⑬
「……」
対峙する男は無言のままだった。
男の見た目は四十代程度。少年同様豊かな黒髪を無造作に結びあげていた。右目の上に、生々しい傷跡がある。
「秀……人……?」
少年の呆然とした声がした。
男の肩がピクリと動く。
少年は信じられないと言いたげな面持ちで、もう一度か細い声を絞り出した。
「秀人……どうして、ここに……」
「蘭様」
男が声を発した。
重みのある、低い声だ。
「説明はあとです。とにかく今はさがっていてください」
男はあくまでも淡々とした口調で続ける。
どこか機械的だとすら感じさせる口調だ。とても事務的で、必要最小限のことしか話さない。そんな印象を受ける。
「で、でも」
「さがっていなさい」
少年の肩がびくりと震えた。
男の声は落ち着いた口調のくせ、有無を言わせない迫力があった。そう、まるで――殺気にも似た迫力。
(――さすが、忍びってとこか)
先ほどのことにしてもそうだ。
感覚的には永遠のように長く感じたが、時間で表せば人を斬り捨てるのなんて一瞬だ。その一瞬の間に、ハルベルの剣を受け止め少年を守った。
到底常人の成せる業ではない。それを、この男はいとも簡単にやってのけた。
(一筋縄ではいかねえってことか)
自然、ぞわりと鳥肌が立つ。
「さて」
剣を交えた状態のまま、男が話を切り出した。
「人質に取った忍びの場所、教えてもらおうか」
ハルベルは薄く笑った。
「……嫌だといったら?」
剣にかかる重みが、ぐっと強くなった。
「力づくでも」
瞬間、ハルベルは飛びのいた。
同時に男の剣がギュンと音を立てて薙ぎ払われる。
(あぶねぇ)
あんな強い力で振り払われたら、態勢を崩しかねない。それどころか剣を弾き飛ばされる危険性だってある。
飛びのいたのは反射的なものだ。今回はそれが役に立った。
素早く剣を中段に構える。
男との距離は剣が届くか、届かないかというぎりぎりの間合い。
男は微動だにしない。間合いを詰めようともせず、ただハルベルの出方をうかがっている。
先に動く気は、ない。そう告げているようにも見える。
(仕掛けるしか、ねぇ)
ハルベルの足が、地を蹴った。
ギィン――
重い金属音が、響く。腕がしびれるような感覚が、一瞬ハルベルを襲った。
(強い)
男はひどく冷静だ。
とても冷静に、落ち着いてハルベルの攻撃を受けている。その腕前はいかほどのものか、調べている。
ハルベルは素早く剣を体に引き付け、新たに太刀を打ち込んだ。
「なるほど、力はなかなかだ」
言いつつ、男がハルベルの太刀を流す。
その口調にも、表情にも、切迫したものはなかった。むしろ、余裕すら感じる。
「ちぃっ」
足を撓ませ、一気に飛び上がる。
ハルベルの蹴りが、男の顔面に飛んだ。
「……だが、すこし遅い」
ハルベルの体が真横に吹っ飛んだ。
男がハルベルの脇腹に蹴りを叩き込んだのだ。
(――速い)
仕掛けたのはハルベルが先だった。だが、男はそれを上回るスピードでハルベルに蹴りをいれたのだ。
まるで動きが見えなかった。こんなに至近距離なのに、動きを目で捉えることができない。
「休んでる暇はないぞ」
目の前で、刃が白く閃いた。
とっさに顔を引いたが避けきれず、頬に鋭い痛みが走る。
「……っ!」
ハルベルは横に転がり、すぐさま飛び起きた。さらに飛びのいて、距離を稼ぐ。
「……さすがだな」
息をすると、脇腹がずくりと痛んだ。
そこで、自分がずっと息を詰めていたのだとようやく気付いた。
「君も、彪刃を捕まえるだけのことはある」
男は至って落ち着き払っている。
その冷えた頭で、いかにしてハルベルを始末するか、考えているのかもしれない。
「来ないのか」
あくまで淡々とした口調で、男が言う。
ハルベルはにやりと笑った。
「あんたに譲ってやるよ」
「……そうか」
ハルベルの目には、男が小さく微笑んだように見えた。
「いい度胸だ」
男の動きは例えるなら、風だった。
気配もせず、音もせず、何よりも速く流れるように動く。そして、目には見えない。
今の行動が、まさにそれだった。
男は、一瞬で眼前まで迫っていた。
「……なに、してる」
一時の沈黙の後、ハルベルがかすれた声を絞り出した。
男の刃は、ハルベルの左胸にまっすぐ向けられていた。
ただ、それだけだった。
「何で、殺さない」
この男なら、できたはずだ。
今の一瞬で、ハルベルの心臓を突き、殺すなど、造作もない。この男は、それほどまでに強い。そのはずだ。
「あんた、俺を殺せたのに、何で殺さない」
男は、意外なほど冷めた目をしてハルベルを見ていた。
「……今更だが」
その声も、何もかもが、冷めきっていた。
「わたしは殺生をすすんでやりたいわけじゃない」
