彪刃は暗闇の世界にいた。

 一筋の光さえ見当たらない。色濃い闇が視界を遮っている。

 ――また、来てしまった。

 小さく吐息をもらす。ひやりとした空気が肌をなでた。

 自嘲の笑みが漏れる。

 ――まだ甘いな、わたしも。

 忍びと外の人間。内と外。

 相容ることなどできない。

 外は忍びを利用する。いつだって裏切る。

 だから、殺すのだ。

 そのために、わたしが存在している。

 村を守ること。人を殺すこと。

 全ては同義だ。それ以外に、価値などない。

 守村掟に生まれ落ちたその瞬間から、わたしの命は忍びのためにあるのだ。

 ――それなのに、何故迷う?

 この剣で、命を断ち切る。外の人間を殺す。

 それが全てだ。わたしにはそれしかない。

 けれど――ためらいを感じるのは、何故だ?

「殺した」

 ふいに、声が響いた。

 視線の先で、ゆらりと何かが立ち上がる。

「お前……」

 鼓動が苦しいほど速くなる。

 見覚えのある顔。忘れることなどできない。

 昼間、殺した男。

「何故、殺した……」

 若い男がつぶやくように言う。

 その唇から、一筋の血が流れた。

「俺たちが何をした」

 唐突に、下の方から声がした。

 足首が急激に冷えていく。ぬるりとした感触。

 何かに、つかまれている。

「お前も、一緒に来ればいい……」

 足首に力が加わる。

 赤紫色に変色した、人の手――。それが、彪刃の足をつかんでいる。

 ずぶりと体が沈んだ。

 闇の中に、体が沈んでいく。

「何をする……っ」

 抗う。足首がぎりぎりと締め付けられた。

 若い男が、近づいてくる。笑っていた。ぞっとするほど、冷たい笑み。

「お前も、死ねばいい」

 ぽたっ。ぽたっ。

 若い男のあごから、血が滴り落ちる。

 淀んだ瞳。悪意のこもった目が、彪刃を捉える。

 体が動かない。

 変色した手がみるみる伸び、体に巻きついてくる。

 逃げなければ。早く、ここから。

 そう思うのに、体はこわばったままだ。

 闇がじわじわと体を圧迫する。息ができない。

「やめ……ろ」

 頭を上へとそらす。手を伸ばした。

 何かをつかむ。温かい、確かな感触。

 力を振り絞り、指を食い込ませる。はなしてはならない。本能で感じた。

「しっかりしろ!」

 力強い声。体を、骨を震わせる。

 体を締め付ける力が、わずかに緩む。

「目を覚ませ!」

 はっと目を開ける。夜だった。

 不安げなハルベルの表情が炎に照らされている。

「大丈夫か」

 張り詰めた声。瞳に、切迫した光が浮かんでいる。

 あの声だ。

 暗闇で、わたしを呼んだ声。闇から引き上げてくれた声。

「……お前が、呼んでくれたのか」

 どうやらその声は聞こえなかったらしい。ハルベルは彪刃の頭上で手をひらひら振った。

「俺の声、聞こえてるか? ちゃんとこの手が見えるか?」

「……あぁ」

 起き上がる。薄汚れたローブが、ぱさりと落ちた。

 ハルベルが、まじまじと彪刃を見つめる。

「……何だ」

 眉をひそめる。

 ハルベルは視線をはずさないまま、ゆっくりと口を開いた。

「お前……病気だったのか?」

「は?」

 思わず声が出る。

「いや、だからな」

 ハルベルが早口で言う。

「様子がおかしかったから、どっか患ってんじゃねぇかと思ったんだよ。それだけだ、もう忘れろ」

 ハルベルが顔を背ける。リアードが小さく笑った。

「素直じゃないな」

「あ?」

「素直に心配してたって言えばいいだろう」

 ハルベルがリアードを睨む。紫の瞳は、夜の闇の中でもはっきりと見える。

「心配なんかしてねぇ」

「はいはい」

 リアードが彪刃に向き直る。

「頭痛とかはないか?」

