3.

 デジャ・ヴ。とても懐かしい風景なのに未知。

 涼風が、柔らかに頬を撫でて通り過ぎる。波を立てて、さらさらと水面を渡って行く様子は、透明なヴェールのゆらめきを思わせる。暮れ方の空と水面の色が抱擁し合う。

 霧のかかった瞳に映ったのは、広大な水辺の情景だった。高貴なまでの静寂に、静かに圧倒されていた俺は、はっと我に返り、ついでに後頭部の痛みも戻ってきた。体が一瞬こわばる。

 起こそうとした上半身をそのまま横に倒し、そっと頭を摩る。体の下に広がる砂が、しっとりと俺の動作を受け入れる。水辺のせいか、砂埃が立たないのが有り難かった。

 その体勢で、首だけ巡らせて、辺りを見回す。

 湖畔である。遠くに木立らしきものが見えるが、だだっ広い水辺だ。

「ここ、『夢の森』じゃなさそうだよなぁ。どう見ても湖だよな。参ったな。」

「夢の森の隣の『幻の湖』ですわ。ようこそ、隼人さん」

 突然の声に、驚きの余り起き上がると、打ったところに響いたのか、また頭を抱える羽目になった。

 「大丈夫ですか、随分強く頭をぶつけてしまった様ですけれど。冷やしたほうがよくありません?」

 声の主の方に振り向いた瞬間、思わず恥ずかしいほどの大声で「ええっ」と叫んでいた。あの、姉の部屋で見た女性、そのひとだったのだ。

 彼女は俺の反応を意外に感じたのか、不思議そうな目で、俺を見つめている。当の俺はと言うと、もう驚きの余り本当に開いた口が塞がらない状態で、彼女に見入っていた。

 一言で言うならば、絶世の美女である。いや、美少女と言うほうが適切かもしれない。20歳には届いていない印象で、美しい顔だちにはどこかあどけなさが残っていた。

 流れるような黒髪は、白い貫頭衣に似た簡素なロングドレスの腰の辺りまで滑り落ち、額に輝く金の細い鎖冠と相まって、芸術性すら感じさせる。

 白鳥の様に白い肌、ほっそりとした顔だちは、形のよい鼻と唇でアクセントがつけられている。細い眉の下の、紫色の瞳は、冠の中心に嵌め込まれた紫水晶よりも、温かい輝きに満ちていた。化粧とはおよそ縁のない、自然の造形美。

