3-6 辞め時
スーツの二人は酔いつぶれたポロシャツ、根岸を残して席を立った。
「山川くん、ごめんね。なんだか、根岸くん、荒れちゃって」
「根岸もさ、悔しいんだと思うよ。ガツガツしてたけど、ほら、ハングリーなとこ、昔からだよね」
二人は財布からほぼ同時にカードを取り出そうとして顔を見合わせた。二人ともカードを戻す。お互いの様子を確認しながら、ほぼ同時にそれぞれ万札をカウンターの上に置く。
「足りなかったらごめんね」
左手を顔の前で立てる。なかなか堂に入った仕草だった。
「いや、そんなに要らねえけど」
前掛けで濡れた手を拭き万札を返そうとする山川を二人は、まあまあなどと言って押しとどめた。
「山川くんも頑張ってるって分かってよかった」
「お釣りはいらないって奴だね。お互い大人になったってことだよね」
山川は動きを止めて中途半端に口を開ける。万札に伸ばした手は引っ込めた。
「残るのも地獄よ。私なんて親に言われちゃったもん、大丈夫なのかって。なによねえ、入った時は大喜びしてたくせに、債務超過だとか事業売却だとかなんだとかってニュースに出たら、手のひら返しちゃって」
女は眉をしかめ、口の端を歪めた。
「この前の希望退職でごっそり辞めたんだよね。あ、俺はその前に子会社に転籍だけどね」
男の笑いは乾いていた。
「根岸くんも実際は希望退職枠だから退職金割増なの。親の介護でって言ってるけど、まあ、それは本当にお気の毒だけど、辞めるには案外いいタイミングだったのかもね」
別に嫌味で言ってるわけでは無さそうだった。
「いやあ、そういうこと言っちゃいけないよ。辞めたくなかったって本人言ってたよ」
男も嫌味で言ってる風ではない。
「どうかなあ。わりとリアルに辞め時考えてたのかも。こんな沈みかけた船から逃げ遅れるぐらいならって。私でもそう思うもん」
「ま、それ以上は止めとこうよ。山川、ごちそうさま。焼鳥、けっこううまかった。店、頑張ってよ。ああ、あと、お二人さんにも、根岸がご迷惑かけてすみませんね」
男は笑顔のまま深々と頭を下げた。
「いや、別に」
男の見事なお辞儀っぷりにかなり感心しながら、浩人は笑って返した。酔っぱらいの言うことなど最初から気もしていない。それは本当だった。
「そういえば、タメ年の、葬儀屋さんって言ってたよね」
女が浩人に聞いていた。
「そうだけど」
「葬儀屋っていうか、葬祭業ってどうなのかなあ。絶対に無くならない仕事だし、お年寄りますます増えてるし、将来とかって、どんなもんなの」
「随分とストレートに聞くねえ。さあ、どうかなあ。先のことは俺にはわかんないなあ。ま、随分と変わってきてるからね」
「それはそうよ。どんな仕事だって変わってる。伝統工芸の職人とか一部のアーティストとかは別かもしれないけど、普通に世の中にある仕事って、特に最近はITの影響もあるけど、ものすごい勢いで変わってるじゃない。だから変わるのは大前提よ」
「んー、まあ、そうだけど、いいほうに変わるって話だけでもないから」
「それはどうかなあ。変わりたくないって話はどこでも聞くよね。でも変わりたくないって言ってても変わってるわけでしょ」
腕を組んだ女は考え込むように斜め上を見上げた。
「まあまあ、そのへんでおしまいにして。じゃ、俺たち、一足先に失礼します。山川、根岸にもよろしく言っといて」
山川は、背を向けたまま、おおだか、ああだか、とにかく曖昧に返事をした。
「じゃ、本当に失礼しますね。俺は会社に戻らないとあれだから」
笑顔は作っているのではなく、そういう顔なのだ。笑っているように見える顔。よく見ると疲れているのは隠せなかった。
「私も」
女は溜息をついた。
「え、こんな時間に?」
里佳がひっくりかえった声を上げる。
「普通、普通」
男の笑顔はやっぱり乾いている。女は笑っていなかった。里佳を見る目は心なしか冷たかった。
「で、どうすんの?」
浩人が独り言のように言う。
「あいつら帰ったか」
言ったそばから根岸が起き上がった。
「起きてたの」
驚いたのは里佳だけだった。浩人も山川も無反応だ。
「俺もそろそろ帰る」
カウンターの上の手にうつぶせに押し付けられた根岸の額が一部分だけ赤くなっていた。
「ああ、帰れ帰れ。聞いてた通りだ。お前の分の会計は済んでる。忘れ物すんなよ」
山川は早口だった。
「忘れ物? ああ」
あたりを見回した根岸はカウンターに無造作に放り出された財布をつかんだ。
「そして、もう二度と来るな」
引っくり返した焼鳥から炭火に油がたれる。大きな音とわずかに煙が立つ。
「また来るよ」
根岸は全然聞いていなかった。
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