少女――彪刃にとって、蘭は実に不思議な存在だった。何の用事もないのに、いきなり呼び止めたり、感情をあらわにしたりする。

 愚か者――その言葉が、彪刃の胸の奥で響いた。

 感情をあらわにすることはすなわち、人に心を許し、隙を作ることだからである。彪刃にとって、それは禁忌だった。

 いついかなるときも、村を最優先に考え、守る。彪刃の使命だった。「守村掟(しゅそんてい)」の子供として生まれたときから、そのすべてを背負うことが決まっているのだ。

代々一族が守ってきた村を守る。そのためには、邪魔になるものはすべて捨てなければならない。たとえ、それが家族であっても。

 彪刃がまだ幼かった時、父はそう言った。初めて「守村掟」の掟を聞かされたときだった。そのときの父の声は、今でもはっきりと思い出せる。いや、忘れられないのだ。いつも厳格である父が、あんなに悲しげな表情を見せたのは初めてだったのだから。その表情は、彪刃の瞳に、今でも鮮明に焼き付いている。

 だが、彪刃は何故父がそんな表情をしたのかわからなかった。その役目を聞いたとき、彪刃は何の反発も、抵抗も感じなかった。ただ、これをこなせばいいのかと思うだけで。ただ、このたった一つの大切な村さえ守ればいいのだ、と感じただけで。

 だから、父の「悲しむ」というその感情自体、理解することができなかった。ただ不思議で、でもその疑問を口にすることはなくて。

 何でも思ったことを口にするのは愚かだと思っていたから。感情を表に出すことは禁忌だったから。感情をあらわにするという境界線を、彪刃は決して越えてはならないのだ。

 そのために、彪刃は感情を自分の奥底に封じ込めた。深く、奥底に、決して出てこさせぬように。それなのに、蘭は封じたはずの感情をいとも簡単に引っ張り出した。本能的に、危険な奴だと思った。関われば、いつか身を滅ぼすと。

 そう思ったはずなのに――。今、自分はこうして蘭と会話を交わしている。それは、何らかの関わりを持っているということだ。守村掟の人間として、愚かな行為。許されざる罪。その行為は、自分だけでなく、村をも滅ぼす。村を守るためには、どうしたらいいか。

 答えは簡単だった。蘭との関係を断ち切ればいいのだ。

 けれど、彪刃はそれを実行しなかった。することができなかった。

 それは何故か?

 自分はどうして、この蘭という少年を切り捨てることができないのだろう。

今まで、数多くの人を切り捨ててきたこの自分が。いくつもの命を奪ってきた自分が。

 今さら、どうして?

(……また、くだらないことを考えてしまったな)

 彪刃は、かすかに自嘲の笑みを浮かべた。

(蘭のことより、任務を果たせ。私が優先すべきなのは、村のことだ)

 自分に言い聞かせるように、心のうちでつぶやく。それから、後ろを振り返った。さも当然のように、そこに蘭の顔があった。

「おまえ、いつまでついてくるつもりだ」

「え?」

 そんなことを聞かれると思っていなかったのだろう。蘭はきょとんとした表情のまま、彪刃を見つめた。

 彪刃は思わずため息をついた。

「いつまでついてくるんだ」

「あっ、えっと……。そのへんまで」

「そうか。じゃあ、ここで別れよう」

 彪刃はそっけなく言い、踵を返した。

 遠ざかろうとする彪刃を、蘭が慌てて呼び止める。

「待って彪刃、家まで送るよ」

 彪刃は蘭をちらりと見ただけで、すぐに顔をそむけた。

「断る」

「でも」

「仕事があるといっただろう」

 不満げな蘭の声を遮り、鋭く言い放つ。

「邪魔するな」

 再び歩き出す。なおも言い募る蘭の声が聞こえたが、振り返りはしなかった。

 ――これでいい。

 ふっと吐息をもらす。

 そう、これでいい。関わり、何かを共有しあうことは隙となる。誰も信じない。誰にも心を許さない。それでいいはずだ。

 なのに、心がざわめく。

(――何だ、この胸騒ぎは)

 そっと胸を押さえる。胸の内でうごめく、この訳のわからない何かを一刻も早く封じ込めてしまいたかった。

 ――あいつのせいだ。

 小さく舌打ちする。

 ひどく無邪気で、人を疑うことを知らない。鞭で、純粋で、愚かだ。

 その愚直さが、そのまっすぐなまなざしが、時にわたしを戸惑わせる。

 ――迷うな。

 指を固く握りこむ。

 迷ってはいけない。惑い、揺れることもまた、自分には許されていない。

 一つ息をつき、歩調を速める。

 気が付けば、蘭の声はもう聞こえなくなっていた。

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