 とにかく、美しく、懐かしい女性だった。

 漸く感動の第一波が去って、口が動くようになると、早速矢継ぎ早に質問を浴びせかけた。

 「あの、あなたは一体……それにここは、一体何なんですか。『夢の森』ってどういう所なんだか知らずにきてしまったんです。」

 歩きながら話しましょう、と彼女が誘うまま、後に続きながら問いかける。彼女はすぐには答えず、逆に俺をじっと見つめ

「ここを懐かしいと感じませんでしたか?」

と尋ね返した。

「どうして知らない場所なのに、と思うほど、懐かしくて仕方がないですよ。不思議ですけれど」

 彼女の問いをいぶかしく思いつつ、答えると、嬉しそうに微笑みながら、俺が一瞬再起不能になりかけたほど、衝撃的な答えをくれた。

 「ここは、貴方の遠い先祖の故郷です。そして、私は、その先祖にあたるひとの姉なのですわ」


    『むかしばなし』

 ~むかしむかし、三つ子の女神様が仲良く暮らしておられたそうな。長女は夢の神、次女は月の神、三女は幻を司っておいでじゃった。

 ある日、幻の 姫様が人間の男と恋におちてしまわれた。姉姫様方ははじめ反対なさった。神様が人間と夫婦になるには、神様も人間にならねばならないきまりじゃったからの。

 が、姫様は姉の姫様方を説き伏せて、ついに嫁入りを果たしなさった。以来その子や孫たちが、姫様の代わりに代々幻を司るようになったそうな。めでたしめでたし。~


 要するに、その「子孫のお役目」が、当番で俺にも回って来た、ということらしい。祖母の言っていた「後継者」とは、このことだったのである。

 彼女は紫雲(しうん)と名乗り、私はこの話に出てくる一番上の娘です、と語った。そして大変唐突ですが後継者に成って頂けませんか、といきなりもちかけてきた。

「後継者って、何をすればいいんですか。俺には皆目見当がつかないですよ。だいたいそんな力持ってないし」

「何もなくて当然なんです。後継者となることによって、始めて使えるようになるのですから。仕事は、力を受け継ぎ子孫に伝えること、人を安らぎに誘うこと。

時々……そうですね一年に一度は幻の湖に幻の力を分け与えること。この三つですわ。三つ目の仕事の意義は、幻の力が湖に欠けてしまうと、湖が涸れて、虹も影も、また、あらゆる映像も消えてしまうので、とても重要なのです」

 と、ここまで勢い良く殆ど一息で伝えると、自身の勢いに驚いたのか、少し恥ずかしそうに顔を赤らめ、今度はゆっくり落ちついて噛みしめるように

「考えていただきたいのですけれど」

と言った。

 少し考えて、猶予を貰うことにした。彼女は快く承知してくれて、とりあえず、夢の森の宴にお誘いしますから、と俺を森へ案内してくれた。


 夢の森は、夕暮れの中に、きらびやかな姿で浮かび上がっていた。幻の湖からも、はるかに遠く、夢見る様な輝きが窺えた。

 歩を進めるうちに、砂地から湿気を含んだ土へ、土から下草の柔らかい絨毯へと、足元が変化していく。アスファルトの味気なさは、ここでは縁のないものであった。

 やがて森の入口までやって来た俺は、森の木々の美しさに目を奪われた。知らず立ち止まり、子供のように口をぽかんと開けて、きらめく姿に暫く見入ってしまった。

 ふと我に返り、紫雲に立ち止まってしまったことを詫びようとして振り向くと、彼女はにこやかに微笑んで俺を促した。

 「私の家を、気に入ってくださったようで嬉しいですわ」

とだけ言って、俺を謝らせなかった。

 森を形作る木々には、色とりどりの光の玉がなっていて、それらが賑やかにさざめいていた。俺達は今、森の中央にあるという『母なる樹』に向かって歩いている。そこはパーティの会場であり、彼女の住処でもあるという。

「この森の樹は、全て根で母なる樹に繋がっています。ですから、この森自体が、ひとつのいのちでもあるのですわ。私の仕事は、その木々に宿る夢達を勇気づけ、あたためることです」

「え、じゃあ、この光ってる木の実は、」

「そう、一つ一つが、誰かの夢ですわ。これから生まれてくる夢だったり、死んで帰ってきた夢だったり、いろいろですよ。」

 やっと祖母の「悲しむに悲しめない」と言う台詞の意味がわかった。夢こそが、所謂「魂」なのだと言うのだ。

「魂は、いつもここに繋がっています。つまり、生まれる前の魂や、死者の魂は勿論のこと、生者も魂の一部がここにあるのです。それが、あなた方の見る夢を司るのですわ。」

 余りに新鮮な言葉だった。暗いイメージのあの世ではなく、暖かな安らぎの場が死後の世界であるということ。故郷に帰るだけなのだということを知っていた祖母や俺の家族が、死に対してど