「本当に……今更だな」
「機会を与えよう」
そこで、気付いた。
男の目は、声は、冷めきっているわけではないのだと。
この男はただ、哀しみという感情に沈んでいるだけなのだと。
「逃げなさい。今なら、できる」
ハルベルは密やかに吐息を漏らした。
「断る」
「わたしは、君を殺したくはない」
「それでも、断る。俺は別に好奇心のためにここに来たわけじゃねぇんだ」
男の目が、すっと細くなった。
「……君は何のために、ここにいる?」
不思議な気分だった。
この男にならば、話してもいい。何故だか、そう思った。
「人を、探している」
ぽつり、呟いていた。
「ある国のために、その人が必要なんだ」
「……」
男は何も言わない。微動だにもしない。
何を思っているのか。無表情の下で、何を考えているのか。
「――逃げなさい」
男が、再度告げた。
唐突に、剣が下ろされる。
「逃げろ。君は、そんなことで命を落とすべきではない」
男の声には、何故だか切迫した響きがあった。
男の手が、ハルベルの肩をつかむ。指が、肩に食い込んできて痛いほどだった。
「仲間を連れて逃げろ。今すぐにだ」
ハルベルは眉根を寄せた。
「だから、俺は」
「そんな男、探しても何の価値もないといっている!」
それはまるで、悲鳴だった。
それほどまでに悲痛な声で、男が叫んでいた。
しん、と沈黙がおりた。
「しゅ、秀人……?」
それまで固唾を呑んで成り行きを見守っていた少年が、初めて口をはさんだ。
「秀人は……知ってるの……?」
男の顔に、明らかな動揺が走った。
素早く、ハルベルがその手を振り払った。数歩、後ろにさがる。
「……あんた」
ハルベルが男の顔をまじまじと見つめる。
男は髪も目も、双方黒く染まっていた。加えて、右目の上に傷跡があった。長い傷跡が、目の縁ぎりぎりまで走っている。
(こいつ、何と言った?)
そう、確かに、そんな男、と言った。
ハルベルはそんなこと、明言していないというのに。
「あんた、まさか」
突如、慌ただしい足音がした。
草をガサガサと掻き分ける音が、すぐそばでする。
「待ってくれ! 行ったら駄目だ」
「はなせ!」
男の瞳に、狼狽の色が浮かんだ。
すぐさま踵を返し、そこから去ろうとする。その動きは先ほどに比べて格段に遅かった。
だから、ハルベルがその腕をつかむのは造作もないことだった。
「待て」
「……はなしてくれ」
「断る」
ハルベルの紫の目が、鋭く光った。
「あんた、なんだな」
男の腕にぐっと指を食い込ませる。強く、逃がさぬように。
この男を、今ここで逃がすわけにはいかない。
「答えろよ」
「――父上!」
ドッ、と衝撃が来た。
少女の拳を、まともにくらっていた。
だが、所詮は子供だ。いくらけた違いに強くとも、武器がなければ話にならない。
「いてぇじゃねぇか」
ハルベルは少女に目を向け、薄く笑った。
少女は怒りに肩を震わせ、拳を固く握りしめた。
「父上を、はなせ」
「やだね。俺は、こいつに用がある」
「おまえが父上に何の用だ!」
少女は、怒り――その感情に完全に支配されているようだった。
黒い目はぎらぎらと光り、獰猛な獣を思わせる。
「じゃあ聞くが、あんたは知ってるのか。親父の正体を」
「決まってる、父上は守村掟の忍びだ!」
「違うね」
ぴしゃりとハルベルは言い返した。
「リアード」
呼びかける。
リアードは大きく目を見開いて、そこに突っ立っていた。
「こいつなんだろう?」
「……」
リアードは男をじっと見つめていた。
その唇が、色を失い、小刻みに震えている。
その反応がすでに、男が誰であるかを物語っていた。
「ずっと、探しておりました……」
リアードがひどく緩慢な動きで、膝をついた。
その姿勢のまま、深々と頭を下げる。
「あなた様の娘とは知らず、手荒な真似をして申し訳ございません」
「……」
男は唇を引き結んで、その様子を見ていた。その顔は――何か苦いものをこらえているような表情で。
「……父上?」
少女の顔から、血の気が引いていた。
その声はいつになくか細く、震えていた。
「嘘、でしょう? 父上は忍び、でしょう?」
その声がだんだん甲高く、大きいものになる。
男は、何も、答えない。
「父上、何か言ってください」
「……彪刃」
「早く、否定を……っ」
男はするりとハルベルの拘束から抜けた。
少女のそばへ歩み寄り――その頭を優しく撫でる。
「……彪刃」
その声は優しいようでいて、哀しさも強く滲んでいた。
「……すまない」
シュディア戦記 せせり @sesenovel
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