2.紺碧の空を見るまでは

 第二表層都市・カザフの門——


「なぜ出撃しない?」


 青いマントをまとった集団が互いに顔を見合わせてざわめく。そのマントには白隼を模どった紋章が刻まれている。


「大量の妖魔に町が襲撃されているって情報が入ったんじゃなかったのか?」


 勇んできたものの、門の前で足止めを食らうこととなり、かれこれ三十分は経つ。巨大な階段の先に広がる六角形の門からは、時折、妖魔と思しき物体が飛来していた。


「情報が混乱していて分からない。上階で何が起こっているのか」


 その時、「撤退命令だ」という声が響き渡った。


「なんだって?! 町の人々の避難はまだ……」


 続いて、重い地響きと共に、門の扉がゆっくりと閉まっていった。


「なぜ、門を!?」


 青いマントを翻し、集団が上空を見上げる。驚く彼らの前で、その門は固く閉ざされた。



——————



「くそっ! なぜマスィーフは来ないっ」


 妖魔が蹂躙する街を走りながら瑠偉はぐっと唇をかみしめた。


 あの妖魔……楽しんでやがった。あえて俺たちには手を出さず、じいさんが憑依される姿を見せつけて、楽しんでやがった。


「なんのための軍隊だ。何が救世主だ。こんな時に何をやっているっ!!!」


 そこへ、先ほどの上級妖魔がバサリと大きな羽を広げ、二人の前に降り立った。瑠偉は翼を背にかばうように立ちはだかり、憎しみを込めた瞳でその怪物を睨みつける。


 くそ……。


 ロックやベルモンテの仇を取ってやると思うのに、その意志とは反対に、恐怖で手が震えてしまう。思わず一歩後ずさり、カランと何かが足にぶつかり転がった。

 足元を見ると、壊された柵から外れた細い鉄の棒が転がっていた。


 何のためにこれまで日々鍛えてきた。何のために、俺はいる。


 後ろにはベルモンテの死から立ち直れず、呆然自失となっている翼がいる。


 こいつを、翼を守らなければ……。




『母さん……なんで、子供なんか生んだんだよ。俺は弟なんてほしくなかった』


 五歳の時の記憶——

 腕に生まれたばかりの赤ん坊を抱いた母親が振り返る。


『瑠偉……』

『なんだ、お前、ヤキモチかぁ?』


 様子を見に来ていたロックがニヤリと笑って、瑠偉の頭を小突いた。その手を振り払って、ふくれっ面で横を向く。


『違うよ。……こいつ、幸せなのかなって。こんな、化け物にいつ食われるか分からないような狂った世界に生まれてきてさ』


 その言葉を聞いた母親が悲しげな眼で瑠偉を見つめた。


『瑠偉……あなたは、生まれてこなければよかった?』

『そうじゃない。そうじゃないけど……怖いんだ。これ以上、大事なものを失うのは……』


 下を向いて唇をかむ瑠偉に、ロックが立ち上がって、その顔を覗き込んだ。


『親父のことを言ってるのか?』

『だって、父さんは……妖魔に食われたんだろ。そんなの、まるで食われるために生まれてきたみたいじゃないか』


 ロックがふっと瞳を和らげる。


『あいつは、無鉄砲だったからなぁ。よしゃぁいいのに、襲われた町の子供を助けようとしてな。だが、あいつは死んじまったけど、そのおかげで子供は助かった。決して無駄死にじゃねぇ』

『だとしても、次はこいつの番かもしれない。誰が守るんだよ』


 生まれたばかりの弱々しい姿。今にも壊れそうで、瑠偉は視線を逸らした。


『そうね、瑠偉。残酷かもしれない。こんな世界に新しい命を生み出すことは、本当はとても残酷なことなのかも。でも、父さんと母さんは妖魔に屈したくなかったの。私達が次の世代を諦めたら、人類は滅びるしかないから。あなた達は人類の希望だから』


