2.

 前期試験も終わり、サークル活動に何ら参加していない俺は、一気に大量の時間を手にした。

 祖母の納骨も済み、重苦しかった空気が少しずつ薄まるに連れて、あの遺言が気にかかり始めた俺はある日、姉の小夜子にそれとなく尋ねてみた。

 姉はしばらく何事か考え込んでいたが、おもむろにカレンダーをめくり、スカイブルーのメモ用紙に何かを書きつけてよこした。

「何だよこれ」

「夏休み中の新月の日付けよ。隼人次第で私も覚悟を決めなきゃならないの。まぁ、行けば全部判るから、行って向こうで尋ねなさい。」

 と、一層訳が判らなくなるような事を言った。不親切極まりない。

「要するに、」

 がっかりして軽く睨み付ける。

「教えてくれないってことだな」

「ご明察。ま、助言できるとしたら、あんまり小汚い恰好していかないほうがいいわよ、ってこと位かしら」

 さらに混乱が甚だしくなったような気がする。しかし、無駄を承知で、一応尋ねてみた。

 「何でだよ、そこは森の中なんだろ。得体の知れない所だったら、軽装の方が良さそうに思えるんだけどな」

 姉は再び考え込んだが、サービスね、と言って祖母にそっくりの微笑みを浮かべると、少しだけ教えてくれた。

 「私たちは、パーティの招待客なのよ。しかも会場は、ファンタジーの世界。そこにジーンズでむさ苦しく踏み込んだら、物凄く違和感があるのは判るでしょ。私、スカート履いて来てよかった、ってつくづく感じたもの」

 姉の台詞に、思わず漏らしてしまう。

「俺には、きっとファンタジーが似合わないと思うぞ。断言出来る」

 そうだ。これは自信を持って言える。辞めてしまったとはいえ、高校時代は柔道部にいた。俺のイメージするファンタジーの登場人物とは、えらくかけ離れている様な気がする。大体、むさくるしい魔法使いだなんて、いるんだろうか。

 こんな主張を、姉は一笑に付した。流石にむっとした俺の様子に、彼女はそそくさと付け加えた。

「あのね、確かにもしかしたら似合わないかもしれないけど、魔法は基礎体力が物を言うの。だから体力が有り余っていて、大いに結構だと思うわ」

 失礼な。フォローのつもりなのだろうか。真面目くさった顔で言うが、目には笑いが押し込められているのがありありと判る。

「さて私が言えるのはここまでね。後は新月の夜に、星空を見上げながら、おばあちゃんの形見のペンダントを身に付けて歩けば、いつの間にか夢の森に着くから、そこでいろいろ考えなさい」

 言いたい放題だなと思ったが、敢えて口には出さなかった。貴重なヒントが手に入ったのだ。それでよしとしよう。少しばかり引きつった頬を戻し、

「ありがとな、姉貴。まあ、何とかなるんだろ。行くだけいって、合わなかったらすぐ帰るよ」

 礼を言って部屋を出る。俺の身長にはやや低めのドアの高さに注意しながらくぐり、閉めようとしてかいま見た姉の姿に、俺は一瞬凍りついた。

 そこには、姉であり祖母であり母でもある、俺の知らない、いや、妙に懐かしい女性がいた。

 慌てて、閉めかけたドアを開け放つと、驚いた様子の姉が、佇んでいた。

「どうしたの、随分慌てて」

「いや。何でもない、何でもないんだ。じゃ」

 静かにドアを閉めて、足早に自室に戻る。隣の部屋から、くすくす、と笑う気配が伝わってきた。

 スリッパを履いたままベッドに身を投げ出すと、舞い上がる綿埃とスプリングの苦しげな文句が身を包む。耳を貸さずに瞳を閉じると、瞼の裡にハッキリと、先程の女性の面影がよぎった。驚いて身を起こすと、もう毛の一条さえも見えない。思わずベッドに臥して、溜め息を肺の底から吐き切る。

「……俺、疲れてんのかな」

 そう呟きながら、自分の内部に全ての理由や原因を知っている「俺」がいる事に、ふと気づいた。夢の森とやらに行かねばならない理由も、あの女性が見えた訳も、「そいつ」は知っている筈だ。

 奇妙な懐かしさが、『夢の森』と言う単語を耳にしたときから、俺の内に、住み着いている。この懐かしさが「そいつ」の正体らしい、とまでは判るが、何故懐かしいのだろうか。

 そう言えば、俺はずっと、そいつと出会い、それらを知る時を待っていた様な……そんな気もする。

「何なんだよ。俺は多重人格か?」

 自分の内も外も、自分の知らぬ縁に取り巻かれ、その縁の各々に引き裂かれるような、且つ解放されるような、不可解な感覚。

 俺に訪れるものは変革? 回帰? それとも、記憶の浮上だろうか。

 おぼろげに、それらに気づき始めたこの日こそ、森で俺が出会った分岐点が、かすかに視界に入ってきた日だったのかもしれない、と後々俺は思うのだが、それは何年も後の話である。


 やがて新月の夜が巡ってきた。俺は何故か水谷家の一族全員に見送られて、わが家を後にした。姉の助言通り、Gパンを止めて、麻混のジャケットなどを羽織って。

 いざ、変質者に間違われないよう注意しながら、出発だ。今一つ目的地がハッキリしない事が緊張感を削ぎも増しもするが、だめならば帰るつもりで気楽に行けば良いのだろう。

 夢の森とやらが、どんな所なのかは皆目見当が付かないのだが、とりあえず星の光を頼りにそぞろ歩きができるような場所、公園までやってきた。

 風光明媚とまでは言わないが、緑が潤い「庭」と呼ぶにふさわしい空間を持つ家が、さほど窮屈さを見せずに立ち並ぶこの近辺でも、複雑な形の池の周囲を贅沢に切り取ったここは、一種独特の雰囲気を有している。

