「……」

 対峙する男は無言のままだった。

 男の見た目は四十代程度。少年同様豊かな黒髪を無造作に結びあげていた。右目の上に、生々しい傷跡がある。

「秀……人……?」

 少年の呆然とした声がした。

 男の肩がピクリと動く。

 少年は信じられないと言いたげな面持ちで、もう一度か細い声を絞り出した。

「秀人……どうして、ここに……」

「蘭様」

 男が声を発した。

 重みのある、低い声だ。

「説明はあとです。とにかく今はさがっていてください」

 男はあくまでも淡々とした口調で続ける。

 どこか機械的だとすら感じさせる口調だ。とても事務的で、必要最小限のことしか話さない。そんな印象を受ける。

「で、でも」

「さがっていなさい」

 少年の肩がびくりと震えた。

 男の声は落ち着いた口調のくせ、有無を言わせない迫力があった。そう、まるで――殺気にも似た迫力。

(――さすが、忍びってとこか)

 先ほどのことにしてもそうだ。

 感覚的には永遠のように長く感じたが、時間で表せば人を斬り捨てるのなんて一瞬だ。その一瞬の間に、ハルベルの剣を受け止め少年を守った。

 到底常人の成せる業ではない。それを、この男はいとも簡単にやってのけた。

(一筋縄ではいかねえってことか)

 自然、ぞわりと鳥肌が立つ。

「さて」

 剣を交えた状態のまま、男が話を切り出した。

「人質に取った忍びの場所、教えてもらおうか」

 ハルベルは薄く笑った。

「……嫌だといったら?」

 剣にかかる重みが、ぐっと強くなった。

「力づくでも」

 瞬間、ハルベルは飛びのいた。

 同時に男の剣がギュンと音を立てて薙ぎ払われる。

(あぶねぇ)

 あんな強い力で振り払われたら、態勢を崩しかねない。それどころか剣を弾き飛ばされる危険性だってある。

 飛びのいたのは反射的なものだ。今回はそれが役に立った。

 素早く剣を中段に構える。

 男との距離は剣が届くか、届かないかというぎりぎりの間合い。

 男は微動だにしない。間合いを詰めようともせず、ただハルベルの出方をうかがっている。

 先に動く気は、ない。そう告げているようにも見える。

(仕掛けるしか、ねぇ)

 ハルベルの足が、地を蹴った。

 ギィン――

 重い金属音が、響く。腕がしびれるような感覚が、一瞬ハルベルを襲った。

(強い)

 男はひどく冷静だ。

 とても冷静に、落ち着いてハルベルの攻撃を受けている。その腕前はいかほどのものか、調べている。

 ハルベルは素早く剣を体に引き付け、新たに太刀を打ち込んだ。

「なるほど、力はなかなかだ」

 言いつつ、男がハルベルの太刀を流す。

 その口調にも、表情にも、切迫したものはなかった。むしろ、余裕すら感じる。

「ちぃっ」

 足を撓ませ、一気に飛び上がる。

 ハルベルの蹴りが、男の顔面に飛んだ。

「……だが、すこし遅い」

 ハルベルの体が真横に吹っ飛んだ。

 男がハルベルの脇腹に蹴りを叩き込んだのだ。

(――速い)

