあ。痛そうって言うよりなんかこう、ぞわっと寒気がする」
「でもね、それまではコンテストで入賞したりもしてたし、どんどん難しい曲に進んでいたのよね。ある時から先生に、ちょっと溜息まじりで、無理だよねって言われて。最初は何のことだかよくわからなかったわよ。でも、ラフマニノフとか、もうどうやっても届かない曲とかあって、ああ、そういうことかって。ショックだったわあ。どんな曲でも沢山練習したら弾けるんだってずっと思ってやってたのに、どうやっても弾けない曲があるのよ。弾けなかったら弾けるまで練習するだけだって思ってたのに、指が届かないから練習もできないの。だから先生がため息をつくの」
「んー、俺はそこまで何か頑張ったこと無いからなあ」
「どうかなあ。私も頑張ってたって気はあんまり無かったんだけどね。練習するのって、なんていうか習慣だから。練習しないと気持ち悪いのよ。でも、どうやっても指が届かないは悔しかったあ。泣きはしなかったけど、腹は立ったわよ。誰にとかじゃなくて、これ以上広がらない指にね。マッサージするといいとか聞くといちおう試してみたりしたけど全然ダメだった」
「やっぱりオクターブ、けっこう大変なんだ」
「そうよ。手が小さいと大変。でも、洋子ちゃんなんか手が大きいの。うらやましい。洋子ちゃんには、いいなあ先生の手と取り替えてって言ってる」
「いや、そりゃ無理だよ」
「無理よねえ。でも本当に取り替えられるもんだったら取り替えてもらいたいぐらい。そういえばパパの手、すごく大きいよね。アタシ、手が大きい人と結婚しようと思ってたんだ。あたしの手が小さかったら、手が大きい人と結婚したら子供は絶対アタシより手が大きくなるからって。だからパパと結婚できてよかった」
「そうだったのか。オレは逆にさあ、ピアノがある家とピアノが弾ける奥さんに憧れてたよ。家でピアノ弾いてもらうんだって思ってた」
「じゃ、アタシと結婚できてよか ったじゃない。ていうか、あたしの手がもう少し大きかったら結婚してなかったかもね」
「そりゃ、色んな偶然があってここにいるのはお互い様だよ」
「お姉ちゃんもピアノ習ってたって言ってたじゃない。『楽しき農夫』とか弾いてたんでしょ」
「習ってたって言ってもおまえさんのを見てると全然たいしたことないけどな。『楽しき農夫』も、この前おまえさんが弾いたの聞いたら別の曲かと思ったよ。そうだなあ、『アラベスク』とかもそうだったし、『エリーゼのために』も、本当はこんな曲だったんだって感じかな」
「そう?」
「そう。ピアノ習いに行ってたけど、ほら、ウチの姉ちゃん、肩にちょっと障害あるから。ピアノだとうまく弾けないからって家で買ったのオルガンだったんだけどさ。オルガンだとピアノよりは楽に弾けるらしくて。オルガンで弾いてくれる『楽しき農夫』も、それはそれで嫌いじゃなかったけどね」
「オルガンはピアノより鍵盤軽いから」
美紗子は言葉を選んでいた。
「頑張ってどうにかなることとそうじゃないことがあるって。可能性は無限大だなんて気軽に言う人がいるけど、できないことってある。努力とか気持ちで変えられないことって確かにあると私は思う。手が大きかったらもっと色んな曲を弾きたいのよ。大きな手のヒトを見るとどうしてピアノ弾かないんだろうって思っちゃう。パパもそうよ、私にその手があったらって」
「でも、こうして教えてるじゃない」
心の奥深くにある繊細な何かに触れてしまったのかもしれない。良明も慎重に言葉を選んでいた。
「そうね。昔は教えるのなんてって思ってたけど、始めてみたら教えるのって意外と楽しいわね。高校生の時、倫社の先生が言ってた話をたまに思い出すのよね。できる奴はやる、できない奴は教える、オレはできないからお前らに教えてるんだって。なに言ってんのこの先生ってその頃は思ったけど、今になってちょっとわかる気がする」
「教えるのだって大変だよ。よくわかってるじゃない」
「そうね、大変でもあるのよね。ウチの発表会も今年で十回ってことは私ももう十年教えてるってことなのね」
「講師のための講座に通ったり指導者の資格取ったり色々やってるじゃん」
「家計の足しかどうかはともかく、意外と楽しいのよね。教材買うの大好きだし。そうそう、パパにまだ言ってなかったけど、この前また新しい教材買っちゃった。見て見て、今度は音符が木のブロックになってて、この前買った五線譜の書いてあるボードに乗せるとちょうどいいのよ」
居間の壁側には楽譜や教材の詰まった本棚と電子ピアノが並んでいる。窓の前にはグランドピアノ。小さな低いテーブルは美紗子が子供たちに読譜を教えるのに使っている。そのテーブルを見ていると、床にぺたりと座った子供たちが真剣な表情で五線紙に黒い丸や白い丸を書き込んでいる姿が見えてくる。
「教えるのは楽しいけど、大変、か」
「大変だけど楽しいのよ。だから、教えるのは止めないわよ。そう言えば、この前体験に来た子、来週から来るって」
「お、年中さんだっけか」
「そう。年中さん大変よ。また全部最初から教えないとね」
美紗子は笑いながら肩をすくめた。
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