こか甘受するような、穏やかな態度で臨んでいた意味がやっと理解できた。

 「全てはここで生まれ、此処に帰りつくのです。ここが、全てのものの故郷なのです。そしてこの樹こそ、すべてを生み出した根源へと繋がる道。」

 ならばきっと、この森の何処かに、祖母の夢が光っているのだな。そう思うと、素直に嬉しかった。

 暮れる事も明ける事もない、永遠の逢魔が時が支配する森のなかを、俺は紫雲の後に続いて歩いている。ゆるやかな勾配の道をただひたすらに。

 彼女は軽やかな足取りで小径をゆく。常に優雅さが漂い、東京の女性たちの勇ましい歩き方に慣れていた俺の目に、新鮮な感動を与えた。

 時折、近くの樹になっている夢の光が、線香花火のように瞬き、焦げるような音を立てる。夢(魂)が夢でも見ているのだろうか。

 樹々の合間から、柔らかな光が漏れ始めた。光は進むに連れて少しずつ強まり、間違いなく「中心」に近づいていることを示唆していた。

「さ、宴の会場ですわ。」

 小径が途切れる。俺達を取り巻いていた、樹々の圧迫感が消えて、芝のような雑草が一面に生い茂る広場、いや、野原に出た。黄昏に色を奪われたそれらの草は、夕べの風に静かになびいている。

 そして野原の中心に、ぼかしの様な暮れ方の空色を背景にして、一本の巨木が鎮座していた。

 樹は、大きく高く、天に向かって螺旋状に聳えていた。その頂は余程離れてみない限り、目にすることの出来ない高さであろう。実際野原の端にいる俺にも見えなかったのだから。

 その樹の発する温もりを含んだ光芒が、大気の色と溶け合って複雑な輝きを生み、空間を満たす。

 光にうたれた俺は、畏敬の念を禁じえなかった。そしてこれこそが「宇宙樹」なのだと、思わずにはいられなかった。

 無言で立ち尽くす俺に、紫雲が声を優しく声をかけた。

「お帰りなさい、隼人さん。」

 意外な言葉に、思わず彼女を見つめてしまった。

「ここが貴方の……すべての人々の魂の故郷であり、貴方の血の中に流れる、私たちと同じ血の故郷ですから。そうなるでしょう?」

「……そうですね。それでこんなに神々しい風景を懐かしく感じるんですね? とても不遜に思えたけれど、ここが、俺の、皆の故郷だから……」

 後はもう、言葉にならなかった。

「さあ、樹の根元へ行きましょう。もう一人の妹が貴方を待っている筈ですし。そろそろ宴を始めなければならない時間ですわ」

 紫雲は微笑み、俺の背に手を触れて、そっと押し出すようにしてくれた。足が自然に動きだし、俺と彼女は、樹に向かって丘をのぼりだす。

 心臓が、運動量に比して不適切な程ときめいていた。もしかしたら、俺の中の「先祖」の血に残る記憶が、懐かしさにときめいているのかもしれない。

 そんな事を考えながら歩いていたら、いつの間にか、樹の根元まで来ていた。

 「驚いたな、意外に近いんだ」

 木の幹と来し方を見比べている俺に、姫はあどけなさの残る笑顔を向けた。それは予想していたとおり、母にも祖母にも姉にも似た記憶の彼方に潜む女性の笑顔だった。何だかほっとした。

 紫雲に促され、地上に張り出した根に腰を下ろす。彼女は、予想に反して妹が来ていないことに、いささか呆れた様子である。

「困った人ね。宴に遅れるつもりかしら? 仕方ないわ。隼人さん、申し訳ないのですけれど、私が宴の準備をする間、そこで待っていてくださいね。すぐ戻りますから。」

 そういって、彼女は樹の向こう側に消えた。


 例の幻の湖から一度も休まずにここまで来たので、さすがに軽い疲労感がある。紫雲が薬草茶をいれてくれたので、それを啜りながら一息ついた。

 薬草茶でリラックスした頭で、今の状況を考えてみる。余りにも多くのことを一度に体験したので、記憶が不正確になる前に、それら一つ一つを冷静に考えて整理しておきたかった。

 茶器を傍らに置いて、体験を回想していた俺は、後ろから忍び寄る気配に全く気付かなかった。この世界に来てから、きりきりと張り詰めていた緊張の糸が緩んで、疲れが出ていたのかもしれない。

