1.ウォーターマークの悲劇

 第一表層都市ウォーターマーク——

 地下都市は四階層に分かれており、最も地上に近い第一表層都市をウォーターマーク、第二表層都市をカザフ、第三表層都市をスクープ、そして最下層の都市をサイベースと名付け、それぞれの階層の行き来はコレクトと呼ばれる階級制度によって管理されていた。特に、最下層のサイベースへは王族と貴族、そして一部の特別な権威を与えられた者しか入ることが許されない権力と財力の象徴であったが故、いつしか人々はそれを『栄華の都』と呼ぶようになった。


「夕べも一人やられたってさ」


 帰宅途中の道端で、数名の大人たちがヒソヒソと話している。


「なんか、最近多くなってないか? こないだも、隣町で一人やられたばかりだろう」

「あぁ。しかも刻印押されたって話じゃないか」

「ってこたぁ、上級妖魔が出たってことか?」

「ああ。結局、マスィーフに妖魔もろとも、刻印押された奴も狩られたって話だぜ。憑依されちゃ、しかたねーよな」


 その声に、翼がパッと反応する。


「えっ?! マスィーフ? マスィーフがどうしたの?」


 ピョンピョンと飛び跳ねて、大人たちの輪に入り込む。


「おう。チビじゃねーか。相変わらず、マスィーフを目指してんのか?」

「あったりまえよ。マスィーフになって妖魔をぶちのめしてやる!」

「無理無理、お前知ってるか。マスィーフになれるのは、エリート中のエリートだけなんだぞ。もんのすごい倍率の試験をクリアしなくちゃならないんだ。しかもその後、さらに厳しい訓練と、またこれすんごい厳しい最終試験が待ってると聞くじゃねーか。逆立ちしたって入れねーよ」


