朔月の宴
koto
1.
「良く晴れた新月の晩に、星明りを頼りに『夢の森』を探してごらん。パーティがある筈だよ」
桜が綻び始めた頃だった。祖母はベッドの左側の窓の外、レースのカーテンの向こうで煌々と照り輝く満月にけだるそうに目をやりながらこう言うと、視線を俺に戻して皺だらけの笑顔を見せた。
そして眠たげな微笑みを浮かべたまま瞼を閉じると、そのまま二度と醒めない夢の中へ埋もれていった。
ひどくあっけない別れであった。涙を流す暇さえ俺に与えてはくれなかった。
祖母は魔女だった。「幻を作り出すことしかできないよ」と常々言っていたが、今の世の中ではそれだけでも充分に珍しいと思う。
彼女の手の中で揺らめく幻像は、リアルな存在感と儚さを持ち合わせており、子供心をもひどく揺さぶった。
幼い頃祖母が大好きだった俺は、よく祖母の部屋に出入りしては、花柄のカバーの掛かったベッドに腰掛け、本を読んでとせがんだ。
俺にとってはその「おはなしの時間」は、大好きな祖母を独占できる貴重な時間だった。
まだ元気だった彼女は、趣味と実益を兼ねた裁縫や編み物にひと区切りつくまで、きちんと俺を待たせ、道具を部屋の隅の箪笥に仕舞ってから、やっと話してくれた。どんなに俺がじたばたしても、そういう部分は譲らないひとだった。
「おまちどうさま」彼女は温かい微笑を浮かべると、ふんわりと俺の隣に腰掛け、俺の差し出した絵本をとても優しい声で読み上げながら(あまりに優しい声だったので『さるかに合戦』に少しも緊張感が無かったのを覚えている)物語を幻にして、俺に見せてくれた。その頃の俺は、それが特別な事であるとはつゆ知らず、ただ無邪気に喜んでいた。
そんな風に立体的で明瞭な映像に親しんでいたせいか、俺は所謂「3D映像」のクオリティにはうるさい厄介な感性の持ち主である。
それはともかくとして、いつのことだったか彼女は「おはなしの時間」の終わりに、こう付け加えた。
「絵本のなかのお話はね、遠い遠い昔から、お母さんから子供へ、そして子供からその子供へと伝えられたものなんだよ。わかるかい?」
皺の寄った細長い指に、髪の毛を撫でられながら俺は答える。
「それはおばあちゃんがおはなししてくれるみたいに、ってこと?」
「そう。そういうことだよ。良く判ったねぇ。」
その時の俺は大好きな祖母に褒められて、さぞかし得意顔であったことだろう。祖母は続けた。
「実はね、うちにもずうっと伝わっているお話があるんだよ。とっても素敵なお話なんだけれど、」
「聞きたい! 聞きたい!」
俺はもう聞きたくてたまらなかったので、彼女の言葉を遮って要求した。彼女は「やれやれ」といった表情で苦笑して、
「大人になるまで聞かせて貰えないのさ」
と、世にも残酷な宣告をした。
理不尽、という語は知らずとも、それを感じることは可能だ。俺は顔を歪めながら文句を言った。
だが祖母は静かに、慰めるでもなく諭すでもなく、俺の髪を撫でながら語ってくれた。
「この家に生まれても、魔法の使えない者は、大人になれば親か、魔法の使える者からその話を聞かされることになっているんだよ。でも隼人、お前はいずれ魔法が使えるようになる筈だから……自分で教えてくれる人の所へたどり着かなければならないのさ。それがきまりなんだよ。」
俺はしばらく祖母の台詞を反芻した後、尋ねた。
「よくわからないけど、ぼくもおばあちゃんみたいなことができるようになるの? 小夜子おねえちゃんも?」
姉の小夜子は六才年上で、その頃の俺には、随分大人っぽく見えた。だから、いまの彼女に不可能なことが、自分にできるようになるのは、ずっと遠い未来なのではないか……そんな風に、少し不安になったのである。
「たぶんね。でも、あの子は『辞退』するかもしれないねぇ」
期待していた答が得られず、何やらはぐらかされた気分がした。俺はすっかり混乱してしまい、彼女に説明を求めたが、祖母はその後何も言わず、俺が何度となく尋ねても、
「またいつか、改めて話すからね。すまないねぇ。お前には少し早すぎたよ」
とだけ答えてうやむやにしてしまった。
今にして思えば、彼女は少しでも多くのことを俺に言い残しておきたかったのだろう。
小さな子供に、謎めいた話し方をしても無駄だと判っていて、それでもなおあんな言い方をしたのは彼女が自分の余命の短さに少なからず不安を感じていた為だったからだろう。
あれから十余年を経た今、彼女はもういない。