 ここならば、星空に心を奪われて足元の注意がおろそかになっても、少しばかり砂にまみれる覚悟があれば大丈夫だ。それに「森」の環境に最も近かろう。共通項は役に立つかも知れない。

 綿シャツの胸の上に小さく光る、祖母の形見を左手で星の光にかざし、多少懇願まじりに呟く。

「さて、じゃあ頼むぜ」

 ペンダントを戻し、入口から緑のなかへ力強く一歩目を踏み出した俺は、こちらに接近してくる自転車のライトに、ぎょっとして立ちすくんだ。

 端から見れば、ペンダントに話しかける挙動不審の人物だろうが、こちらにも、見た目よりはずっと深刻な理由がある。だから敢えて怪しげな振る舞いに及んでいたのだが、そういう時に限って、公園内の小道を暇そうに、自転車こいでやって来る警察官と出くわしたのだ。急に自分の動作が固くなるのが、嫌というほど判った。

 だが、こんな状態では怪しまれるだけだ。不必要な緊張感が俺の中で拡がるのを気取られぬようにせねば、折角の新月のしかも晴れた夜空が無駄になりかねない。参った。

 しかし自転車に乗った彼は、俺の心配をよそにすれ違い様に一瞥しただけでさっと通り過ぎていった。

 遠ざかるチェーンのきしむ音に、ほっと安心して大きく伸びをして歩きだした途端、足がこわばっていたせいか、俺は見事につまづいた。

 それだけならよかったのだが、何と着地点には蓋のない大きなマンホールらしき穴が、大地に穿たれて、暗い胎内を覗かせていたのだ。このままでは頭からダイビングしてしまう。

「うわぁっ」

 咄嗟に、歩道の脇の桜の幹に縋ったはずだった。ところがその縋った樹ごと、俺は穴の中へ文字通り吸い込まれてしまったのである。

 まるで掃除機に吸いつかれた猫の様にすさまじい吸引力に体が彎曲し、ジャケットの裾が音を立ててはためき、シャツや髪、皮膚が引きつけられる。

 木の葉や折れた枝が、俺より先に闇のなかに消えていく。桜特有の匂いが鼻に触れるが、愛でている暇はない。

 何とか体勢を立て直そうと、樹にすがる手に渾身の力を込めた刹那、根元の方で、力任せに樹を折る時の音が響き、手に嫌な感覚が伝わってきたかと思いきや、逆に太い幹ごと倒れ込んで来た。

 腕が木を支えきれずに曲がった。と同時に後頭部を鈍い衝撃が襲う。

 その後、遠ざかる意識のなかで僅かに覚えているのは、急速に後方で閉じて行く穴の輪郭と、漂う桜の匂いのみで、無明無音の空間に俺の意識も溶解していった。


 さて、暗い穴のなかで、俺と桜の樹が親交を深めている頃、地上では、桜の樹の突然の消滅に、引き返してきた警察官と近所の人々が、困惑の表情を浮かべていた。掘り返されて散乱した土の匂いも、地中に残された太い根も、桜の大樹の「盗難」方法を明確に伝達して居たが、誰も信じはしなかった。

 ただ、騒ぎを聞きつけてやって来た俺の家族だけが、うすうすその真相に気付いてはいたが。

「隼人ったら、随分派手に『回廊』に接触したみたいね。さすが体育会系だわ」

 姉の妙な感心の仕方に、母も頷きつつ反駁する。

「あら、小夜子の時だって、結構凄まじかったでしょう。公園の柳の樹があちらとこちらをつなぐ『回廊』との接触点だったから、樹の中に消えてしまって、結局幽霊騒動にまで発展したのを、忘れたとは言わせないわよ」

 姉は悪びれもせず明るく笑うと、母を促して踵を返した。賑やかな音をたてて、サンダルとローヒールの二人連れが夜道を行く。

 ふいに、姉が小声で母に囁いた。

「お母さんのときはどうだったの? お父さんは池の中に飛び込んじゃったっていってたけれど」

「私? あら、とっくに言ったつもりでいたわ。道を歩いてたら、眩暈を起こしたのよ。『回廊』に接触したから目が回ったのだけど、そんなこと当然知らなくて、咄嗟にしゃがみこんだの。当時貧血気味だったから、眩暈には慣れていたんだけど……」

 やや言いよどむ様子を見せた母を、姉は期待のこもった目で、続きを話すように促す。母は、嫌だったわよ、と吐き出すと、続けた。

「普通の眩暈だったら、地面に引きずり込まれる様な感覚はあっても、それだけでしょう。それが」

「本当に引きずり込まれてしまったのね」

「そう。あの気持ちの悪さはもう二度と味わいたくないわ。ちょっとパニックを起こしかけたぐらい本当に怖かった」

 母は一瞬げんなりとした表情を見せたが、すぐに

「あら、母さんも、小夜子や隼人のことを言えないわねえ」

と、苦笑いした。

 姉が笑いながら相槌を打つ。二人して、もう少し穏やかに『回廊』と接触できないかしら、だの、一般人に迷惑を掛けてはいけないわよね、だのと話しながら、楽しそうに家に帰っていく。

 二人とも、俺のことをつゆほども心配していないと言うのが寂しいが、「こちら」の世界にいなかった俺は、そんな事を知る由も無かった。

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