③
「――父上、ただいま戻りました」
彪刃は家の戸を後ろ手で閉めつつ、声を張り上げた。奥の障子ががらりと開く。
「戻ったか」
彪刃の父――
「……今日はどうだった」
「二人ほど、人がいました」
「殺したのか」
硬い表情のまま、父が聞いた。
「はい、掟のとおりに」
こともなげに彪刃は告げる。秀人はそうか、と小さくつぶやいた。
「わたしはこれから、
数秒、間が空いた。思わず父を見上げる。
「村長の家へ? 父上がですか?」
「そうだ」
鷹揚にうなずく父を、彪刃は不思議そうに見つめた。父が村長のもとへ行くということは、それほど珍しいことだったのである。
「やはり……ここのところ、外の人間が頻繁にこの村を探しに来るのは、外で何かあったからなのですか?」
声を低めて尋ねる。秀人は分からぬ、と首を振った。
「だが、何かあったと考えるのが自然だろう。ここまで頻繁に外の使者が来るとなればな」
秀人は黒い瞳を伏せ、ため息をついた。
彪刃たちの言う「外」とは、この外に広がる大陸のことである。忍びとは違うさまざまな種族の人間が暮らすところ。忍びは、はるか昔から村を囲む森を隔てて、大陸の人間と決別しているのだ。
「村に危険が及ぶかもしれぬ――」
父がつぶやく。彪刃は思わず顔を上げた。
「父上、それはどういう」
「邪魔するぞ」
突然、彪刃の背後にある戸が開いた。驚いて飛びすさる。無意識に、剣の柄に手が伸びた。
「良(りょう)殿! 何故ここに」
秀人があわててその場にひざをつく。突然現れた青年は目元を細めて笑った。
「秀人、そんなに堅苦しくしなくていい。お前が頭を下げるべき相手は、俺ではなく俺の父上の方だろう」
「しかし、良殿は村長(むらおさ)のご子息。無礼な振る舞いなど到底できませぬ」
青年――良は、思わず苦笑をこぼした。良は蘭の兄にあたる人物だ。
「秀人は硬すぎる」
「どうぞ、何とでも申してください。――それより、良殿」
父の声音が変わる。良の笑みが、すっと消えた。
「今日、わざわざここにいらした理由を、お聞かせ願いたいのですが」
「……やはり、俺が自らここに来るのは不自然か」
良が静かに問いかける。秀人は頭をたれた。
「……恐れながら」
「では、やはり良殿は村長の命でここへ参られたのですか」
彪刃は良を見上げる。良は軽くうなずいた。
(――やはり、そうか)
彪刃の中で、そんな声が上がる。そもそも、村長の息子が守村掟の家へ来ること自体、ありえないことなのだ。だが、村長の命なら納得できる。村長は守村掟の主であり、忍びの頂点に立つものなのだから。
「……それで、村長はなんと」
「単刀直入に言おう」
良は秀人をまっすぐに見下ろした。
「先ほどの、村に危険が及ぶかも知れぬという話は本当か」
一瞬、息が止まった。
心臓が耳元でどくり、と脈打つ。背筋が凍ったかと思われるような感覚に襲われる。
不覚だった。人の気配くらい、すぐに見抜けたはずなのに。
何故注意を怠ったのか。あのような発言――人に聞かれたら身を滅ぼすことくらい、わかっていたのに。
村に危険が及ぶ――その言葉は、言い換えてしまえば守村掟が村を守ることができない、ということだ。
「……聞いて、おられたのですか」
父が、聞いた。しぼれたような、かすれた声だった。
良が視線をそらす。
「――全部、聞いた。…すまぬ」
気まずそうに良が告げる。秀人は頭をたれたまま動かない。
「……秀人、外で何か変化があったというのは本当なのか」
「――おそらく」
秀人は低い声で答えた。
「私も外の事情は知りませんが、ここまで頻繁に使者が来るとなれば」
そうか、と良がつぶやく。
「では、それゆえに村に危険が及ぶかも知れぬと」
「……そのように考えております」
「……理由はそれだけか?」
良が秀人をじっと見据えた。その瞳が鋭く光っている。
疑っているのだ。村に危険が及ぶという、守村掟として重大な発言を聞いてしまったのだから。
彪刃にさえ、何故父がそんなことを言ったのか理解することができなかった。守村掟は村を守るためだけに存在する。村を守ることができなければ、守村掟が存在する価値などないのだ。
――それなのに、何故こんなことを。
どんな状況でも、決していうことのなかった言葉だったというのに。決して口だそうとはしなかったのに。
父にそんなことを言わせた原因は何か。
――自分。
唐突にその言葉が浮かぶ。彪刃は自分の中で高ぶった感情を押さえつけるように、深く、ゆっくりと呼吸を繰り返した。
そうだ――父は今までこんなことを言わなかった。彪刃が任務を課せられる、その前までは。
だとしたら、父がこんなことを言った原因は、自分にもあるのではないか――。
「……疑っておられるのですか」
父が良を見上げる。良は、ふっと笑みをこぼした。
「すまぬ。お前が推測だけの理由でこんなことを言うのかと思ったからな、念のためだ」
「それも村長になるものの役目でしょう」
「村長になるものの役目、か」
良が虚空を見据える。
「人を疑うことが、か」
「それは当然のことです」
秀人は感情を交えず淡々と告げた。
「人の心は他人の目から見えぬもの。人を疑うのは、必然です」
「お前はそのように考えるか」
良は少し寂しげに笑った。それから、戸を開ける。
「話を勝手に聞いて、すまなかった。俺はもう行く。秀人…後で父上の元で来るがいい」
「……はっ」
秀人はさっと頭を下げる。良はうなずくと、がらっという音を立てて、出て行った。
「……父上」
秀人はひざをパンパンと払い、立ち上がった。
「どうした、彪刃」
「私のせいでございますか」
「……何の話だ?」
彪刃は、一瞬言葉に詰まった。
「……先ほどの、話です」
「理由なら、さっき良殿に話したろう?あれ以外、理由など何もない」
「私の知っている父上は、推測だけのあいまいな理由であんなことを言ったりはしません」
秀人が黙り込む。彪刃はためらいつつ、口を開いた。
「父上がこんなことを言ったのは、私の力不足ゆえですか」
そう尋ねて、彪刃は視線を落とした。
――自分は、一体何を聞いている。
何でも思ったことを口にするのは愚かなこと。そう考えていたはずなのに。
自分は今、何をしているのだろう。
今までと同じように胸のうちに押さえ込んでしまえばいい――それだけの話だ。
感情を握りつぶすのと同じように、もともとなかったことにしてしまえばいい。
それだけですむ。それですべて終わるのだ。
「……彪刃」
静かな声が、彪刃を呼んだ。彪刃の細い方が震える。
「何を思ったかは知らぬが、違う。そんなことはない」
「……いらぬことを申しました」
彪刃はさっと立ち上がる。
「……狩りに行ってきます」
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