 とにかく気が付かなくて、そのひとがいきなり「わっ!」と、後ろから声を掛けたときに、驚いて思い切り反応してしまった。

「まあ、本当にびっくりなさるから、こちらまでつられて驚いてしまいましたわ」

 と、頬を紅潮させて、幸せそうにころころ笑っているのは、紫雲ではなくこれまた美少女であった。歳のころ17といったところか。

「あの、もしかして紫雲さんの妹さんとおっしゃるのは」

「ええ、私です。姉は準備しているのかしら」

「そうみたいですね」

 このちょっと失礼な女性は、氷輪(ひょうりん)と名乗り、少しばかりむくれている俺に

「あら、怒らないでくださいね。久しぶりに訪れた親戚の子供をからかうのは、おばあちゃんたちの楽しみというものでしょう」

という、凄まじい台詞で対抗してきた。一瞬、絶句した俺も、彼女の悪戯めいた笑顔につられて笑ってしまった。笑いながら、改めて彼女たちと自分の年齢の、想像を絶する差に感じ入ってはいたが。

 この、やはり「故郷」を感じさせる女性は、自分と同年代に見えるのに、その真の年齢も、関係も、俺からは気が遠くなるほどのギャップがあるのだ。

 全く脳がパニックを起こさないのが不思議なくらいだ。パニックを通り越して飽和状態になっているのかもしれない。

 彼女は、俺の近くの根っこに腰掛けてくつろぎ、その銀色の髪を揺らして、笑っている。

 それにしても(性格は別として)美しい女性である。月を司るという氷輪の姿は、紫雲とはまた異なった美しさを具えている。紫雲の黒髪とは対照的な銀の髪は、くるぶしまで伸びている。顔だちは姉より少し幼いが、サファイア色の瞳が、額できらめく金と銀の組み合わさったティアラの装飾……サファイアで様々な月相を表現した……と相まって、深奥に隠れた英知を表していた。

 そして。何よりも印象的なのは、黒い肌だった。

肌と髪のコントラストのせいで、彼女はまるで本当に、闇に浮かぶ月のように見えた。

 氷輪は、紫雲姫と同じ白いロングドレスの両肩に、透ける青色の長い布を一枚ずつ乗せて前後に垂らし、腰の太いベルトで押さえつけ、袖のようにしていた。布の下端には、細長くカットされ

たこれまたサファイアが付けられている。黒い肌に白・銀・青。なかなか洒落ている。

「紫雲姉様から聞いたかしら。私は月を司る者です。今日は新月でしょう? だから、私の通常の仕事はお休みなの。いつもは月の谷という、ここから少し離れた場所で生活しているのだけれど、新月のころはこちらに来て、姉様と宴を開くのよ」

 俺は長いこと疑問に思っていた事を、やっと尋ねるチャンスに恵まれた。思い切って口を開く。

「あの、一体どんなパーティ……宴なんですか。紫雲さんには何だか聞きそびれてしまって、実は全然知らないんです。教えてください」

 そう。恥ずかしながら、招待された肝心のパーティの内容を、聞いていなかったのである。

 氷輪は、快く承知してくれた。

 「姉様の役割をご存じかしら」

 首を横に振ると、「夢を司る歌姫」だといった。

 次に、私たちと貴方の先祖の関係についてはどうかと尋ねられた。アウトラインは知っていると答えると、そこから話してくれた。

「私たち三人が、それぞれ夢と月と幻を司っていたのはご存じね。貴方の先祖は、空音(そらね)と言って、幻の湖の畔に住んでいました。だから貴方がここに来たとき、多分湖の側に出たと思うのだけれど。どうでしたか?」

 そうだったのか。頷くと、話を続ける。

 「私たち三人は、太古より、世界の均衡の一部を任されてきました。普段は各々の持ち場で仕事をしているのですが、あなた方のいる世界が最も月光の影響を受けない時期、すなわち新月に三人が集まって夢のちからの強化を図るのです。それがつまり、宴。あなた方風に言えばパーティなのですわ。」

