今は昼時。獲物となる動物たちものどの渇きを癒すために川を訪れるころだろう。だとしたら、川の周辺にいたほうが、獲物とめぐり合うチャンスは多くなるはずだ。

 ハルベルはあたりに視線を走らせつつ、剣の柄へ手を伸ばした。

 狩りをするときの癖だった。どんな敵が来ても、即座に斬りつけられるように。

 狩りのときはそうしていないと落ち着かなかった。そうしていないと、自分がとても無防備で、弱い存在になってしまったようで。

 ――何も守ることのできなかった、幼いころに戻ってしまうようで。

(……いた)

 ハルベルはさっと木の陰に身を潜めた。

 ハルベルの視線の先で、がさがさと草が揺れる。飛び出してきたのは、若いオスの鹿だった。角が左右に伸びている。ハルベルは剣の柄をいっそう強く握り締めた。

(……まだだ)

 はやる気持ちを押さえつけ、鹿が落ち着いた足取りで川へ向かうのを目で追う。

 あせっては獲物に逃げられてしまう、というのをハルベルはよく知っていた。

(もう少し……)

 ハルベルはじっと鹿を凝視した。

 鹿が川の水へ口をつける、その瞬間まで待たねば。

 獲物が完全に自分に背を向ける、その時まで。

 自然、呼吸が深くなる。鹿の首が、水を飲むためにすっと下へ滑るように動いた。

 今だ、とハルベルが剣を抜きかけた、その時――。

 突然、鹿が顔を上げた。ぎくりとして動きを止める。

 気づかれたのだろうか。ハルベルは剣を抜こうとしたその格好のまま、息を殺す。

 鹿はきょろきょろと辺りを見回し、じりじりと二、三歩さがった。そのままぱっと身を翻す。

 逃げる、とハルベルは思わず一歩踏み出した。

 その時――すとっと軽やかな音が響いた。

 ハルベルは目を見開いた。逃げる鹿の行く手を阻むようにして、少女が降り立ったのである。

 黒い髪の、少女。

(まさか、あれが――)

 心臓が早鐘のように鼓動する。狩りの最中だということは、もう忘れていた。

 ――あれが、忍び。

 鹿がおびえたように鳴いた。少女が一歩、鹿に近寄る。

「……おびえているのか」

 少女がつぶやく。笑いを含んだ声だった。

「獣を賢いな。自分の敵をきちんと判別している…」

 少女が剣を抜いた。剣の刃が白銀にきらめく。

「……だが、もうおびえることはない」

 少女の声が低くなる。

 ぱっと血しぶきが上がった。

 茶色だった鹿の毛並みが赤に染まる。

 ハルベルは無意識に体が震えるのを感じた。同時に、驚愕する。

 ――何故、俺の体が震える?

 恐れなどない。命が奪われる光景を見慣れている。

 時には、自分が命を奪った。

 それなのに――今、感じたものは。

 まるで幼いころに戻ったようだった。非力で、何も守ることのできない、それくらい小さな存在。

 ハルベルは拳を握り締めた。呼吸が乱れる。

「……落ち着け」

 自分に言い聞かせるように、ゆっくりとつぶやく。

 落ち着いて、冷静になれ。

 今、目の前にあるものを逃したら、もう二度と機会は巡って来ないかもしれない。

 ハルベルは胸に手を当て、深く息を吸うと、再びあたりの様子を窺った。

 少女が、無造作に剣を抜いているところだった。

 鹿の体からどっと血が噴き出る。少女は一瞬眉をひそめただけだった。血でぬれた剣を鞘にしまい、腕についたわずかな返り血をぬぐう。

 手慣れている、と思った。――手慣れすぎている。

 相手は十五になるかならぬかの少女だ。そんな少女が命を奪う、すなわち何かを殺すことにこれほどまで慣れているものだろうか。

(……ありえない)

 ハルベルは小さく首を振った。

 そもそも、年端もいかぬ少女が何かを殺した、という事実さえ信じがたいのだ。そんな少女が、殺しに手慣れているなど――。

 ふと、少女の姿が木の陰に消えた。少女の姿をよく見ようと、体を伸ばす。

 その拍子に、足元の小枝がパキッと折れた。

 少女がはっと振り返る。

「……誰だ」

 少女のものとは思えぬ、低い声。

 ハルベルは体をこわばらせた。がさがさに乾いた唇をなめる。

(すげぇ殺気だ……)

 目には見えなくても、肌で感じる。空気が肌に突き刺さってくるような、この感じ。

 間違いない。あの少女が、このすさまじい殺気を発しているのだ。

 少女が血のこびりついた剣を抜く。ハルベルの喉がごくりとなる。

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