数年前、死期を悟った日から、彼女は極めて静かに日々を過ごし、早々と身辺の整理を済ませてしまった。
家族の者は縁起でもないと言っていい顔をしなかったが、祖母は気に留めなかった様である。
「何も悲しがることはないのさ。私にはきちんと行くべき、いや還るべきところがあって、そこに早く行くか遅く行くか、それだけの話なのだからね。縁起も何もないのさ。」
そう言って彼女は笑って受け流し、「旅支度」をする手を休めなかった。
母も父も、そして姉も、何かに納得したようにその後は何も言わなくなってしまった。悲しげではあったけれど。だから俺だけが動揺し、やがて訪れる喪失のときを恐れているのだと考えていた。
祖母は日を追って弱り、この一年ほどはベッドに横たわる時間がその一日の殆どを占めるようになっていた。相変わらず、家族は彼女に精一杯の気遣いを示していたが、その表情は悲しみとも諦めともつかなかった。
意外にドライな家族の様子に憤慨している俺を見て、祖母はそっと俺を部屋へ呼び、こう尋ねた。
「隼人、お前が小さいときに話した『わが家に伝わる話』のことを覚えてるかい?」
めでたく大学に合格したばかりの俺は、少々惚けていたらしい。思い出すまでにかなり時間を費やしてしまった上、今一つ内容に自信が持てなかった。
幼時の記憶だから思い出せなくても無理は無かったのだが、大学入学前後までは俺はすこぶる記憶力が良かった。今は目に見えて衰えている。これが老化というものなのだろう。
とにかく、何とかおぼろげに思い出して答えた。
「ああそういえば、大人になるまで教えられないって言ってた話があったね。あれのこと?」
彼女は満足そうに頷いた。
「そう、その事だよ。皆はね、その内容を知ってるから、悲しむに悲しめない、とでも言えばいいのかねぇ」
「どういう事さ」
「そんなに険しい顔をするんじゃないよ。お前にも、もうじき判ることなんだから。お前の両親、悠介とみずきが、いとこ同志だってことは知っているだろう」
釈然としないながら、頷いた。それが何だというのだろう、と思いかけて、はたと気付く。つまり、
「三人とも、成人したときにその話を聞かされているってことか」
「そう。それも、この世界の人間に聞いたんじゃなくてね、遠くて近い『もうひとつの世界』に行ってそこで聞いたんだよ」
ベッドの中から、いたずらっぽい表情が向けられると、心が痛み、思わず視線を彼女からそらした。祖母はこんなに力なく笑ったりはしなかった筈だ、などと感じている自分が、疎ましかった。が。
「……えっ?」
ワンテンポ遅れて、理解が追いついた。慌てて祖母の顔を見つめる。別にからかっている訳では無いらしく、ふざけ加減の表情は消えて、いたって真面目な、灰色がかった瞳がこちらを見上げていた。
彼女の話が余りに突飛だったため、暫く理解に苦しんだが、どうやら、言葉通りに受け取るより他に無さそうであった。僅かな躊躇の後、尋ねた。
「それって、所謂『あの世』の類かな」
「確かにそうではあるけれど、必ずしもそうとは限らないから、自分で行って確かめておいで。」
俺の問いに、彼女は穏やかに答えてくれた。
俺が、もし魔女の孫で無かったら、恐らくそんなものを信じなかったであろう。
しかし、魔女は目の前に存在し、彼女は嘘をつかず、過去の経験は揺るぎないものであり、事実は厳然として俺の前に存在する。今更否定したところで無意味なのだ。考えるに、その意味では、俺は柔軟な現実認識力の持ち主と言えるかもしれない。
「いいかい、本当はお前が二十歳になるまで教えない約束なんだからね。ただし今回のように、私の後継者が決まっていない状態では、仕方ないが。
それでも私が旅立つとき、それまでは言えない。だからその時には必ず私を見送っておくれ。」
当たり前だよ、と約束して、その話は一旦保留することになった。
俺はどうせ聞くならば二十歳になって、祖母が再び回復した状態で聞きたいものだ、と無理を承知の上で願わずには居られなかった。
その話から一月ほど後。赤銅色の満月が美しい、春の宵だった。彼女は、肌身離さず身につけていた、虹色に輝く石のはまったアンティークのペンダントを俺の手に握らせると、夢の森を探せ、と言い遺して夢のなかのひとになってしまった。
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