 判ったような判らないような。一つ理解できたのは、パーティが俺たちの世界に多大な影響を及ぼすということだった。

「どうして、月光の影響があってはならないんですか。それに、夢のちからの強化を図るって、紫雲さんだけじゃいけない訳があるんですか。」

 夢の樹の下で、俺と氷輪は、永遠の夕闇に浮かんで見える。風景に完全になじんでいるのに、どこか独立したものを持っている。寂しくはないが、存在を自ら持て余している様な気がする。

 夢の樹の下で、氷輪のレクチャーが続く。

 「それは、月の光と人間の夢の光、そして幻の光が良く似通っているからです。貴方のお祖母さんが貴方に見せていた幻も、どちらかというと太陽光より月光に近かったはずよ。この樹の光を見れば判るかしら?」

 確かに、それは東の空に掛かる満月のような、心に飛び込んで来る眩しさを放っていた。祖母の創りだした幻にも、確かに輝きが似ている。頭上の枝を見上げてうなずく。

「月の力が強いとき、つまり満月には、夢と月と幻の放つ光が溶け合って、その境界が無くなりやすいの」

 そこまで言った氷輪は、暫く眉間に指を当てて何事か考えていたが、そうそう、あれだわ、と呟いて、話を続けた。俺は状況を見守るだけである。

「そうね、例えばそちらの世界では、満月と人狼の伝説があるでしょう。あれも、もともとそういうことなのよ。それに事故が起こりやすいなどと言われているでしょう。……私たちが三人で、人の夢のちからを強化しておかないと、人間の魂は月や幻に揺られて不安定になるのよ」

 語尾が少し弱くなった。彼女の視界に、何かが入ってきた為に、そちらに気を取られたらしい。しかし、彼女はすぐ俺のほうに向き直って言った。

「さあ、説明はこれくらいにしましょう。紫雲姉様が来たから。後は見ていたほうが判りやすいわ」

 氷輪の視線の行方を辿って振り返ると、紫雲が丸いものを抱えてやって来るのが見えた。

 紫雲は、氷輪を見つけると、足早になった。心なしか、腹を立てているようだ。氷輪は、あらあら、おかんむりね、と呟くと、紫雲の所へ駆けていった。どうやら、遅刻したことを謝っているらしい。

 紫雲は、氷輪に抱えていた丸いもの……鏡を手渡すと、こちらにやって来た。俺も立ち上がって彼女の元へ行く。

 彼女は、氷輪の様に、両肩から布を垂らしてベルトで押さえていた。布の色は薄い紫で、やはり端にはマフラーの房のように、アメジストが飾られている。両腕に、金の鈴のついた細いブレスレットが二本ずつはめられており、動くたびにしゃらしゃらと軽い音をたてる。

 美しく幻想的な姿の二人を前に、忠告通り、ラフな恰好を止めて良かったと、しみじみ感じた。

 そこから、俺たち三人は、樹の反対側の根元にある泉へ赴いて、手を洗った。氷輪は、泉の水で鏡を洗い清め、紫雲は、泉の水を大きめの葉で受けて、飲んでいる。彼女は手を洗うときにブレ

スレットも洗ったので、その金の輪からは、小さなしずくが草の上に滴っていた。

 妖精の暮らしをかいま見たような、不思議な生活感をそこに感じた。実際はお清めの意味で行われることなのだと言うが。

 やがてお清めを終えると、樹から少し離れた枝の影にならないところまで移動した。

 恐らく神器に該当するものであろうと推測したので、俺が持ちましょうか、とは敢えて言いださなかったが、意外に大きくて堅牢な、重量感のある鏡だった。氷輪はそれを、細い腕で上手に抱えて草の絨毯の上を歩いていく。紫雲は、手ぶらである。二人とも静かに、空気を押し分けるような威厳を漂わせて、野原を下っていく。