 そう言うと、母親は赤ん坊をベッドに寝かせ、箪笥の引き出しから、赤いスカーフを取り出した。


 街の安全を見守るために作った使節団の一員であることを証明するスカーフ。父さんがしていた……。


『あの人は、本当に勇敢だった。ねぇ、瑠偉。とても残酷で恐ろしい世界だけど、あなたはあの人の子供だから大丈夫。きっと翼を守ってあげられる』





「母さん……」


 瑠偉は、今は亡き母が巻いてくれたその赤いスカーフを、そっと握りしめた。


 守らなければ……。


 後ろで怒りと悲しみに震える翼を感じる。

 この狂った世界に生まれてしまった、新しい命。人類の希望。


 俺が守るんだ……。


 瑠偉は、首に巻いた赤いスカーフから手を放し、タイミングを計るように呼吸を整えた。


「母さん、俺に勇気を」


 そう言って足元に落ちていた金属の棒を蹴り上げた瑠偉は、空中でキャッチすると、その勢いに乗ったまま妖魔に飛びかかった。


「くたばれぇぇっぇぇ!!!」


 驚くべきスピードと跳躍で、妖魔の胸に突き立てられた金属の棒。


 しかし……。


 鈍い音と共に金属棒は跳ね返され、その反動で、肩の骨があらぬ方向に曲がった。


「ぐぁぁぁあ」


 瑠偉が肩を抑え、苦悶の表情を浮かべ地面に転がる。

 その様子を血のような赤い瞳で見ていた妖魔は、ゆっくりと彼の元に近づいた。鋭い爪のついた手が振り上げられる。


「瑠偉!!」


 響き渡る翼の悲鳴。


「来るなぁぁっ! 翼、今のうちに逃げろ!!!」


 瑠偉は必死に叫んだ。だが、その声に妖魔は動きをピタリと止めると、振り上げた腕を静かに下ろした。


 なぜ……やらない?


 困惑する瑠偉は次の瞬間その意図を悟る。


 おまえ……。


 妖魔は一旦後ろを振り返り翼の顔を見た後、もう一度瑠偉の顔を見て……

ニタリと笑った。


「や、めろ」


 恐怖に顔を歪めた瑠偉の前で、妖魔はのそりと後ろを振り返り、翼の元へ歩き出した。恐怖で動けない翼をあざ笑うかのように、妖魔の指先から赤い光が輝き始める。


「やめろ……」


 赤い光は丸い形を成し、それは魔の紋章を形作った。


「やめてくれ……お願いだっ。やめてくれっ!!」


 絞り出した瑠偉の絶叫もむなしく、放たれた魔の紋章は、翼の額に吸い込まれていった。


「翼ぁぁぁぁっ!!!」




 どうして……。


「…瑠偉……」


 翼の額についた焼印。赤い魔の紋章。


『とても残酷で恐ろしい世界だけど』


 どうして……。


 瑠偉が絶望の光を宿した瞳でその紋章を見つめる。

 虚空を見つめたまま呆然と立ち尽くしていた翼は、カクンと膝を折り、地面に倒れこんだ。


『あなたはあの人の子供だから大丈夫。きっと翼を守ってあげられる』


 どうして、俺には力がない。


 倒れた翼を起こしその胸に抱きしめる。漆黒の瞳から涙が溢れ出した。


「翼……ごめん。守ってやれなくて、ごめん」

「瑠偉……大丈夫だよ。俺は、負けない。妖魔には……ならない」


 翼はそう言って、頭上に腕を掲げた。


「空を……紺碧の空を見るまでは、俺は……」


 瑠偉と同じ翼の漆黒の瞳が赤く染まる。


「俺は、絶対に諦めないっっっ!!!!」


 絶叫と共に、その体が弓なりにしなり、額の紋章から赤い光が溢れ出した。

 氾濫する光に包まれた瑠偉は、体中に熱い痛みを覚え、視界を奪われる。


 何が……起こった。


 遠のく意識の中、遥か頭上に一匹の白い鳥が横切るのが見えた。

 翻る青いマント。


「白隼……」


 そのまま瑠偉は意識を失い、暗い闇の中に引きずり込まれていった。

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