1-8 国際電話
里佳の息はすっかり上がっていた。
「すみません、またお邪魔してしまって」
「何かお忘れ?」
村田麻子は里佳の再訪に戸惑っていた。
「いえ、私、謝らないといけないことがあって。あの、さっきは旅行のこととか聞いてすみませんでした」
里佳を見る麻子の表情はいぶかしげだった。真意を測りかねているようだ。
「あの、お身体のことよくわからなくて、失礼なことを伺って申し訳ありません」
「なんのことかしら」
本当に何のことかわかっていない様子だった。
「聞いたんです、私。札幌にすぐに行きたいのに、娘さんがいらしてからでないとおひとりで出かけられないって」
「あら、そのこと」
ようやく腑に落ちたようだ。
「そうねえ、身体が動いたらとは思うけど、しょうがないわよね」
「本当、すいませんでした」
「いいのよ、いいのよ。気になさらないで。娘もなるべく早く帰るって言ってるから」
「娘さん、遠くに住んでらっしゃるんですか?」
「海外なの。ハンガリー」
「ハンガリーって東ヨーロッパのですか?」
「よくご存知ね」
「はい」
顔を上げた里佳は得意満面の笑顔を見せた。
その笑顔を見て麻子が相好を崩した。
「あ、すみません、私また何か」
「いいのよ。気になさらないで。それより、ありがとう、気を使っていただいて」
麻子の目が優しくなっていた。
続けて麻子が何か言おうとした時、電話が鳴った。
「あら、ごめんなさい」
立ち上がった麻子は、左足の膝をほとんど曲げずにゆっくりと歩いた。左手は不自然な方向を向いたまま固まったように動かない。浩人の言った通り左半身がうまく動かないことが里佳にもはっきりとわかった。
思わず手を取ろうと近寄る。麻子は里佳が差し伸べた手を掴まなかった。小さく首を振り、時間をかけてひとりで電話までたどりついた。
わずかに間に合わず、電話は留守電の録音に切り替わる。モニターから女性の声が聞こえた。麻子は受話器を取った。
「もしもし、友香なの? うんうん。聞こえる。そっちは夜中? そうなの。ちょっと待ってね」
麻子は耳から受話器を離した。
「最近、右耳も遠くなってきて電話が聞こえにくいの。よかったら、代わりに娘の話、聞いてもらっていいかしら」
「あ、はい。喜んで」
里佳は麻子から受話器を受け取った。
「もしもし、あ、すみません。お母様の代わりにお話を伺います」
「あなたは、どなた?」
電話の向こうの声は戸惑っていた。
「あ、はい。私、田村里佳と申します。あの、代わりに」
「よく分からないけど、ちゃんと母に伝えてもらえる?」
「はい。間違いなく」
自分に言い聞かせるかのようにうなずいた里佳は少しずつ落ち着きを取り戻していた。
電話の向こうからはハンガリーの大雪の事情が伝えられてきた。鉄道などの交通機関はもちろん、主要な道路も通行止めになっているらしい。
「ニュースで見ました。とんでもない大雪なんですね」
「そうなの。私たちのいるトカイからブダペストまでは鉄道だとすぐなんだけど、しばらく動きそうにもなくて」
「トカイってワインで有名な、あのトカイですか? それだとブダペストまで鉄道で3時間ぐらいですか?」
「そうそう、よくご存知ね」
電話の向こうの声が驚いていた。
「はい」
里佳の声のトーンが少しだけ上がった。
「こっちにいたことがあるの?」
「いえ、私、旅行代理店で働いてまして」
潰れたという話はしなかった。言っても複雑になるだけだ。
「あら、ツアコンとか?」
「窓口です。国内だけですが」
「そうなの。そうそう、母に伝えて欲しいんだけど、なんとか車で空港まで動くつもりだけど、ヨーロッパ中が大雪だから多分トランジットも難しいと思うの。早くて2、3日、下手すると一週間以上かかりそうだって」
「わかりました。必ず」
真剣だった。
「クスヌム(ありがとう)」
友香の言葉は思わず漏れたものだった。
「シーべシェン(どういたしまして)」
里佳が応えた。
「あら」
電話の向こうの声が驚いていた。
「すみません、少しだけ勉強してまして」
「いいえ。嬉しいわ、マジャール語(ハンガリー語)に興味を持ってる人が母のところにいるだなんて」
「とんでもないです。本当、少しだけです」
「でも、誰でも少しずつ始めるのよ、なんでも」
「ありがとうございます」
友香の言葉が心地よく思えるのはどういうわけなのか、里佳にはよく分からなかった。深夜のヨーロッパにいる顔も見たことのない誰かと確かにつながっている。とても不思議な感じだった。
「あのぉー」
そんなことを言っていいのか、不安はあった。
「私、旅行代理店で働いていまして」
「ええ、さっき聞いたわね」
「あの、もしお母様がなるべく早く札幌にということであれば、私がお手伝いさせていただくというわけにはいきませんか」
「どういう意味?」
電話の声は戸惑っていた。
「私がお母様を札幌までお連れいたします」
言ってしまった。顔から火が出そうになっていた。
電話の向こうの声が途絶えた。
里佳は目を閉じた。失敗したと思った。
「そうねえ。ひとりで行くのは無理だと思うけど。でも、私が戻るまでは待ってて欲しいの。父が亡くなってしまって私がたった一人の家族だし。それにね、私も父に会いたいの」
「すみません、余計なこと言ってしまって」
電話の相手が言葉を丁寧に選んでいることは里佳にもよく分かった。それだけに、自分の唐突な申し出でが恥ずかしかった。
「飛行機や宿の手配があれば何でもお申し付けください。少しでもお力になれたら。すみません、よろしくお願いいたします」
「わかった。何かあったらお願いするかも。色々ありがとう。ちょっとだけ母に代わってくれる?」
「あ、はい。すみません、只今」
長い電話を終えた麻子に、里佳は何度も頭を下げた。
「すみません、私、すっかり長居してしまって」
「いいえ。ひとりだと静か過ぎて。それより、色々お願いしちゃってごめんなさいね」
「いえ、こちらこそ、すみません」
里佳はさらに深々と頭を下げた。
「いいのよ、気にしないで。どうしても行けないようなら札幌で荼毘に附してもらうよう、おたくの社長さんにはお願いしてありますから」
「おたくの、社長って?」
里佳は顔を上げた。
「あら、あなたの勤め先の社長さんよ」
「私の勤め先?」
何のことを言われているのか、里佳には全く身に覚えがなかった。
「あの、今日も一緒にいらしたでしょ、葬儀店の方。あなたも葬儀店の方でしょ?」
「あ、いえ」
思わず手を振った。
「ああ、すみません、私、あそこの葬儀店の人間じゃないんです」
「あら、どういうことかしら」
「葬儀店の方とはお知り合いで、今日はその、お仕事を少しだけお手伝いさせてもらおうと思って」
なんと言っていいのか、里佳はしどろもどろだ。
「あら、そうなの」
そんな里佳の様子を察したのか、麻子はそれ以上は聞こうとしなかった。
「あの、札幌に行く時に飛行機や宿の手配でお手伝いできることがあれば遠慮なく仰ってください。これ、私の携帯の番号です」
里佳は胸のポケットから取り出した手帳のページを破いて麻子に渡した。
「色々とすみませんでした」
麻子の返事を待たずに里佳はくるりと後ろを向くと急いで村田家を後にした。
また静かになった家の中で、麻子は一度大きく息を吐いた。お湯を沸かしているやかんの音だけが聞こえる。麻子は不自由な足で、ゆっくりとキッチンに向かった。
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