 ヒョロリと背が高いロックがケラケラ笑って、翼の頭をコツンと叩く。


「うるせー。なるったらなるんだ!」

「俺もマスィーフになりてーよ。そしたら栄華の都に行けるのになぁ」


 ロックの声に、隣にいた太っちょのパティが大きくうなずく。


「ああ。この妖魔におびえて暮らす第一表層都市とおさらばしてよ。マスィーフになれば、子孫代々まで栄華の都での裕福な暮らしが約束されるらしいぜ」

「俺は、栄華の都に行きたいからマスィーフになるんじゃじゃないぞ! 俺は、マスィーフになって空を見るんだ!」


 翼が大声で言い放ち、大人たちが一瞬ポカンとキラキラ輝く翼の顔を見た。数秒後、大爆笑となり、ロックがヒーヒー言いながら、

「空を見るって、あの空か、おい。妖魔さんがウヨウヨいる、地上に出たいってか?」

 と言った。


「そうだ。何が悪い!」

「いやいや、頼もしーよ。がんばってくれ、チビ。俺は応援しているぜ」


 笑いを堪えながら、バンバンと翼の肩を叩く。


「ロック、たきつけるなよ。このバカ、調子に乗るから」


 少し離れたところでその様子を見ていた瑠偉が、ため息交じりに言った。


「悪りぃ、悪りぃ。こいつがあんまり健気なもんでよ」


 ロックが肩をすくめると、翼がプーッと頬を膨らまして、瑠偉を見上げた。


「なんだよー。瑠偉は、いつだって空やマスィーフのことになると、そうやって頭ごなしに否定するんだから」

「俺はお袋から、お前のことを守るよう言われたんだ。そんな危険な職業にさせられるか」


 そう言って、瑠偉は翼の肩に手を置く。


「ほら、もう太陽が落ちる。行くぞ」


 天井の数メートルおきに設置された人工太陽が一段階光を弱めた。



——————



 木で建てられた小さな平屋の家。

 家に着くと、ふわりと香ばしいにおいが広がった。


「今日は久々に小麦粉が手に入ったからな。パンを焼いたよ」

「えー、じっちゃん。パン食べられるのー!? いやっほう!!」


 翼がくるりと宙返りする。


「また、絵を売ったのか?」


 瑠偉が眉をひそめると、二人の祖父であるベルモンテは何も言わずニコリと微笑んだ。白く長い眉毛とひげにかこまれた顔に大きなしわが刻まれる。

 その顔を見て、瑠偉は視線を落とした。


「絵は、じいさんの宝だろ……」

「お前達が美味しそうに食べる顔のほうが宝じゃよ」


 ベルモンテはそう言って、瑠偉の頭をくしゃっと撫でた。


「さぁ、冷めないうちに食べよう」

「いっただっきまぁす!」


 大きな口でパンにかじりつきながら、ふと、翼が壁を見上げた。


「じっちゃん、あの絵は売らないでよ」

「ああ。もちろんだ。あの絵は売ったりしないよ」


 そこには、深い青色の空が描かれていた。吸い込まれるような紺碧の空。人類が手放した、もう見ることのできない空。

 三人がその絵を眩しそうに見つめた時——

 低い地鳴りがおこり、その一瞬後に耳をつんざくような悲鳴があたりを引き裂いた。


「なんだっ?!」


 三人は一斉に立ち上がり、家の外に出る。

 そして……。


「こ、れは……」


 その光景に驚愕の表情を浮かべ、三人は呆然と立ち尽くした。


「きゃあぁぁぁ」


 逃げ叫ぶ町の人々。目の前で、一人の女性が妖魔に飲み込まれる。頭上を飛ぶ無数の妖魔。話に聞く、おどろおどろしい姿。


「何突っ立ってる、早く逃げろ!!」

「ロック!」

「これは、一体……」

「分からねぇ。単体で動くはずの妖魔がなぜこんなにも……」


 三人はロックと共に走り出す。


「とりあえず、第二表層都市の門へ向かう。この事態だ、さすがに金を払わんでも入れてくれるだろう」


 その時、頭上から、羽音が近づき「ロック!!」と翼が叫んだ。

 三人は逃げることも忘れ、目の前にぶら下がる足を呆然と見つめた。カリカリ、カリカリという耳障りな音につられ、ゆっくりと顔を上げる。そこに見えたのは……。


 首をかじられ、空中にダラリとぶらさがったロックの身体。


「うそ、だろ……」


 瑠偉がかすれた声でつぶやく。


「このやろーっ! 離しやがれ!!」


 翼の絶叫にハッと我を取り戻すと、瑠偉は妖魔に駆け寄った彼の手を掴んだ。


「やめろっ! もう無駄だ!」

「瑠偉! 離せ! ロックが、ロックが……俺があいつを倒す!!!」

「ダメだっ! 今は逃げるんだっ」


 瑠偉は無理矢理、翼を引き寄せ走り出し、ベルモンテもその後に続いた。

 しかし、その数秒後——


「ぐぁああああ」


 響きわたるベルモンテの叫び声。


「じいさん!!!」


 振り返った瑠偉の目に、左腕を抑え、苦しげな表情で地面に膝をつくベルモンテの姿が映った。そして、その隣には人の形とよく似た、けれど、耳がとがり、その背からは黒い大きな翼が生えた……。


「上級妖魔……」


 瑠偉はごくりと唾をのんだ。ゆっくり目線だけ動かしベルモンテの左腕を見る。


「じっちゃん!!!」


 思わず駆け寄った翼に対し、「来るんじゃないっ!」と手で制したベルモンテの左腕には、赤い焼印がくっきりと刻まれていた。


 魔の紋章……。


 瑠偉がグッと目を閉じる。


「早く逃げろ、わしが正気を保っている間に、早くっ!!」


 そう言った途端、くぐもった唸り声をあげて、ベルモンテは地面にひれ伏した。


「じっちゃんっっ!!!」


 もう一度叫んで、制止を聞かず近寄ろうとした翼の足が止まる。ベルモンテの背がバリバリと音を立てて裂け、恐怖で翼の顔が歪んだ。




『ねぇ、じっちゃん、これ何の絵?』


 大切にしまわれていた木箱の中に入ったひとつの絵画。

 深い深い青。

 花と大地から見上げるように広がる紺碧の空間。

 キラキラと光が差し込み、青の空間には白い綿のようなものが浮かんでいる。


『空じゃよ』

『空?』

『そう、今はもう塞がれてしまい、見えなくなってしまったがの。人類が身の安全と引き換えに手放し、今や語ることさえ憚られるようになった青の空間。頭上に広がる壮大な空。どこまでも青く、どこまでも広い、紺碧の空』


 ベルモンテはまるでそこに空があるかのように窓の外を見つめて瞳を細めた。


『紺碧の空……』


 翼は顔を紅潮させ、興奮した様子で、窓の外を見上げる。

 今はコンクリートに覆われた、その上に、あれが……。


『じっちゃん、俺が連れて行ってやるよ。行こう! あの紺碧の空へ!!!』




「瑠偉、チビを連れて、早くっ……ぐぁぁぁぁあ」


 裂けたベルモンテの背から、徐々に黒い物体が現われ、そしてそれは蜘蛛の足のように広がった。


「翼、行くぞ」


 瑠偉は目を背けるように振り返ると、翼の腕を取って走り出した。


「じっちゃん……」


 瑠偉に手を引かれ共に走りながら、翼は後ろを振り返る。恐怖に見開かれた翼の瞳にベルモンテの姿が映った。


「じっちゃん……」


 徐々に姿を変えていくベルモンテの身体。


「見るなっ」


 瑠偉が左腕に翼の頭を抱え、その顔を覆った。翼は瑠偉の胸に顔を押し付けて、嗚咽をこらえるように唇をかんだ。



 空に、俺が空に連れて行くと約束したのに。俺が連れて行ってやるって……。

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