 仕掛けたのはハルベルが先だった。だが、男はそれを上回るスピードでハルベルに蹴りをいれたのだ。

 まるで動きが見えなかった。こんなに至近距離なのに、動きを目で捉えることができない。

「休んでる暇はないぞ」

 目の前で、刃が白く閃いた。

 とっさに顔を引いたが避けきれず、頬に鋭い痛みが走る。

「……っ!」

 ハルベルは横に転がり、すぐさま飛び起きた。さらに飛びのいて、距離を稼ぐ。

「……さすがだな」

 息をすると、脇腹がずくりと痛んだ。

 そこで、自分がずっと息を詰めていたのだとようやく気付いた。

「君も、彪刃を捕まえるだけのことはある」

 男は至って落ち着き払っている。

 その冷えた頭で、いかにしてハルベルを始末するか、考えているのかもしれない。

「来ないのか」

 あくまで淡々とした口調で、男が言う。

 ハルベルはにやりと笑った。

「あんたに譲ってやるよ」

「……そうか」

 ハルベルの目には、男が小さく微笑んだように見えた。

「いい度胸だ」

 男の動きは例えるなら、風だった。

 気配もせず、音もせず、何よりも速く流れるように動く。そして、目には見えない。

 今の行動が、まさにそれだった。

 男は、一瞬で眼前まで迫っていた。

「……なに、してる」

 一時の沈黙の後、ハルベルがかすれた声を絞り出した。

 男の刃は、ハルベルの左胸にまっすぐ向けられていた。

 ただ、それだけだった。

「何で、殺さない」

 この男なら、できたはずだ。

 今の一瞬で、ハルベルの心臓を突き、殺すなど、造作もない。この男は、それほどまでに強い。そのはずだ。

「あんた、俺を殺せたのに、何で殺さない」

 男は、意外なほど冷めた目をしてハルベルを見ていた。

「……今更だが」

 その声も、何もかもが、冷めきっていた。

「わたしは殺生をすすんでやりたいわけじゃない」

「本当に……今更だな」

「機会を与えよう」

 そこで、気付いた。

 男の目は、声は、冷めきっているわけではないのだと。

 この男はただ、哀しみという感情に沈んでいるだけなのだと。

「逃げなさい。今なら、できる」

 ハルベルは密やかに吐息を漏らした。

「断る」

「わたしは、君を殺したくはない」

「それでも、断る。俺は別に好奇心のためにここに来たわけじゃねぇんだ」

 男の目が、すっと細くなった。

「……君は何のために、ここにいる?」

 不思議な気分だった。

 この男にならば、話してもいい。何故だか、そう思った。

「人を、探している」

 ぽつり、呟いていた。

「ある国のために、その人が必要なんだ」

「……」

 男は何も言わない。微動だにもしない。

 何を思っているのか。無表情の下で、何を考えているのか。

「――逃げなさい」

 男が、再度告げた。

 唐突に、剣が下ろされる。

「逃げろ。君は、そんなことで命を落とすべきではない」

 男の声には、何故だか切迫した響きがあった。

 男の手が、ハルベルの肩をつかむ。指が、肩に食い込んできて痛いほどだった。

「仲間を連れて逃げろ。今すぐにだ」

 ハルベルは眉根を寄せた。

「だから、俺は」

「そんな男、探しても何の価値もないといっている!」

 それはまるで、悲鳴だった。

 それほどまでに悲痛な声で、男が叫んでいた。

 しん、と沈黙がおりた。

「しゅ、秀人……?」

 それまで固唾を呑んで成り行きを見守っていた少年が、初めて口をはさんだ。

「秀人は……知ってるの……?」

 男の顔に、明らかな動揺が走った。

 素早く、ハルベルがその手を振り払った。数歩、後ろにさがる。

「……あんた」

 ハルベルが男の顔をまじまじと見つめる。

 男は髪も目も、双方黒く染まっていた。加えて、右目の上に傷跡があった。長い傷跡が、目の縁ぎりぎりまで走っている。

(こいつ、何と言った?)

 そう、確かに、そんな男、と言った。

 ハルベルはそんなこと、明言していないというのに。

「あんた、まさか」

 突如、慌ただしい足音がした。

 草をガサガサと掻き分ける音が、すぐそばでする。

「待ってくれ! 行ったら駄目だ」

「はなせ!」

 男の瞳に、狼狽の色が浮かんだ。

 すぐさま踵を返し、そこから去ろうとする。その動きは先ほどに比べて格段に遅かった。

 だから、ハルベルがその腕をつかむのは造作もないことだった。

「待て」

「……はなしてくれ」

「断る」

 ハルベルの紫の目が、鋭く光った。

「あんた、なんだな」

 男の腕にぐっと指を食い込ませる。強く、逃がさぬように。

 この男を、今ここで逃がすわけにはいかない。

「答えろよ」

「――父上!」

 ドッ、と衝撃が来た。

 少女の拳を、まともにくらっていた。

 だが、所詮は子供だ。いくらけた違いに強くとも、武器がなければ話にならない。

「いてぇじゃねぇか」

 ハルベルは少女に目を向け、薄く笑った。

 少女は怒りに肩を震わせ、拳を固く握りしめた。

「父上を、はなせ」

「やだね。俺は、こいつに用がある」

「おまえが父上に何の用だ!」

 少女は、怒り――その感情に完全に支配されているようだった。

 黒い目はぎらぎらと光り、獰猛な獣を思わせる。

「じゃあ聞くが、あんたは知ってるのか。親父の正体を」

「決まってる、父上は守村掟の忍びだ!」

「違うね」

 ぴしゃりとハルベルは言い返した。

「リアード」

 呼びかける。

 リアードは大きく目を見開いて、そこに突っ立っていた。

「こいつなんだろう?」

「……」

 リアードは男をじっと見つめていた。

 その唇が、色を失い、小刻みに震えている。

 その反応がすでに、男が誰であるかを物語っていた。

「ずっと、探しておりました……」

 リアードがひどく緩慢な動きで、膝をついた。

 その姿勢のまま、深々と頭を下げる。

「あなた様の娘とは知らず、手荒な真似をして申し訳ございません」

「……」

 男は唇を引き結んで、その様子を見ていた。その顔は――何か苦いものをこらえているような表情で。

「……父上?」

 少女の顔から、血の気が引いていた。

 その声はいつになくか細く、震えていた。

「嘘、でしょう? 父上は忍び、でしょう?」

 その声がだんだん甲高く、大きいものになる。

 男は、何も、答えない。

「父上、何か言ってください」

「……彪刃」

「早く、否定を……っ」

 男はするりとハルベルの拘束から抜けた。

 少女のそばへ歩み寄り――その頭を優しく撫でる。

「……彪刃」

 その声は優しいようでいて、哀しさも強く滲んでいた。

「……すまない」

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シュディア戦記 せせり @sesenovel

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