第4話 初陣。
予約なし、不意打ちでモデルルームを訪れた私たち夫婦の前に現れたのは、いかにも不動産屋の営業スマイルで現れたのは、30代前半とみうけられる男性だった。
「こんばんわ。突然おじゃましてすみません」私はいった。
「とんでもございません。ご訪問ありがとうございます」
ありきたりの挨拶から、私と営業マンの精神戦がはじまった。
まずは営業マンの出方をうかがうことにした。相手が口を開くのを待った。
谷口さんは、動機の確認をすべくこう切り出した。
「あかわいんさんは、マンション購入をどのようにお考えでいますか?」
「良い物件に出会えるのも、運、不運、出会いのタイミング。それ次第ですね。半分期待。半分勉強」私は正直に答えたが、それは先方の思惑とは意図が少々ずれていたようだ。中には、投資目的や資産運用、相続税対策の一貫として購入する方もいるのだ。
「もう、歳も歳なんで、生涯住めるところですね」こうして、セールストークの入り口を与えることにした。
「それでしたら、我が社の物件はあかわいんさんにとって最良だと思われます。ご説明させて頂きます」いよいよ美辞麗句がはじまるのだ。
この切り出し文句。客がなんと言おうともこの文言でスタートできるのだ。準備してある美辞麗句の順番を変えるだけで良いのだから。私は身構えた。
「その前に、いわゆる『家』ってどんな風にお考えですか?」
「家・・・・ですか? ホームって意味で?」いきなりの変化球にとまどった。
出だしは完全に営業マンの術中にはまっている。
「そうですね。『家族』が『安心』『安全』に生活できて『健全』に成長できる環境・・・ですね。ただ喰う寝るだけなら『ホーム』とはいえません。安心と安全を手に入れるには、それなりの経済的な事情も絡んできますよね。ですが、私にとってコストパフォーマンスは大事ですが、ステイタスは重要ではありません。格好で生きるわけではありませんから。身の丈を越えないことも大事です。コストにブランド価値が反映されるよりも、安心、安全にかかる方が価値を感じます」私はマズローの欲求になぞらえながら、自身の概念を伝えた。
「なるほどそうですね。安心、安全。もっともな考え方だと思われます。ではそこからご説明させて頂きます。まず我が社のマンションの構造ですが、あかわいんさんも記憶に新しいと思いますが、あの3.11の震災以降、購入検討者様は皆さん『免震制震』と言われます。一般的にマンションは戸建てよりも厳しい設計が必要となります。集合住宅ですから、様々な審査をクリアしないと建設にとりかかれません。こちらを見て下さい」担当さんは一枚の構造図を取り出した。地下深くまでたくさんの杭が打ち込まれている。「ご存知だと思いますが、江戸川区の液状化現象は・・・・この杭によって・・・・さらに・・・・・」長い長い安心安全が語られ始めた。
営業マンは時折ふたりの顔色を交互に確認しながら語った。興味をどこまで引いているのか、話の浸透具合はどうなのか確かめているようだ。残念ながら、あまり深くは聞いていなかった。そこで、もうひとつの安心安全に舵をきった。
「安心といえば、セキュリティーですね。あかわいんさんがご検討されているのは、1階ですね? 1階は空き巣のリスクが高いと思われているかもしれませんが、実は!統計的にはむしろ、高層階の方が高いんですよ。その理由は・・・・」営業マンは知識を広げる。これが、高層階検討者に対するトークならば、こんなことは言わないのだ。「我が社はあのセキュリティー大手と提携しておりまして、マンション建物内へは必ず施錠されたところを解錠してからでないと入れません。よく、ゴミ集積所や、裏口などは鍵のないところもありますが・・・・さらに防犯カメラを敷地内16カ所に設置。これは、同規模からすると平均の倍ちかい数ですから、万全です。だからといって、この地区が・・・」
延々と続くかと思われたセールストーク。顔にはだすまいと心がけていたが、隠しきることはできなかった。谷口さんは、営業マンとしてそれを感じ取れるだけの資質は持っていたようだ。
「近隣にお住まいですから、この辺の治安が良いことはご存知ですよね?」
「区内の中では最もしずかで、のどかなところですよね」私は相づちをうった。
「ええ。そうです。またここは江戸川区の・・・・日本全国で住宅地としては初めて『景観地区』として・・・・。この一帯は今後、景観地区の規定に基づき・・・・様々な建築制限を課せられますので、高い建物や、景観を損ねるような・・・・看板はおろか、家屋の色まで制限があるのですよ。江戸川区が世界に誇る・・・・親水公園・・・ですからずっとこの住環境は維持されます」ついに近隣マンションとの一番の差別化ポイントに切り込んで来た。
「だから高いんですか? おたくは明らかに他の物件と比較して、高いですよね?」私は美辞麗句に耐えきれず、価格に話題をしむけた。いつかは触れる必要のある話題ではあるが、それは営業マンにとってはまだ早すぎたようだ。苦笑いが漏れた。
「あかわいんさん。土地の値段はバブル前、バブル後で大きく変わっています。ですが、あることに関してはさほど大きく変動がないんですよ」そういって構造図を引き下げ、新たな紙をテーブルに広げた。折れ線グラフが描かれていた。「これを見て下さい。これは、この付近の分譲タイプの『家賃』の推移を示したものです。どうですか?13万から15万でずっと推移しているのがわかりますね。ですが土地は底値と上値では数倍も違うんです。合わせて、ローン金利も大きく変わっています・・・・・・・」グラフ図の上に、新しいグラフ図が重ねられた。
(こんなグラフの数値は好き勝手作れる。これに信用性があるかどうか)
「たしかにマンション購入は高い買い物です。ですが、あかわいんさんの現在の家賃からすると、たとえ急な事情で買ったマンションに住めなくなったとしても、賃貸として貸し出すことで、家賃の上では収支バランスは崩れません」営業マンは一気に経済的合理性を打ち出して来た。
(なるほど、資産運用でマンション購入を考えている人向けの資料とトークだな・・・こんな数値、資料には騙されたりはしない)
私は身構えながら、説明の中に矛盾点がないか探した。
「へ~そうなんですね~!」大きく身を乗り出して資料を覗き込んだのは妻だった。術にどっぷりはまったようだ。これまでの美辞麗句に加え、こんな初歩的な経済指標で騙されている。
うっかりしていた。気がつかなかったが、営業マンはトークの中に、細かく疑問系を盛込み、その度に妻の口から漏れる『小さなイエス』積み重ねていたのだ。
『小さなイエス』それはもっとも初歩的なセールステクニック。そういわれてみれば、「これだと安心ですよね?」とか「杭は深いほうがいいですよね?」とか「コンクリートは厚いほうがいいですよね?」とか妻に向かって問いかけていた。その度に妻は小さく頷きながら「ええ」と答えていたのだ。やられた。ここまで約1時間。かなりの数の『小さなイエス』が積上ったはずだ。営業マンははじめからそのつもりだったのだ。
『将を射んとば、馬を射よ』
初陣は営業マンに軍配が上がった。
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