⑫
少年は凍りついたようだった。身じろぎも、まばたきさえしない。いや、できないのかもしれない。大きく見開かれた目には、ありありと恐怖が浮かんでいた。
――ふと、その姿が、幼い頃の自分と重なる。
何もできず、ただ呆然と見ていることしかできなかった自分。暴力に怯え、言葉に怯え、人に怯えていた臆病者の自分。――俺が、世界で最も嫌いな存在。
自然に、古い記憶が呼び起される。
豊かな緑。その上を、わずかに覆う雪。
そして、鮮やかな赤。
そこで、ハルベルは我に返った。
いつの間にか息を詰めていたらしい。ゆっくりと息を吐き出し、呼吸を整える。
――何、やってる?
心の中で自分を叱咤する。
おまえが今すべきことに集中しろ。
油断してはいけない。気を抜いたらやられる。とっくにわかりきっていることだ。
それができなかったことに、どうしようもなく苛立つ。
「……早くしろ」
低い声で囁く。少年の身体が、ぴくりと動いた。
「俺は気が短い」
少年が目を伏せた。表情が髪に隠れ、分からなくなる。
迷っているのか。あるいは、もう答えないという選択肢を選んだのか。
――それとも、何か待っているのか。
「……何が、知りたいの」
ぽつりと少年がつぶやいた。力のない、諦めたような声。
ハルベルの顔に笑みが浮かんだ。
「賢明な判断だ」
すっと剣をひく。途端に、硬直していた少年の体から一気に力が抜けた。
大きな黒い瞳が、まっすぐハルベルを見据える。
「……どうして」
すっかり血の気を失った唇が震えた。
「どうして、こんなこと……するの」
尋ねた声はか細く、今にも消え入りそうだった。
ハルベルは笑みを浮かべたまま、少年を見下ろした。
「知ってどうする?」
少年の手がぎゅっと服のたもとをつかんだ。
「どうもしない……けど」
ハルベルを見つめる少年の目がわずかに細くなった。――まるで、憐れむような目。
「本当は、したくないんじゃないかと思って」
――したくない?
どういう、意味だ?
「そんなの」
ハルベルは唇を歪めた、
「そんなの、あんたには関係ないだろ」
言い放った声は思いのほか大きかった。そのことに驚く。
――何、ムキになってる?
柄をつよく握りしめる。
取るに足らない、些細な言動。無視すればいい。ちゃんとわかっている。
なのに。
少年の、そのたった一言は、確実に自分の何かを揺さぶった。動揺させた。
「……でも」
少年がハルベルと目を合わせたまま、口を開く。
「悲しそうな目をしてる」
思わず眉をひそめた。意味が分からない。
――悲しそう?誰が?
「あなたの目、彪刃と同じで悲しそうだ」
俺が悲しそう?
何を、言ってる?
「……はっ」
鼻で笑う。
「お友達と一緒にすんな」
柄を握りなおし、半歩下がる。
「俺は、あいつとは違う」
剣をまっすぐ構える。木漏れ日が反射して、血のりのついた刃が鈍く光った。
少年が身を固くする。
「……少し、おしゃべりしすぎたな」
低くつぶやく。
「そろそろ俺の質問に答えてもらおうか」
そろりと片足を前に出し、態勢を整える。
少しでも怪しい素振りがあれば、瞬時に斬りつける。そういう脅しだ。
「何のためにここへ来た」
少年が訝しげに眉を動かした。
何を言っているのか、そう言いたげな表情だ。
「決まってる……彪刃を助けるためだ」
「へぇ」
ハルベルは片頬だけで笑う。
「大したお人好しだな。わざわざ一人の友達のために安全地帯からのこのこ出てきたってわけだ。美談すぎて涙が出る」
俺だったら、と声のトーンが下がる。
「絶対にそんな真似はしない」
「……なにが、言いたいの」
少年の目がまっすぐにハルベルを捉える。わずかな恐怖と、戸惑いが滲んだ目で。
――ここからが本題だ。
剣を持つ手にぐっと力を込める。
「あんたはまだ剣の経験が浅い。実戦経験もほぼ皆無に等しい。そんな奴が一人で出てくるなんて、俺に言わせりゃ自殺行為だ。つまり、勝算はねぇ」
一気にまくし立て、ハルベルは一つ息をついた。
「――ただし、仲間がいれば話は別だけどな」
少年の目がほんのすこし、見開かれた。
ハルベルの言わんとすることに気付き、驚いた。そんな表情。それが純粋な驚きなのか、それとも動揺なのか。見極めはつかない。
「……そうか」
少年がかぼそい声で言った。
「あなたは、疑ってるわけだ。これが罠だと」
ハルベルがにやりと笑う。
「物分かりが早くて助かる」
「残念だけど、僕は嘘なんてついてない」
「あくまで、一人で来たと?」
「そうだ」
予想通りの返答。
もし仮に、推測が本当だったとしても、この少年は吐いたりしないだろう。みすみす手の内を明かすような真似をするはずがない。
――それならば。
「もう一度聞く。本当に仲間はいねぇのか」
再度、問うてみる。最後の確認だ。
少年の顔が露骨に歪む。
「いないって、言ってるだろう。……どうせ、信じないだろうけど」
吐き捨てるように少年が言う。
嘘をついているようには見えない。だが、念には念を押しておくべきだ。
表面上取り繕うことなど容易い。人は簡単に嘘をつくのだから。
幼い子供だって、平気でうそをつく。
「……確かに、俺はお前の言ってることが信じられない」
だが、とハルベルは続ける。
「確かめる方法はある」
「……方法?」
少年が眉根を寄せる。
「方法って、何」
「簡単なゲームをすればいい」
少年は怪訝な表情のままだ。
意味が分からない。そう思っているのがありありとわかる。
「賭けだよ」
ハルベルがくつくつと喉を鳴らして笑った。
「あんたと俺で賭けをする。簡単だろう?」
「……何を、賭けるんだ」
「いい質問だな」
ハルベルが空いている左手をすっと上げた。
その長い指が、まっすぐ――少年の、左胸を指す。
「賭けるのはあんたの生死」
声から、感情が抜け落ちた。
その目の奥に、剣呑な光が灯る。
「あんたが死んだら、俺の負けだ。あんたが正しいってことになる。でも仮に生きていたとしたら」
ハルベルが何の躊躇もなく、少年めがけて斬りかかった。
「あんたを信じなかった俺の勝ちだ」
少年の目が大きく目を見開かれた。その目にちらつく、恐怖の色。わななく唇。
一つ一つの動作が、目に見えるすべてが、世界が、急激に減速していくような感覚だ。
刃が動く。刃がゆっくり弧を描く。唸りを上げて少年の体を、切り裂く。
少年は、凍り付いたように、動かない。
「――そこまでだ」
世界が、急激に速さを取り戻した。
少年の体を切り裂いたと思った刃は、その寸前のところで何者かの剣によって阻まれていた。
「……やっとお出ましか」
口元を歪めてハルベルが笑う。
「どうやら、賭けは俺の勝ちらしいな」
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