「あぁ」

「吐き気は?」

「ない」

 リアードが椀を差し出す

「水だ。飲むといい」

「……すまない」

 受け取る。澄んだ水がたっぷりと入っていた。

 飲み干す。水が、体の中にしみこんでいく。あの時と同じ冷たさだ。

 助けられた。

 大きく息を吐き出す。

 差し出された手にすがった。

 他人から伸ばされた手を、何のためらいもなくつかんだ。

 ――危険だ。

 奥歯を噛みしめる。ぎりぎりと重い音が、脳に直接響く。

 なんて無防備で、愚かな行為。

 他人を信じてはいけない。

 人間は己の欲のためならなんだってする。裏切ることも、人を殺すことさえ厭わない。

 だから、差し出された手は振り払う。拒むべきなのだ。

 それなのに。

 助けられた。他人の手に、すがってしまった。

 指を固く握りこむ。

 厄介だ。

 時々、わきあがる感情を抑えられなくなる。冷静に対処できなくなる。

 危険だ。そして、とても厄介だ。

 自分という存在が、この手で捉えられない。

 奥底に何か別の存在がうずくまっている。そう感じてしまう。

 こいつらは、危険だ。守村掟の敵であり、忍びの敵。

 だが――わたしも同じくらい、危険な存在じゃないのか?

「まだ少し、顔色が悪いな。本当に大丈夫か?」

「平気だ」

 ふいにあごをつかまれた。上向かされる。

「やっぱり顔色が悪い。貧血じゃないのか?」

 リアードが覗き込んでくる。その声音も、表情も真剣だ。本気で他人を心配している。

「はなせ」

 手を振り払う。

「だめだ、ちゃんと調べないと」

「もういい」

「いいわけないだろう」

 彪刃の口元に薄笑いが浮かぶ。

「お前たちが心配してるのは、わたしじゃないだろう?」

 リアードの動きが止まった。大きく見開いた目で、彪刃を凝視する。

「君は……何を言っている?」

「言葉どおりだ」

 彪刃の目の奥に、剣呑な光がともる。

「お前たちは、情報がほしいだけだ。わたしの身を心配してるわけじゃない。情報が消えるのを恐れている。そうだろう?」

 すぐそばから、拍手が起こった。

「なかなか、現状認識ができてるじゃねぇか」

 ハルベルがくっくっと楽しげに笑う。

「なら、これまでしっかり覚えとけ」

 衝撃が来た。突き飛ばされる。体が、木に押し付けられる。

 ハルベルの手の中で、ナイフが一回転した。

「あんたは人質だ」

 耳元で低い声がささやく。喉元にナイフが押し当てられる。

「つまり、あんたの命は俺たちの手に握られているってことだ」

 ナイフの刃が、首筋をつっとなぞる。鋭い痛みが生じた。

 あごを上げ、無表情の顔を見据える。

「殺せばいい」

 片頬だけで笑う。

「殺せば、村への手がかりはなくなる。お前たちは村にたどり着けない」

 刃がぐっと押し付けられる。ハルベルが目を細め、彪刃の目を覗き込んだ。

「だから、どうした?」

 ハルベルがささやく。冷ややかな笑いが浮かぶ。

「まだ、自分の立場が自覚できてねぇみたいだな」

「どういう、意味だ」

 紫の瞳を見つめる。濁りのない透き通った紫の奥に、鋭い光が宿っている。

「あんたは人質で、子供だ。当然お前を養う親がいる」

 感情の排した声が、耳元で響く。

「今頃、あんたを探しているかもな」

 彪刃は目を見開いた。どくんと心臓が脈打つ。

「まさか、お前」

「そのまさかだ」

 喉元のナイフが離れる。すっと圧迫感が消える。

「あんたのかわりなんかいくらでもいる」

 風が吹いた。甲高く物悲しい音が、闇の中を突き抜けていく。

「それを覚えとけ」

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