 音もなく、二人が立ち止まった。二人は同時に空を見上げ、来し方、大樹を振り返った。俺もつられて振り返る。

「宴を始めましょう。」

 紫雲の声で、氷輪は丸い鏡を抱えて姿勢を正した。そこには、無邪気ないたずら者の彼女はいなかった。紫雲も、呼吸を整えている。

 ただひとり俺だけがぼんやりしていると、氷輪が

「見ていてくれればいいのよ、座っていて」

と、指示してくれた。そのとおりに、近くの草の上に座り、事の成り行きを見守ることにした。実際、どうすることもできない、と言うのが正しかった。


 ブレスレットの鈴の音が、空気を震わせて鳴り響いた。宴の開始の合図だ。

 すると一瞬にして、今までさざめいていた木々が押し黙り、野原と森に張り詰めた沈黙が漂った。舞台の上でタクトが降られる瞬間を待つ、合唱団と観客の様な雰囲気であった。

 熟しきった沈黙を破ったもの、それは、紫雲の、一条の光のような声であった。

 歌姫が、アルト音域からソプラノ音域まで、一息に歌い上げ、はるか上空にまで達する歌声のきざはしを、螺旋状につくりあげていく。

 心の底から揺り動かされるような、神々しい歌声が、紫雲の細い体から紡ぎだされて、野原中に、樹々に、梢に、森に広がっていく。

 歌声が広がるに連れて、次第に氷輪の鏡が、きらきらと光の波をたてて輝きだした。氷輪が、鏡を頭上に差し上げると、鏡は彼女の手を離れ、ゆっくりと天空へと上昇を始めた。見守る氷輪と俺。

 鏡は光の波をふちからこぼしながら、高く高く昇っていき、やがて小さな光の点になった。

「今、夢の樹の頂の高さまで上がって、止まっているところよ。これから、姉様の歌声の力を反射して、樹々に、世界中に降らすの。しばらく声を掛けないでね、精神を集中しているから。」

 氷輪が、指を組み合わせて、祈るような姿をするが早いか、小さな光点だった鏡の光は、超新星のように爆発的に膨張し、はじけて光の粉を撒き散らした。黄昏色の空に、グラデーションのように金色に輝く粉が広がり、散りばめられて、えも言われぬ色彩になった。

 紫雲の詠唱は、一段と情感豊かになる。森の木々が、待ちかねたように、彼女のソロの歌声に合わせ応えるように、ざわめきだした。

 ふと頭上のざわめきに夢の樹を見上げると、枝が、いや、樹になっていた夢達が、各々鳴りだしていた。それらの奏でる音色は、何故かとても親しく感じられ、耳を澄ますと、自分のなかにもそのざわめきが聞こえた。驚きよりも、子供時代の出来事を再体験しているような、懐かしさばかりが心のなかに満ち満ちていた。

 音色が心にしみわたっていく。心の琴線というけれど、それをかき鳴らすとしたらこんな音になるのだろうかという響きが体を満たす。勇気や気力がわいてくる、そんな感じだった。

「そうか、夢は魂だって、言ってたもんな」

 自分には何か出来るのだろうか。俺の力が必要だという彼女ら。しかし彼女らの様に、誰かの心を勇気づけ、夢を温める手伝いが出来るのだろうか。俺が、こんな温かい気持ちを誰かに?

 この時、俺の決意は揺らぎながらも八割方決まっていた。

 ざわめく声は段々大きくなり、いつしか大合唱となって、枝から樹々から森から、音のうねりとなって、空間を埋め尽くした。

 それでも、紫雲の声は凛として、打ち消されることが無かったのが不思議だった。さすが「歌姫」である。

 彼女の声に、全ての声が導かれる。天空を覆って輝く氷輪の鏡が、それらの声をを増幅し、夢の森は今、一つの「声」となった。

 空がすっかり金色のラメ入りになった頃、歌はクライマックスを迎え、やがて、紫雲の導くままに、静謐の時に沈んでいった。


 音がやんだ。耳が痛いほどの静寂の時間が野原に満ちた。

 が、どこからか小さく子供がささやくような声が聞こえて、やがて徐々に夢たちがささやきだした。

 空は元通り暮れ色に染まり、何事もなかったかのように、沈んだ色合いを見せている。氷輪の鏡も、空から戻ってきた。このパーティの為にだけ用いられる『新月の鏡』なのだという。再び清められ、夢の樹のうろ、紫雲の住居で一月のあいだ眠る。次の新月の日まで……。

 「さあ、すべて終わりましたわ。氷輪、お疲れさま。お茶にしましょう。」

 紫雲のお茶に、氷輪の持参した木の実を添えて、お茶会である。

 疲れている二人には、さぞかし甘い木の実が美味しく感じられるのだろう。結構二人とも、良く食べるので、感心した。美味しそうに食べる様子は、端から見ていても気持ちの良いものだった。

 俺の気持ちは、もう固まっていた。しかし、不安が先立つのは、否定できない。あれだけの素晴らしい光景を見せられてしまっては、自分など無力な大学生にしか見えなかった。

 果して、自分などが、世界の均衡を担うという大仕事をしてよいのだろうか。

 自信のなさが、ここまで俺にその事を言いださせなかったのである。

 一息ついて、他愛のないお喋りをしながら、二人の瞳に、ほんのりと不安そうな様子が見え隠れし始めたとき、俺は覚悟を決めた。

 「祖母のあとを継いだら、俺はさっきの宴では何を担当するんですか」

 二人の(いや本当は二柱の)女神は、はっと顔色を変え、真剣な想いを帯びた眼差しを交わした。

 それから二人は交互に説明してくれた。

「貴方のペンダントを支点として幻たちの均衡を取ってあげます。幻の力が適正であるように。」

 「時々、そうして修正しておかないと、夢(魂)の見る夢が、幻(自然の遊離魂もしくは人為的に作られた映像に宿る魂)に捕まって、夢かうつつか判らなくなってしまうのです。すると魂が、病んでしまいます」

「今回は大丈夫なのですか。」

 という問いに、氷輪が開き直ったような笑顔で応えてくれた。

「そうね、あと二回位は何とかなると思います。貴方のお祖母さんの力が強かったから、均衡が保たれているのですわ。」

 「しかし、」

 俺は疑問に思っている。病床の彼女に、それほどの能力が残っていただろうか。床を離れてこちらの世界に来られるほどの力が。

「そのペンダントがあれば、あちらの世界からでも宴に参加出来ますから。それに、直接あちらの世界で幻の均衡を修正すると、体力の消費量が格段に少なくなるはずです」

 紫雲は、きっぱりと言い切った。

「その代わり、時々はこちらで行わないと、あちらの世界の幻の力が、こちらで制御出来なくなる、つまり流れが絶えてしまうので、大きな均衡が崩れてしまい、もっと修正が困難になるの

です。幾度か、そういう事がありました」

 彼女は、悲しそうに目を伏せた。

 俺は知る由もなかったが、その時彼女が思い出していたのは、血なまぐさい光景だった。人々は殺戮と掠奪の日々を、謳歌していた。悲劇と喜劇。裏と表。総ては曖昧な境界線で背中合わせ。死にたくて死んだものなど、数えるほどもいなかったのに。

 ……俺には、目を伏せる彼女の心中を読み取ることなど出来なかったけれど、秀麗な顔を歪めて思い出している事件が、どれほど彼女らを責め苛んだか、それくらいは察することが出来た。そして、それが自分に負えるだろうか、と最後のステップを前に考えた。

 そうだ。「そうする」事で。

 此処に来るまで、俺をあちこちばらばらに引き裂きかねなかった血の中の記憶を、縁の糸を、逆に俺のなかに取り込んでしまおう。俺を混乱させるすべてを「そうする」事で、吸収・同化できる筈だ。

 俺は、自ら道を選択した。

「俺で良いなら、後を継ぎます」

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